2017年08月16日

みんなクソ嘘つきだ#2 敗戦の日に考える (長い!)

 言うまでもなく8月15日は「敗戦の日」だ。なぜか日本では久しく「終戦記念日」と言われ、まるで他所の国の出来事か、極めて中立的な表現にされている。が、この日を「敗戦の日」と認めなければ、実は何も始まらない。日本はボロクソに負けた。この事実を直視することから始めなければならない。それはいわゆる保守陣営にもリベラル陣営にも等しく当てはまる。
 中学生か高校生の頃から奇妙に思っていた。例えば、広島平和公園内にある原爆死没者慰霊碑に刻まれた「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という文言。いったいこれは誰が、どんな資格で話している言葉なのだろうか?「過ち」とは、具体的にはいったい何のことなのか? 原爆犠牲者に向かって「安らかに」というのは十分理解できる。だが、想定されている語り手は? 生き残った全ての人間だと考えれば、それはそれで理解できる。だが、だとしたら、その人たちがいったいどんな「過ち」を犯したというのだろうか? 戦争に反対できなかったことが「過ち」の核心なのか? あの無謀な戦争に反対しなかったことが問題なのか? しかし、少しでも戦時中の空気を知っていれば、当時あの戦争に反対することは真に命懸けの行動だったのだから、戦争に反対しなかったことが「過ち」だというのなら、誰もが「英雄」にならねばならず、つまりは、英雄でないことが「過ち」ということになりかねない。これでは、あまりに要求水準が高すぎる。
 戦争で生き残った庶民にふさわしい文言は、「過ちは繰り返させませんから」だったと、強く思う。単純に、過ちを犯したのは、何よりも先ずは当時の政治家であり、権力者たちだった。そして、庶民は誰もが大なり小なり犠牲者だったのではなかろうか? それとも、現に2017年の今も同じかもしれないが、アホな政権を支持した結果としてもたらされる不幸・惨禍に対しては、民主主義の原則として、参政権を持っている全ての人間が等しく責任を負うべきなのか? 否。断じて否。残念ながら、システムとしての民主主義はそれほど善良でも完全でもない。現に、2017年の今も同じかもしれないが、事実として自民党と民進党しか選択肢がないときに、それが例えば沖縄の米軍基地問題に対して、どれほどの意味を持つものか、甚だしく疑問だ。

 話が無駄に拡散しないように努めよう。事実として、有り得ない奇跡が起きたとして、大日本帝国があの無謀な戦争に勝利していたら、いや、勝利とは言わないまでも、満州国を手放す程度で終わっていたなら、良し悪しは別にして、大日本帝国は命脈をかろうじて保ち、もしかしたら現在の朝鮮人民共和国(=北朝鮮)のようになっていたかもしれない。ともかく、戦争に「勝利」している限りは、どんな悪辣な政権でも支持され続けるだろう。正に「勝てば官軍」である。
 ということは、戦争責任とは、何よりも先ず、「負ける戦争を遂行した責任」なのではないのか? それゆえ、戦勝国アメリカに対して「広島・長崎に原爆を落とした過ち」の責任を問うことはできないし、そもそも彼らには「戦争をした責任」なんてものはない。侵略に関しても、極めて残念なことに、その侵略が「成功」している限り、その政権は相当程度にその国民から支持され続けることだろう。例えば、イスラエル。どれほど国際法違反を繰り返そうとも、自国に壊滅的被害が生じない限り、民主的な手続きで権力が覆されることは期待できない。この点で、全ての人間は極めて利己的だ。
 だからこそ、第二次世界大戦の「三大極悪国」と弾劾された「日独伊枢軸国」の中で、イタリアのムッソリーニはパルチザンによって虐殺され、その死体は広場に吊された。結果としてイタリアに厄災をもたらした人物に対する怒りと憎しみの自然な発露とも言える。そして、ドイツのヒトラーは、ムッソリーニと同じ結末があまりに生々しく想像できたからこそ、自ら命を絶つことを選んだのだろう。一方、我らが日本では、8月15日以前に自害した戦争指導者はいないし、リンチに遭った指導者もいない。敗戦時の陸軍大臣だった阿南惟幾(あなみ これちか)という人物が15日に切腹自殺したらしいが、これは15日に及んでもなおも聖戦遂行を主張し、それが斥けられたことに対する所為であるから、西洋の二人の指導者とはかなり色合いを異にする。(敗戦後に自殺した人たちの多くが軍の中堅指導者たちだったことも、今になれば極めて興味深い事実だと思う。)
 
 何が言いたいのかというと、「戦争責任」の所在は当時の権力者、軍部、政権にあるということだ。戦争に勝った方も負けた方も、先ずこの事実を当たり前のこととして認めるところから始めなければならなかったのに、いつからか(あるいは最初から?)日本では「そもそも戦争をすることが悪い」と、責任追及の矛先が別の方に向けられてしまった。一億総懺悔という奴だ。もちろん、「戦争をすることは悪い」。言うまでもなく。だが、戦争は個人が始めるわけでもなく、数人のテロリストが始めるわけでもない。戦争は国家が、もっと端的には国家権力が遂行するのだ。(いわゆる「国」だけに交戦権が認められているという、当然と思われているが、よく考えたら極めて不思議かつ不条理な事実を直視しなければ!)

 戦争責任=一億総懺悔と関連して、そろそろ国と国民を一体化する考え方、一種のまやかし、一種のインチキに対して徹底的に疑う必要がある。いわゆる近代国家の成立は国民国家(英語のnation-state、これが国と国民を一体化する考え方の源泉)の発展と軌を一にするらしいが、国と国民を一体化する考え方の胡散臭さを理解する=実感するためには、政治学や社会学の小難しい議論は必要ない。ちょっとした思考実験をすれば十分だ。例えば、明らかな働き過ぎで過労死した人の遺族が被害者の勤務していた会社を訴えるとする。この場合、一般に世論の同情は被害者と遺族に集まるだろう。では、過労死した被害者が地方公務員だとする。赤字財政の地方自治体職員が身を粉にして休日もなく働き続け、その上にたまたま水害などの災害が重なり、挙げ句のはてに過労死したとする。そして、遺族がその地方自治体を訴える。この場合も世間の同情は被害者と遺族に集まるだろう。では、その被害者が国家公務員だったらどうなるだろうか? 当然、遺族は「国」に対して訴訟を起こす。この場合、世間の同情はどうなるのだろうか? 
 話をもう少し生臭くしてみよう。過労死で倒れた被害者が外国人労働者の場合を考えてみたい。日本の一流企業に勤務するアジア系(でなければならない)の人が過酷な労働条件で働き続けた結果、過労死したとしよう。遺族を支えるNPOなりがその企業を訴える。いわゆるネトウヨ諸君は「逆差別」とか何とかとか連呼しそうだが、それでも、勤務実態が明らかに違法状態であったことが知れた暁には、善良な国民の多くは遺族に対して同情を寄せることが大いに期待されるし、おそらくはそうなるものと信じられる。次に、同じように、外国人の被害者が地方自治体を訴えた場合も、若干の軋轢はあるかもしれないが、通常の正義感覚が当然のように機能すると期待できる。だが、外国人労働者が日本国を訴えた場合、この場合、多くの「日本人」は、それまでとは違った、かなり居心地の悪い気分にさせられるのではないだろうか? つまり、まるで自分自身が訴えられたかのような気分。そんなことはないだろうか? しかし、そもそもなぜ国と自分を同一化する必要があるのか? 

 こんなことを考え始めた発端は、8月15日のニュースだった。聞くところでは、8月14日〜30日の間、ソウルの日本大使館の近くを運航する路線バスに、日本と韓国の間で喉に刺さった魚のトゲのようになっている「慰安婦像」の、しかもプラスチックなコピーが設置されるという。これには、かなり複雑な気分にさせられた。この複雑な気分をあえて簡単に言えば、タイトルの「みんなクソ嘘つきだ」ということになるわけだが、はたして以下にその気分が上手く表現できるものだろうか。

