2019年08月10日

ドストエフスキー『地下室の手記』 〜 四十年ぶりの再読

 本屋の文庫本コーナーで毎年夏になると開催される「新潮文庫の100冊」。1976年に始まったときは、本の売り出し企画があまり一般的ではなかったので、かなり注目を集めたと記憶している。本屋の平台に並べられた100冊の表紙を眺めた中学生の私は、そのほとんどを読んでいないことを思い知らされた。たぶん当時読んでいたのは、星新一の『ボッコちゃん』と北杜夫の『どくとるマンボウ漂流記』の二冊だけ。その年はちょうど高校受験のタイミング。高校に入ったら、来年の夏は新潮文庫の100冊を読んでやる。そう決意した中三の夏だった。
 翌年、高校で落ちこぼれかかっていたときに始まった夏休み。100冊を片っ端から読み始めた。いや、片っ端からというのは嘘。読んだのは、薄い本から順番に、だ。なにしろ高校一年の夏まで、ほとんどまともに本を読まずに過ごしたのだ。本を選ぶときもまずあとがきや解説を読んで、読み易そうかどうかをチェックしてから。そして出来るだけ短めの小説から手をつけた。たぶん、100冊の中で最初に読んだのは武者小路実篤の『友情』だったと思う。

 読書を始めてみると、短い小説ばかり選んでいるから当然のことだが、一冊があっという間に読み切れてしまう。だから次から次へと本屋に文庫本を買いに走った。開始直後の「新潮文庫の100冊」は売らんかなのキャンペーンではなく、青少年が身につけるべき最低限の文学的教養という視点で作品がセレクトされていた。夏目漱石『こころ』、太宰治『人間失格』、島崎藤村『破戒』、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、カフカ『変身』。エアコンなどなかったのに畳の上に寝転がっていつまででも本が読めたのは、その時代の夏がまだ普通の暑さだったからだろうか。
 けれども。なかなか手を出せない本があった。ドストエフスキー『罪と罰』。なぜか。まずぶ厚い。そして上下巻で二冊もある。そして表紙。グレートーンで刷られた陰険そうな肖像画。重い。いかにも重い。しかし、読まなくては。読まねばならない。でも手が出せない。すぐ横にあるツルゲーネフの『はつ恋』。魅力的に薄い。ロシア文学を読んだことにもなるし。そうだ。こっちにしよう。
元から安易な道に流される性格であった私の高校一年の夏休みは、ドストエフスキー未読のまま終わったのである。

 ドストエフスキーを読まねばならぬ。その強迫観念は、映画好きであった私には思いもよらぬプレッシャーであった。DVDやブルーレイのない当時、映画は映画館で上映されたときに見るものだった。上映期間は決められていて、公開中に見に行かなければ次にいつ見られるかわからない。だから日曜日に必ず映画館に通っていた。
ところが本は。いつでも本屋に並んでいる。手に取って買うも買わないもこちら次第。期限が定められていないので、今読まなければいけないわけではない。選択権は読み手にある。それがいけない。ドストエフスキーを読まなければならないのに、ドストエフスキーはいつでも読める。ならば今日でなくてもいいわけで。明日、いや来週にしよう。再来週でもいいか。まあ来年で。いっそのこと来世で。
そんなこんなを経て、私は高校二年の夏、やっとのことでドストエフスキーを読むことになった。あの重たい『罪と罰』ではない。ドストエフスキーの文庫本の中で一番薄そうに見えた一冊。『地下室の手記』が私の最初のドストエフスキー体験となった。

