2020年04月08日

散歩とヒマラヤと運動不足 .

 運動しなくちゃならないのだが、スポーツは苦手なので散歩してきた。
 この春、近所を一、二時間、歩くしかなくなってからは、身近に見聞した小さな話を書くことにした。遠出して散歩したころよりも、たびたび書いている。
 自分で見聞きしたことだけ、ていねいに書く習慣をつけると、見てきたようなネタをたれ流すヒマはなくなるからだ。人を怖がらせる噂を拡散し合う場に加わらなくてすむ。

 そのうち散歩もままならなくなり、今週からは、引きこもるようになった(二〇二〇年四月第二週)。
 まったくの閉門は無理で、わずかだが人の出入りもある。完全な感染防御は不可能だ。しかし複数の理由、つまり病歴や年齢などから感染すると死ぬ可能性があると思っているので、必要のない外出は避けることにした。

       

 困ったのは、運動できなくなったこと。
 いや、運動が必須ならトレーニング用具でも使って自室でやればいい。脱獄・逃亡もののアクション映画にもあるでしょ、せまい所に幽閉されても腕立てや空手の型で鍛える話が。すごい懸垂をしたり敵を撲殺したりして、主人公が自由をつかむ、というね。

 それはムリ! どう考えてもムリだ!
 懸垂も空手チョップもできないという問題ではなく、日々運動を積み重ねたり、よい食習慣が維持できる性格なら、「生活習慣病」になんてなりはしない。
 わたしは、鳥のエサみたいなものを食い続けたり、大都市の汚れた空気の中を高価なウエアやシューズで走ったり、病気やアルコール摂取できない体質以外の「健康主義」から一杯の杯を断るようなやつを、心底、軽蔑してきた。おかげで自分が病気になってしまった。どうぞあざ笑ってください、すこやかな人々よ!

       

 ボソっていてもしかたないので、こういうものを掘り出してきた。
 ウエイトです。
 ウエイトとは、付属のバラストを入れ手首や足首に巻いて負荷をかける用具。トレーニングやリハビリ向けに商品化されている。ただ、いまどきの品は見た目がシンプルで、おしゃれだ。
 わたしのは写真のとおりゴツくて、つけると拘束具みたいな感じだ。カッコよくない。そちら方面が趣味の人にはビビビとくるかもしれませんけどね。

200410K1.JPG 
鉛(だと思う)の板を差し込み重さを調節。
片方に1キロくらい仕込めるが、
いきなり負荷をかけると危ないから、ほどほどで…。

 昔の用具なのでゴツいわけだが、まさに昔、ある山岳関係者からもらったものだ。外国の高峰にも登るような専門家である。
 仕事の縁だが、わたしは登山には興味がなく、ノリクラだコマガタケだといわれても場所からして知らない。もちろん仕事で聞いた話はよく確認したし、自分の仕事とは関係ない地方のイベントに付き合うなどもした。

 その人が、わたしの運動不足を見かねて、くれたのがこれだ。
 その人も、ふだんから足に装着して鍛えているという。
 当時、その人は六〇歳代半ばくらいだったろうが、若いわたしでも腰を痛めるに違いない重さで使っていた。

「いっしょにヒマラヤに行こう!」とよくいわれた。
 そんなのムリに決まってますよといくらいっても、しばらくこのウエイトをつけて歩けばだいじょうぶ、難しくないよ、行けるよ! と。
 登山家や冒険家は超人だと思っていたので、冗談のつもりで流し、ヒマラヤには縁がないまま、その人との縁も薄くなった。しばらく前に亡くなったと聞いている。

 そんなことを思い出しながら、これを手首や足首につけ、部屋の片付けをしている。
 模様替えなど大がかりなことではなく、高い棚や低いクローゼットの中に突っ込んだきりのモノを整理する。椅子に上がったり下りたり、床で立ったりしゃがんだり。多少は運動になればと……。

       

