2020年05月08日

John Keats を読む Ode on a Grecian Urn  邦訳【説明】

 大英博物館は先週(二〇二〇年四月二十八日)、オンラインコレクションの大規模刷新が完了し公開すると発表した。
 このリニューアルで二十八万点の画像と八万五千件の情報が追加され、画像は計一九〇万点に。接続・検索・閲覧は無料で、画像は「クレジット表記・非商用・加工可」という条件でダウンロード使用もできる。※1
 大英博物館は三月中旬に閉じられているが、数週間でネットを通じ収蔵品の魅力的なストーリーを多数お知らせします、という館長※2のメッセージが出されていた。それが実現した形だ。

       

 おかげで、ジョン・キーツ(一七九五〜一八二一)が、「Ode on a Grecian Urn(ギリシア壺のオード;一八一九年)」を書く前に当時の大英博物館で実際に見たとされる、壺の画像を紹介できることになった。→詩と訳はこちら←

 キーツが見たといわれるのは、ひとつはポートランド・ヴァーズ(the portland vase)、もうひとつはタウンリー・ヴァーズ(the townly vase)という収蔵品だ。イアン・ジャックという英文学者が一九六〇年代後半に著書で発表しているそうで、定説らしい。ほかに彫刻などもあげられているかもしれないが、原書は見ていない。

200508p1.JPG 
The Portland Vase
高さ24.50センチ ローマ時代
(c)The Trustees of the British Museum

 ただしキーツは、大英博物館で見た経験を詩に書いているわけではない。写真が発明される二十年くらい前だから、カタログを買って帰って写真を見ながら書いたわけでもない。
 ならば「Grecian Urn」はどんな「つぼ」かというと、この詩の語り手つまりキーツが、詩の中で見ている「つぼ」だ。想像力で作りあげたものだ。
 となると、なまじ実物や写真を見てから読むと、先入観を持ちすぎてしまう問題がある。この詩の研究や分析が目的ならともかく。

 しかし、たとえ画像といえど見てよかった。古代の壺絵の描かれかたや浮き彫りを見て、絵をまとった壺の質感や輪郭を思い浮かべながら読むと、この詩の「つぼ」が、いかに永遠の存在であるか、はっきり了解できた。
 それは、とりもなおさずこの「つぼ」が、神話と牧歌の古代を称えるための小道具なのではなくて、読者の想像力の支えとしてことさら強く、不変であり普遍でもあるように、この詩に描き込まれている──詩の中に造型されている──ということでもある。
「つぼ」も人間のようにいつかは滅びる運命として表現されている、という解釈が基本らしいとも思ったが、そうは感じていない。

「つぼ」が不変・普遍とはどういうことかというと、タイムマシンのように古代から未来まで、あらゆる時代に存在する、ということだ。
 外見はいかにも古代遺跡の出土品という感じで、いっときはたしかに古代にあった。そこから未来へ、そして過去へ、人間が人生で得るわずかな時間より、はるかにゆるやかに長い時間の速度の中を往還し、そのたたずまいを現しつづけてきた。
 そして「つぼ」は二百年前、詩を書くジョン・キーツの時間に姿を現した。そこでキーツのメッセージを記憶し、その言葉を永遠に語り続ける使命を帯びて、ふたたび時間を移動し続けている。
200508t1.JPG 
The Townley Vase
高さ約106センチ ローマ時代
(c)The Trustees of the British Museum

 なぜ、そんなふうに感じたのか。
 やはり詩の最後の、「つぼ」のメッセージのおかげだ。
「美は真実であり,真実は美である,」
 このことばの、有無をいわせない強度ときたら。
 それにつづく「人間がこの地上で知るすべてであり,知らなければならないすべてなのです,」もまた、問い合わせお断りという感じだ。
 そう、この「つぼ」は、『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク;一九六八年)で、文明の起源以前からはるか千年さきの未来にまで存在しつづける「モノリス」の冷たい拒絶感を思い出させる。それほどまでに「つぼ」の存在感は強い。

