2019年08月23日

木村伊兵衛の撮った六代目・尾上菊五郎─歌舞伎の切手を「切手市場」で買った(3/3)

 六代目・菊五郎の「芸の深さ」という、写真には写らないものまでも、「最大公約数」で写真で表現しうる、と木村伊兵衛はいった。
 その「ひとこと」は、どこか突き放したように韜晦めいてもいる。が、断固とした写真術と悠々たる旦那芸を矛盾なく実践できた、木村伊兵衛という特異な写真家だからこそ、その発見と駆使は確信をもって可能だったのだ。

 東京の下町生まれで、市井を撮る庶民派、というのが写真家・木村伊兵衛の通評だが、実家は組紐製造業で、慶應幼稚舎へ人力車で一時間かけて通ったこともある。子どものころから寄席や芝居など芸事好みで、小学校の学芸会ではみごとな落語を披露、将来の夢は「箱屋」──簡単にいうと芸者の付き人──だったというのだ。
 粋筋好きの坊ちゃん育ちとして親しんできた空間のひとつが劇場であり、写真家となった木村伊兵衛にとっても、劇場は表現の舞台であった。
 写真を見ていくと、ひとつの演目に劇場のさまざまな場所からカメラを向けていることがわかる。黒澤明なら同時に複数のカメラを回して撮るところを、木村は一人で行っているわけで、必要に応じて同じ演目に何度も通ったのだろう。
 それが当然であるかのような身軽さもさることながら、どのアングルも不自然でないことに、いまになって驚く。被写体との対決でなく、被写体の研究や分析でもない写真、それが木村伊兵衛の撮影の特徴なのだが、舞台写真でもまた、演目や演者を説明的に劇空間から切り抜くのではなく、お芝居の世界を金魚すくいの薄紙でさっと捕まえたかのような、みずみずしい臨場感がある。

 多少、歌舞伎や文楽の舞台を観てきて、現代の宣伝写真などを見た後で、あらためて木村の撮った写真を見ると、どことなく構図が「ゆるい」感じもする。演者の見得も、彫像のようには決まっていなくて、流れていくような印象もなくはない。
 しかしそこには、いまここで演じられている舞台を見つめる、観客としての期待と興奮もまた、写っていると感じる。

 それがもっともよくわかるのは、菊五郎の「娘道成寺」を、花道の下手から客席へ向かって撮った写真だ。
 菊五郎は後ろ向きだ。その衣文の抜け具合と微妙な首の傾げかた。美しさの「予感」が暗い空間にふわりと漂う。
 画面の背景を埋め尽くした観客たちはみな、こちらへ視線を向けている。ほほえましいほどの期待感が、菊五郎の姿を浮かび上がらせる。心なしかその所作は、観客たちに向かって語りかけてもいるようだ。

 もう一枚、「仮名手本忠臣蔵」の松の間、塩谷判官(忠臣蔵の浅野内匠頭)の菊五郎を見てみよう。
 被写体ブレがひどく、増感現像のせいだろうか、画面がボケて見えるから、いまの感覚だとボツになる写真かもしれない。すくなくとも「拡大プリントは無理」となりそうだ。
 しかし、押さえに押さえた屈辱を一声の怒声にこめて高師直(吉良上野介)に斬りつける判官の、はじける身体はどうだ。刀のギラつきとともに飛び上がる動きが、痛いほど目に刺さる。いっぽう師直はその動きを、砕けた腰で卑屈に受ける。両者の所作も距離感も文句なしだ。動きは静止しておらず、すべて流れて写っているのに、判官の表情は鋭く、明瞭な像をなしている。完璧という以外にない。
 構図はやはり、なんとなく「ゆるい」のだが、現代のセンスならトリミングして切り捨てるかもしれない画面天地の黒い部分が、判官の斬りつけの動きを強調し画面全体を力強く締める。「ゆるい」から写ってしまったらしいのだが、やや余分な右手の空間背後には、襖の松が枝が、しっかり写っている。
 ブレすぎで、あまり拡大できない、と書いたが、ひょっとすると、演者が等身大になるくらいまで大きく伸ばしても、強烈な迫力で迫ってくる写真ではなかろうか。

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 明るいレンズを使用すると、或る程度までの動きは容易に瞬間撮影する事が出来るが、この場合、よく寫しとめた寫眞は舞臺の現實から懸け放れた味のないものになり勝ちである。動的なものの美しさは、寫眞の上にその動きによる美しさや律動的な感じが出ていなければならない。その為めには、撮影者は、露出されるシャッターの速さ如何に依って、その寫された演技の結果を熟知している必要がある。

 いま、誰がこのように「動的なものの美しさ」を、静止表現で伝えることが出来るかと思いつつ、木村の言を続けて読むと、こうもある。

 六代目の演技には、その表情に獨得の良さがあり、その一瞬を捉えた写真にこそ、心理的にその役を掴んだ六代目の藝の眞髄が表現出來ると考え、そこに一つの狙いを持つことも私は怠らなかった。

「鏡獅子」の写真を見てみよう。
 撮影を開始した早い時点から、上の考えが撮影方法に浸透していることがわかる。
 力強い円運動を送り出す足腰の踏ん張りや上半身の膂力が、うねるような衣裳の輝きとメリハリにみなぎる。歌舞伎の衣裳には大きな誇張があるが、生身の身体が扮装からはちきれんばかりに力強いのだ。ちなみに菊五郎は鏡獅子の練習は褌裸でやっていたそうだが。
 渦を巻く白い髪は、ふつうなら純白に仕上げたいところ、グレーの諧調が残してあり、「たてがみ」の流れが見える。菊五郎は写真の中で止っているが、「たてがみ」は、この写真の中で回っているように見えるのだ。
 上手背景には地方(伴奏)たちが見え、それが舞台の奥行を感じさせ、広い舞台を支配する菊五郎ひとり、ますます際だたせる。