 ヒマラヤといえば日本にも、ぜひ訪れたかったのにかなわなかった「ヒマラヤ」があった。

「ヒマラヤ美術館」。ご存じですか。
 名古屋市にあった財団美術館で、「ヒマラヤ製菓」創業者の洋画コレクションを展示したそうだ。
 あれは同社の本店だったのか、一階が洋菓子店で上階が美術館、つまりギャラリースペースだったはず。開館は一九七七年と古く、文化色が薄いといわれた当時の名古屋に貢献したいという、創業者の思いからだそうだ。

 存在を知ったのは、たしか仕事で名古屋に行ったとき。二十五年くらい前だ。「ヒマラヤの〜ケ〜キ〜♪」というCMが耳に残る、ヒマラヤ製菓の店だった。
 ほかの用で忙しく、通りがかっただけだったが、ショーケースのとんでもないケーキに目がクギづけになった。

 それは「ベンベ」というケーキ。
 けっこう大きくて真っ白。生クリームだったのか。見た目は幼稚園児のヘタくそな粘土工作。いったい何なのかわからない。
 なんと「ベンベ」とは「BMW」! 車の形のケーキだという。どう読んだら出てくるんだ、ベンベ!
 さすがのわたしもズッコケた。みなもと太郎の漫画みたいにコケ、背景の彼方へふっ飛んだ!
 ところが「ベンベ」など序の口で、「名古屋プリン」や「ミソサブレ」、「コーチンエッグ」なるお菓子さえ、平然と販売していると知る。まいってしまった!

 そんなファンキーな製菓会社がアートギャラリーを持ち、岸田劉生や梅原龍三郎、杉元健吉や三岸節子などを常掲しているという。地元画家の作も熱心に集めていたそうで、じつに面白く、うれしくも思った。
 が、お店を再訪してファンキーなお菓子を買うことも、美術館を訪ねることも、かなわなかった。
 二〇〇〇年代初めに製菓販売経営が不振となり、売り上げはあったのにヒマラヤ製菓は倒産。地元食肉販売大手が買収し店舗は営業を続けたが、いまも記憶に新しいBSE関連の食肉偽装事件で、その会社も同年中に倒産。個別に続いた店舗も、現在ではみな姿を消したようだ。

 ヒマラヤ美術館は、それよりさきに閉館している。
 財団法人運営なのに、所蔵作品のほとんどがごたまぜに製菓販売会社の融資担保とみなされ、持ち出され、売られ、ゆくえはわからないらしい。(ケ)

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ヒマラヤに行ったことはないから、
甲斐駒ヶ岳です。


Originally Uploaded on Apr. 11, 2020. 19:50:00
二〇二〇年七月二十二日、文のつながりのみ直しました。


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2020年04月04日

日本という泥縄式システム (長い!)

 個人でも危機的状況になるとその人の本性が明らかになると言われているように、現在のような事実上のパンデミック状態に陥ると、国家レベルでもそれぞれのお国柄、社会文化的特徴が明らかにされるようで、こんな時勢に我ながら不謹慎(?)とは承知しつつも、極めて興味深く感じている。

 ニュースなどを通して伝え聞く限りでは、フランスの対応もドイツの対応も、イギリスの対応も、そしてアメリ合衆国の対応も、それぞれに印象的である。が、それらは所詮他所の国のこと、あまりわかった気になって話すこともできない。それに、何と言っても我らが日本国の対応が、単に自分の国というからだけではなく、真に興味深いものがあり、この数日、それこそコロナウイルスの悪夢に魘されながらも(根が小心者なので、いわゆるコロナ鬱どころの騒ぎでなく、胃は痛いし、肩こりは酷いし、仕事上のストレスも普段に輪をかけること甚だしいし、こんな調子では感染症に罹患する以前に健康を害しかねない……)、「日本という泥縄式システム」の功罪について思いを巡らしている。

