2020年03月19日

ILLICIUM

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(ケ)

2020 (c) 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌 請不要複製



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2020年03月08日

散歩とミモザとオールドレンズ .

 運動するように、かかりつけ医にいわれているが、スポーツ音痴なので散歩している。
 これまで繁華街はあまり歩かなかったが、わざわざ行く所ではなくなってきたし、郊外を散歩しようと電車やバスで出かけるのもどうか。
 となると近所を歩くしかない。
 ただ、同じ地域を何度も歩き、休憩や買いものを同じ店でするようになったら、日常とはこういうことかと、いまになって実感している。

       

 買い占められても売り切れても「いない」ものも見かける。
 ある駅前商店街。
 そのはずれに、中古CDやレコードの店がある。
 中古盤専門店はすっかり見かけなくなった。かつて首都圏のあちこちに支店があり、店を見つけるたび何か買っていた大手の「レコファン」も、渋谷店ただ一店になっている。
 いま街角に中古盤専門の一軒店があることからして珍しいわけだが、商店街の中古店「S」は、店らしい飾りもない居抜きのテナントスペースがCDやアナログ盤で埋まった、「いかにも」な店だ。殺風景な棚は盤でぎっしり。上を開いた段ボールが床に並ぶ。

 中古盤店の現状や将来のことは、わからない。中古盤はもちろん、新しい音楽を追って新譜を買うこともなくなって、ずいぶん年月がたってしまった。
 世の中を元気づけるような新しい音楽が発表されているのかもしれないが、興味がわかない。
 というのは、東日本震災のとき、歌舞音曲で慰めたり頑張ろうといったりする動きが、もちろんあったのだが、あのとき、それらがまったく受け入れられず、そのまま今日に至っている。さわりを聴いてみた曲もあったが拒絶感しかなく、われながら困惑したほどだ。いまだに、はっきりした理由はわからない。

       

 二枚だけだが、商店街の中古店「S」で、CDを買った。
 ダニー・クーチマー DANNY KORCHMAR の『KOOTCH』(一九七三)と、ホルヘ・カルデロン JORGE CALDERóNの『CITY MUSIC』(一九七五)だ。
 うわ、ふたりとも自分の名で盤を出していたのか。
 いままで知らなかった。
 このふたりは、一九七〇年代アメリカの人気シンガーソングライターたちをバックアップし、それ以後も、その流れにある歌手の伴奏や制作にたずさわった人だ。クーチマーは、ジェイムズ・テイラーの「You've Got a Friend」で印象的なギターのイントロをいっしょに弾いている人で、カルデロンはJ・D・サウザーの盤『You're Only Lonely』に参加している、と説明すると、わかりやすいかもしれない。

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KOOTCH 1973 / CITY MUSIC 1975

 キャロル・キング、ジャクソン・ブラウン……昔よく聴いてギターを練習したこともある音楽。だから、クーチマーたちがキーパーソンだったことも、なんとなく知ってはいたが、いつしか、めったに聴かない音楽になってしまっていた。
 キャッチーだとかキラーチューンだとかいわれて、そういう求めに応じて作られるようにもなった、仕掛けだらけの音楽でない音楽を、聴きたくなったんでしょうね。
 曲にも詞にも演奏にも、目立った個性や表現はないけれど、音楽の大切なところをよくわかっていて、目立たないからこそ音楽の輪郭が立つような演奏ができる職人的な奏者たち。そういう人たちが奏でる音楽が聴きたかったのだ。ビシビシと耳障りな音でなく、バフッっという、柔らかいが芯のある、気持ちの暖まる音で。
 どちらの盤も、CDになったのは日本盤が初めてだそうで、販売終了後は中古品にプレミアがついていたという。商店街のはじっこに人工衛星のように浮かんだ中古盤店の棚に、その二枚はあり、値段は安かった。

       

 中古カメラも、買い占められていなかった。
 外出も行楽も自粛ムードだから無理もなさそうで、売れない続きでも困ると思うが、歴史的名機がずらりと並んだ中古店には、どことなく安心感がある。
 古参の店のひとつのはずだが、旧店舗を改装したらしく、広くて明るく清潔な木調の店内に、カメラやレンズがずらりと並ぶ。
 多種多数の店頭商品の整理や価格表示もていねいで、そのうえ店内を自由に撮影していいと書いてある。昔の中古カメラ店とはずいぶん違う感じだ。

