2018年03月27日

サッカー日本代表狂詩曲:素人の反逆

 一昔前の話だが、とある高校の若い先生が「芥川(龍之介)なんて何が凄いのか。大した作家でもないのに!」と豪語するのを聞いて、びっくりしたことがある。その先生は国語ではなく英語を教えていたのだが、そのこともあっていっそうびっくりした。と同時に、もちろんひどくウンザリもさせられた。英語の先生がいったいどんな資格で芥川龍之介を、かくも容赦なく一刀両断にできるのか。今もって不可解だ。当時、いや今も、ぼく自身にとっても芥川はそれほど好きな作家ではない。たまに読むと、「上手だな」とは思うし、独特な硬質の触感に惹かれもするが、それでも「好きな作家」ではない。しかし、その一方で、それは結局は自分自身が芥川の作品を十全に理解出来ていないからではないかと不安に思う。つまり、芥川の魅力が十分に理解出来ないのは、芥川の作品に魅力が足りないからではなく、読む側のこちらにそれだけの素養と能力がないからではないのか、と。

 時を前後して、西洋美術史の古典的入門書であるE.H.ゴンブリッチの『美術の物語』(The Story of Artという原題のtheが凄いと、あらためて思う)の序章に「分からない、好きではないと感じる作品に出会ったときには、その責任が画家にあるのではなく、むしろ自分の方にあるのではないかと考えた方がいい」という意味の、すばらしい助言を見つけた。また、ゴンブリッチは「ある作品を好きになる理由は何でもいい。でも、嫌いになるときにはよくよく注意しなければならない」という意味のことも言っていた。

 こうした態度が必要なのは何も美術作品や芸術作品に限らない。むしろ、現に生きている人間に接するときに、「分からない、好きではないと感じる人に出会ったときには、その責任がその人物にあるのではなく、むしろ自分の方にあるのではないかと考えた方がいい」という忠告は肝に銘じておくべきものだろう。
 
 ところが、昨今、とりわけインターネットが普及し始めるとともに、自分の気に入らないものへの批判が止まることなくエスカレートする傾向がある。日本中に上述の、芥川龍之介を二流作家扱いした阿呆な先生もどきが跋扈している。

 一例を示すならば、先日行われた日本代表とマリのサッカーの試合に対する世評。確かに退屈な試合だった。が、それにしても、代表チームの監督であるヴァヒド・ハリルホジッチに対する批判の下劣さには呆れ果てるしかない。批判するなというわけではない。しかし、例えば「ハリルホジッチには戦術がない」という批判は、二重にも三重にも不可解だ。先ず、そう批判する人たちは、いったいどれほどサッカーを熟知しているのだろうか? 一方に人生の大半をサッカーに費やし、その世界で相当の成果を上げた人がいる。他方に、学校時代にサッカーを少々たしなみ、サッカーシーズンともなれば贔屓のチームの旗を振り回し、あるいはビール片手に試合を見るか、いずれにしても、サッカーチームの監督は言うに及ばず、コーチさえもしたことはないが、それでもサッカーが好きな人たちがいる。言うまでもなく、この両者の間には専門的知見に関して大きな、決して架橋できない、決定的な隔たりがあると言って間違いない。一生の大半を音楽に費やした音楽家と、アホみたいに大量のCDを漫然と聴いているに過ぎない愚生の間に決定的な隔たりがあるのと同様だ。もしもこのH.H.が、あるとき不意に、例えば小澤征爾、あるいはギドン・クレーメルに向かって、「失礼ですが、あなたのモーツァルト理解は完全に間違っている」と言い始めたら、それはもはや狂気の沙汰だ。しかし、世のサッカーファンは、ハリルホジッチに対しては平気で「戦術がない」と言う。絶句するしかない。

 さらに奇妙なことに、実はこの愚生にさえ簡単に理解できるのだが、ハリルホジッチのサッカーには「明確な戦術が明瞭に認められる」。すでに彼の代名詞にさえなりつつある「デュアル」にもはっきりと刻印されているが、つまりは、「マークしている相手には絶対に負けるな」。ということは、相手がボールを持っているときは、「先ず自分がマークしている相手からボールを奪え」と。関連して、「パスを通させるな」。それは、パスの出し手である相手選手に対するマークを厳しくすること、さらにはパスの送り手の方にも厳しいマークをつけて、適宜「パスを奪え」ということになる。そして、いったんボールを奪ったら、「素早くゴール前までボールを運べ」と。どこかで聞いた覚えがあるが、「ゴールするには3本のパスで十分だ」と言っていたようにも思う。ともかく、タラタラとボールを回すのではなく、全ての動作がシュートに結びつくようにすることが求められている。簡単明瞭、何も難しいことはない。

 もちろんこれは典型的なカウンター戦法だろう。理想的には、相手チームにタラタラとボールを持たせたいはずだ。センターラインよりも後方でなら相手チームがいくらボールを保持していてもあまり怖くない(ロングボールに対応できるセンターバックは必要だけれども)。そして、相手が攻撃に出て来たときに、その攻撃の芽を摘み取り、一気に逆襲する。タラタラとボール回しをする相手からは機を見てさっさとボールを奪う。結果的に、自分たちの攻撃時間は、量的には少なくなるかもしれないが、問題は質だ。

 非常に単純明快な戦術だし、事実として彼は色々な機会に何度も同じことを言っていたような気がする。ところが、選手たちは何故かそれができない。日本のサッカー選手が下手なのかどうか。この点でかなり気になることは、いつからか日本人選手の長所は俊敏性(agility)と言われているが、この俊敏性が先日のマリ戦では全く見られなかった。PKを献上したときなどはその最たるもので、ボールを蹴るはずが相手の脚を蹴ってしまって、それで反則。これはまるでマンガのような例だが、しかし、より深刻なのは、選手たちの判断の遅さだ。ボールを持ったときに何をしたら良いのかが、どうやら彼らには分からないように感じられた。途方に暮れているといってもよいか。その間に相手の選手が一人二人と間合いを詰めてくるから、余計にパスが出せない。相手選手がいないところといえば、自陣の後方しかないので、結局はいつものバックパス。つまり、先日の試合の本当の問題点は、選手たちが一番大事なことをきちんと理解していないということに尽きる。一番大事なこと、それは「サッカーはゴールして点を取るゲームだ」ということ。そのためには最低でもゴール前にボールを運ぶか、ちょうど良いくらいの距離からシュートを放たなければならない。
 
 選手が監督の戦術を実行できないことと、監督が戦術を持っていないことは、言うまでもなく全く別物だ。しかるに、スポーツ・ジャーナリズムも含めて「監督解任」の話が消えることがない。これまた俄には信じられない、ほとんど狂気の沙汰の話だ。苟もワールドカップ予選をトップ通過した監督を解任する。いったいどういう頭を持つとそういう変な発想が湧くのか。

 ついでながら、別にハリルホジッチの肩を持つわけでもないのだが、どうやら少なからずの日本人が、実はフランス語嫌いなのではないかと思っている。つまり、ハリルホジッチに対する容赦ない批判は、実は日本語を母語とする人間がフランス語に対して感じる拒絶反応と関連しているような気がする。前任者のイタリア人監督と比べて、ハリルホジッチは明らかに人気がない。それは両者の人柄も関係しているかもしれないが、人柄といえば、ワールドカップ予選で原口という選手が試合中に決定的なミスをしてPKを献上し、結果的に勝てた(かもしれない)試合が引き分けに終わったとき、試合後にハリルホジッチ監督が原口に示したジェスチャーからは、彼がいかに人間味に溢れた人物であるかが容易に窺い知れた。だが、彼が激高したときに話すフランス語のトーン(これは彼個人の問題ではなく、早口で話されたときのフランス語の問題だ)や、いったいどこの誰が訳しているのか実は誰も知らない翻訳、こうした夾雑物を通して、人々は彼の人間像を勝手に作り出しているのではなかろうか。そして、下劣なスポーツ・ジャーナリスト……そのジャーナリズムを燃料に燃え上がるいっそう下劣な人々……今日(3月26日)もハリルホジッチが「今日の段階でコロンビアと戦えば、勝てる可能性はない。しかし、2ヶ月後の本番はわからない。W杯では何が起こっても不思議はない」と断言しているのに、「コロンビアを視察しお手上げ」と見出しを付ける。そして、この記事を読んで、「やる気がない」と騒ぐ阿呆ども。どこをどう読むと「やる気がない」という理解に結びつくのか。

 「例えば」と切り出して、サッカーの日本代表監督関連の話ばかりになってしまったが、これはあくまでも一例に過ぎない。おそらく、ネットが発達したおかげで、「専門家」と「素人」の敷居が低くなった、あるいは撤去されてしまったに違いない。それは大衆民主主義の一つの形態かもしれないが、それならばおよそ100年前にスペインの思想家オルテガ(ホセ・オルテガ・イ・ガセット)が警告した「大衆の反逆」がいよいよ完成形態へ近づきつつあるのかもしれない。つまり、「専門家」と「素人」が接近した結果、素人が向上するのではなく、専門家が似非専門家になって、素人のレベルにまで堕落し、つまりは素人が専門家として発言するようになる。スポーツ・ジャーナリズムの低劣さを横目で見ていると、つくづくそう思う。本当は何も知らないこと、何も理解していないことを蕩々と、偉そうに話す。しまいには「理解」という意味さえわからなくなってくる。批評したり批判したりするなら、せめてその対象についてもう少し知っていて欲しい。そして、いっそう大事なことは、そういった似非専門家の、したり顔のご高説に対して、人々はもっと皮肉な目を向けるべきだろう。 (H.H.)

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(落日=現在の日本の姿か?)
posted by 冬の夢 at 18:22 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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