 ずっと昔(二十代、いや十代後半?)から現代日本文化の最悪の欠点、欠陥は「非合理主義」「非理性主義」、否、単に「非」なだけではなく、半ば意図的に「反(アンチ)・理性主義」に認められると考えていた。つまり、日本の社会では理性的なものは疎んじられ、感性的なものが、さらには情緒的なもの(いわゆる浪花節的なもの)が好まれる。こちらの主張なり思いなりを何とか筋道立てて説明して、なるべく正しく伝えようと足りない頭を総動員して考えていると、「理屈っぽい」とか「くどい」の一言で斥けられてしまう。こちらとしてはできる限り論理的に話した方がお互いの時間と労力の節約になると信じているのに、相手の方は「端的に、簡単に言ってくれ」とか、「説明はいいから。早く結論を言え」とか、とにかくこちらの「くどい」説明が焦れったくてたまらないようだ。だから、もしも相手を説得しなければならないときは、理屈に頼るのではなく、情に訴える方がずっと賢明だと言われる。

 もちろん、情が理に勝るのは日本に限ったことではないのかもしれない。シーザーの亡骸を前にした古代ローマの市民たちが、理の人ブルータスの演説ではなく、情の人アントニーが行った、論理的正しさではなく感情に訴えた演説の方を信じたことは、シェイクスピアが鮮やかに描き出したとおりである。

 けれども、これは加藤周一のエッセイで読んだ話だが、東西冷戦の真っ只中に当時の日本社会党の政治家が核武装に邁進するフランスを訪れ、非核の必要性を訴えるために、フランスのジャーナリストたちを前に記者会見を開いた。加藤周一は日本側の通訳としてその場にいたわけだが、フランス人記者が「日本社会党が非核路線を取る理由、根拠は何か?」と質問したところ、「そんな当たり前の質問をするな!」と言わんばかりに顔を紅潮させた日本の政治家が「非核は日本の悲願です」と答え、通訳としてはその「悲願」の扱いに困り果てたらしい。

 加藤周一の解説によれば(これも遠い記憶に頼った話なので、眉に唾をして読んで下さい)、フランス人ジャーナリストとしては、非核政策に伴う、1)政治的メリット及び影響、2)社会経済的メリット及びその影響、3)文化的影響、などについて知りたかったにちがいないのに、当事者の口から聞けたことは「非核政策は唯一の被爆国である日本の悲願だ」とのこと。実際に加藤周一がどんな通訳をしたのかは、はたしてそこに書かれていたかどうかも今となっては記憶にないが、「どんな風に訳してみたところで、フランス人ジャーナリストには『悲願』で政策が決定されるなんていうことは理解不可能だったにちがいない」という旨の締めくくりであったように記憶には残っている。そして、現在のぼくもその加藤周一の結論にはひどく同意する。日本では政治も商売も情に訴えた方が賢明とされ、事実、情(実)によって政治も経済も運営されている。欧米から見れば、日本はとんだ未開社会であることだろう。

 ……
 以上のようにずっと思っていた。しかし、現在進行中の新感染症対策の混乱振りを目の当たりにしていると、日本社会、日本文化を特徴づける真の要因は、反理性主義、浪花節的仲間主義というよりも、これらの特徴よりももっとずっと根深いところで、つまりは「場当たり主義」「その場しのぎ主義」「出たとこ勝負主義」「なるようにしかならない主義」とでも名付けたくなるような傾向が明らかであるように思えてきた。

 先にも書いたことだけれど、日本政府の対コロナウイルス感染症対策は、まあ言ってみれば、滅茶苦茶だ。未曾有(自民党政権下でのこの熟語の「正しい」読みはミゾユウ!)の事態ゆえに、福島の原発事故のときと同じで、誰であっても右往左往するのが当然であるし、実際、イタリアを筆頭にヨーロッパの各国も相当に慌てふためいている。が、日本政府の滅茶苦茶振りは頭一つ分、胴体一つ分では効かないくらい抜きん出いている。文字通りに抜群だ。「各家庭に布マスク2枚」に至っては、このコロナウイルスの犠牲になってしまった志村けんも真っ青な、切れ味抜群のギャグだ。そして、感染者の数が急上昇しつつあるこの4月に、先に朝令暮改で閉鎖した小中学校を再開しようとすることも、そのちぐはぐさが何とも言えない。今では厚労省なんて見事に空気になっている。本当に恐ろしいほど使い物にならない行政府であると断言できる。

 しかし、問題は政府の無能さではなく、「これが日本だったんだ!」という再発見である。治療薬がない、そして致死率も定かではない感染症が明らかに拡大しつつあるときに、少なからずの日本人が花見や買い物を楽しみ、換気の悪い密室空間は危険だと再三言われても、それでもなおクラブやパチンコ屋通いを止めようとはしない。健全と言えば健全、脳天気と言えば脳天気、無責任と言えば無責任、ド阿呆と言えばド阿呆。しかし、どうやら彼ら(我ら?)は、深刻な危機に直面したときには、このやり方しか知らないのではないだろうか?