 木村はこの写真を三列目ほどの席から撮っているのだが、前にいる客のシルエットが盛大に写っている。
 この写真はおもに正方形で発表されているが、やや横長で発表されているバージョンもある。使ったカメラがライカなら、横長で撮ったものだろう。菊五郎の所作は素晴らしいが、あまりに客の写り込みがひどいので、トリミングしたことは間違いない。
 面白いのは、なんど見直しても、失敗しているのを無理に救った写真には見えないことだ。
 むしろその、前席の客のシルエットこそが、菊五郎の「芸の深さ」を「写真で見ても納得できる最大公約数」として機能しているような気がしてくる。

 そこであらためて、切手になった「鏡獅子」を見てみる。
 切手サイズで、ひと目でわかる絵柄を作るためには、原画づくりや製版工程に非常な注意がはらわれたことは知っていて、もとの写真を見てから切手を見ると、その苦労が伝わってくるようだ。
 しかし、切手になった「鏡獅子」は、すでに見た木村伊兵衛の写真の魅力はもちろんのこと、「菊五郎の持つ芸の深さを、写真でみても納得出来る最大公約数」をも、切り落としてしまっている。いちいちあげつらうような後出しジャンケンはしないが、文字を重ねる要や、「いらんものが写ってしまっている」という判断か、トリミングと塗りつぶしをして、タテ長の画面に「鏡獅子・六世 尾上菊五郎」という説明どおりに、六代目・菊五郎の「人形」を切り抜いて置いたわけだ。
 そう気づいて見直すと、一九九一年から発売の「歌舞伎シリーズ」の切手はどれも、宣伝用の貸し渡し写真のようで、舞台の空気感がない息苦しい絵柄のものが多い。もちろん、歌舞伎の「演目シリーズ」ではなくて、名優のブロマイドシリーズなんですよ、といわれたら、なんの文句もない。そういうことなのだろう。じつは、一九七〇年代の「伝統芸能シリーズ」歌舞伎編では、切手の絵柄に誰が選ばれて誰が選ばれなかったかということが、業界で相当な物議をかもしたそうなので、九〇年代は、文句のない選定、文句のない絵柄、ということにむしろ気が回ったのかもしれない。ひょっとすると校正を関係者に見せて、いらん注文がついたりした結果(笑)だったりして。まあ邪推は、そのくらいにしておきましょう。

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 小学生時代、いっとき熱中した記念切手集め。
 数年もしないうちにやめてしまった。
 昨年、ふと国立・国定公園の記念切手に興味を持ち、半世紀ぶりにひとしきり集めたが、完成したところで収集熱はまた冷めていた。
 今回、伝統芸能シリーズ切手に抱いた興味の落としどころとしては、六代目・尾上菊五郎が不世出の名優であることは、基礎知識としては知っているが、実際にどんなにすごい舞台をやったのか見てみたい。
 小津安二郎の『鏡獅子』は見た。しかし、なぜか面白くない。『晩春』の能舞台(『杜若』)の場面をひくまでもなく、ちゃんとわかっている小津が担当した映画なのだから──立合いと構成のみと書いたが、菊五郎に演出をつけているような記録写真を見たこともある──面白くないのは「映画の出来不出来」ではなくて、自分が「わかっていない」せいだと落ち込んだ。

 すっかりしまい込んでしまっていた木村伊兵衛の写真集をいくつか、引っぱり出したので、しばらくは、それらを見て想像することにしよう。初発表の『六代目尾上菊五郎舞臺寫眞集』(一九四九年)は、出版当時、限定三百部。いまの貨幣感覚で五万円くらいしたはずの写真集だから、かつて古書価格を調べる気も起きず、持っていないので図書館で見たが、いまの古書市場では、新刊写真集より安いような値段で出ているようだ。ネットオークションなどではゾッキ本のような「即決」価格が示されたりしている。この文でも書いた、蔵書の大量処分時代が古書市場にもたらした値崩れ状態は、確かなことらしい。(ケ)

【その2は→こちら←
【その1は→こちら←

『六代目尾上菊五郎舞臺寫眞集』(和敬書店/一九四九年)
『木村伊兵衛名作全集』(世界文化社/一九七五年)
『ソノラマ写真選書 六代目菊五郎 木村伊兵衛写真集』(朝日ソノラマ/一九七九年)
『木村伊兵衛写真全集 昭和時代』(筑摩書房/一九八四年)
『木村伊兵衛の世界』(東京都写真美術館/一九九二年)
『六代目尾上菊五郎 全盛期の名人芸』(ネスコ文芸春秋 /一九九三年)
 ほかを参考にしました。


●切手の博物館・専門図書室に、お世話になりました。記して感謝します。

Originally Uploaded on Aug. 26, 2019. 00:30:00
*写真の解像度は低くしてあります

posted by 冬の夢 at 00:01 | Comment(1) | 切手 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
2と3のブログを読んで、木村伊兵衛という写真家が写真芸術や自分の撮影した写真のことを非常にクリアに理解していたことに驚きました。というか、自分が把握してることを明晰な言語で表現できる能力という方が正しいかな。頭脳も明晰な人だったんでしょうね、撮った写真と同じように。
Posted by H.H. at 2019年08月26日 00:02
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