 四十年ぶりに再読してみて驚いたのは、新潮文庫版『地下室の手記』が江川卓の訳であったこと。訳者あとがきにも明記されているが、それまで『地下生活者の手記』の日本語タイトルで普及していたのを原語の意味に合わせて『地下室の』と改題したのも、江川卓の仕業であった。
江川卓と言えば「謎とき」シリーズでドストエフスキー研究に新たな領域を拓いた人。「『罪と罰』の罪(プレストプレーニエ)は"sin"ではなく"crime"を意味する言葉」「黒く塗るという意味の『カラマーゾフ』という言葉が固有名詞としてではなく普通名詞的に使われている」。ドストエフスキーがどんなロシア語を操っていたかに焦点を当てて、その背景にある文学的意図を照射したのが江川卓だった。
たぶん新潮文庫であえて本のタイトルを変えたのも江川卓なりのロシア語の読み取り方があったのだろう。早逝したような記憶があったのだが、調べてみると享年七十四。プロ野球巨人軍による「江川事件」のときには間違い電話が鳴り止まなかったと言うことらしい。

 さて、やっと『地下室の手記』の中身の話だ。小説は二部に分かれている。第一部が主人公の内部を示す独白。第二部は外部と接した複数のエピソードが並ぶ。将校に道を譲らない話、親しくもない旧友の送別会の話、娼婦リーザの話の三つ。
記憶というものは全く当てには出来ないもので、再読するまでの四十年間、第二部のほとんどが将校のエピソードだと思い込んでいた。

 ビリヤード場の通路を塞いでいた主人公は、ある大男の将校にひょいと身体ごと持ち上げられて通路を開けさせられる。それを自分への侮辱だと捉えた主人公は決闘を申し込むまで思い詰めるが、実行には至らない。将校が休みの日にネフスキー通りに繰り出す習慣だと知った主人公は、道ですれ違うときに一歩も道を譲らないことが将校への復讐になると考えつく。すれ違うためにわざわざ上司に金を借りて外出着を買い揃え、決して道を譲らないと臨んだ復讐のとき。主人公は将校としたたかに肩をぶつけ合う。将校は主人公のことには気づかず去って行ったが、自分は1センチも譲らなかったし、相手は気づかないふりをしていただけだ。主人公はそう信じて復讐をやり遂げたことを喜ぶのだった。

 私にはこの話が擦り込まれてしまっていて、今でも日常的にこの主人公の復讐まがいのことをする。狭い歩道を横に並んで歩いてくる二人組が正面に見えると、必ず一歩も譲るまいと決心してしまうのだ。そして話に夢中になって歩いている輩は、私とすれ違う瞬間だけうまく身をかわして衝突を避け、また元通りに二人肩を並べて歩き去る。二人組にとって私はまるで電柱のような扱いなのだが、私の心の中は「勝った」という喜びに溢れている…。
その度に『地下室の手記』の将校のエピソードは頭の中で反芻されていたのだったが、再読してみると第二部の冒頭に置かれたほんの短い導入部に過ぎなかった。主人公は、このような想念に取り憑かれながら、送別会で友人から侮蔑を受けたと感じ、娼婦のリーザに説教をし、リーザの気持ちを踏みにじって、また孤独な地下室の生活に戻っていく。

 『地下室の手記』はドストエフスキーの小説の中では短編に分類出来るくらいで、文庫本で200ページしかない。最後の長編『カラマーゾフの兄弟』は新潮文庫の上中下巻(※)で合計1500ページに及ぶ。それなのに『地下室の手記』の読中の感覚は、大長編に取っ組み合っているときとほとんど変わらない。
その感覚とは「思いが飛んでしまう」ことと「思いが引きずりこまれる」こと。短い中でもしっかりとドストエフスキーワールドが構築されていることに今更ながらに驚かされたのだった。