 事の良し悪しは別にして、今回のパンデミックに対して西欧諸国は「戦争メタフォー」を用いている。つまり、これは人類とウイルスとの戦いであり、たとえいかに強力かつ凶悪な敵であっても、人類は勝利を収める必要がある、そのためには云々、という次第だ。中でも印象的だったのは、フランス大統領が外出禁止を守らない国民に苛立つ様子と、イギリス首相が普段の彼とは見違えるほどに真面目かつ深刻な様子で国民向けに厳粛な演説をしたことだ。両者とも正に戦時緊急事態のような対応だった。特にジョンソンのTV演説は、アジャンクールの戦いを前にしたヘンリー5世の有名な演説(といっても、これもまたシェイクスピア経由で知っているだけだが)を思い出させるほどのものだった。(個人的には、あのイギリスの道化を少し見直した。アメリカの道化とは知能程度が少々違うようだ。)

 一方、我らが日本では、この感染症に対して用いられている比喩の基本は台風とか地震に代表される自然災害だ。それで途端に腑に落ちた。日本では台風と地震こそが危機の雛型であって、戦争でさえもが一種の自然災害のように受け止められたのではなかっただろうか! 少なからずの日本人が、半ば無意識的に、原発事故を政策上の、管理運営上の痛恨のミスとは思わずに、これまた一種の自然災害として受け止めていることは言うまでもない。「仕方ないよね、仕方なかったよね。過ぎたことだから、アレコレ言ってもしようがないし」と。

 深刻な危機が台風や地震のバリエーションとして理解されるのであれば、危機管理の方策は最初から決まっている。基本的には「過ぎ去るのを大人しく待つ」に限る。そして、台風も地震もこの島国にあっては頻繁に来襲し、誰もがすっかり馴染みになっているとはいえ、事が実際に起きてしまうまでは、本当の被害の大きさは誰にも見当がつかない。それで、いつも「後の祭り」が繰り返されるわけだ。そして、大災害が実際に起きてしまえば、その最中はただじっと堪え忍ぶことしかできず、過ぎ去った後は手近なところから、各自が思いつくまま、ほぼ自発的に、ほとんど手作業のような(そういえば、かつて東海村の原発で汚染水が溢れるという、当時としては――つまり、福島の超メガトン級事故が起きる以前では――かなり深刻な事故が発生したとき、その放射能汚染水を手作業で柄杓とバケツで掬うという、凄いこともありました!)復興作業を粛々と、あるいは快活に始めるだけだ。あー、きっとこうやってあの悲惨な戦争も堪え忍んできたわけだろうし、現在の対ウイルス「戦争」も堪え忍ぶだけなんだろう……

 けれども、この「場当たり主義」、実際に事が起きるまでは何もせず、事が起きてからは、まるで卑弥呼のお祓いのような対策(マスク2枚も本当に凄いけど、福島の原発事故で深刻な水漏れが止まらなかったときに、おにぎりと大鋸屑を使って漏水を止めようとしたというのにも大いに驚愕した)を採るという、奇抜とさえ言えそうなこの著しく奇妙で不思議な習性――これが意外にもこの国と社会を支えているような気さえしてきた。少なくとも事実として、この国はこうやって今日まで生きながらえてきたわけだし。