 もちろん詩の結語でもあるメッセージは、キーツがふだんから考え、心にあたためてきたことだが、これほどみごとな「つぼ」を造型し、ここまで強くメッセージを語らせたキーツは、死を間近にしたとき、自分の墓碑銘をこう刻むように頼んだ。

 Here lies One Whose Name was writ in Water.
 その名を水で書かれし者ここに眠る


 驚かずにはいられない、はかなさの自覚。
 この墓碑銘と、質問せず聞けといわんばかりのメッセージの強度との対比において、ますます詩の「つぼ」は不変・普遍の存在感を強める。そしていまその姿を見る読者に、ことばの意味をいつまでも考えさせずにはいない。

       

 とはいえ、そのメッセージの意味となると、たとえば「美」がどんな美で、「真実」とはどういうものか、ということは、よくわからない。
 詩の結語でもある ”つぼメッセージ” の解釈が、英文学者のキーツ研究で昔から論争になってきたことはわかったが、「beauty」と「truth」が具体的にどんなものなのか示した本には出会っておらず、知る手だても、ほんとうに両者は等価なのか知る方法も、見つけていない。

 キーツは、この詩を作る一年半ほど前の一八一七年十一月に、友人のベンジャミン・ベイリー(一七九一〜一八五三)に手紙を書いている。ベイリーはオックスフォードの学生で、キーツの友だちにはあまりいなかった高学歴の若者だ。親しかった期間は短いが、キーツの知的成熟に大きな影響を与えたという。

  I am certain of nothing but of the holiness of the Heart’s affections and the truth of Imagination - What the imagination seizes as Beauty must be truth - whether it existed before or not - for I have the same Idea of all our Passions as of Love they are all in their sublime, creative of essential Beauty

 僕はね、心がもっている感情の神聖さと、想像力による真実だけしか信じてないんだ──想像力が美としてとらえたものは真実に違いないんだ──かつて存在したものだろうと、そうでないものだろうとね──というのも僕は、僕らのもっているあらゆる情熱と、また愛についても、同じ考えをもっているんだ。それらはすべて、ただひと筋にきわまったものなんだから、ほんとうの美を創造しているんだよ。

(中略)

 as I was saying - the simple imaginative Mind may have its rewards in the repetion of its own silent Working coming continually on the spirit with a fine suddenness

 僕が話したように、純粋な想像力をもった心は、精神に向かってたゆまず静かな働きかけを続けていると、くるべきときに、とつぜん報われることもあると思うからね。


 この手紙は、キーツの書簡のなかでも有名なもののひとつだそうだ。
 研究書などでもよく引用されていたので知った。が、用件がそもそも何だったか書かれたものは読んでいなくて、どんな用件のやりとりの中で、キーツがベイリーに「想像力が美としてとらえたものは真実に違いないんだ」と書いたのか、わからなかった。
 いま、あらためてこの手紙を読むと──英語でキーツの手紙を読むのは、わたしにはきわめてむずかしいが──ベイリーが、キーツと共通の知り合いとトラブルになり、悩んでいるのを慰めるものだった。

 The first thing that strikes me on hearing a Misfortune having befallen another is this - “Well, it cannot be helped: he will have the pleasure of trying the resources of his Spirit” - and I beg now, my dear Bailey, that hereafter should you observe anything cold in me not to put it to the account of heartlessness, but abstraction
 
 ほかの人に不幸が降りかかっているのを聞いて、僕が最初にピンと来るのはさ、うん、これは手助けできるってものじゃないな、ってことなんだ。その人は自分の精神力を試すのを楽しめるはずだよって意味さ──ここで、わが友ベイリーにお願いしたいんだけど、今後、僕に何か冷たいところを見つけたからって、僕が心がないせいだなんて思わず、いまの僕は抽象的に考えているせいだと受けとってほしいってことだ。


 そういえばキーツは、「魂創造」の手紙としてこれも有名な弟夫婦への手紙で、こんなふうにも書いていた。
 知の力、人間らしい心、それぞれを別々に持つだけではだめで、ふたつがたがいに働きあい、ひとつの個性がある「魂」が生まれなければいけない。そのためには、涙に満ちたこのひどい世の中を、がまんすれば来世で救われると決めて流してしまわず、この世の涙にとことんつき合うことが大事だと。しかもそうすることは、ほんとうの人間性を作り出す方法だし、宗教(キリスト教)よりも偉大な「救済の仕組み」だ──というようにだ。