 カメラやレンズを実用以外の趣味目的で買うことはなく、見るだけだから、迷惑な客かもしれないが、せっかく散歩の途中で見つけたので、店内に入ってみた。
 なぜか中古カメラより、中古レンズを見るのが楽しかった。
 交換レンズはいらないし、見て性能がわかる知識もない。なのに並んでいるところを見ているだけで、いい気分になった。

 鏡筒を立てて並べられたレンズは、バーカウンターの後ろによくある酒棚のボトルに似ていた。
 わたしが好きなバーは、酒の種類が多く、それも、さまざまな種類がバランスよく豊富な店だ。
 棚もボトルも清潔で、ボトルが神経質でない程度にきっちり並べてあり、イヤミでない程度に照明していたりする、そういうバーがいい。
 ちょびっとしか呑んじゃだめと病院でいわれているから、どれにしようかな〜とずらりと並ぶ瓶を見ているだけで、気分が落ちつく。カメラ店のレンズは、そんなふうに見えた。買わずに見るだけで、すいません。

       

 この中古カメラ店もイニシャルで書くと「S」。
 そして、意外なほど若いお客さんがいた。若い女の子たちもいる。
 珍しい店をインスタしようとしていただけではなさそうで、カメラの知識がある話題をしている。
 なるほどいまは、古い時代のレンズを「オールドレンズ」といって、最新のデジタルカメラに取り付け、昔ふうの写りの写真を楽しんだりするそうだ。この店にも「オールドレンズ」コーナーがあった。「女子部」といって「カメラ女子」たちが、レトロ調の写真を楽しむらしい。

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 わたしには、売っている「オールドレンズ」はどれも「オールド」でなく現役選手に見えた。自分ですべて使ったわけではないが、写真の現場ともっともつき合ったのが、フィルムカメラの時代だったからだろう。

 カメラマンがニュースの現場で撮った写真の現像が仕上がって、それを見ていると、自分もついさっきまで同じ場所で右往左往したばかりなのに、いつどこで写したのかわからない写真に見えることが、よくあった。
 じつは、その写真に写っているのは、いまの自分がその写真の中──画面の外側だけど──に、ほんの少し前いたという、いわば現在形の過去だ。写真は、写した瞬間から過去の痕跡になるからだ。
 そういう感覚が身につき過ぎているので、写真を撮るときから、わざわざ古びさせる意味が、よくわからない。

 いや、それはいかにも難癖っぽいな。つまりはピントや絞りなどのダイヤル操作が必要な「スローなレンズ」で、解像度バリバリでない雰囲気がある写真を楽しみたいってことでしょうから。
 いやはや、こと写真となると、つい屁理屈をコネて楽しまない自分が、われながらイヤになる。

       

 暖かい冬だったせいか、早春の花が例年より早く咲く気がする。
 近所ばかり散歩するようになって、近くにミモザがあると初めて知った。ぞんぶんに咲いている。
 ごく最近まで花には興味がなくて、写真に撮るなんて、ついぞしたことがなかった。
 しかし、複数の理由で感染すると死んでしまう可能性が低くない自分のことを考えていて花に出くわすと、そうすれば上手く写るわけではないのに、何回もシャッターを押してしまう。
 きょう3月8日は、イタリアでは Festa della Donna 、ミモザの花を贈る日だ。もう長く会っていない友だちのいるイタリアのことを思い出したけれど、イタリアも、たいへんな事態になっている。(ケ)

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Originally Uploaded on Mar. 09, 2020. 22:45:00
二〇二〇年七月二十二日、文のつながりのみ直しました。



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2020年03月07日

散歩と図書館とインスタントラーメン .

