2017年05月09日

憲法9条を真面目に考える

 よりによって5月3日の憲法記念日に「憲法改正」の話をするという、日本国首相の野暮なことこの上ない振る舞いの是非はさておき(考えてもみて欲しい、誕生日のお祝い−−憲法記念日って、日本国憲法の誕生を寿ぐ記念日でしょ?−−に、「余命3年ですが、どんな死に方がお望みですか」と言い出すトンデモナイ非常識)、いよいよ「戦争拒否宣言」でもあった第9条の命脈が尽きようとしている。しかしながら、安倍首相の発言の意図とタイミングは、野暮であるとはいえ、彼としてはいかにも当然な、予定通りの、あるいは、遅すぎたとさえ言える既定路線の、当然の発言だ。日本国憲法を改正する、即ち、抹殺することこそが、政治家としての、そして自民党総裁としての安倍晋三の切なる願いだったのだから。そして、この自由民主党というふざけた名称を持つ政党は、そもそもの最初から現行の日本国憲法をアメリカによる「押しつけ憲法」とみなし、「自立した国民意識のもとで新しい憲法が制定される」ことを党是に持つ政党である。そして、極めて悲しいことに、このようなトンデモナイ政党の支持率が相変わらず高止まりしている限り、第9条を含んだ日本国憲法の改正(廃止)は逃れようがないだろう。

 個人的には、自民党主導の憲法改正の本当の恐怖は、第9条の変更・廃止にあるというよりは、国民の自由の抑圧にあると考えていて、そのことはすでにこのブログでも書き留めておいた。戦争は人類にとって非常に大きな厄災であるのだから、第9条の変更・廃止が重大事であることは確かだけれど、そうはいっても、戦争はそう滅多に起こるものではない。いったん起きてしまったら、それこそ巨大地震並みの、あるいはそれ以上の災害を巻き起こすことは必至だが、巨大地震がいつかは必ず起きるとしても、日々そのことに悩まされているわけではないように、万一第9条が変更されたとしても、その日に戦争宣言をするわけではない。一方、自由の抑圧の即効性ははるかに悪性・悪質だ。その害毒は日々の生活の隅々にまで浸潤する。実のところ、この害毒は2014年に施行された特定秘密保護法によってすでに垂れ流されているし、目下国会で審議されている、いわゆる「共謀罪」の施行によって、いっそう広範に、いっそう深刻な被害を引き起こすことになるだろう。つまり、憲法の改悪を待たずとも、自由の抑圧はすでに相当進んでいるともいえる。もっとも、選挙権を持つ人間の大半が「自由とか権利なんてどうでもいい。肝心な問題はカネだ」と思っている限り、それこそ自由の問題なんてどうでもいいのかもしれない。そして、豊かな奴隷と貧しい自由人を選ぶことになれば、多くの人は豊かな奴隷を選ぶのかもしれない。

 しかし、自由が制限され、個人の権利が法的に抑圧された上に、ご丁寧に「戦争のできる国」にされたのでは、それこそもう手の施しようがないともいえる。国=全体に奉仕する義務が憲法に謳われ、その上で戦争が始まれば、徴兵制は免れないし、戦争反対のデモも共謀罪で取り締まりの対象にされるだろう。というわけで、繰り返すが、私見では憲法問題の核心は第9条ではなく、個人の自由と権利の問題なのだけれど、自民党の企みに反対する上では、第9条の改正を問題視した方が分かりやすいのかもしれない(いや、実際は全然分かりやすくなく、直接に自由と権利の問題を直視すべきと確信するが、なぜかマスコミを含めて、皆さん、第9条の方を重視する。不思議だ。こんなのは一種の、単なるポーズに過ぎないのではとさえ不安になる……)

 そして、問題の第9条だが、条文にはこうある。

1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

誰がどう読んでも、第1項は戦争放棄の宣言だ。「日本国はこの先永久に戦争しません」とはっきり書かれている。第2項は、二つの文から成っていて、つまりは、二つの異なったことが同時に言われている。この点は、個人的には気に入らない。本来ならば、第2項では「戦力放棄」として、第3項に「交戦権放棄」を明記すべきだと思うが、まあ、これは枝葉末節な批判ということにしておこう。

 ともかく、第9条に記されていることは、第1項で「戦争放棄」を明記し、第2項はその「戦争放棄」を実現するためのより具体的・補足的な説明になっていて、それが「戦力放棄」と「交戦権放棄」というわけだ。実に明快だ。矛盾もない。しかし、いわゆる右翼を筆頭に、昨今はすこぶる人気がない。