 これこそあまりに当然のことであるが、8月15日は日本にとっては「敗戦の日」だが、お隣の韓国にとっては「光復節」という、「大日本帝国から解放された祝日(しかし、一切の他意はなく、「いったい『何が』大日本帝国から解放されたのか?」と、当事者の人々に問うてみたい。つまり、「朝鮮」が解放されたのか、「大韓帝国」が解放されたのか、あるいは全ての朝鮮民族が解放されたのか、あるいは、云々……)であり、当然それなりの式典が催されている。そして、慰安婦像がバスに登場(搭乗というべきか)したのも、こうした儀式の一環といえる。
 従来より慰安婦像が韓国の内外に次々に設置され、そのことが少なからずの日本人を憤慨させたり、呆れさせたりしているのだが、それだけではまだまだ不十分と考えている人たちが、今度は徴用工(日本の植民地支配下で戦時徴用された朝鮮人労働者)の像を建立するという動きがあり、いわゆる慰安婦に対してだけではなく、かつての徴用工に対する賠償問題も今後は大きく取り上げられることになるだろうし、そうなれば日本と韓国の「国民感情」というものは、いっそう気色悪いものになっていくに違いない。

 ここで少々立ち止まって、よくよく考えてみたい。この「国民感情」というのはいったい何なのだろう? 旧日本軍(の一部)が現在の韓国・北朝鮮・中国・マレーシア、等々で行った犯罪行為を生々しく覚えている人たち(例えば、身内の女性が日本の軍人に強姦された上に虐殺されたような経験を持つ人たち)が日本に関連するもの・日本を連想させるものを激しく憎悪することを想像することは容易だ。罪を赦し、争いを水に流すことは尊いことかもしれないが、それはつまりは、罪を赦すことが難しいからに相違ない。遺族の心情を根拠にして死刑制度の存続を支持する人たちなら、憎しみが容易に氷解しないことは自明だろう。ぼく自身は全く違うメンタリティーを有していて、死刑制度にも反対だし、あまりに長く憎しみを持ち続けることそれ自体も不幸なことだと考えるが、「絶対に赦さない」と言う人の心情もよく理解できる。(ちなみに、常々敬愛する哲学者のジャンケレヴィッチ[ロシア生まれのユダヤ人]は、「ナチスを絶対に赦さない」と決意し、以後、自ら学んだドイツ哲学も、愛好していたドイツ音楽も見事に斥けてしまった。)だから、「日本なんて大嫌いだ」という人たちが相当数いることは、十二分に理解できるし、理解しなければならないと強く思う。
 (名前を出した手前、少しだけ附言すると、ジャンケレヴィッチにとって「赦すこと」は「忘却すること」と同義のようで、「忘れてはいけない」のならば「赦してはいけない」ということになるわけだ。念のために、だからといって、ジャンケレヴィッチが以後ドイツ人と面会しなかったとか、ドイツ人を死ぬまで憎んでいたということはない! 彼にとって重大だったのは、ドイツ観念論とナチズムの間にある本質的関連性であり、ワーグナーとナチズムの親近性だ。おそらく、「ドイツ的」なものと縁を切ることは、彼にとっては一種の荒行だったに違いない。いわば自分自身に対する戒めとして、ジャンケレヴィッチは青年時代に学んだドイツ哲学とドイツ音楽を捨てたのだろう。)
 しかし、一部当事者のルサンチマンが「国民感情」になるというのは、それは錯誤である以上に、端的に虚偽だと感じる。典型的な古典的「劇場のイドラ」だ。何かに演出され、それに煽られて、偏見や思い込みの奴隷になっているに過ぎない。

 もう少し分かりやすく、正直に言おう。いわゆる慰安婦問題に対して、これを日本と韓国の間の政治問題にしようとする全ての輩は、両国それぞれにおいて最低のクソ嘘つきだ。なぜかというと、たとえ日本の支配下にあった朝鮮=大韓帝国で発生した問題だとしても、慰安婦問題の本質は国際問題ではなく、女性差別の問題だからだ。端的に、真に恐ろしいことだけれども、慰安婦(性奴隷)に国籍は関係ない。おそらく名前さえも関係ない。彼女たちには人権が制限されているのだから。ということは、慰安所で働かされていた女性(自ら望んで働いていた女性たちも含めて!)は、差別され虐待された点においては、日本人も朝鮮人も、そしておそらく中国人も、全く同じだったはずだ。そして、女性を差別する点において、やはり日本人も朝鮮人も中国人も全く同じだっただろう。だとしたら、この問題に国籍が関与する余地は非常に少ないことになる。それなのに、いったいどういうわけで、これが日本・韓国間の大問題になっているのか? 慰安婦問題に取り組むからには、真っ先に糾弾すべきは、むしろ「男たち」なのではなかったのか。ということは、慰安婦たちはいまだになぶりものにされ、いいように政治利用されているとさえ言えよう。
 決して責任転嫁をしているわけではない。先に、戦争責任の主体は当時の権力者だと言ったが、仮にそうであるなら、植民地であろうと本土であろうと、庶民は大なり小なり好きなように利用され、なぶりものにされ、殺されたのだ。徴用も全く同じだ。もちろん、おそらくは過酷な人種差別も重なり、朝鮮人や中国人労働者は日本人以上に酷い扱いを受けたことだろう。けれども、戦時中の記録を読めば、日本人労働者もゴミ屑のように扱われているし、共産主義者は虐殺されている。戦争末期になれば、子どもたちまで強制労働させられている。そして、日本ではある意味では興味深いことに、この戦時中の労働に対する賃金未払いの請求はない。もちろん、賠償問題もない。(それとも、例えば共産党や一部の宗教団体は、戦時中の弾圧に対する何らかの訴訟を起こせるものなのだろうか?)「万国の労働者、団結せよ」をもじって、「万国の虐げられた人々、団結せよ」と言いたいところだが、現代はどういうわけか、特に極東アジアでは国家主義が意気盛んだ。草の根では細々と交流はあるようだが、大きな力にはなっていない。そこでも両国(あるいは中国も含めて)のナショナリズムが邪魔をしているのだろう。

 一方に一億総懺悔があり、不戦の誓いがある。そこでは誰も権力者の罪を問わない。他方に「国民感情」としての対日感情がある。こちらでも誰も自国の権力者の虚偽を追求しない。そして、そのルサンチマンが物神崇拝的彫像になって結晶化する。もしかしたら、それらの彫像は忘却しないために必要なのかもしれない(原爆ドームや原爆資料館のように)が、これまた正直に言えば、この場合、本当に忘れてはいけないのは女性差別と慰安婦に対する偏見差別だったはずなのに、いつしか、慰安婦像が象徴するのは大日本帝国の朝鮮支配というものにすり替わってしまっているのではないだろうか? もしもそうであるなら、それはすでに一種のセカンドレイプだろう。
 
 そして、最後にもう一度繰り返すが、何処の国においても、なぜ人は自分と国を同一化したがるのか? なぜ、慰安婦問題や徴用工問題が国際問題・政治問題になるのか? なぜ「日本政府」に対する異議申し立てが、「日本」に対する意義申し立てに等しくなり、両国政府の衝突が両国民の衝突のように演出されるのか? 一部の阿呆たちだけなら良いのだが、ネット上ではお互いに向けた罵詈雑言が飛び交っている。かく言うぼく自身が、さすがにバスに搭乗した慰安婦像に対しては肝の冷える思いがした。おそらく、そんなことを企てる意図に対して疑心暗鬼になるからだが、そうなると、自然と慰安婦問題から目を背けたくなってしまう。そして、結局得をするのは、両国の現政権だ。彼らは「国民」の愛国主義を養分にして栄えていく。

 みんなが嘘をつく。そして、みんなが喜んで騙される。

(附記:敗戦の日、ニュースに続く特別番組で、いわゆる「インパール作戦」がいかに無謀かついい加減な作戦だったか、当時の軍部がいかに無能であったかを、当時の資料と敗戦後の当事者たちの聞き取り調査録に基づいて明らかにしていた。あんな無能な、いい加減な連中があの悲惨な戦争を遂行していたのかと思うと、いっそういたたまれない気分になる。)

(H.H.)
posted by 冬の夢 at 09:30 | Comment(0) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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