2019年08月26日

「トロいせき」って、知ってるかい ─ 特別史跡・登呂遺跡(1/2)

 一九七〇年代に小・中学生だった世代にとって、「登呂」は、間違いなく古代史のチャンピオンだった。
 当時すでに、もっと歴史をさかのぼる遺跡や遺物も発見されていたと思うが、教科書の最初のほうを燦然と飾る登呂遺跡の訴及力には絶大なものがあった。いや、正直にいうと、暗記が多い歴史科目はたちまち挫折するので、教科書の前のほうに載ってたことしか記憶に残らなかった、ということもありますけどね。

 子ども時代に見た教科書に、登呂遺跡がどう書かれていたかは、じつはすっかり忘れたが、「絶大な訴及力」の源は、なんといっても登呂が集落の跡(弥生時代)で、コメを作ってみんなで「ごはん」を食べていた、ということだった。親しみやすさだ。
 これも子ども時代の記憶はあいまいだが、登呂の竪穴住居も高倉式倉庫も、一九五〇年代初頭にはすでに復元をみていたはずで、だとすると、茅葺きの、いかにも素朴な住居や倉庫の感じが日本の田舎の「原風景」に重なり、さらに親近感があったのかもしれない。おりしも「ディスカバー・ジャパン」ブーム。中仙道あたりの宿場町や、いまでいう古民家などのキャンペーン・イメージがよく目についたころでもあった。
 小・中学生ふぜいで、都会の再開発に心をいためて地方回帰していたはずはないが、すくなくとも登呂遺跡は、戦乱や権力抗争でなく、牧歌的な「暮らし」を想像させたのだ。親密さと共感が、登呂の名をいまも記憶にとどめさせているのだろう。

180826t1.JPG

 登呂遺跡は、戦前に発見され戦後に本格発掘されたことで、日本人のアイデンティティ再設定にかかわる重要なイコンとなった。
 弥生時代の暮らしが初めてわかったのも、発掘・調査の思想や体制に大きな変化があり、誰もが注目したのも、敗戦によってこそだ。
 その背景が、教科書への記載や記述にまで影響したかどうかは、さだかでない。しかし国民的関心のなかで、当時の小・中学生までもが、できる形で発掘過程に参加したというから、その興奮が、のちの世代にも伝えられようとしたことは間違いない。

 一九四三年に遺跡が見つかったきっかけは、その上に軍需工場が建設されたからだ。住友金属工業プロペラ工場。いまの鹿島建設が担当した、戦闘機の部品工場だ。基礎工事中に土中からお宝がザックザク出てきた。
 それが宝かどうか分からぬも、とにかく学校に届けた請負業者、大発見と察知した国民学校の先生、その先生と親しかった全国紙の地元支局記者、という連携があり、古代史の素養があった市行政担当者らの動きなどから中央学会、省庁の働きかけが起き、戦時中の軍事領域ながら基礎調査ができた。戦局悪化で工場建設は中断するも、敗戦の年の静岡大空襲で基礎調査資料などが焼失、現地も空襲被害を受けた。ただ、未発掘の土中部分の多くは助かり、戦後調査の成果をもたらす。
 軍需工場建設がなかったら、あるいは戦勝景気のときその工場が完成し、戦後はべつの工場に移管されでもしていたら、登呂遺跡の発見はなかったか、見つかっても、戦後史上さしたる意味は持たなかったかもしれない。

 それというのも、予算も食糧も充分でなかった戦後間もない発掘調査に、専門家、一般市民のみならず国民的な熱意がそそがれた──全国から千通以上の応援手紙が届いたという──のは、この遺跡が「皇国史観」のパラダイムシフトを後押しする存在になったからだという。

 現代の価値観では理解が難しいが、日本神話(それも歴史的事実であるという前提で)から登場した天皇を万世一系とする歴史のみが日本の正史で、それ以外の説はダメ! というパラダイムでは、どこの誰とも知れぬ古代人、古代文化など、なきに等しい、というか居られても困る。敗戦あってようやく「古代」の正当な検証が可能になったというのだ。

 それが、さきほどの発掘「思想」の大変化だが、発掘「体制」も劇的に変わった。
 たとえば古代遺跡の学際的研究、つまり、あらゆる学問領域の専門家が参加し知識を提供し合う、自然科学の視点も重視する、という方法は、登呂の戦後発掘調査が初めてなのだそうだ。
 これまた現代の感覚では想像が困難だが、戦前はこういうことは考古学の専門家の担当に限られ、遺物は現地から持ち出されて帝室博物館(東京国立博物館)にしまい込まれる決まりだったのだ。

 そして、発掘への市民や一般学生の参加も史上初。
 驚くことに現場での男女共同作業も、登呂遺跡が初めてだ。
 当時の写真をみると、土の仕事をスカート姿でしている女子たちがいる。「もんぺ」でないことに意味があったに違いない。ちょっとした「ロマンス」──いい言葉ですね──もあったとか、なかったとか。地元婦人会が食べものを差し入れたり、女子青年団が洗濯を引き受けたり。前に書いたとおり、全国からも声援があった。

190826s2.JPG

 みな、明日を見ていた。
 明日を見るために、本当の出発点を確認しようとしていた。
 戦前の発見時、全国に初報を送った地元支局の記者──後年、古代史やシルクロードを扱う記者になった毎日新聞の森豊──は戦後まもなく、民族の自信を失って混迷する国民に日本民族の正しい歴史を教え、心の支えを確立する、という思想を、登呂発掘に求める記事を書いた。

 誰もが、神話ではなく遺跡という確固とした存在に、アイデンティティを探したのだ。いっぽうその行動には、アイデンティティ崩壊をもたらした戦争そのもの、あるいは戦争への、それぞれの関わりを確認することで、アイデンティティを立て直すのではなく、そこは飛び越えて古代にさかのぼり、はるか古い時代に「正しい日本民族」の歴史の出発点を見い出したいという心情があったのではないか。戦後を生きる「心の支え」であってほしい、それが、登呂遺跡の圧倒的訴及力の起点だったのだ。(ケ)

【つづきは→こちら←
posted by 冬の夢 at 22:41 | Comment(0) | 日記 旅・徘徊・発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする