2020年04月13日

諸悪の根源は小選挙区制と二大政党制

(怒りのあまりか、頭がちゃんと働いていなかったようで、大事な一節を抜かしてしまいました。アップした翌日に慌てて加筆するなんて、どこかのアホな政治家の悪口を言う資格はないかも……)
 
 コロナウイルスの猛威と脅威はさておき、政権が次々に放つ場当たり主義的対策のお粗末さ、愚劣さに対して、さすがに少なからずの人々が「次の選挙は自民党には投票しない」とか「必ず選挙には行く」とか言い出しているようで、それはそれで結構なことだとは思う。もっとも、英語の言い回しにある、Out of the flying pan into the fireよろしく、もっと悪い奴を選んでしまうのではないかという心配も、正直、かなりある。(というのは、関西に住んでいる身上としては、このところの大阪知事の「ご活躍」振り、さらにその背後にうごめく橋下徹への支持復活を身近に感じており、それはそれでかなり怖い。ついでに、東京都でもあの極悪な都知事が、自分の不始末は大棚に上げて、全部の責任を無能な安倍に押しつけようと画策し、それが効を奏しているようで、大変に気持ち悪い。)

 かといって、現在の野党第一党である立憲民主党の、どうやら事実上のスポークスマンである蓮舫のtwitterを通した発言に対しても、しばしば(いや、頻繁に)非常に不愉快なものがあり、耳に入るだけで憂鬱になることも少なくない。そもそも、何が嬉しくてtwitterなんぞを使いたがるのか、非常に不思議だ。まあ、極めて有効な洗脳装置、サブリミナル効果波及装置であることは認めるが、まともなコミュニケーションに益するとは到底思われない。Twitterって、いわば一方的掲示板なわけで、それこそ21世紀の電柱(つまり、誰かが張り紙をして、『迷子の犬、捜索中』とか『子猫、貰って下さい』とか、もっと時代を遡れば『パート募集』とか、そういう誰もが使える、ちょっと違法の臭いもする無料広告塔)みたいなものでしょう。そういう風に使えば、それはそれなりに便利だけど、まともな(つまり、公金の援助さえ受けている)政党が積極的に使うようなものではないと思う。Twitterで何かを言えば言うほど、自分と自分が属する政党の評判を落としかねない危険を、少しは知るだけの知性、危険察知能力が彼女にあるといいのだが、これは完全に無い物ねだりだろう。まあ、政治家なんてみんな大なり小なり自己顕示欲の化け物(or バカ者)だろうから……

 しかし、話を戻せば、どうやら現政権の化けの皮が少しは剥がれつつあるようで、次の選挙では何か変化が期待できるのかしれない、と思いたいところではあるが、本当のところは、全然期待できない。小選挙区制と、世間にいつの間にか蔓延してしまった二大政党制への盲信がある限り、自民党支配は当分続くだろう。もちろん、次の選挙で自民党は議席を減らすことは間違いない。それは確実だ。が、第一党の座を失うことはまずあるまい。今の立憲民主党に第一党になる力はない。(ちなみに、現在のマスコミの不平等さというか、unfairnessというか、ともかく、野党党首のマスコミへの露出の少なさは異常だ。この危機において、野党が何を考えて、どんなアイデアを持っているのか、マスコミは少しも伝えない。まあ、これが日本だから、仕方ないのだろうけど、つくづく異常な社会ではある。)仮に、自民党が壊滅的敗北を喫して、立憲民主党の勝利というわけではなく、単に自民党の議席があまりに少なすぎて、結果的に立憲民主党が第一党になるようなことが起きたとしても、それは極めて弱小な第一党であり、複数の政党と連立政権を作らなければならない。

 ところが、これが長年「二大政党制」という偽りの理想に惑わされてきた結果、おそらく今では連立内閣を作るknow-howを誰も知らず、作ったとしても、あれよあれよという間に瓦解することだろう。とにかく、ものごとを論理的・合理的に決めることができず、何かを決めるときには情緒的に、仲間意識的に意見の一致を計るのが日本文化の常套手段。いや、どうやらこのやり方しか知らないのだから、協働しようと思うのであれば、日頃から「ワンチーム」でなければならない。この、日頃からワンチームで活動しているときだけ、このときだけ、どうやら日本という社会は効率的に機能するようだ。それはあの真に感動的だったラグビーワールドカップでも見事に証明されたではないか。しかし、極めて残念なことに、日本の野党は、ご承知の通り、お互いに犬猿の仲と言っても過言ではない。そして、情緒的な嫌悪を越えて、合理的・論理的判断力を用いて連立する術を彼らは知らない。おそらく知ろうともしないだろう。もちろん、その必要性さえも感じていないと思う。

 おそらく、中選挙区制(一選挙区から複数の当選者を選ぶ)が一番日本の実状に相応しいのだろう。これなら、日頃から候補者も投票者も談合し放題。談合、言葉の響きは極めて醜悪だが、果たしてこの日本のような社会(繰り返すが、何よりも情緒と仲間意識が必要とされる社会)で、談合や腹芸なしで事が成立するとはどうしても思えない。本音と建前の器用な使い分けができずに、いったいどうやってこの日本社会で生き延びていけるのか。それとも、もう数年したら、この本音と建前の区別はなくなり、リクルートスーツも姿を消して、入学式や卒業式も簡素化され、それどころか、「式なんか意味ないよね」という声が大勢を占めるなんてことになるのだろうか? いや、あり得ないだろう。中身はともかく、外見こそ大事とされるのだから。本音はともかく、建前が優先されるときが確実にあるのだから。となれば、日頃からのコミュニケーション、仲間意識の醸成、ファシズムとさえも妙に響き合う同族意識の維持、阿吽の呼吸で理解し合える超能力、そして、本当のファシズムと抵抗するためにも必須となる、小集団相互の利害競争が必要となるだろう。(かつて、自民党がまだ比較的まともだった頃、彼らには「派閥」と呼ばれる小集団があった。当時は「派閥政治」といって猛烈に批判されたが、今になって思えば、あの派閥同士の闘争こそがあの破廉恥政党の唯一の自浄装置だったわけだ。その自浄装置を喪失した今、アホの安倍を止められる内部勢力はない。)

