2018年11月13日

『海底軍艦』 〜 東宝特撮映画の中でも抜群の出来栄え!

日本映画専門チャンネルで連続放映されていた「東宝特撮王国」。ワールドワイドに特撮の古典となった『ゴジラ』の後、東宝は怪獣映画だけではなく、特撮SF作品を連続して平行投入した。あえて「怪獣もの」と「特撮もの」のジャンル分けをすると1960年代までの公開年次別には以下のような打順になる。

【怪獣もの】
昭和29年 ゴジラ
昭和30年 ゴジラの逆襲
昭和31年 空の大怪獣ラドン
昭和33年 大怪獣バラン
昭和36年 モスラ
昭和37年 キングコング対ゴジラ
昭和39年 モスラ対ゴジラ
昭和39年 三大怪獣地球最大の決戦
昭和40年 怪獣大戦争
昭和41年 南海の大決闘
昭和43年 怪獣総進撃
昭和44年 オール怪獣総進撃

【特撮もの】
昭和29年 透明人間
昭和32年 地球防衛軍
昭和33年 美女と液体人間
昭和34年 宇宙大戦争
昭和35年 ガス人間第一号
昭和37年 妖星ゴラス
昭和38年 マタンゴ
昭和38年 海底軍艦
昭和39年 宇宙大怪獣ドゴラ
昭和40年 フランケンシュタイン対地底怪獣
昭和41年 サンダ対ガイラ
昭和42年 キングコングの逆襲
昭和44年 緯度0大作戦

何をもってして「怪獣もの」と「特撮もの」を分けるのかという線引きの議論はあるにしても、「怪獣もの」とはゴジラを始祖とする恐竜的外見をもつ巨大生物が登場する一連の特撮活劇を指し、そこに入らないものはひとまとめに「特撮もの」とするのが妥当のような気がする。サンダやガイラは怪獣と呼ぶよりは「巨人」なのであるし、ドゴラは怪獣ではなく宇宙上の怪現象に等しい。いずれにせよ「怪獣もの」は「対決もの」という新ジャンルに移行することによって、平成の時代をも生き抜くことになった。かたや「特撮もの」は円谷英二という稀代の特殊撮影エンジニアの死とともに日本映画のジャンルから消え去っていくのである。
しかしながら、最も驚くべきは、この壮観たる作品群がひとつの例外もなくすべて本多猪四郎の監督作品であるということ。『ゴジラ』公開以降の十五年で日本の映画興行は奈落の底に落ちていくものの、週替わりで新作を二本立てで公開するプログラムは不変だった。その番組編成の中で「怪獣もの」「特撮もの」という、劇場映画においてはやや本流から外れた作品を、本多猪四郎はひたすらこつこつと作り続けていった。その点においては本多猪四郎も映画職人のひとりであった。素材にこだわってなかなか料理を出さないのが黒澤明なら、どんな素材でもちゃっちゃと料理してしまうのが本多猪四郎だ。晩年の黒澤が、助監督に本多を指名し続けたのは、どんな仕事も厭わずにこなす「早い安いうまい」の映画職人の腕を見込んでのことだったろう。

そんなわけで日本映画専門チャンネル「東宝特撮王国」では主に「特撮もの」が放映されていて、何本か続けて見ることになったのだが、その感想は「面白いんだけどつまらない」というのが正直なところだった。
着眼点は面白い。人間がガスになってどこにでも移動できるとか、ナチスドイツが発明した死なない兵士が現代に蘇生するとか、巨大彗星が地球に激突する軌道をとるとか、発想の豊かさと枠の打ち破り方は見事なものである。それを映像として表現する特殊技術はさらに面白い。おなじみのミニチュアセットに逆回転撮影やマット合成などを加えた手作り感満載の画面には、アナログであるがゆえの様々なほころびがある。デジタルのようなゼロイチの完璧さでないところが、特殊技術班の奮戦ぶりを伝えていて、見ていて嬉しくなってくる。
ところが、映画の土台である脚本。これが滅茶苦茶につまらない。科学技術面での設定が先行しているためにストーリー運びに無理があるし、ギャング団などの必然性のない登場人物が出てきて無駄が多い。物語の軸となる主要人物たちの行動にムラがあり、感情移入がしにくい。よってストーリーとキャラクターが噛み合わず、エモーションに動きが出ない。これでは物語にならないし、ひたすら特撮場面が出てくるのを待つだけでは、見ていること自体が辛くなってくる。
これは本多猪四郎の失敗というよりは、脚本家たちの技量不足が原因だ(※1)。脚本が悪い映画は料理人の腕がどんなによくても旨くはならない。わざわざ傍流の現場に出向いてきた俳優たちも、一貫性のない人物を演じさせられては精彩を欠くのも仕方ないところだ。たまにハリウッド女優かと見紛うばかりの女優に出会ったりする意外な愉しみ(※2)がなければ、録画再生で見ている気軽さから早々に停止ボタンを押していただろう。

そうした中で、これもつまらないんだろうなと思いつつ見始めた『海底軍艦』。なんとこれだけは「面白くて面白い」作品であった。

海底軍艦.jpg

土木技術者が失踪する事件が相次ぐ東京。海運会社の重役で元海軍少将の楠見も秘書とともに誘拐未遂に合う。彼らをさらおうとしたのはムー帝国の使者。かつて全世界を征服していた彼らは大陸が海に沈んだ後も地熱発電技術でエネルギーを得て太平洋の海底に巨大な帝国を築いていた。ムー帝国は世界各国にかつての自分たちの支配地を取り戻すことを宣言すると同時に「海底軍艦」の建造中止を宣告する。実は楠見の海軍時代の部下であった神宮司が太平洋戦争末期に日本軍を離脱して独自に新造艦「轟天号」を建造していたのだ。そして楠見の秘書真琴は神宮司のひとり娘で、神宮司が楠見に託したのだった。完成した「轟天号」は日本のためにしか使わせないと協力を拒否する神宮司であったが、ムー帝国に連れ去られた真琴を救出するために出撃を決意する。ムー帝国の攻撃でニューヨークや東京が壊滅の危機に瀕する中、「轟天号」がムー帝国の生命線である地熱発電装置を粉砕する。太平洋に火柱を上げながら消え去るムー帝国を楠見と神宮司は見つめるのだった。

というあらすじを一気書き出来るくらいに、『海底軍艦』はストーリーのプロットに芯がある。そしてそこに絡む登場人物たちにはそれぞれの心情がある。それに従った行動が素直で自然なので、荒唐無稽な設定であるにもかかわらず物語が流れをつかむ。登場人物ごとの流れは「轟天号」出撃に向かってひとつにまとまり、クライマックスに向かって奔流となって行く。他の「特撮もの」とは比べものにならないくらいに力強いストーリー運びが『海底軍艦』を支えている。
ストーリーが良いとキャラクターも生き生きしてくる。実質的な主人公は、楠見と神宮司。海軍時代の上司と部下であって、これを演じる上原謙と田崎潤が最高にカッコいい。二人とも「怪獣もの」にも「特撮もの」にも博士役や大臣役などでよく出てくるのであるが、どれも俳優としての格に合致しないちょい役でしかなかった。やっぱりきちんとした人物を演じさせると、基本がしっかりしている人たちだけに存在感が違う。軍人としてのリアリティがあるし、二人にしか通じない機微みたいな繊細さが画面に出ている。特に上原謙は、同時期に「若大将シリーズ」の常連として出演していたのを見慣れていただけに、これほど威厳のある上官役が似合うとは想像もしなかった。本作を骨太に仕上げた中心人物である。
トップビリングされていて本来は主役であったはずの高島忠夫と藤木悠は、上原・田崎の両御大の前では脇役に甘んじるしかない。けれど『キングコング対ゴジラ』のコンビをそのまま持ってきただけあって、開巻からすぐに絶妙な掛け合いとナチュラルな台詞回しで観る者を魅了する。「特撮もの」でこんなに自然で普通感のある演技を見られるとは思っていなかった。それくらいに高島忠夫と藤木悠の二人は肩の力が抜けている。なんでも当時は私生活においても親友同士だったと言うから、当たり前のコンビネーションだったのだろう。

そうした役者たちの充実ぶりの一方で、『海底軍艦』のタイトル通り、それなしでは語れない最重要キャラが「轟天号」だ。軍艦でありながら潜水艦でもあり、ジェット噴射によって中空を飛ぶ爆撃機にもなるオールマイティな巨大兵器。さらには艦首に装備された鋼鉄製ドリルを回転させて、海底を掘削して地中奥深くまで潜入することが可能。ドリル先端には、照射された物体を凍結させて戦力を奪う冷線砲を装備。地上最強、いや海底も含めて史上最強の究極兵器なのである。
そして素晴らしいのが「轟天号」のメカニックデザイン。流線型の造形美はもちろんのことディテールも凝っている。艦底部の前後左右には先端のドリルと連動する回転ノコギリが設置され、海底を掘削しながら艦体を前進させる動力となる。艦尾には掘り出した土砂を排出するための噴出口。突起物として邪魔になる艦橋部や尾翼は胴体に収納する仕掛けだ。細部に工夫を凝らしながらも外観はシンプルそのもので、ミリタリーグレーと赤に塗り分けられて鈍く光る船体が力強さを表現している。
多機能兵器であるとともに完璧な造形美を持つ「轟天号」が飛行し、着水し、潜水する雄姿を円谷組の特撮プロフェッショナルたちが映像として作り込む。「特撮もの」を見ながら思わず「おおー、カッコイイ!」と呟いてしまったのは初めてのことだ。

「轟天号」をデザインしたのは小松崎茂(※3)。「特撮もの」では『地球防衛軍』や『宇宙大戦争』でもコンセプトデザインを担当している。特に『宇宙大戦争』に登場する「スピップ号」のメカニックデザインはかなり秀逸であって、『サンダーバード』を世に送り出したジェリー・アンダーソンのクリエイティブを凌駕する出来栄えだ。『サンダーバード』がイギリスで製作・放映されたのは1965年(昭和40年)だから、小松崎茂の仕事はヨーロッパの一線級のクリエイターたちに強い影響を与えていたに違いない。
しかし、合縁奇縁と言うべきか、不思議なもので我々の多くは小松崎茂のことを小松崎本人だとは知らずに『サンダーバード』を通じて擦り込みされた世代なのだ。そう。言うに及ばず『サンダーバード』のプラモデルのパッケージデザイン。それこそが小松崎茂の手によって描かれた、商品価値を数倍に高めるようなイラストレーションだったのである。

今でも思い出に残っているのは、小学校に上がるか上がらないかの頃のクリスマス。和室に敷いた布団の傍らにいつも翌日の着替えが用意されていたのだが、クリスマスの朝、その着替えの間にはずっと欲しかったサンダーバード2号のプラモデルが箱に入ったまま置かれてあった。もちろん寝ている間に両親がそっと忍び込ませてくれたわけで、他愛のないプレゼントの渡し方だったけれど、子どもにとってはまさに夢のような出来事であった。自分では部品を接着剤を使って組み立てることは出来なかったので、父親がひとりで慣れないプラモ作りをやっていた姿が今でも脳裏に焼き付いている。それほどに出来上がるのが待ち遠しかった。そして、子どもたちをそんな興奮状態に掻き立てたのが、小松崎茂によるイラストだったのだ。
サンダーバード2.jpg
『サンダーバード』のようなTV映画のメカニックを描く一方で、小松崎が主業とするプラモデルの箱絵は、戦車であり戦闘機であり戦艦であった。販売に苦戦していた田宮模型の社長が無理を承知で小松崎茂に箱絵を依頼したところ、小松崎が快諾。そこからプラモデルメーカーとしてのタミヤの歴史が動き出したというのは有名な話だ。
そんな小松崎がデザインした「轟天号」は、『海底軍艦』以降も微修正を加えながら様々な映画作品に取り上げられて行く。TVドラマに登場した「マイティジャック」(※4)もある意味で「轟天号」の後継機と呼べるだろう。もっとも両機を並べると、翼や艦橋がやたらと目立って全体バランスを醜くしているマイティジャックに比べると、「轟天号」のシンプルかつゴージャスな佇まいがさらに目を惹くのであるが。

映画は「轟天号」の大活躍によってムー帝国が滅び去り、世界に平和が戻ってくるところで終幕となる。しかしムー帝国の最期を見届ける楠見や神宮司たちの表情は一様に暗く翳りを帯びている。
世界の平和とは何なのか。それは侵略者を滅ぼすことなのか。ムー帝国の皇帝は言う。かつて世界はムー帝国が支配していたのだ。だから我々がいない間にその世界を乗っ取ったお前たちを追い出し、我々の手に世界を取り戻すのだ、と。
『海底軍艦』は「特撮もの」として突出した完成度を持つ傑作である。同時に「共有」ではなく「略奪」を続ける人びとを俯瞰して見下ろすニヒリズムも持っている。ゴジラが出てくる『怪獣総進撃』の併映作品として再上映されたという記録があるから、たぶん子どもの頃に一度は見ているはずだ。記憶にまったく残っていないのは、そうした虚無的な視点が子どもにとってはあまりに苦過ぎたからか。いやいや。ただ単にゴジラを見に行きたいだけで『怪獣総進撃』を見終わった後は、映画館で眠りこけていたのだろう。(き)

轟天号.jpg


(※1)『海底軍艦』の脚本家は関沢新一。『大怪獣バラン』以降、数多くの「怪獣もの」「特撮もの」の脚本を書いている。よって一概に「脚本家たちの技量不足」と言い切るのは的外れであるかも知れない。

(※2)『美女と液体人間』の白川由美。強烈な美貌とスタイル。クラブで歌う姿が艶めかしい。

(※3)小松崎茂(1915〜2001)の作品を展示する常設館は現在では存在しないようだ。

(※4)『マイティジャック』は1968年(昭和43年)に放映されたTV特撮ドラマ。隊長を二谷英明が演じる一方で、主役である源田隊員に二瓶正也をあてたのはいかにもミスキャストだった。冨田勲作曲の主題歌は、TVドラマ史上に残る名曲だと思う。




posted by 冬の夢 at 01:03 | Comment(0) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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