2019年08月16日

古くて新しい日韓問題 (異様に長い!)

 連日の猛暑。自然環境とエネルギー問題に対して面目ないと思いつつも、クーラーなしでは眠ることもできないほどの不快指数、その最中に、西日本では追い討ちをかけるかのような台風10号の襲来、しかもタイミングが悪く、大潮とも重なると聞かされれば、以前には岡山県倉敷市にも住んだことがあり、現在は神戸市に暮らす身として、昨年の「西日本豪雨災害」が脳裏に浮かび、もうこれ以上の災害はご勘弁と、不安になるのが当然というものだ。そこで、普段よりも熱心にTVのニュース番組を見るわけだが、それがいけない。天気、台風関連のニュースには何の新味もなく、すでにわかりきっている、1時間前のニュース、いや、場合によっては15分前のニュースで話したことを金太郎飴のように繰り返すのみ。だが、台風関連のニュースであれば、たとえ15分前に同じニュースを報道したとしても、中にはそのニュースで初めてその内容を知ったという人もいるだろうから、TVに齧り付いて勝手な文句を言うこちらが悪いということにもなろう。だが、猛暑や台風と同様に連日報道され、一部(?)では大問題にもなっている、いわゆる日韓問題については、何とも言いようのない、非常に複雑な気分にさせされる。

 この件については先日も「政府・政権と『国』を混同してくれるな」という趣旨の小文をこのブログにも書いたばかりだが、もう一つどうしても気になって仕方ないことがある。どの報道機関、マスコミもこの問題(日韓問題)の真相、仕組みについて、全く明らかにしないどころか、もしかしたら率先して『日韓問題』の真の要因を隠蔽しようとしているのではなかろうか? この隠蔽がはたして巧妙に意図されたものなのか、それとも単にマスコミ文化人に蔓延する脳軟化症の表れなのか、愚生にはわかりかねる。が、事実として、現在繰り広げられている報道は、少なくとも日本の新聞とTVニュースを見ている限りでは、日本だけではなく韓国においても同様に、日本と韓国の間の深刻な葛藤に対する恐るべき盲目、恐るべき歪曲をまざまざと示している。そして、この盲目、歪曲が両国の世論形成に大きく影響していることは容易に推察できる。ということは、現在の両国民は、まるでブリューゲルの絵にもあるような、盲人に先導されている盲人の集団ということにもなるわけだ。

ブリューゲル.png 
(ブリューゲル:盲人の寓話)

 何が気に入らないのかというと、この問題に多少なりとも関心がある人であっても(関心がない人は、おそらく何も知らず、したがって、基本的には韓国をぼんやりと「気持ちの悪い国」くらいに思っているのではなかろうか)、今回の一連の騒動の原因を、1)いわゆる慰安婦への謝罪・賠償問題、2)いわゆる徴用工への補償問題、3)日本の、韓国に対するいわゆる経済的報復、の3点に求めている点にあることだ。平たく言えば、1)の慰安婦問題については、日本政府と朴槿恵大統領時代の韓国政府との間で「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した「慰安婦問題日韓合意」が達成され、日本ではその合意を歓迎する意見が多数であったのに対して、韓国側にはそれを不十分とする意見が強く、結局は韓国の都合でご破算になった。これが日本側は気に入らない。2)の徴用工への補償問題については、これまた1965年の「日韓請求権並びに経済協力協定」で解決済みと思っている日本政府の公式見解に対して、韓国の司法が日本企業の補償責任を認めたことへの日本側の反発。3)については言わずもがな。

 しかし、ちょっと考えたらどんなアホでもわかりそうなものだが、こんなのは単なる表面上の現象に過ぎない。つまり、愛知トリエンナーレ事件で新たに脚光を浴びているいわゆる「少女像」の、雨後のタケノコのように増殖していく現象、あるいは徴用工をモチーフにした様々なヴァリエーションの出現、そして慰安婦支援の抗議集会も徴用工に沿った司法の判断も、これらは全て同じ根から生まれた現象に過ぎない。言い換えれば、これら一連の「騒動」は結果であって、原因ではない。マスコミや自称・他称の知識人に期待したいことは、どうして日本と韓国の間では、相互に観光客数も伸び、熱愛関係にある国際カップルも少なくはないはずなのに、奇妙に感情的な、おそらくは相互にコンプレックスにさえなっているような病的な現象が次から次へと生じるのか、その理由とメカニズムを明らかにしてもらいたいと切に願う次第。(真面目に、今の日本には「韓国コンプレックス」が、そして韓国には「日本コンプレックス」が発生しているように思う。もしかしたらすでにどこかの社会心理学者が手際よく分析してくれているかもしれない……)

 素人ながら推察してみよう。
 比較的わかりやすいところから始めると、いわゆる慰安婦にしても徴用工にしても、金銭的補償と、それとは別の、もう少し微妙な問題−−名誉の回復とか、政治的野心とか、欲求不満の解消とか−−という、二つのベクトルが明らかに存在しているのに、それをゴチャゴチャにして論じているという問題がある。例えば、「最終的かつ不可逆的な解決」だったはずの「慰安婦問題に関する日韓合意」では、金銭的補償は叶うかもしれないが、もう少し微妙な問題の方が全く無視されてしまうということがあるのだろう。
 関連して、こちらは明らかに自民党政権に重大な咎、致命的なマチガイ、つまり、狂気に匹敵するマチガイがあるのだが、国家間における国家レベルの補償と個人の補償の問題は全く別問題だということ。この点を歴代日本政府はどうしても認めることができないようだ。おそらくその原因は、極めて残念なことながら、日本の社会、文化に「個人」というものが未だに根付いていないためだろう。それがために、慰安婦や徴用工の問題について、1965年の「日韓請求権並びに経済協力協定」以後も個人の請求権は別扱いされるということが、日本の政治家や官僚、そして多数の市民にも理解できない。
 もっとわかりやすく言えば、非常に当たり前のことだが、一口に「慰安婦」といっても、個々人を具に見れば、その実態が多種多様であっただろうことは火を見るより明らかだ。何もかもを承知の上で、しかしなるべく好条件を求めて、その業務を自発的に遂行した慰安婦もいたことだろうし、逆に、完全に騙されて、まるで人買いに買われるようにして、しかもまるでレイプされるように毎日を過ごしていた慰安婦もいたことだろう。中には半殺しの目に遭い、最後には殺された慰安婦もいたかもしれない。当時の法の中で十分に保護されていた慰安婦もいれば、当時の法の中でさえも違法な扱いを受けていた慰安婦がいたことも、そんなことはどんなアホでも容易に推察できる。となれば、とりわけ残虐で違法な扱いを受けた人が、平和の世になった今こそ自身の名誉と地位の回復、そして法による救済なり処罰を求めることは、それこそ当然の権利だろう。再度言うが、「比較的恵まれた慰安婦」もいれば「非常に悲惨な慰安婦」もいたに決まっている。その人たちを十把一絡にして論じるのは、知性の退廃以外の何ものでもない。したがって、個人の請求権は絶対に認められるし、認められなければならない。
 金銭的補償であれば、おそらくは「慰安婦問題日韓合意」で片付けられるのかもしれない。しかし、「謝罪して欲しい」という個人の請求に対しては、たとえ日本政府が「慰安婦に関して当時の日本軍が組織的に責任を持っていたという事実はない」と言い続けたところで、当の被害者が「しかし、私の場合は斯く斯く云々」と主張し、ある程度の事実確認もできるのであれば、そうした過去の事実に対する謝罪なしに済まされるわけがない。こんなことは小学生でもわかることだ。無法に扱われた人をそのまま放置しておいていいはずがない。

 ここまで我慢して拙文を読んでくれた人の中には、「しかし、もうすでに謝罪はしたはずだ。例えば、1993年のいわゆる『河野談話』の中で『心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる』と、ときの内閣官房長官が言っているではないか。それとも韓国政府は日本の政権が変わる度に恒例行事のように謝罪することを要求しているのか?」と憤っている人もいることだろう。当然、マスコミは「河野談話」の事実をも再三再四伝えるべきなのに、現在の騒動の中で「河野談話」が言及されることはなさそうだ。恐ろしいことに、もしかしたら、大騒ぎしている韓国の人たちさえも過去に日本の政府要人が明確に謝罪した事実を忘れ去っている可能性もある。だとしたら、なおさらマスコミは日本と韓国の両方に向かって「河野談話」を何度も繰り返し報じる必要があるはずなんだが……
 
 けれども、もっとはるかに深刻な問題は、仮に韓国の人々が「河野談話」の存在も中身も知っていて、そして、1965年の国家間協定も知っていて、なおかつ今なお安倍政権からの謝罪を要求しているのかもしれないということだ。いや、これは「かもしれない」ではなく、おそらく事の真相はそうなのだろう。つまり、他ならぬ安倍首相の口から謝罪の言葉を聞きたいのだとしたら? 

 いや、もっと簡略に言ってしまおう。韓国の(一部の)人々の日本に対する不満と憤りは、歴史修正主義者がでかい顔をしている昨今の日本、そして歴史修正主義についてまともに考えたこともないようなネトウヨが撒き散らす「日本万歳」の大合唱、こうした風潮に向けられているのではないか。そして、この歴主修正主義の首領は他ならぬ安倍自民党総裁・日本国首脳であられるわけだから、彼らが "No Abe!"と叫びたくなるのも必然だ。
 
 1945年以前の日本が大東亜共栄圏の名の下にアジア諸国を支配・占領したことは紛うことなき事実だし、非戦闘民を巻き込んだ残虐な武力行使をしたことも否定しようがない。戦争となればどの軍隊でも大なり小なり同じような残虐行為を繰り広げるものだと言い張ったところで旧日本軍の罪が帳消しになるはずがない。(そんなことが可能なら、世の中から戦争犯罪というものが消えてなくなるだろう。)したがって、政治家が謝罪し、日本国の象徴である天皇が「深い反省」を表明するのも当然のことであろうし(悪いことをしたら謝るというのは、子どもでも知っている常識だ)、事実、官房長官も天皇も謝罪の言葉を確かに口にした。この点で、韓国の頭に血が上った人たちが「自分の眼前で謝るまでは赦さない!」とまで言ったとしたら、それは行き過ぎというものだろうし、「『深い反省』では謝ったことにはならない」と言うのであれば、端的に翻訳のマチガイというものだろう。日本語では「深く反省しています」というのは明らかに謝罪(自らの誤りを認める)表現なのだから。(そんなことを韓国の人たちが主張しているかどうかは知らないが、頭に血が上れば人はどんなバカなこともしかねないので、そんなこともあるかもしれない…。)

 さて、すでに官房長官も天皇も謝罪を表明しているにもかかわらず、相変わらず韓国はしつこいくらいに謝罪を求めてくる。いったい何度謝れば気が済むのか。というのが、少なからずの日本人が感じていることなのではなかろうか? 愚生にしても、TVでしばしば放映される、少女像や徴用工の銅像の偶像化に対しては一種の物神崇拝の臭いがして、正直な感想としては "Enough!"と言いたくもなる。が、これこそ一種の異文化コミュニケーションと諦め、物神崇拝に対しては純粋に価値観や文化の違いとして受け止めることもできるのだが、一部の支援団体が中心になって世界中に例の銅像を設置し続けることに対しては、これは正直なところ、「そろそろお止めになったらいかがなものか?」と、憚りながら心よりご注進申し上げたくなる。

 ここでちょっと寄り道をさせてもらうと、日本でも評判になった『ショーシャンクの空に(The Shawshank Redemption)という映画がある。冤罪によって投獄された有能な銀行員が、腐敗した刑務所の中でも希望を捨てず生き抜き、およそ20年かけて小さな鉱物ハンマーだけでトンネルを掘り、見事に脱獄に成功するというお話だ。その中で、相棒役の黒人(レッド)が、それまでに幾度となく却下され続けた仮出所の審査を受けているシーンがある。記憶に頼った記述なので間違いがあるかもしれないが、審査をする面接で、「更生したか、後悔しているか?」と尋ねられたとき、レッドは「自分がしたことを後悔しなかった日なんて一日もない。どんなに後悔しているか、お前さんにはわかるはずない」といった感じのことを、心からの叫びのような趣で言う。それは彼がどんなに深く自らの愚かさを悔いているかを十全に示した名場面だった。本当に心から悔いている人間には、その気持ちを表す適当な言葉が見つけられるはずがない。巧言令色鮮矣仁とはよくぞ言ったものだ。(もしも心からの反省、心からの後悔を表す言葉があるとしたら、それは詩の中にしか見つからないだろう。)

 あるいは、悪いことをした生徒を想起してもいいかもしれない。有島武郎の童話に「一房の葡萄」というのがある。横浜のインターナショナル・スクールに通う絵の上手な日本人の男の子が、ふとした出来心でクラスメート(アメリカ人)の絵具を盗んでしまい、それを咎められて、大好きな先生(アメリカ人女性)のところへ連れて行かれる。この子は恥ずかしさと後悔のあまり泣きじゃくることしかできない。そのとき先生は「もう絵具は返しましたか? あなたは自分が悪いことをしたと思っていますか?」とだけ尋ね、「明日はどんなことがあっても学校に来るように」とだけ言って、一房の葡萄を持たせて子どもを帰宅させる。この先生は愚生にとっては「良い先生」のモデルの一つでもあるのだが、もしもこの先生が何度も何度も「反省してますか?」と生徒に迫り、「どのくらい反省しているか、反省文を書きなさい」と強要し、さらには「その反省文をみんなの前で読みなさい」と言ったとしたらどうだろう? 残念なことに、そして恐ろしいことに、おそらくこんな先生が実際に少なからず存在しているに違いないが、ともかく、すでに反省している人間に向かってさらに反省を求めるのは屋上屋を重ねる愚に近いものがあろう。

 世界のあちらこちらに建立されつつある少女像=慰安婦像は、しつこく反省を迫る学校の先生を想起させずにはいられない。そんな先生に当たった日には、子どもは登校拒否になるしかないだろう。

 しかし、話を本題に戻すと、日本側がすでに謝罪しているにもかかわらず、何故韓国側はいっそうの謝罪を求めるのだろうか? それは、「一房の葡萄」の喩えを借りて言うならば、盗みをした生徒が「反省している」と言った舌も乾かぬうちに、別の機会には「みんなに怒られたから絵具はもう盗まないけれど、アメリカ人だけが綺麗な絵具を持っているのが悪いんだ」と言うに等しいことを日本政府がしているからだ。それでは、さすがに優しい先生も「あなた、本当に反省しているのですか?」と問い質したくなるにちがいない。つまり、「先の戦争では大変なご迷惑をおかけした」と言った舌の乾かぬうちに、よりによってA級戦犯が祀られている靖国神社に平然と(どころか、大威張りで)大臣たちが参拝し、実質的国定教科書からは従軍慰安婦や南京虐殺の記述が削除されていくとしたら、そして少なからずの日本人がそんな政治家や教科書を支持しているとしたら、「本当に反省しているんですか?」と問い質したくなるのも仕方あるまい。要するに、昨今の日本に蔓延り始めた歴史修正主義に対する反発こそが韓国側の不満の本体のはずだ。

 だとしたら、日本のマスコミが今すぐにすべきことは、愚生が以上に記したようなことをもっと正確かつ的確に周知し、日本と韓国の間に横たわっているわだかまりの正体を双方に向けて明らかにすることだろう。明らかに両政府は歴史をそれぞれに歪曲している。両国のネトウヨ、偏った愛国者たちはそれぞれに教育の犠牲者でもあるだろう。両国政府が歴史を好きなように利用している仕組みを明らかにできたとして、それで何かが好転するかどうかは知らないが、今のままでは少なからずの日本人、少なからずの韓国人が、ほとんど狂人のように喚き合い、本来なら良識のあるはずの人たちも心底ウンザリして、「どうぞ勝手に」という気分になり、結局は両国の国粋主義者、歴史修正主義者が濡れ手に粟ということになりかねない。(H.H.)
 
ゴヤ.png
(ゴヤ:理性の眠りは怪物を生む)
posted by 冬の夢 at 02:06 | Comment(2) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは。たまにブログ拝見しております。
私が日本のマスコミにして欲しいと思うのは、『平和の少女像』を正しく解釈できるように作者の声を届けるということです。この作品を正しく解釈することはとても重要なことだと思っています。
小鳥を肩に乗せ、ぎゅっと手を握り、静かに座る一人の少女を見て、反日の象徴であるという先入観から「不快」や「ヘイト」という言葉を発している人をみると腹が立ちます!
日韓の問題と考える前に、あの少女の像を見て、一人一人の少女や女性の苦しみや悲しみに対して、なぜ祈ることができないのか、と思ってしまいます。
像の支援団体の人たちが『平和の少女像』をどのように解釈し、あのような行動をとっているのかわかりませんが、
過去に『雨ニモマケズ』が戦争遂行の思想宣伝として使われたのと同じような扱い方なのではと感じます。
Posted by ひの at 2019年08月19日 00:26
ひのさま
アホみたいに長い拙文を読んでいただき恐縮してます。ありがとうございました。ちょうど1年ほど前にも慰安婦と慰安婦像については似たような主旨の下で言及してました(http://winterdream.seesaa.net/article/452731952.html?seesaa_related=category)。慰安婦だった人たちが「政治問題」化され、「政治利用」されることに対しても複雑な気分になりますが、苟も一つの芸術作品がプロパガンダとして使われ、もはやプロパガンダとしか認知されないというのは、「慰安婦問題」とは少し離れますが、やはり悲惨な話だと思います。結果的に一つの作品が殺されてしまったわけですから。
Posted by H.H. at 2019年08月21日 01:53
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