2017年03月08日

平野啓一郎『マチネの終わりに』 〜 小説を読む愉しみと悲劇の匂い

(かなり長いです)
平野啓一郎を読むようになったのは『決壊』からだ。衝撃のデビュー作と謳われた『日蝕』も『葬送』も読んだことがなかった。この二冊は本屋でパラパラと流し読みした時点で、「読めない」と直感した。残された時間の使い方が惜しい年代になると、自分にとっての唯一の座標軸は直感しかなくなってくる。映画を見ても最初の三分でどんな映画かおおよそ見当がつくのと同じで、本をパラパラめくるときの直感は、自分にとって大きく外れることはない。
『決壊』は本屋で新刊本を手にとったときに行けそうな直感があり、それは当たっていた。それ以来、平野啓一郎の本は、『ドーン』『かたちのない愛』『透明な迷宮』と新刊が出るたびに読むようになった。

小説を読む愉しみには、いくつかの要素が揃っていることが必要だ。
まず、語り口。物語は波乱万丈でも全く何も起こらないのでも構わないが、語りで引き込む力がないと小説世界に入っていかれない。
次は、魅力的な登場人物。興味を持てる人物がいない小説は、読んでいて辛くなる。池澤夏樹を知ったのは芥川賞受賞作の『スティル・ライフ』だったが、デビュー作の『夏の朝の成層圏』は今でも大好きな作品であり、さらには福永武彦の息子であるという来歴から贔屓にしていた。けれど『マシアス・ギリの失脚』あたりからおかしくなり、『すばらしい新世界』は人生で初めて本を「早送り」で読み飛ばすくらいに下らない小説だった。なにしろ登場人物が好きになれないどころか、最も嫌悪すべき偽善者だらけだったのである。この経験以来、つまらない本は早送りで終わらせる癖がついてしまったので、それはそれで残された時間の有効活用としては新しい発見であったかも知れない。
さらに小説に必要な要素は、言うまでもなく文体である。これがなければ小説にならないわけで、今でも読み継がれる小説家たちは皆、文体の達人と言うべきオリジナルな文章表現力を持っている。そこまでは無理でも、文筆業というものを生業にしているのならば、普通以上の文体で書いてもらいたいのは当然の要請であって、そうでない人気作家がいることに愕然としたことがある。かなり面白いらしいという評判に従って宮部みゆきの『模倣犯』を読んだときのこと。あまりに下手な文体に唖然として、何度も電車の中で「はあ?」と嘆息してしまった。中学生が書きそうな、習いたての常套句を繋ぎ合わせただけの文体。早送りをする気さえ失せ、宮部みゆきは途中で読むのを中止して、その文庫本は確か駅のゴミ箱に捨てたと思う。
語り口、登場人物、文体と揃って、やっと辿り着くのが「主題」。主題とは、恋愛小説や歴史小説、推理小説などジャンルを問わず、作家がその小説を書く基本的なスタンスそのもののことだ。この主題こそが読書の愉しみの真髄なのであって、簡単に言えば、その本の主題に「共感」出来たときの悦びのために読書はある。
世の中に心から共感・共鳴出来る他者は、滅多には存在しない。決して悲観的なものの見方ではない。自己と他者は、同じ人間であっても全く別の自我を持っている。自我は永遠に共有出来ないのだから、完全な共感などあるほうがおかしい。それでも、ほんの少しでも、意識同士が触れ合い、共振し合うことは可能なのであって、人はそれを求めて一生さまよい続けているとも言えるだろう。「共感する他者」とは数少ない家族や友人であるし、たまに出会う小説や映画でもある。たまにしか出会わないから、多くの本を読まなければならないし、共感出来る小説に出会ったときの悦びは出会いの困難さの分だけ大きくなる。これこそ読書の愉しみそのものだ。
家族や友人ならば、直接話し合い、触れ合うことが出来るが、小説や映画は作品そのものを読んだり見たりする以外に方法がない。だから本は、「語り口」と「登場人物」と「文体」を使って、読者を本の世界に引っ張り込もうとする。小説の愉しみを算式にするならば、「語り口×登場人物×文体=主題」となるだろう。これらは一体であり、何ひとつ欠けても算式は成り立たない。異論反論を恐れずに言えば、村上春樹の小説は「語り口×登場人物×文体」までは完璧であると全面的に認めるが、「主題」がない、あるいは共感出来ないので全く読む気が起こらない。読んだとしても何ひとつ印象に残らないし、残ったとしても「で?」と聞き返したくなる。そんなわけで、この算式は全部が揃ってはじめて効力を発揮するものなのだ。その効力が読者個人と共振するときこそ、「共感する他者」との邂逅が実現する。楽しく、親しみがあり、美しく、そして共感できる小説。そんな作品との出会いを求めて、いろんな本に手を出す日々なのである。