 理由は、自衛隊と、そして近隣諸国、特に北朝鮮と中国の存在だ。北朝鮮がミサイル実験を繰り返すたびに、「戦争放棄なんていくら叫んでも、実際に野蛮な奴らが攻めてきたらどうするんだよ。おめおめと殺されるのを座して待てというのか。アホか! 敵国が攻めるのを躊躇するくらいの戦力を保持することこそが平和のために必要なことだ」と、あちらこちらで言われる。そして、こうした発言が必ずしも荒唐無稽とは思われない。戦争は簡単に起こりえる。

 というわけで、もしも第9条を守ろうというのであれば、守りたいと思っている人たちは少なくとも以下の二つの問題に対して回答を用意しなければならない。

1)英語ではSelf-defensive army(自国防衛軍隊)と言われている「自衛隊」の存在をどうするのか? 自衛隊と「戦力放棄」の齟齬をどうするのか?
2)憲法に戦争放棄を明記しておけば平和が維持できるのか? 端的に、アメリカの片棒を担ぐ日米安全保障条約をどうするのか?

1)に関しては、「自衛隊は戦力ではない」と言い張ることは可能だ。戦力とは「戦争を遂行する能力」のことだから、自衛隊には戦争を遂行する能力はない、自衛隊にあるのは「自国を守る能力」だけだと言ったとしても、言葉遊びをしているとは限らない。そして、事実、これが今の日本国が公式に取っている立場でもある。日本国憲法は自衛権としての武力行使を放棄しているわけではない、と。自国を守る権利の中に先制攻撃が含まれるかどうかという問題は別の問題だ。

 さて、第9条をこのまま維持するとして、「自衛のための武力行使」をどう考えたらいいのか? たとえ他所の国からミサイルが飛んできたとしても、やはり武力行使はしないのか? いやいや、そもそも、自衛隊なんかがあるからミサイルが飛んでくるわけで、自衛隊も安保条約もなかったら、どんな人間もミサイルを撃ち込むような非理性的なことはしないのか? しかし、人はちょっとしたお金欲しさに殺人までするではないか。自衛隊がなかろうと、基地がなかろうと、独裁者が発狂したらミサイルを撃ち込んでくるのではないか。だとしたら、自衛隊どころか、もっとはるかに強力な、今度はアメリカと戦争しても勝てるくらいの武力が必要になるのではないか? 

 ちょっと考えればわかることだが、世界最強の軍事力を誇るアメリカはずーっと戦争をしている。第二の軍事力を誇るロシアもチェチェンやウクライナと紛争を続けている。ということは、強力な武力は平和の根拠には全くならない。実際、日本が軍事力を補強すればするほど、極東アジアの緊張は高まるしかないだろう。喜ぶのは軍事産業だけだ。(ついでに、自民党が憲法を改正したい本当の理由は、軍事産業を育成して、経済力を高めることにあるのではないか。)次に考えるべきことは、ミサイルが飛んできたとして、しかし、それが本当に戦争をする理由になるのだろうか?「何をバカなことを問題にしているのか? そんなことは当然だろう」と言われそうだが、仮に他国から理不尽なミサイル攻撃を受けるとする。それで大きな、悲惨な被害が生じる。けれども、もしもその理不尽に対して戦争を起こせば、もっと大きな被害が確実に起きる。戦争は平和と真っ向から対立する。「平和のための戦争」なんて、これこそ最低の誤魔化しで、そんなものは「辛い砂糖」とか「甘い塩」とか「冷たいお湯」くらいに有り得ない。それに、いつ巨大地震が起こるかもしれないような国に住んでいて、しかもその上に原発なんて恐ろしいものをドカドカ建造している「勇敢かつ命知らず」な人々が、なぜミサイル一つくらいで大騒ぎするのやら。話が逸れてしまったが、言いたいことは、多少の軍事力を持つぐらいでは、他国の侵略を防ぐことはできませんよということ。もしも他国にそんな理性があるのなら、軍事力のない国を攻めるような暴挙もしないでしょう。(少なくとも、これら二つの推論のレベルは同じだ。)

 自衛隊。作ってしまったものは仕方ない。このままでいてもらいましょう。かなり無駄金も必要になるけれど、災害救助隊としては大活躍してくれているようだし。その存在に多少の矛盾があるのは承知で、それでも現状維持が良いのではないか。「自衛隊は軍事力ではない、中途半端な存在だ」と言い張ればよろしい。

 しかし、2)の方、より重要な「どうしたら平和維持が可能なのか?」という問題については、もう少し真剣に考えなければならない。現在はアメリカの軍事力の傘下にあることで平和維持をしているわけだ。そして、その親分が「お前のところの働きが少なすぎる」と言ってきているので、もう少し軍事力を増強しようというのが昨今の流れなのだろう。今後もアメリカの忠実な子分として生きていくなら、おそらく自衛隊の軍隊への昇格も時間の問題と思われる。よく言われることだけれど、「ぼくはお金を出すから、命は君が使ってね」というのでは、どうにもみっともない。「オレだって身体を張っているんだから、お前も身体を張れ」と言われて、恥ずかしく思わない人は少ないだろう。

 では、アメリカから離れるという可能性はどうだろうか。そうなれば、右翼の一部は狂喜するのだろうか。これでとうとう一人前の独立国になれる。自前の軍隊が持てる。もう一度戦争を始められる、と。だから、それを抑制するために第9条は絶対に必須ということにもなる。アメリカの軍事力と縁を切るためにも、第9条は必須だ。しかし、不十分な自衛隊の軍事力だけで、いったいどうやって有事の際に防衛するのか? 

 もう恥知らずなくらいの長文を書いているので、さっさと自分の考えを書いておこう。日本は再度平和宣言をすべきで、国際的に再度第9条を高らかに宣言し、戦争放棄と戦力・交戦権放棄を大々的に打ち出す。同時に、日米安全保障条約も縮小し、沖縄の米軍にも撤退してもらう。もちろん、中国や北朝鮮、その他の近隣諸国との外交を強化する。(外交大国にならない限り、日本の明るい未来は描けない。)その上で、老若男女を含めて国民皆兵(国民総自衛隊員)にする。もちろん、安倍も麻生も、70歳になろうが、80歳になろうが、万一のときは戦ってもらう。つまり、この点では見事に戦前回帰して(サヨクも右翼も仲良くね)、隣国の勇ましい国威高揚国営放送を真似て(?)、「万が一攻めてくるときは、今度は竹ヤリではなく、最新の兵器で、しかし最後の一人になるまで戦います」と宣言しておくのがいいのではないか。徴兵制なんかではなく、完全な国民皆兵制度。まるで消費税のような。ここまで徹底すれば、相当な抑止力になることが期待できる。なんせ、一歩間違えれば「基地がい国家」なわけだから。しかも、「自衛隊って軍隊なのでは?」という素朴な疑問にも正々堂々と答えられるようにもなる。「もしもそうだとしたら、この国全体が軍隊国家です」となるわけだ。そして、ここが肝心なことだが、守るべきものは国ではないし、共同体でさえない。美しい国・ニッポンなんてものでもない。守るべきものは、個人の自由と権利、そして平和だ。それを間違えたら、元も子もなくなってしまう。

 多分、大切なもの・貴重なものは、それが大切で貴重であればあるほど、そう簡単に守り通すことはできない。それがもしも本当に大切なら、それこそ死ぬ気で守るしかないだろう。つまり、もしも平和や憲法、第9条が本当に大切なものなら、死ぬ気で守るしかない。平和を死ぬ気で守るということは、言い換えれば、それが脅かされるときは死ぬ気で戦うということだろう。これは、先に揶揄した「平和のための戦争」とは微妙にしかし本質的に違う。絶対に先制攻撃はしない。(したがって、この点で自民党のアホな面々が主張するのとは決定的に違う。)ミサイルの一つや二つくらいでは、「平和そのもの」は揺るがないのだから。「平和」を脅かすものは、平和を貴重なものとは考えない、平和を守ることに何の努力もしない、そういう日々の堆積だ。つまり、すでに平和は相当程度にダメージを受けている。だからこそ、こんなに弱ってしまったわけだ。戦争をしないこと。人々はそれをどの程度に大切なことと思っているのか、不思議でならない。 (H.H.)



●ヤクザ映画「集団的自衛権」「続・集団的自衛権」をつくってみた→こちら←
●平和のために学校にいくこと、または、平和のために学校にいかないこと──ジョン・レノン→こちら←
posted by 冬の夢 at 23:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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