 コロナ禍に苦しむ欧米からは「日本パラドクス」とも言われているらしいが、なぜ日本はこんなに無策な政府が指導しているにもかかわらず新感染症の被害が少ないのか? 数の隠蔽工作かもしれないし、検査数の少なさのせいかもしれないし、単に時機がずれているだけかもしれないが、市民一人一人が勝手に、それぞれに、出来るところから(たとえそれが半ば迷信のような馬鹿げたことであったとしても)「B29に竹槍で立ち向かう」と揶揄されようとも、真摯に健気に、あるいはいい加減に、各々独自の対策を実践していることも多少は関係しているのではなかろうか……

 いずれにしても、一方ではほとんど全ての社交を断念し、仕方なく外出するときにはお手製のマスクを装着し、知人と道で出会っても言葉も交わさずに自宅に戻ってからSNSで連絡を取るといった、出来る限りの「自粛」を推進する人々がいて、他方にはいまだに夜ごと遊び呆け、花見も楽しみ、往来でマスクもつけずに大声で喚いている人々がいる、この現在の混乱、これこそが日本文化のDNAのような気がしてならない。それがイヤだとなると、選択肢としては戦時中のような強権による圧政か、あるいは幕末の「ええじゃないか」的狂騒しか残されてないのではなかろうか。天然痘が恐れられていた江戸時代の市中でも、感染拡大時には家の中にひっそりと閉じこもっている人々がいた一方、桜吹雪の中で浮かれ、そればかりか吉原や岡場所での遊びを止め(られ)ない人々が少なからずいたことだろう。そして庶民はいつの世も「お上」には何の期待もしてこなったのだろう。お上のすることは税の召し上げと、泥縄式の対策。そして、庶民の多くは、そんな無能なお上に対して嘲笑はするものの、それ以上の反抗を示すことはまずない。そして、こう呟く、「なるようにしかならない」。かつてない、ということは、少なくとも自分では体験していない、そのような危機を想像する能力が、おそらく日本文化には決定的に欠けているのだろう。だから、日本神話は天国も地獄も十分に描き出すことができなかった。(というか、その必要を感じなかったと言う方が正確かもしれない。)欧米社会は、起こり得べき禍々しい可能性をアレコレと想像し、真剣に怯えている。一方、この国では……

 願わくば、このパンデミックが超強力台風のように、じっと我慢していれば、相当な被害は引き起こすにしても、ともかく過ぎ去ってくれる、このいかにもあり得なさそうなシナリオが実現するか、あるいは、かつての神風のように、内外の研究者たちが特効薬を開発してくれるか、つまりは、日本型泥縄式システムで持ち堪えられますように! そんなことにでもならない限りは、先の大震災を凌駕するとてつもない事態(単に疾病による被害だけではなく、その後の社会経済的被害も甚大なものになるだろう)が出来してしまうのではないかと、心底恐れている。(H.H.)

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(本文とは無関係です;何もないと寂しいかと思って……)
posted by 冬の夢 at 14:14 | Comment(2) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2020年04月03日

Candi Staton − Young Hearts Run Free 元気が出る曲のことを書こう[48]

 いつも心のなかで、なんの曲か思い出せないメロディやリズムの切れはしが鳴っている。
 気持ちがふさぐとき、そのうちのひとつが、ボリュームアップする。
 どこで聴いた曲だろうと思いながら、心の耳を傾ける。

       ♪

 この曲かと偶然わかったものが、またひとつ。
 いまはあまり聴かないジャンルだ。初めて題名や歌手を知り、歌詞を見ながら聴いている。
 明朗なディスコヒットソングなのに、こんな状況(二〇二〇年四月初旬)のせいばかりでもないが、しみじみ聴いている。

What's the sense in sharing this one and only life
Ending up just another lost and lonely wife
You count up the years
And they will be filled with tears

 どういうつもりなの あなたの分の一度きりの人生を
 負け組のさびしい主婦の仲間入りで終わっちゃうなんて
 あなたは年月を数えるだけになり
 その年月は涙で満ちてしまうのよ

Love only breaks up to start over again
You'll get the babies
But you won't have your man
While he is busy loving every woman that he can, uh-huh
 
 愛なんて壊れては始まりの繰り返しよ
 赤ちゃんはあなたのものかもしれない
 でも男をつなぎとめることはムリね
 そいつは手当たりしだい女に手を出すのに忙しいんだもの
 