 「思いが飛ぶ」現象は、主人公がある概念を語るときや長広舌をふるうときにやって来る。目はページの文字を追っているのに、いつのまにか文字の意味は頭に入らなくなっていて、頭の中には別の想念が浮かんでいる。読むという行為は、文字の意味や主語と述語の関係や文節の繋がりを元にその文意を理解しようとするものである。ところが、ドストエフスキーを読んでいると、本を読み進むうちに頭の中で別のスイッチが入ってしまう。そうすると目は単なる視覚情報感知装置のみに機能が限定されて、文意を伝えるための文字ではなく、紙に印刷されただけの模様に変容する。そしてその模様は、それまで考えようともしなかった概念を呼び起こし、次々と溢れ出てくる白日夢の湧出を自分でも統制することは出来ない。
そして数枚、ページがめくられたところで、ハッと我に帰るのだ。今、何をしていたのだろうか。前のページに戻っても全く読んだ記憶がない。いかんいかんと思いながら、ここは確かに読んだ気がすると思えるところまで遡る。
困ったことに別のスイッチが入るきっかけがまるでわからない。あるときふいに「思いが飛ぶ」。このような本の読み方を読書と呼べるのだろうか。読んでいるのに読んでいない。読んでいないのに、読むことでしか立ち現れることがない様々な想念が頭の中を駆け巡る。過去に大長編を読んだ際に何回も遭遇したこの現象、『地下室の手記』の第一部を読むだけで数回現れたのだった。

 次に「思いが引きずりこまれる」。これは前述した将校ぶつかりエピソードに代表されるように、他のことから一切が切り離されて、小説世界側に身体ごと引っ張り込まれた状態。家で読んでいれば食事するのを忘れるし、電車の中にいたら確実に降車駅を間違える。なにしろ自分はここにはいないのであって、小説の中に移動して主人公たちを間近に眺める観察者になり切ってしまっている。
だから、送別会で孤立する気まずさに居たたまれなくなるのだし、自宅を訪問したリーザとは悦びあうのとは程遠い交合があったのだと感じるのだ。
この「引きずりこまれ感」はドストエフスキー特有のものではなく、面白い小説には欠かせない要素だ。けれども「思いが飛ぶ」感覚に陥った後でこの「引きずり」に会うと、その真逆な両価性に圧倒される。その総体が激流のような物語性と合わさって、「ドストエフスキー体験」的な読書空間を形成していると言えるだろう。

 それにしても。当たり前の日常の裏側に潜んでいる自我の醜さ。それを切り取ってわかりやすく見せるドストエフスキーの文章術は冴え渡っている。『地下室の手記』にもそんな表現が頻出するが、切りがないので一箇所だけ引用することにしよう。第一部に出てくる歯痛に苦しむうめき声についての一節だ。

彼自身が、そんなにうめいてみたところで、何の利益になるわけでなく、自分をも他人をもいたずらにくたびれさせて、いらだたせるだけなのを、だれにもまして承知している。いや、それどころか、彼がお目あての聴衆、彼の家族全員までが、彼のうめき声を聞いても嫌悪感をももよおすだけで、これっぽっちも本気にしようとせず、むしろ腹のなかでは、あんな手のこんだ仰々しい節まわしなどやめて、もっとすなおにうめけばよさそうなものに、あれでは鬱憤ばらしのあてつけに悪ふざけをしているだけだと考えていることまで、心得ているのである。ところが、じつをいうと、官能の喜びは、こうしたさまざまな自意識やら屈辱のなかにこそ含まれているのだ。

 こうして痛いところを容赦なく突いてくるドストエフスキーの前では、自分の薄っぺらい自我などは、すべて見透かされているのだ。お手上げのままひれ伏すしかない。
ここ数年、『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』に至る五大長編を再読せずにいた。けれど一度このドストエフスキー調に触れてしまうと、さらに奥深いドストエフスキー体験にのめり込みたくなってくる。不愉快なほどに粘着質で、不如意な読み方を強いられ、不寝番で読み続けなければならなくなるあの世界へ。
手を出したくなるのは、日照不足の後の夏の異常な暑さのせいで、正気でなくなっているからかも知れない。(き)

地下室.jpg

(※)新潮文庫版『カラマーゾフの兄弟』は原卓也訳。江川卓の訳は集英社版世界文学全集に収録されているが絶版。アマゾンで中古本を探すと4000円以上の高額で売られている。


posted by 冬の夢 at 22:05 | Comment(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする