2018年09月03日

哲学という徘徊

 ちょっと気になることがあり、かれこれ30年以上前に手にした本(というか、正確には小文)を再読してみた。クワイン(Willard V. Quine; 1908-2000)という哲学者・論理学者の、主に言葉の同義性に関する"The Problem of Meaning in Linguisitics"という論考だ。期待していたような、こちらにとって都合の良い「解答」は得られなかったのだが、何とも難しい文章と格闘しながら、「哲学は徘徊だ」とあらためてしみじみと感じた次第。

 「あらためて」という言葉がこれ見よがしに示すように、哲学という奇妙な日本語が示すものの実体が一種の精神的徘徊であるということについては、従来からもしばしば思い巡らしていた。

 最初にそう思ったのは、哲学者の始祖ともいえるソクラテスを知ったときだ。ソクラテス自身は何も書き残していないので、現在知られているソクラテスというのは、その弟子筋に当たるプラトンが描き出したソクラテスのことである。単なる一読者の身では、そのソクラテスが史実・事実として存在したソクラテスその人をある程度正確に反映したものなのか、それとも相当にフィクション化されたものなのかを判断することは到底無理な話だが、この区別が大きな意味を持つとは思われない。ソクラテスはソクラテスであり、それで十分だろう。で、プラトンが描くこのソクラテス、ある人の言葉を借りれば、「嫌味な徘徊老人ですよ、これは」ということになる。

 ソクラテスは定職を持たない。つまり、現代でいえばフリーターだ。妻子はいたはずなのに、いったいどうやってその家族を養っていたものやら。彼が定職を持たなかった理由は、もちろん哲学者であり続けるため、哲学者に徹するためだ。「哲学者」、彼の言葉で言えば、「知を愛する者」というわけで、彼はただ一途に、いささか狂気にも似た情熱で「知」を愛する。一途であるからには、もちろん他の一切は目に入らない。そんなことをすれば、それは浮気であり、愛する対象である知に対して不義理を働くことになってしまう。だから、家族も放り出し、仕事もせず、年がら年中知を追い求める。彼に言わせると、ソフィスト(一種の先生業)のように、知識を売ってお金を手に入れることほど「知」を侮辱する行為はないらしい。それは、あたかも「愛」を売ってお金を得る例の職業を想起させるわけだ。

 定職にもつかない彼が具体的に何をしていたかというと、往来で当時の知識人や識者をつかまえ、「ぜひ教えて下さい」という低姿勢を保ちつつ、したがって相手に向かって「それはつまりはこういうことですか?」といった体裁の質問を繰り返す振り(あえて「振り」という)をして、次第にその知識人の無知を暴き出す。ソクラテスが嫌味なのは、相手の完全な無知を情け容赦なく暴き出しておきながら(彼につかまった知識人は公衆の面前、往来やパーティー会場などで面目を粉々に潰される)、「自分は何も知らない愚かな老人なんですけどね」と嘯くところだ。

 この「嫌味な徘徊老人」が行う議論を読むと、彼がいかにもチクリチクリと、少しずつ確実に議論相手を追い込んでいく様が読み取れる。慌てず急がず、どんな阿呆にもわかるように、極めてゆっくりとした歩みで、素朴な質問を通して相手の議論の穴や矛盾を指摘し、逐一修正を加えていく(これがかの有名な「問答法」であり、後に「弁証法」というおどろおどろしい名前で呼ばれるものの核心だ)。このゆっくりとした、素朴な質問の繰り返し。それがそのまま徘徊に似ている。おそらく、ソクラテスという人は、アテネという街のあちこちを徘徊しつつ、頭の中では「しかし、そもそも『正しい』とはどういうことなのか?」とか「はたして、『分かる』ということを分かることがありえるのだろうか?」とか、常人ならば当然と思い込んで当然の物事に対してことごとく疑いの眼差しを向けていたのだろう。そして、その徘徊のリズムがそのまま彼の議論のリズムになっている。彼は自分の議論を決して急がない。慌てるソクラテス、そんな姿を想像することは絶対にできない。彼は自分の死、冤罪による死刑宣告に対してさえも慌てることはなかった。
 
 哲学が知的徘徊であることを教えてくれた次なる師匠は、ウラディミール・ジャンケレヴィッチというフランスの20世紀の哲学者だ。名前が示すようにフランスとはいっても、両親はロシア人で、ユダヤ系でもあり、そのせいでナチスに占領されたフランスでは教職から追放され、レジスタンスにも参加している。ジャンケレヴィッチに惹かれたきっかけは『仕事と日々・夢想と夜々――哲学的対話』(みすず書房、1982年)だ。彼のその他の本はかなり難しく感じられたのだが、この本は基本が「対話」ということもあり、彼の哲学の入門書としては最善なものだと思う。この本で彼の哲学とその人となりの魅力に触れたわけだが、続いて感心した(というか、かろうじて理解できたというべきか)のは、同じくみすず書房から出ていた『死』という著作だった。フランスでは1966年に出版されたらしいが、邦訳は1977年だ。ぼくは1995年くらいに読んだように記憶している。

 ジャンケレヴィッチが教えてくれたことは多々あるのだが、その中に「哲学とは徹底的に考えることだ」というものがある。誤解のないように急いで書き添えねばならないが、こんな言葉をジャンケレヴィッチご本人が残しているわけではない。彼の著作を読んでいて、ごく自然にこちらがそのように受け取ったということだ。ソクラテスが素朴な(素朴を装った)質問を繰り返しつつ議論を進めるのに対し、ジャンケレヴィッチの議論は、まるで音楽の動機や主題が少しずつ姿を変えながら何度も何度も繰り返し現れるように、そして、繰り返し現れながら変化を続け、最後にはコーダに進むように、「同じ主題を執拗に何度も繰り返す」ことを通して結論を導いてくる。実際に、彼の『死』という分厚い本を読んだとき、普段は遠巻きにしている日本語訳で読んだにもかかわらず、最後まで読み終わったときには、まるでベートーヴェンの後期のピアノソナタか、あるいはブラームスの交響曲を聴いたような、正に音楽的といっても過言ではない類の感動を覚えたものだ。上手く伝わるかどうか不明だが、死という暗いテーマを扱い、「死とは何か」という問いを追求する中で、繰り返されるのは「死をあらかじめ知ることは決してできない」「死は予兆もなくやってくる」「死はあらゆる点で暗黒だ」、云々といった、やはり何とも重苦しいモチーフだ。ところが、後になってみれば当然なのだが、死のあるところにはそれに先行して必ず生がある。『死』という著作の中で、もしも「死」が音楽でいう第一主題であるなら、「生」は第二主題だ。そして、クラシック音楽作品にもしばしばあることだが、実は第一主題よりも第二主題の方が大事だということが次第に明らかにされ、コーダ(結論)では、「死は『生きた』ということを無効にはできない」という、まるで「生の勝利」(死よ、驕るなかれ。死に際して、実はお前が死んだのだ)が高らかに鳴り響くことになる。本当に『死』はぼくにとっても非常に不思議な読書体験だった。

 この読書体験を通じてジャンケレヴィッチの執拗な繰り返し(簡単にいえば、滅茶苦茶にくどい!)が、それ相応の意味と効果を持っていることをしみじみと実感できた。それほどの徹底的な執拗さが彼の哲学には必要だったのだろう。「何かについて考えるならば、徹底的に考えなければならない」というわけだ。そして、「徹底的に考える」ためには、ソクラテスの「嫌味な質問」と同じで、やはり決して急いではならない。常に歩くスピードを維持し、誰かと競争しているわけではないのだから、走るのは禁物。自動車や飛行機を利用するなんて論外も論外、ありえない。つまり、哲学のスピードは散歩、徘徊のスピードだ。そして、傍から見れば「あいつ、いつも同じ所をぐるぐる廻っている」と揶揄されても仕方ないほどに、毎度決まった道を辿っていく。けれども、毎度決まった道を進むにもかかわらず、同じ一日が決してありえないように、毎日の散歩は実はそれぞれに異なっている。目に映る光景は一歩ごとに変化していく。思考をすすめるごとに、読者の立場で言うならば、ページを捲るごとに新しい景色が視界に入ってくる。再びソクラテスの言を借りるならば、「哲学(思考)は驚きに始まる」らしいが、新しい景色は厳密に言えば、常に驚きに満ちている。曲がり角を曲がるたびに驚きと発見がある。馴染みのお店だろうが、初めてのお店だろうが、中に入ってみると、思いもよらぬ拾いものに出会すこともある。そんなことはなくても、その代わりに、通りの向こうに思わず振り返りたくなるような美人を見かけるかもしれない。先日は(といっても随分と前だが)夕方の明るい空に火球と言われる、極めて明るい流れ星を見た。これこそ散歩・徘徊の楽しみだ。見慣れた場所の再発見。見慣れた場所での不意の出会い。哲学(思考)の楽しみもこれと極めて似ている。一見無駄なことに喜々として取り組む点も酷似している。もちろん、急いではいけない点も。

 クワインの言語哲学は、正直よくわからない。しかし、徘徊はいつも「とても楽しい」とは限らない。何となくブラブラほっつき歩いて、帰ってみれば徒労に終わったような気分になることも少なくはない。しかし、あらためて考えてみるまでもなく、そもそも徘徊には何の目的もなかったのだから、徒労に終わることなんて最初からありえない。やはり、哲学は徘徊に似ている。だからどうした、ということではあるけれど。 (H.H)

追記:ジャンケレヴィッチについては、このブログでも以前に何か書いたはずなのに、それが思い出せない。老化現象ですね……

posted by 冬の夢 at 07:07 | Comment(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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