Say I'm gonna leave
A hundred times a day
It's easier said than done
When you just can't break away
(Just can't break away)

 出て行くわよっていいましょう
 日に百回でもよ
 できなくても、いうことはできる
 できないわと思うたびに いいましょう

Oh, young hearts run free
They'll never be hung up
Hung up like my man and me
My man and me

 オ〜若い心たちは自由に走るの
 絶対にあきらめないのよ
 私と彼氏の場合のようにあきらめないの
 私と彼氏のときのようには
 
Ooh, young hearts
To yourself be true
Don't be no fool when love really don't love you
Don't love you

 ウ〜若い心たち
 自分にウソをつかないで
 バカのままでいないで
 愛がほんものじゃなかったときには
 愛されてないときには

(以下略)

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Young Hearts Run Free 1976

 キャンディ・ステイトンは、一九四〇年、アメリカのアラバマ州生まれ。テネシー州ナッシュヴィルで姉と学校に行ったとき、教会で歌った声がすばらしかったので、姉も加わったゴスペル・トリオを結成、一九五〇年代から各地で歌った。
 ライブツアーなどというしゃれた状況ではなかった。人種隔離の時代だ。演奏できる地域も場所も限られ──「チットリン・サーキット Chitlin' Circuit (『豚腸』にちなむ)」といわれた所を巡演する──ひどい扱いも受けたそうだ。
 もちろん、そうとうなタフネスも身につけたに違いない。たとえば、ステイトンは透明系の声だったのに悪い環境で喉がつぶれ、ざらっとした声になったそうだ。が、おかげで自分のサウンドが持てたのと、むしろ喜んだのだった。

 一九六〇年代末にはソロでレコード契約をとり、ソウル歌手となってヒット曲を出す。一九七〇年代半ばには、ワーナー・ブラザーズと契約するが、おりからのディスコ・ブームでワーナーはディスコミュージック専門部門を開設、そこからもヒットを出し、ディスコの女王とよばれた。
 ちなみにディスコの女王とは、二〇一二年に亡くなったドナ・サマーのことをいうのかもしれないが、ステイトンはサマーのひと世代うえで、アリサ・フランクリンと同世代。どちらも歌のルーツにゴスペルがある。
 なにがいいたいかというと、貫禄があるといいたいのだが、この曲を歌ったころのステイトンは、キュートでカワイイ! 女王様ではなく、通りの向かいのバス停から合図している高校生のような笑顔がいい。
 で、いまは、そりゃまあ、おバアちゃんになっているわけだが、キュートで磊落な感じはまったくそのままだ。しかも確認できる限り、数年前にもライブをやっている。この曲を、客をノセまくって歌った。

       ♪

 一九七六年に発売されると、ビルボードのソウルシングルチャートで一位、トップ100でも二〇位と、この曲でステイトンは全米全英級の知名度を得たが、ディスコソングとして作られたとは知らなかったそうだ。

 そしてこの曲は、彼女に二つの大きな転換点を、もたらした。
 ひとつはもちろん、ディスコの人気歌手になり、チットリン・サーキットではなく、彼女のいう「ビューティフルな」世界に行けたこと。
 それから、それまで歌わされていたメソメソした哀願調の曲──当時、女性歌手が歌うのは、そのての曲と相場が決まっていた──でなく、同じ女性にむけて強いメッセージを発する曲で有名になれたことだ。
 
 ディスコはね、ただ音楽だけ、ただダンスだけ、ではないのよ。
 すばらしい音楽とダンスに包まれた、メッセージなの。
 歌詞のすべてが、本のように、ストーリーを伝えているの。


 この曲は実話で、当時の彼女のことだ。
 かつては黒人女性歌手によくあったことだといっているが、詐欺師のヒモと結婚していて、麻薬づけにされていた。子どもがあったので逃げられなかったという。
 作曲・制作のディヴィッド・クロフォードが、彼女の近況を曲にしようと提案したとき、ステイトンは悲惨な状況と、それを断ち切りたいと思っていることを伝えた。
 
