2019年04月02日

新元号と浪曼派のこと

 四月一日、二日に共同通信社が行った電話世論調査によれば、新元号に「好感が持てる」人が七割以上だった。
 また、万葉集、つまり日本の古典が典拠となったことを「評価する」人は、八割を超えた。
 できる限り調べたが、調査数はわからない。元号は今回の改元まで漢籍からとられてきたと説明した上での質問かどうかも、わからなかった。

 テレビも新聞もない暮らしが、もう長いので、改元をめぐるニュースは何も知らなかった。感想は、ああ、そう決まったんですか、という程度だ。どのような経緯で決まったかなどにも興味がなかった。

 このところ家庭の事情で公的書類の手続きがとても多く、いやおうなく「平成」を繰り返し書いてきた。
 おかげで「え〜と今年って平成なん年だっけ」と言わなくなり、つぎの手続きから新元号を書くんだなと、まるで抵抗感がない。
 それをいうなら、近年すっかり天皇ファンになってしまってもいた。いまの世の中、まともなことを言っているのは天皇だけじゃないか、という気がして。
 だから、新元号がこう決まったと知っての反応は、「わかりました」につきる。皇太子と同じだ。ニコヤカな顏まではしていないけれど。

 ただ、大ニュースが一段落した──本当の盛り上がりは、これからなのかな──きょう、あらためて新聞のニュースサイトなどを見ているうちに、なんだか不安な気持ちになってきた。

 まったくの偶然だが、ここ数日、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』(一九六〇)を読んでいたせいかもしれない。
 安倍晋三が、元号の典拠は国書がいいという「お言葉」を周囲に発していたとか、「万葉集」が「ブームになるのではないか」といったとかいう話を知ると、その安倍が例のごとく誇らしげにいう日本の「次の時代」や「明日への希望」は、新元号からは連想できなくなり、亡霊というか地縛霊のようなものがうごめくところが思い浮かんでしかたなくなった。

『日本浪曼主義批判序説』は、学生時代に読むことを課されたが挫折していた。正直いって今回もスイスイ理解はできていない。だいいち、かんじんの保田與重郎からして歯がたたず、今回も参照すらしていないから、大きなことはいえない。
 しかし、「耽美的パトリオティズムの系譜」と副題されたこの本で橋川が、かつて日本浪曼派に「かなり容易にいかれ」たこと、そして「私たちの失われた根柢に対する熱烈な郷愁をかきたてた存在であった」ことを、自己批判も含めて書いたうえで、「わが国の精神風土において、『美』がいかにも不思議な、むしろ越権的な役割をさえ果してきたことは、少しく日本の思想史の内面に眼をそそぐならば、誰しも明かにみてとることのできる事実である」とし、「保田においてもまた、『歴史』の追究と『美の擁護』とは同じ意味をもっていた。端的にいうならば、郷土大和の風土と伝承に対する耽美的愛着の同心円的拡大がかれの『歴史意識』にほかならなかったのであり、(略)このような精神構造において、ある政治的現実の形成は、それが形成されおわった瞬間に、そのまま永遠の過去として、歴史として美化されることになる。」と書いているのを読んだあとで、安倍晋三の自信たっぷりなこの宣言をみると、「わかりました」という感想ですませることはできなくなった。
 
 元号は、皇室の長い伝統と、国家の安泰と、国民の幸福への深い願いとともに、1400年近くに渡る我が国の歴史を紡いできました。日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものとなっています。
 
 戦前回帰だとか、ファシズムの胚胎だとか、そういうことをいいたいのではない。
 令(よい)と和(おだやか)の組み合せで新元号ができましたが、いい感じですよね、だけでいいじゃないか、よけいな「耽美的愛着の同心円的拡大」をくっつけ、美化された「歴史意識」を捏造しないでください、それだけを、お願いしたいのだ。
 
 皇太子と同世代のわたしが、つぎの改元まで生きているかどうかは不明だけれど、そのときは、新元号をこんなふうに決めてほしい。
 縁起のいい漢字をいろいろ選んでおいて、お年玉つき年賀はがきの当選番号抽選会みたいに、ふたつのルーレットに書いておく。
 回してドン! あ、「令」と「和」ですね! と。(ケ)

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『日本浪曼派批判序説』橋川文三・講談社文芸文庫・一九九八
※首相官邸HPに会見広報がある。
 www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2019/0401singengou.html



 
posted by 冬の夢 at 23:29 | Comment(1) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
実際のところ、昨今の元号騒ぎからは出来る限り身を遠ざけておきたいのだけれど、どうしても一言だけ書き残しておきたい:元号という制度そのものが中国からの借り物なのに今回は史上初めて万葉集という和書に典拠を求めたことを「国粋化」と非難する声があるそうだ。その言い分には一理も二理もあるけれど、それよりも遙かに深刻なことは、今の日本には中国の古典を隅から隅まで熟知しているようなインテリがいないってことです。つまり、本家中国から揶揄されるのが怖くて、中国の古典なんぞには死んでも手が伸びないわけですよ。こうした深刻な文化的後退を誰も明確に指摘しないってことが情けなさに輪をかける。

平成のときは
たまたま外国に住んでいたせいで
いきなりおならをしろと言われたような
とても間の抜けた感じがした
今度の令和はもうええわと
ひどく投げやりな気分にさせられる
この言葉がいいと感じる人たちは
いったい何をいいと思っているのだろうか
彼らは濁音と破裂音さえなければ
実は何でも良かったのだろう
当然だ
ただの元号なんだから

Posted by H.H. at 2019年04月03日 22:00
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