前置きが長くなったが、平野啓一郎の『マチネの終わりに』は、久しぶりに小説の愉しみを存分に味わうことが出来る、極上の恋愛小説であった。(以下はすべてネタバレになります)

主人公はクラシックギタリストの蒔野聡史とジャーナリストの小峰洋子の二人。まもなく四十歳になる大人同士で、一度は結婚を決意するが、偶然が重なって誤解が生じ、別れることになってしまう。それぞれ別の人と結婚し、子供が出来るものの、わずか三回だけしか会っていない互いのことが忘れられない。誤解の真相が解け、蒔野がニューヨークで開くコンサートに、洋子は出かけていく…。

愉しみの算式が十分以上に成り立っているので、読んでいるときの引っ張られ感は半端ではない。一気読みしたくなるところを「いや、この愉しみは明日にもとっておこう」と読むのを無理矢理中断するなんて、滅多にはないことだ。そんな昂揚感のままでは、この作品を冷静に振り返ることは出来そうにない。読み終えた興奮はひとまず脇に置くとして、『マチネの終わりに』を俯瞰し直してみることにしよう。

まずは、平野啓一郎が提唱する「分人」の考え方がどう展開されているか、である。
「分人」とは、多面的な個人を積極的に認める考え方。現代においては、個人が置かれている環境は激しく複雑化しているので、一貫して統一された「個人」は存在し得ない。逆に環境や関係性に合わせて、それぞれにフィットした「分割された個」を使い分けることが現代を生きることである。それは「個人」を超えた「分人」と言うべき、新しい自我の在り方である、と平野は言う。
本作においても、蒔野と洋子はそれぞれに相手と場所を選んで「個」を使い分けており、まさに「分人」として現代を生きている。
同時に、蒔野と洋子は互いに明かすことのない悩みを抱えている。蒔野はギタリストとして行き詰まり感、洋子はバグダッド取材時に遭遇したテロがフラッシュバックするPTSD。しかし、彼らはスカイプで話し合うときには、そうした面は全く見せずに親しみ深く相手の話に頷きあう。
多面的な「分人」の中でも、他者に晒すべきではない自己の側面があり、そこでは自らの克己心が試される。蒔野にとってのギター演奏、洋子にとっての報道とは、それぞれが自分自身で立ち向かわなければならない別個の課題である。それはどんなに親密な人であっても、分かち合うことは出来ない固有のものだ。分かち合わないからこそ、それぞれが人生を賭した「仕事」としているのでもある。
その一方で、柔らかで傷つきやすい自分もいる。それは本来は誰にも見せることのない自己の別の側面なのだが、それこそが多面体の中で最も根源的な自我の姿でもある。そして、そのふにゃふにゃとした華奢な自分が、自分と似たようにあえかな他者の存在と出会い、共感したときの悦びこそが、「恋愛」であると言えよう。蒔野と洋子は、はじめて会ったときに自分と同じようなふにゃふにゃな他者を知り、二回めの出会いでその触れ合いを確信し、三回めにはもう離れることが出来ないくらいに深い共感を共有することになる。
ほんの少しの誤解で別れた後で、二人は互いの「仕事」の側面を伝聞の形で知ることになるが、だからと言ってそれを意外なこととは捉えない。なぜなら、二人は他者に見せることのない一番自分らしい柔らかな部分で繋がっていたからだ。
本作が強く読者を惹きつける魅力を湛えているのは、「分人」の中でも特に自分にとって大切で、しかも他者が決して触れることのない自我を、極めてセンシティブに描いているからである。そんな二人が出会い共感し合う、表層的ではない根源的な恋愛。傷つきやすいから、深く溶け合うことが出来るし、同時にほんの少しのきっかけで、破れて血を流し合ってしまう。繊細でデリケートだけれども、分かち難い他者との交流。平野啓一郎は本作において「分人」の考え方を一歩進めて、別個の分人が融合することによる、新しい「共感」の関係性を提示しているのだと思う。