 意識して作曲されたかどうかは不明だが、この曲のいいところは、極端な音のジャンプや、激しすぎるリズムの爆発音がなく、同じ動きのメロディが音程を変えて繰り返されることだ。歌詞がじゅんじゅんと届くのがいい。
 コーラスの「Oh, young hearts run free」も絶叫調まで音程を上げず、しっかり歌い込まれるので、かえって盛り上がる。
 昔のディスコの曲ってこんな感じでしょ、といわれたら、反論はないですが。

       ♪

「ビューティフルな」世界は、ステイトンに、さらなるターニングポイントをもたらした。
 麻薬から抜けられず、飲酒の問題もかかえたステイトンは──。
 
 自分がどこから来たのか、考え直したわ。
 そして、教会に戻った。
 聖書を読んで、人生を正すことにしたの。
 もう「サーキット」はなしよ、って。
 だから、ゴスペルを歌い、ゴスペルの曲を作ることにしたのよ。


 かくして、ステイトンはふたたびゴスペルを歌い、曲も作り、メッセージの伝道者として、以後の活動を続けた。

      ♪

 ということで、この文は終わりにしてもいいけれど、さっき、近年もライブをやって、この曲を歌ったと書いたばかりだ。教会が本業で、ディスコは余技ということだろうか。

 この点は、英紙「ザ・ガーディアン」の取材で、ふたつのジャンルがぶつかり合ったりしないですか、と聞かれていて、ステイトンの答えがとてもわかりやすいので、長文になりすぎるけれど、紹介しておこう。

 ゴスペルは垂直に歌うもの。
 ディスコは水平に歌うもの。


 なのだそうだ。
 似ているけれど違うものよ、といっている。

 ディスコソング、たとえばこの「Young Hearts Run Free」なら、歌詞の一句ごとに映像を思い浮かべて歌うそうだ。この曲だと、家庭内暴力を受けたりしている自分の姿を思い描いて。
 出来事の映像が浮かぶように歌うことで聴く側に感情が届く。また聴衆の反応が映像を引き出してくれるので、同じ曲を何度歌っても違うフィーリングで歌えるという。
 だからディスコの曲は聴衆の目を見て、つまり「水平に」歌うのだそうだ。
 
 いっぽうゴスペルは、セールスも、自分がスターかどうかも、まして人がどう思うかなんて関係ないわね、と説明する。
 自分の内面からわきおこる賛美を、ただ上に向かって、つまり垂直に歌う。それがゴスペルなのだと。

 そして、ふたつの音楽の関係については、こんなふうに話していた。
 人には、スピリチュアルな面と、エンタテインメントの面があるのよ、と。
 神さまの部屋から、ディスコに行く、それって楽しいでしょ! とも。
 人生の部分では、もちろん傷つくこともあるが、つらいことが何もない、神さまとストレートに結びつける面もあるわけだから、と。
 そして、mind, soul, spirit は、ひとつのものなのよ、とステイトンはいう。
 その三つに、いい日本語訳をあてはめて説明できたら、と思うが、それはわたしにはとてもむずかしい。

       ♪

 わたしはキリスト教を受けいれていない。
 そのほかの、垂直に上に向かって歌う対象も、まったく持っていない。

 記憶の断片が「Young Hearts Run Free」という曲だとわかり、人を元気づける──つらい女性たちだけでなく──曲だと知って、うれしかったという話だけにして、曲が判明したいきさつを書けばよかったけれど、このような文になった。
 書きはじめたときは、外出はやめるので運動不足になるから、この曲をBGMに体操でもするか、と思っていた。
 ここまで書いたら、最後の最後に、こう思った。
 もし感染し、死んでしまうかもしれないとなったら、なにかに祈ったりするのだろうかと。(ケ)

200403c2.JPG 
UNSTOPPABLE 2018

■【参考】
「ザ・ガーディアン」二〇一五年六月三〇日、二〇一八年一月一日
「ザ・ガーディアン」によるインタビュー動画
「ローリング・ストーン」二〇一九年七月九日

■キャンディ・ステイトンは二〇一八年秋、がん告知を受けたことを公表。昨年七月、放射線治療と化学療法で克服したことを発表している。



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