 二大政党制が機能するには、政党内でさえも意見が分かれ、他党の主張の方に理があるとわかれば、他党の主張を支持するようなことが普通にできる、そのような精神的風土が必須だ。日本社会のように、「お上の命令があれば、自粛でも集団自決でもするけど、お上の命令がない以上、いくら殺人ウイルスを撒き散らすことになっても、夜遊びは続ける」みたいなことがまかり通る社会では、つまり、自分の責任で自分の行動が決められないどころか、そもそもこの「自分の責任」という概念さえ曖昧な社会では(だって、ほとんどの人がこのコロナウイルスに対して「自分に責任がある」なんてこと、理解不可能でしょう? でも、おそらく西洋では、逆に、夜遊びを止めなかった人たちでさえ「自分の責任で外出しているんだ」と信じていたはず)、二大政党制とは、少なくとも日本では「誰もまともに考えない政治」になること必定だ。議員たちも「上司の言うとおり」に従うだけなんだから。(この典型例が、最近のあの超絶ド阿呆振りを十全に披露した森まさこ法務大臣だろう。)

 小選挙区制では各選挙区から1名しか当選しない。仮にある選挙区の候補者の2人、あるいは3人ともが非常に有能かつ誠実な人間であっても、当選者は1名だけだ。これが中選挙区であれば、有能な代議士が2名、3名と生まれることになる。逆に、別の小選挙区にはアホで愚劣な候補者しかいなかったとしても、そのうちの1人は絶対に当選してしまう。アホが淘汰されることはない。さらに問題なのは、今のような選挙制度では、政党に所属していない候補者が当選する可能性は極めて低い。ゼロと言っても過言ではない。自民党候補者にも競り勝ち、野党の候補者にも競り勝つのは、特定の政党に属さない新人候補者には至難の業だ。しかし、中選挙区制であれば、2番手、3番手で滑り込み当選の可能性がなくはない。ところで、世論調査では「支持政党なし」が圧倒的多数を占めている。ということは、本来であれば、政党に属さない候補者こそが待望されているはずなのに、そして、そういう候補者こそが「特定の支持政党なし」というサイレント・マジョリティの受け皿になるはずなのに、現行の選挙制度(小選挙区制)がそれを阻んでいるということになる。投票率が低い理由の一つは、間違いなく小選挙区制にある。

 それにしても、若い人たちは知る由もないだろうが、日本も1994年までは中選挙区制だった歴史を持っている。あのとき、小選挙区制と二大政党制を支持したアホたちは、今何を考えているのだろう。(言うまでもなく、この拙文を書いている本人は、当時は全力で選挙制の変更に反対したし、それ以後もずーっと反対し続けてきた。何度も繰り返すけれど、小選挙区制は亡国の制度だし、事実、今や亡国の危機なのではなかろうか。)小選挙区制にして喜んでいるのは、気色悪い政治家たちだけだろう。そして、酷い目に遭っているのは、我々庶民だけだ。(H.H.)
 
posted by 冬の夢 at 17:21 | Comment(2) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 本文に「アホ」が出てくる回数が激増の一途ですね。まだ足りんくらいかな。
 それにしても、たとえアホでも「アホなりに」という態度や行動はあると思うし、出来るはずだし、「アホなりに」を支える誠意や共感、それは、いやしくも人なら持っていると信じたいですが…。
 今日明日もなく、文字通り命をはって現場に出ている人もいる。そういうことは出来ない人は多いが、そのかわりに、小さいことでも「自分なりに」律している人もいるはずですよね。他者のために体をはる人、他者のために自分を律せる人、それら、度合いは多々あれど「さまざまな誠意(自己犠牲や特攻精神とは違う)」すなわち、ばかばかしいうえすぐ乱れる単一行動でない、個々の誠意の行動の積み重ねが、「社会的ふうじ込め」の力になるんだと思っているんですが。
 なぜかそこが、どうにも難しい。なにかがおかしくて。
 こういうことを書くと「誠意で解決するなら苦労しない」とかね。
Posted by (ケ) at 2020年04月14日 02:46
アホはアホなりに、で強く考えさせられるのは、病に倒れ、どうやら死線をさまよったらしいイギリスのジョンソン首相のこと。以前はトランプや安倍にも負けず劣らずの道化と思っていたけれど、罹病してから「話し方と表情が少し変わった」と思っていた。いや、発病直前の、国民に向かって「覚悟していて欲しい」というスピーチも、「まるでシェイクスピア劇の主人公みたいだな」と、内心かなり驚いて聞いていた。「もしかしたら、こいつは単なる道化ではないのかも?」と思わされた。そして、今回、無事退院したときのThank-you Speechには全く驚かされた。普段からスピーチは上手い政治家らしいが、そしてあれが全部演技だとしたら、とんだ食わせ者だが、おそらくはちゃんと気持ちも入っているものと信じたい。そして、ちゃんと気持ちの入ったものだとしたら、感動的と言っても過言ではないスピーチだった。あれを聞けば、多くのイギリス人が喜んで自宅に籠もっていることだろう。言葉だけで説得すること、安倍クンを筆頭に、日本の政治家たちには絶対に無理だろうな……
Posted by H.H. at 2020年04月14日 13:39
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