「分人」とともに、平野啓一郎がこだわるファクターが「時間」の概念である。『透明な迷宮』ではひとりだけ時間の感じ方が変わってしまった中年男を描く短編が秀逸であった。そこで時間の濃度を描いた平野は、本作では「時間の変質」について一貫して語っている。それが、小説の中で反復される「過去は変わる」というテーマである。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?(第一章「出会いの長い夜」より)

はじめて会った夜、蒔野が洋子に語った言葉は、その後の洋子が繰り返し思い起こすことで反芻される。
二人は四十歳近くになって出会ってしまった。そして、一番深いところで繋がってしまった。その事実は変えられないし、その事実によって、過去にあったことや積み上げてきたものが全く別のものに変わってしまう。それは必然なのである。
蒔野を知ったとき洋子には、すでに婚約者がいた。洋子は婚約破棄を申し出るが、本作ではそこに不義や不倫といった匂いは徹頭徹尾存在しない。蒔野と洋子の結びつきが「こと」に至らないこともあるが、出会ってしまったからには過去は変質するのだという定理が、十分な納得感をもって迫ってくるので、二人の恋愛こそが真に結実すべきものだと思わせるのである。

たった三回会っただけで、心の最も深い側面を結び合わせた蒔野と洋子は、小説の最後にニューヨークのセントラルパークで、長い別れの後の出会いを果たす。読者は、すれ違いを続けた魅力的な主人公同士の恋愛が成就して、ほっとひと息と言った心持ちであろう。
しかし、である。
この結末は、もうひとつの、二人の別な物語の始まりなのではないだろうか。小説には書かれなかった、本当の悲劇に向けて、蒔野と洋子は足を踏み出してしまったのではないか。
蒔野には、妻の早苗と生まれたばかりの子供がいる。早苗は、実は二人の間に誤解を生じさせた張本人であり、洋子を蒔野から遠ざけておいて、その隙に蒔野と結婚することに成功した女性である。かたや、洋子にも離婚したリチャードとの間にケンという男の子がいて、月の半分ずつを子供と一緒に過ごすことが出来る。蒔野と洋子がそれぞれに積み重ねてきた「過去」は、二人が恋愛を完成させる(すなわち結婚して共に暮らす)ことの大きな障壁になってしまう。「過去」の意味は変わるのだけれども、それを変えたくない別の他者が存在していて、蒔野と洋子の恋愛は二人の大切な家族をひどく傷つけることになる。
そうしたとき、蒔野と洋子は脇目もふらず自分たちの恋愛を突き進むことが出来るのだろうか。いや、決してそれが出来る人物ではない。だとすると、二人を待っているのは、悲劇のほかには何ひとつ残っていないのではなかろうか。

そんな嫌な深読みをするのには理由がある。
ひとつは「序」。本作は、小説には登場しない第三者による報告という形式をとっていて、それは明らかにドストエフスキーの影響下にあるが、「序」で明記されていることを思い起こしてほしい。

最初から、私には不可能な人生だが、自分ならどうしただろうかと、今でもよく考える。
彼らの生には色々と謎も多く、最後までどうしても理解できなかった点もある。(中略)
最後に、これは余計な断りだが、この序文は、すべてを書き終え、あとからここに添えられたものである。序文とは固より、そういう性質のものだろうが、私はどうしても、そう一言、言っておかずにはいられなかった。(「序」より)


「彼らの生には謎も多く」「最後まで理解できなかった」。この「生」と「最後」という言葉は、少なからず「死」を想起させる。そして、この第三報告者は、すべてを書き終えて、この序文をあとから書き添えている。すなわち、この小説は蒔野と洋子の愛と死を書いたもので「死」の部分を省いて発表された、という形式をとっていると考えられるのである。
この悲劇の匂いは「序」だけにとどまらない。蒔野はやっとの思いで実現した洋子との再会の場面で、唐突な話を始める。