       

 いまは、「つぼ」のことば──”つぼメッセージ” の形にして、キーツが語り続けたかったに違いないこと──を、つぎのように受けとめている。
 世界に悲しみをもたらし続けている事態(二〇二〇年五月初旬)に影響されずに考えることはできないが、それはしかたがない。

 古代の、開放的な人間性と、のびのびした牧歌性に満ちた美しい史話──性の愉楽、無限の恋愛、そして儀式や祭り──が描かれた「つぼ」は、すっかり冷えきっている。古代の人々がいた ”美しい街” からは、人影が消えた。
 それでも「つぼ」は熱心に、ほとんど執拗にさえ、「Beauty is truth, truth beauty,」と語る。
 美は真、真は美──それが、ただの警句でなく、人間が確実に知ることができることだというなら、どんなものを「美」や「真」と確信すればいいのか。
 理性や思想に活躍させて判断すればいいのだろうか。いや、その方法では、期待したほど説得力がない場合がある。
 だからといって「美」や「真」を、手がかりなしに無から想像力で形づくるなどということは、とてつもなくむずかしい。
 想像力のみならず、情熱あるいは愛によってこそ、知ることが可能だというなら、いったいどのような心のはたらきが、可能にさせるのだろう。

 悲しみの中に静かに立ち続け、悲しみの友であり続けることだ。
 そしてときには、わが身が空(から)になるまで共感し続ける、つまり他者の悲しみを限りなく受け入れることができる「つぼ」になることだ。
 それらの、たゆまぬ継続のなかに、美であり真でもあるなにごとかが生まれていくに違いないと、わが魂を悲しみの中に、あるいは悲しむ人びとの間に、置きつづけることなのである。わたし自身には美も真も得られないかもしれない。なぜなら美や真は、ほうびでも賞品でもないから。そしてそんなことにはいっさい執着せず、ただこの世の中の悲しみと、悲しむ者たちの友でいること──。

 これ以上は蛇足だが、キーツが想像力やロマン的な感情を賛美したのは、現実逃避のため──日々のつらさを忘れ、古代ギリシア、ローマの世界を遊弋したい──ではない。
 ただ、キーツの報われることの少なかった短い生涯からして、そういう思いがなかったとはいわない。
 この詩の完成から、わずか二年に満たないキーツの命を知る読者としては、キーツの託した ”つぼメッセージ” のことを考えるいとまもなく、この「つぼ」を、黙示録を読み上げる預言者──預言機というべきか──のように感じてしまったりもする。

 ついさっき、この朝まで住人がいたはずなのに、もぬけのからとなった街。
 それはおそらく、しらじらと白く冷たい光景だろう。
 いま暮らしている大都市の、将来の姿を予言しているとまでは思わない。しかし、この詩を訳すために何度も読むうちに、終末感にとらわれるのを避けることができなくなってしまった。
 人が滅んだ「不在の街」にこつぜんと現れ、もはやそこにはいない人間にむけて、むなしく叡智を説いている「つぼ」の姿を、思い浮かべてしまうからだ。(ケ)

200508p2.JPG 
The Portland Vase; detail
(c)The Trustees of the British Museum


■詩の全文と訳は→こちら←

※1 権利者が大英博物館でない所蔵品は例外。写真説明の確認が必要。
※2 二〇一六年からハートヴィグ・フィッシャー。
   外国籍の館長は初めて。ドイツ人で前職はドレスデン美術館長だった。
   なお大英博物館は二〇二〇年八月二十七日に再開館した。
   観覧は一階のみ、事前予約が必要で、ふだん一日一万八千人ほどが訪れるところ、
   二千人ほどに来館者数を制限する。
※  伝記的な点で参考にしたのは『キーツとその時代』出口保夫・中央公論社・一九九七


Originally Uploaded on May. 09, 2020. 00:42:00
posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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