 運動しなければならないのだが、運動は苦手だから散歩している。
 繁華街を歩き回ることはあまりなかったが、いまや、出かけるべきでない場所になった。かといって、郊外へ電車やバスで出かけるのも厳しい。
 なので、近所を徘徊するしかなくなっている。
 ただ、同じ場所で歩いたり休んだり、買いものしたりするうちに、日常とはこういう感じかと、いまごろ実感するようになった。

       ♪

 茶見世でひと休みしていると、よく聞こえてくる「ことば」のことを、さきごろ書いたが、今日はこんなのが耳に飛び込んだ。

 かくれコロナ

 すんでのところで、「新婚さんいらっしゃい!」の桂三枝みたいに、椅子ごと床にころげ倒れるところだった。「人権なんて」も、なかなかファンキーだったが、どこまで怖ろしいことを平気でいうのだろう。
 がら空きだから休憩にいいや、と思って立ち寄りだしたこの茶見世も、ここ一週間で、毎日のごとく爆混みになってきた。これを最後に、とうぶん訪れないと思う。

      ♪

 混むといえば近隣の宅地が、平日の昼間から、かつて週末に見たことがないほど混雑している。
 近くにやや大きい公園があるが、池の貸しボートは休日よりたくさん浮かんでいるし、児童公園はガキで、じゃない、お子さんたちで、いっぱいだ。親御さんであろう大人たちが、周囲を立錐の余地もなく取り巻くのがブキミだ──と思ったら地域の小さい公園はいま、みなそうだという。
 たむろっている、というのか、用があるのかないのかよくわからない中高生くらいの子たち。そして公園の周囲を群れをなしてジョギングする大人たち。異様な混みぐあいだ。
 休校や在宅作業のおかげだろうな、とは思うが。

      ♪

 モノが売り切れる光景の「続編」も目にした。
 これまで、散歩の途中よく接着剤や耐震ゴムなどを買っていた──なにをするつもりだ!──ホームセンターではなく、その1階にあるスーパーマーケットで。

 インスタントラーメンが、完全なまでに売り切れている。

 学生時代に食べないと決めて以来、あまり縁がない商品だが、「インスタントラーメン売場」って、こんなに大きかったのかと、かえって驚くほど棚がすっからかんになっている。
 コッソリ写真を撮ったので載せようと思ったが、そういえばカップラーメンは、売り切れるどころか、山のように積まれていた。その写真を撮るのは忘れてしまった。からっぽのインスタントラーメン売場の写真だけ載せたら、マスコミの得意なアオリと、なにも変らなくなってしまう。
 両者の売れかたの違いの理由はわからない。

       ♪

 散歩のついでに、区立図書館に行った。
 開館しているが書棚や閲覧スペースは閉鎖、という状況になっていた。
 どういうことかというと、ネットや電話で本を予約すればカウンターで貸出・返却の対応をしてもらえるが、書棚を見て選ぶことはできない。
 そりゃそうでしょうと、返す本を返していると──以前からネットで予約して借りている──カウンターの隣で、ひどくもめている。
 図書館の人にくってかかっているのは団塊世代、いや、もうすこし世代上かな、そういう女性だ。

 本がないと、やってられないのね!
 文庫でいいの! なんでもいいから、貸してよ!

 雑誌や本は、買って読むものだと思っている。
 かつて、雑誌や本を作って売る仕事をしていたからだ。
 だから図書館では、どこか後ろめたい気持ちで本を借りている。
 仕事をやめたら新刊書を見ると気持ちが悪くなり、書店に行かなくなった。そして、経済的な理由で本は買わなくなった。もう本も雑誌もいらない。
 と、思うようになったのに、わたしも「本がないと、やってられない」ときがある。
 このブログに益体(やくたい)もない文を書くにも、調べてからでないと書けなくて、本が必要だ。ふつうの市民でも、専門性がある資料にあたれる公共図書館とそのネットワーク、つまり他館からの取り寄せサービスなどがなかったら、これまで一文たりと書けなかっただろう。
 まあ、誰も読まない文をムリして書かなくてもいいけど。

 安全のため図書館内は閉鎖で、ネットや電話での予約がある本しか貸し出せないという館員に、「なんでもいい」から貸せと詰め寄る人。かつて本を作った側としては、ありがたがるべきか、それとも……。
 その場でいいたいことは山とあった。けれど……。
 黙っていた。
 中国は清の時代の、詩人かつ読書人にして、食通、色ごと達者でもあった袁枚(えんばい)のように、歳をとってもキレイな女性を追いかけ、いい本を大切に読みたいな、と思ったばかりだ。
 そのせいもあったのか、悲しくなり、なにもいわないでおいた。

       ♪

 思えば、これほど国民全体が、ただひとつの問題に向き合っている状態は、戦後おそらく例がないだろう。
 事態は厳しいが、誰も素通りせず、日々それぞれに立ち向かっているに違いないのは、いいことだと思っている。
 しかし、そのことと、わが身の近辺で起きていることは、どうしてこんなにアンバランスなのだろうか。

 ここ十年ほどで、時事問題に反応し意見することは、ほとんどできなくなってしまった。しかしふたつだけ、いまいっておきたいことがあり、書くことにした。
 どちらも、ひどい現状から知ることができた、将来性があることだと思っている。

       ♪

 意識しておかなければならないのは──そうならなければ「ラッキー」ということで──この病気が「定着するかもしれない」ことだ。
 わたしたちがかつて抱えていた、伝染性で、死んでしまう場合もある、細菌やウイルスによる病気。歴史的にみれば、いくつもあると思うが、それらのように「定着するかもしれない」可能性が、ないとはいえない。
 
 かつて、わたしたちは、伝染性の病気の患者となった人たちを、しばしば、ひどく差別した。
 運よく健常であるにすぎない自分とは関係がなさそうな、地域、習慣、係累、そしてライフスタイル、そういう「アンバランス」な属性を感染者たちに見つけ出しては「業病」などという言葉を投げつけた。
 病気になった人は「かくれ」るようになり、結果として、治療や研究や拡散抑制が遅れた場合があったことを、わたしたちは知っている。

 それらの病気の多くは、根絶できない場合でも、なんとか押さえつけることができてきた。
 それが成功していく過程は、まともな生活をしている者には無縁という見かたをしなくなり、感染したり発症したりした人たちの事情や来歴がいかなるものでも、わが身の不幸として救わねばならぬという意識が高まることと、並行していたはずだ。

 この新型コロナウイルスが最悪、定着性を持った場合、つまり死ぬ危険が大きい流行が何年おきかに起きるとか、いちど感染すると帯状疱疹のような後発性の再発症状が起き、それで死ぬ場合もありうる感染症になってしまった場合、「かくれコロナ」などというアホなことをいっていたら、人類はジワジワと滅んでしまうだろう。
 さいわいなことに、これほど誰もが同じ問題に直面しているからには、すこし気をつけさえすれば、あらゆる人が、誤った視線を持たずにすむ。

   ♪

 政府や首相に文句をいう人が多い。
 積極的か消極的かをとわず、この政府や首相をいったん支持した人がいうのは、いまさらなんだとイヤミもいいたくなるが、文句をいうのはいいことだと思っている。

 というのは、これがもし戦争だったら、どうか。
 緊急事態宣言とは戦争なら戒厳令だが、いまみたいにギャアギャア文句がいえますか?
 いや、いえるか、いえないか、ではなく、いま政府や首相の動きにじっくり注目し、愚かなことはちゃんとバカにできているわたしたちは、すくなくとも将来、政治や指導者たちに導かれるがままに戦争をすることは、絶対になくなったはずだ。

 そもそも政治には、あるいは政治家には、でもいいが、いま行っている程度のことしか出来ない。将来の総理大臣だって、いまの人のようにモロにアホか、ややアホでない程度だろう。そんな人物や集団によって、破滅へ導かれていく可能性──わたしたちのみならず他国の人たちや人類全体の──だけは完全に消えた、そう思いたい。
 わたしたちは、まだまだこの病気と戦っていかなければならないけれど、とても大事なことを知ることも、できているのだ。

       ♪

「SARS-CoV-2」というウイルスや、「COVID-19」という感染症そのものについては、わたしにはあまり知識がない。新聞やテレビを熱心にみる人たちの何分の一も、情報を持っていないと思う。
 そのかわり、でもないが「重症化リスク」は、年齢+基礎疾患のどちらも持ち合わせていて、かつてケチな感染が原因で厳しい事態になったこともある。だから、このウイルスに感染した場合、死んでしまう可能性があると思っている。
 しかしいまは、周囲から聞こえてくることばを、せいぜい気をつけて聞くしかない。そう思いながら、周囲のことばに平静を装って耳を傾け続けている。(ケ)

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長く拡張工事中だった近くの道路が、
プロムナードになっていた。
子どもの姿は、ほとんどない。
子どものころよく「道」で遊んだが、
いまの子どもは公園でしか遊べない。



■二〇二〇年七月二十一日、文のつながりのみ、わずかに直しました。


posted by 冬の夢 at 01:58 | Comment(0) | 日記 話題・意見・世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする