2020年03月07日

散歩と図書館とインスタントラーメン .

 運動しなければならないのだが、運動は苦手だから散歩している。
 繁華街を歩き回ることはあまりなかったが、いまや、出かけるべきでない場所になった。かといって、郊外へ電車やバスで出かけるのも厳しい。
 なので、近所を徘徊するしかなくなっている。
 ただ、同じ場所で歩いたり休んだり、買いものしたりするうちに、日常とはこういう感じかと、いまごろ実感するようになった。

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 茶見世でひと休みしていると、よく聞こえてくる「ことば」のことを、さきごろ書いたが、今日はこんなのが耳に飛び込んだ。

 かくれコロナ

 すんでのところで、「新婚さんいらっしゃい!」の桂三枝みたいに、椅子ごと床にころげ倒れるところだった。「人権なんて」も、なかなかファンキーだったが、どこまで怖ろしいことを平気でいうのだろう。
 がら空きだから休憩にいいや、と思って立ち寄りだしたこの茶見世も、ここ一週間で、毎日のごとく爆混みになってきた。これを最後に、とうぶん訪れないと思う。

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 混むといえば近隣の宅地が、平日の昼間から、かつて週末に見たことがないほど混雑している。
 近くにやや大きい公園があるが、池の貸しボートは休日よりたくさん浮かんでいるし、児童公園はガキで、じゃない、お子さんたちで、いっぱいだ。親御さんであろう大人たちが、周囲を立錐の余地もなく取り巻くのがブキミだ──と思ったら地域の小さい公園はいま、みなそうだという。
 たむろっている、というのか、用があるのかないのかよくわからない中高生くらいの子たち。そして公園の周囲を群れをなしてジョギングする大人たち。異様な混みぐあいだ。
 休校や在宅作業のおかげだろうな、とは思うが。

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 モノが売り切れる光景の「続編」も目にした。
 これまで、散歩の途中よく接着剤や耐震ゴムなどを買っていた──なにをするつもりだ!──ホームセンターではなく、その1階にあるスーパーマーケットで。

 インスタントラーメンが、完全なまでに売り切れている。

 学生時代に食べないと決めて以来、あまり縁がない商品だが、「インスタントラーメン売場」って、こんなに大きかったのかと、かえって驚くほど棚がすっからかんになっている。
 コッソリ写真を撮ったので載せようと思ったが、そういえばカップラーメンは、売り切れるどころか、山のように積まれていた。その写真を撮るのは忘れてしまった。からっぽのインスタントラーメン売場の写真だけ載せたら、マスコミの得意なアオリと、なにも変らなくなってしまう。
 両者の売れかたの違いの理由はわからない。

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 散歩のついでに、区立図書館に行った。
 開館しているが書棚や閲覧スペースは閉鎖、という状況になっていた。
 どういうことかというと、ネットや電話で本を予約すればカウンターで貸出・返却の対応をしてもらえるが、書棚を見て選ぶことはできない。
 そりゃそうでしょうと、返す本を返していると──以前からネットで予約して借りている──カウンターの隣で、ひどくもめている。
 図書館の人にくってかかっているのは団塊世代、いや、もうすこし世代上かな、そういう女性だ。

 本がないと、やってられないのね!
 文庫でいいの! なんでもいいから、貸してよ!

 雑誌や本は、買って読むものだと思っている。
 かつて、雑誌や本を作って売る仕事をしていたからだ。
 だから図書館では、どこか後ろめたい気持ちで本を借りている。
 仕事をやめたら新刊書を見ると気持ちが悪くなり、書店に行かなくなった。そして、経済的な理由で本は買わなくなった。もう本も雑誌もいらない。
 と、思うようになったのに、わたしも「本がないと、やってられない」ときがある。
 このブログに益体(やくたい)もない文を書くにも、調べてからでないと書けなくて、本が必要だ。ふつうの市民でも、専門性がある資料にあたれる公共図書館とそのネットワーク、つまり他館からの取り寄せサービスなどがなかったら、これまで一文たりと書けなかっただろう。
 まあ、誰も読まない文をムリして書かなくてもいいけど。

 安全のため図書館内は閉鎖で、ネットや電話での予約がある本しか貸し出せないという館員に、「なんでもいい」から貸せと詰め寄る人。かつて本を作った側としては、ありがたがるべきか、それとも……。
 その場でいいたいことは山とあった。けれど……。
 黙っていた。
 中国は清の時代の、詩人かつ読書人にして、食通、色ごと達者でもあった袁枚(えんばい)のように、歳をとってもキレイな女性を追いかけ、いい本を大切に読みたいな、と思ったばかりだ。
 そのせいもあったのか、悲しくなり、なにもいわないでおいた。