「地球のどこかで、洋子さんが死んだって聞いたら、俺も死ぬよ。」
洋子は一瞬、聞き間違えだろうかという顔をした後に、蒔野がこれまで一度も見たことがないような冷たい目で彼の真意を探ろうとした。
「そういうこと、…冗談でも言うべきじゃないわよ。善い悪い以前に、底の浅い人間に見えるから。」
「洋子さんが自殺したら、俺もするよ。これは俺の一方的な約束だから。死にたいと思いつめた時には、それは俺を殺そうとしているんだって思い出してほしい。」(第四章「再会」より)

バグダッドのテロをほんの少しのタイミングで生き残った洋子に対して、蒔野にとって「死」は全く縁遠い存在でしかない。しかし、最も「死」が似合わない蒔野が突然「自殺」という言葉を口にする。読者にとっても蒔野の宣言はあまりに突拍子もなく、不似合いに感じられる。
けれども、この蒔野の言葉は洋子の心の奥底に知らないうちに深く突き刺さっているのである。

蒔野との愛に浸る幸福な自分は、あのイラクでの自分を消してしまいたがっていた。しかし、そのために、イラクを体験したはずの自分は、むしろ狂ったように、そういう自分を責め立てていたのではなかったか?そのどちらもが、あのまま競うようにして自分を攻撃し続けていたなら、自分にも、自殺という発想が芽吹く瞬間が訪れていたのだろうか?(中略)蒔野が、「洋子さんが自殺したら、俺もするよ。」とまで口にして懸念していたのは、そういうことだったのだろうか?あんな馬鹿なこと。…彼はその約束を、まだ覚えているだろうか?(第八章「真相」より)

一方で、蒔野はコンサート中に突然演奏を中断してしまう失態を演じた後、ギターに触れることすら出来なくなってしまう。その蒔野を共演という形で復活に導いたのが、演奏家としての実力では明らかに劣る武知であった。蒔野は武知との共演を楽しみ、練習を重ねて、かつての演奏家としての技術を取り戻す。
しかし、武知は蒔野との協働を終えると、突如ギタリストとしての自分に見切りをつけて故郷に帰ってしまう。そして、数週間後、蒔野は武知が事故で死んだという知らせを受け取るのだ。

「事故」ではないのだろうと、蒔野は武知の母親の心中を思いやった。(第八章「真相」より)

なぜ唐突に蒔野は洋子に「自殺する」と宣言したのか。洋子がその言葉をいつまでも忘れないでいる訳は何か。武知が「自殺」したという挿話は、何のために置かれているのか。
こうした不吉な伏線は、ニューヨークで再会を果たす蒔野と洋子のハッピーエンドには決してつながらない。
いや、たぶん本作の幕切れはハッピーエンディングではないのだ。今も進行しているそれぞれの過去を、変える覚悟までして、二人は再会してしまうのだ。そして、二人の恋愛が成立するということは、二人が「死」に向かうことと等しい。

震災後、彼は何度か、次はいつ、自身に襲いかかるやもしれない突然の死の不安の中で、ただ未来へと、まっすぐに流れ続ける時間のために押し殺してきた欲望が、俄かに溢れ出して来るような経験をしていた。
その時に彼が思うのは、ただ一つのことだった。洋子ともう一度会って、心ゆくまで話がしたかった。(第九章「マチネの終わりに」より)

午後の陽光に煌めくセントラルパークで、蒔野はベンチに座った洋子を見つける。蒔野のほうを振り返った洋子は、最高に美しく、同時に、底知れない哀しみに満ちている。
そうとしか読めないのは、偏屈だからかも知れない。こんな極上の恋愛小説を悲劇で終わらせるには忍びない。しかし、最も大切な部分で結びついた恋人同士は、傷つきやすいがゆえに傷つかずにはいられない。それこそが、この小説の「主題」であると思う。
そして、このようにしながら、本作の小説世界に思いを巡らすことも、また、小説を読む愉しみなのである。(き)


マチネ.jpg


平野啓一郎『マチネの終わりに』(2016年 毎日新聞出版刊)



posted by 冬の夢 at 21:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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