2018年05月14日

アイデンティティという神話−−例えば性同一性障害に関連して−−

(ただでさえ長い文章なのに、実は大事なことを書き忘れていたので、2段落ばかり書き加えました。)

 アイデンティティ、あるいは同一性。
 手元にある国語辞典では「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し,自己を自己として確信する自我の統一をもっていること。自我同一性。主体性」とある。つまり、「自分は自分」、「これが自分だ」という自覚、自信、自意識ということだろう。だとすると、もう少し厳密に考えれば、これはそのまま自己認識の問題で、さらには認識一般の問題にも繋がることが明らかだ。したがって、「AとはBである」と認識し、断定することにつきまとう、認識論のありとあらゆる面倒な問題が関連してくるにちがいない。
 しかし、認識一般に関わる哲学的議論は横に置いて、話を自己同一性に限れば、このアイデンティティとか自己同一性とか言われるものが、まるで常識のように大手を振って大通りを闊歩するようになったのは、いったいいつの頃からだったろう。1970年代、それとも80年代……。これまたエリク・エリクソンが有名にした概念らしいから、あの「モラトリアム」と同時期に「流行」したのだろうか。確かに、モラトリアムは自己同一性を確立するまでの「猶予期間」とされているから、この二つの概念は相互に関連して考えるべきものだ。そして、人は誰もがそれなりのモラトリアムを経て、いつかは自己同一性というものを確立すべきであり、それに失敗すると大変な事態になる。この失敗、この重大事態はアイデンティティ・クライシスとか同一性拡散とか呼ばれ、「自分とは何者なのか? 私って誰?」という不安に苛まれることになる。いっそう深刻な病的状態になれば同一性障害と呼ばれ、多重人格症にまで関連するそうだ。

 つまり、確固としたアイデンティティ=自己同一性を持っていることが健全であり、同一性が揺らぐことは不健康かつ病的な状態であることが定説のようである。

 一方、近年はLGBTがようやく社会的なタブーではなくなりつつあり、性的少数派の人権が大っぴらに議論されるようになってきた。これは素直に慶賀すべき傾向だと思う。誰にでも最初から平等に付与されているものが「基本的人権」である限り、人権に例外があっていいはずはない。性的指向がホモかヘテロかによって社会的差別があることが容認される余地はない。

 しかし、問題は性同一性障害だ。その人の生物学的な性と、その人が自覚する性認識が一致しない状態。生物学的には男性なのに、どうしても自分のことを男性とは思えない。あるいは男性にはなりたくない。逆に、生物学的には女性なのに、自分のことを女性とは思えない、思いたくない。こういう人が相当な程度いるらしい。
 性同一性障害と同じように使われる言葉にトランスジェンダーという言葉がある。このケースに限らずこの種の類義語の使い分けに関しては、まるで中世の神学論争のような、外部者にはいったい何に拘っているのかさえ理解できないホットな論争があるらしいが、「障害」という否定的な響きのする言葉を避けようとする気持ちはよくわかるし、可能であれば避けた方が望ましいとも思う。が、だからといって、よくわからないカタカナ用語に置き換えるのも気持ち悪い。だからといって、何か良い提案があるわけではないけれども。

 どういうわけだか、性同一性障害を自覚している友人知己が多い。世の中には、「そんな友人は一人もいない」という人もいるだろうから、自分自身は普通に結婚して、普通に父親になっているのに、LGBTの友人知己が4人も5人も周囲にいるというのは、やはりちょっと珍しいのかもしれないと思う。いや、こんなことがちょっと気になるのは、実は最初に親しくなったゲイの友人から「最初に君に会ったとき、『あれ、ひょっとしたらこの人もゲイかな』と思ったんだ」と言われたことや、あるいは後に妻になる人から「ロンドンで男子トイレに入るときには、お願いだから周囲に気をつけてね。もしかしたら襲われてしまうかもしれないから」なんて言われたことがどこかで少し関係しているのかもしれない。
 が、それはともかくとして、いわゆるホモもヘテロもひっくるめて、性認識や性同一性に関しては常々気になっていることがあり、この気懸かりは結局のところはアイデンティティという神話に対する違和感と関連しているような気がしている。つまり、「ちょっと待て。性認識やアイデンティティって、ホントにそんなに安定して確固たるものなのか? 本来的に、実はもっと不安定、あるいは変動するものなのではないのか?」という疑いが払拭できないでいる。

けっこう気に入っている少年マンガに『天使な小生意気』(西森博之)というのがある。詳細は省くが、本来は女性だったはずの子供が、女友達を守りたい一心から「男に負けないくらい強くなりたい」と願い、また、色々と込み入った事情(?)から、「本当は男なのに呪いによって女にされてしまった」と思い込んでいるという設定になっている。つまり、生物学的にも外見も立派な女性なのに、本人の意識としては「オレは男だ」と思っているわけだ。そして、なまじっか容姿端麗で、性格も(極めて男性的ながらも)良いので、男たちから好意を寄せられる。その中の、もっとも男気がある男と仲良くなるが、それが果たして「男同士の友情」なのか「男女の仲」なのか、段々と本人もわからなくなってくる。基本はラブコメディーなので、特に深刻な話でも何でもないのだが、主人公は「男に戻った方がいいのか、それとも、このまま女でいる方がいいのか?」と、ハムレット的な悩みに悩むことになる。「自分としては(本来の)男に戻りたいが、しかし、自分が男に戻ったら、女の自分に好意を寄せている自分の好きな男が悲しむのではないか」と。そのときの、彼女に想いを寄せる男の態度がいい:「男に戻ってもメグ(彼女の名前)はメグだ」。そして、この言葉は彼女を大いに励ますことになる。

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(天使な小生意気)

 もう一つ、これは最近たまたま目にした女性(少女?)マンガだったが、『彼女になる日』(小椋アカネ)という作品もトランスジェンダーに関連するものだった。幼い頃からの親友(男)がある日一種の病的変化で女性になってしまう(これは作品の中ではSF仕立てになっている)。そして、次第にかつての親友同士は恋仲になり、結婚する。その過程で、以前は男性であった彼女との関わり方に悩む男性の姿(この男性は極度の女嫌いと設定されている)や、自分自身が女性化したことは比較的簡単に受け入れることができた女性が、しかしかつての友人の気持ちを思い測りながら、かつての親友に愛されることに戸惑い、躊躇する様子も描かれている。が、特に注目したいのは、この作品でも「お前が男で女でもいいから、もう一度会いたい」というような台詞があったことだ。

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(彼女になる日)

 以上の作品を知らない人にはなかなか伝わらないとは承知しているが、何が言いたいのかというと、いずれの作品でも「お前が男で女でもどっちでもいいんだ」という意味の述懐があり、性別はその人間が持っている属性の一つにしか過ぎないことが確言されているということ。そしてそれが大きな感動を呼ぶ。この場合、注目すべきは、性別は一種のコンプレックスとして機能している。つまり、「お前が男でも女でもオレはお前が好きだ」という告白は、「お前が貧乏でも金持ちでも」とか「お前に障害があろうとなかろうと」とか「お前の背が高かろうと低かろうと」とか、ともかくその類の台詞と同じ働きをしている。もう一度言い直せば、ということは、「お前が男でも女でも」と言うことは、「お前がお前である限りは」と言うことと同じであり、したがって、実はお前の性別はお前の本質的アイデンティティとはそれほど関係ないということになる。
 その人間の有する資産とか容姿、障害、国籍、等々は、確かにその人間の属性であるが、この中のどれを取り出しても、その人間を決定する機能は持っていない。おそらくその理由は、金持ちもいつかは資産を失うかもしれず、貧乏人もあるとき宝くじに当たるかもしれないように、日本人も結婚してイギリス人になるかもしれず、イギリス人も日本に帰化するかもしれないように、障害があるとき画期的手術や補助器具の開発によって障害でなくなるかもしれず、また誰もがあるとき事故や病気によって大きな障害に見舞われることがあるように、変わりうるからなのかもしれない。だとしたら、ある意味では当然であるが、個人の属性というのは変化し続けるものである。(この意味で、あまりに強い帰属意識は、その対象が国家、会社、家族、何であろうとも、かなり倒錯的なものだと思われる。)だとしたら、複数の属性が微妙に関連し合って形成される自我意識、自己意識というのも、変化し続けるのが当然だ。つまり、自我同一性というのは変動し続ける。「自分とは絶えず変化し続けるものだ」。これが「『ある』とは『成る』ことである」の、一つの意味であるに違いない。存在とは生成だ。
 
 そうであるなら、性同一性が変化し動揺し続けたとしても、別に不思議はないはずだ。男だと思っていたけれど、どうも居心地が悪い。試しに「自分はもしかしたら女性なのではないか? 本来は女性だったのに、いつの間にか無理して男性の振りをしていたのではないか?」と考えたら、意外にもそれが非常に心地よかった。それなら、いっそのこと、これからは女でいよう。こう思うことがあったとしても、そんなに奇妙なことではないような気がする。そして、その同じ人が、今度は別のときに、「しかし、女であることに対してもどうも変な気がしてきた。どうやら自分は『女っぽい男』だったのかもしれない」と思ったとしても、これまた別にそんなに奇妙なことではあるまい。自分の職業選択のことを思い浮かべれば、大なり小なり誰もが似たようなことを経験すると思う。これを「同一性障害」とか「同一性の危機」とかいうのはいかがなものか。
 
 今さらアイデンティティや同一性について思いを巡らす気になったのは、実は先日ネルソン・グッドマン(Nelson Goodman)というアメリカの哲学者のWays of Worldmakingという興味深い本に触発されたからでもある。この奇妙なタイトルを持つ本の中に “When is art?”という、ことさらに興味深い一章がある。ここでグッドマンは、「芸術とは何か?」と問うことにはあまり意味がなく、むしろ「いつ、どんな条件下で芸術になるのか?」と問うべきだと単純明快に説いている。つまり、一つの同じものがあるときには芸術作品になり、別のときには実用品あるいはゴミになる、と。茶碗や机などの工芸品を思い浮かべれば、それがあるときは芸術品として扱われ、別のあるときには実用品として扱われることは容易に理解できる。写真などもそうだろう。よくよく思い起こせば、建築もそうだ。そして、かつて浮世絵がゴミ扱いされたことも思い出すべきかもしれない。ともかく、芸術に不変の本質があるわけではなく、様々な条件が複雑に関与した結果として、たまたまあるものが芸術を体現していると見なされるというわけだ。
 グッドマンのこの考え方は性認識にも応用できないのだろうか?
 つまり、個人の性認識なんてものは、本来的に決まっているのではなく、様々な条件が複雑に関与した結果として、ある人は男になり、ある人は女になる。時と場合が変われば、当然性意識も変わる。男とは何か、女とは何か、ではなく、「いつ男として扱われるのか?」「いつ女になるのか?」と考えてはいけないのだろうか?
 
 性認識が重大視される背景には、言うまでもなく、その人間の生物学的性は生涯を通して不変だという事実認識が横たわっている。そこで、あらためて根本的な疑問を提出してみたい:生物学的に男性であるとか女性であるとかの「事実」は、個人の自己認識にとってそんなに重要なことですか? 例えば、自分がモンゴロイドであること、彼女がコーカシアンであること、こうしたこともある程度には「科学的」な事実である。が、この事実がどの程度に個人のアイデンティティ形成に寄与しているのかは、それこそ個人差なのではなかろうか。もう少し細かいことを例に取れば、身長が180cmであることや視力が0.03であることも、客観的かつ科学的な事実といえるだろう。しかし、これらの事実がアイデンティティにとってどの程度重要なのかは、これまたケース・バイ・ケースなのではないか。だとしたら、全く同じことが生物学的な性差にも言えるのではないか。

 あらためて思い返してみれば、ず〜っと昔、まだ髭も生え揃わない頃、大好きな女の子を前にして、「いっそのこと自分が女だったらどんなに良かっただろう」と思ったことがあった。「そしたら、きっとぼくと彼女はいつも離れずにいられて、無二の親友になれるだろう」と。「そして何よりも、男女の仲といった面倒なことを考えずにすむではないか」と。そのくせ、そんなありえないことを願いつつ、その女の子とエッチすることも願っていた。つまり、自分が男でもあり女でもあることを願っていたわけだ。両性具有の夢といってもいい。そして、その夢は、神話学や心理学の知見によれば、人類の深層心理の奥深いところに共通に存在しているらしい。ということは、ユングのアニマ・アニムスではないが、どんな個人もある程度には両性具有ということになる。

 実際のところ、誰にとってもアイデンティティなんてものがそんなに強固なものとは思われない。無数の属性がグチャグチャに絡まり合って、何となく形成されたような塊に過ぎず、見る角度、光の当たる角度によって微妙に見え方が変わる、そういう形のないものが個人のアイデンティティだと思う。考えてみればごく当然のことだが、今日の自分と明日の自分は厳密には別人だ。が、それにもかかわらず、同じ一人の人間でもある。そして、肝心なことは「それにもかかわらず」ということなのだろう。この「それにもかかわらず」という、ある種の強引な開き直り、それを可能にするのがアイデンティティというものの正体だ。が、そんな開き直りを可能にするためには、同時に「今日の自分と明日の自分は、当然ながら別人だ」という認識と覚悟も不可欠だろう。ということは、誰にとっても、ある日を境に「もう今日で男を辞めよう」とか「明日からは女を中断しよう」とか、そういうことが十二分に起こりえるわけで、性同一性なんてものが案外とフニャフニャしたものだと考えてみることも必要なのではなかろうか。LGBTがそれほど大騒ぎされないような、フニャフニャした社会の方がずっと好ましいような気がしてならない。 (H.H.)
 
Scan521.jpg
(これは特に本文には関係ない画像です……)


 
posted by 冬の夢 at 05:20 | Comment(0) | 日記 話題・意見・世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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