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 思えば、これほど国民全体が、ただひとつの問題に向き合っている状態は、戦後おそらく例がないだろう。
 事態は厳しいが、誰も素通りせず、日々それぞれに立ち向かっているに違いないのは、いいことだと思っている。
 しかし、そのことと、わが身の近辺で起きていることは、どうしてこんなにアンバランスなのだろうか。

 ここ十年ほどで、時事問題に反応し意見することは、ほとんどできなくなってしまった。しかしふたつだけ、いまいっておきたいことがあり、書くことにした。
 どちらも、ひどい現状から知ることができた、将来性があることだと思っている。

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 意識しておかなければならないのは──そうならなければ「ラッキー」ということで──この病気が「定着するかもしれない」ことだ。
 わたしたちがかつて抱えていた、伝染性で、死んでしまう場合もある、細菌やウイルスによる病気。歴史的にみれば、いくつもあると思うが、それらのように「定着するかもしれない」可能性が、ないとはいえない。
 
 かつて、わたしたちは、伝染性の病気の患者となった人たちを、しばしば、ひどく差別した。
 運よく健常であるにすぎない自分とは関係がなさそうな、地域、習慣、係累、そしてライフスタイル、そういう「アンバランス」な属性を感染者たちに見つけ出しては「業病」などという言葉を投げつけた。
 病気になった人は「かくれ」るようになり、結果として、治療や研究や拡散抑制が遅れた場合があったことを、わたしたちは知っている。

 それらの病気の多くは、根絶できない場合でも、なんとか押さえつけることができてきた。
 それが成功していく過程は、まともな生活をしている者には無縁という見かたをしなくなり、感染したり発症したりした人たちの事情や来歴がいかなるものでも、わが身の不幸として救わねばならぬという意識が高まることと、並行していたはずだ。

 この新型コロナウイルスが最悪、定着性を持った場合、つまり死ぬ危険が大きい流行が何年おきかに起きるとか、いちど感染すると帯状疱疹のような後発性の再発症状が起き、それで死ぬ場合もありうる感染症になってしまった場合、「かくれコロナ」などというアホなことをいっていたら、人類はジワジワと滅んでしまうだろう。
 さいわいなことに、これほど誰もが同じ問題に直面しているからには、すこし気をつけさえすれば、あらゆる人が、誤った視線を持たずにすむ。

   ♪

 政府や首相に文句をいう人が多い。
 積極的か消極的かをとわず、この政府や首相をいったん支持した人がいうのは、いまさらなんだとイヤミもいいたくなるが、文句をいうのはいいことだと思っている。

 というのは、これがもし戦争だったら、どうか。
 緊急事態宣言とは戦争なら戒厳令だが、いまみたいにギャアギャア文句がいえますか?
 いや、いえるか、いえないか、ではなく、いま政府や首相の動きにじっくり注目し、愚かなことはちゃんとバカにできているわたしたちは、すくなくとも将来、政治や指導者たちに導かれるがままに戦争をすることは、絶対になくなったはずだ。

 そもそも政治には、あるいは政治家には、でもいいが、いま行っている程度のことしか出来ない。将来の総理大臣だって、いまの人のようにモロにアホか、ややアホでない程度だろう。そんな人物や集団によって、破滅へ導かれていく可能性──わたしたちのみならず他国の人たちや人類全体の──だけは完全に消えた、そう思いたい。
 わたしたちは、まだまだこの病気と戦っていかなければならないけれど、とても大事なことを知ることも、できているのだ。

       ♪

「SARS-CoV-2」というウイルスや、「COVID-19」という感染症そのものについては、わたしにはあまり知識がない。新聞やテレビを熱心にみる人たちの何分の一も、情報を持っていないと思う。
 そのかわり、でもないが「重症化リスク」は、年齢+基礎疾患のどちらも持ち合わせていて、かつてケチな感染が原因で厳しい事態になったこともある。だから、このウイルスに感染した場合、死んでしまう可能性があると思っている。
 しかしいまは、周囲から聞こえてくることばを、せいぜい気をつけて聞くしかない。そう思いながら、周囲のことばに平静を装って耳を傾け続けている。(ケ)

200307Kw.JPG 
長く拡張工事中だった近くの道路が、
プロムナードになっていた。
子どもの姿は、ほとんどない。
子どものころよく「道」で遊んだが、
いまの子どもは公園でしか遊べない。



■二〇二〇年七月二十一日、文のつながりのみ、わずかに直しました。


posted by 冬の夢 at 01:58 | Comment(0) | 日記 話題・意見・世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする