2017年02月21日

映画『ヒッチコック/トリュフォー』 〜 私は視覚的に考える

今も本棚にしまってある『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』。1981年の年末に晶文社から刊行された。日本語版が出されると聞き、欣喜雀躍。新宿の紀伊國屋書店で速攻購入。下宿の部屋で舐めるように読んだ。1ページごとに映画作りの秘伝が書いてある。素材の選び方、カットの仕方、調理法、仕上げの味付け、客へのサーブ方法。読み終えると、自分が一流のシェフになったかのように思えた。これで今すぐにでも映画が作れる。もちろん単なる幻想だった。包丁すなわちカメラさえ満足に使えなかったのだから。

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ヒッチコックを知ったのは小学生のときのTV放映。日曜洋画劇場の『鳥』だった。よく覚えていないけれども「怖かった」のだけは確か。
中学生になった後、ロードショー公開で見たのは『ファミリー・プロット』。主役のカレン・ブラックが嫌いだったのを除くと、なんとも可愛らしい小品だった。同じ年に日本初公開された『バルカン超特急』。はじめて「ヒッチコックって面白い!」と思った。配給は名作の再上映などシブい番組を提供していたインターナショナル・プロモーション社。おどろおどろしいモノクロ画面とワクワクするようなストーリー展開。カラーでなくても、ワイドスクリーンでなくても、面白い映画は面白いのだ。

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ヒッチコック独自の映画技法に触れたのは高校生のとき。「植草甚一スクラップ・ブック」第二巻は「ヒッチコック万歳!」。シネマディクトJJ氏はサスペンスとショックの違いを丁寧に手ほどきしてくれた。そこで引用されていたのが『ヒッチコック/トリュフォー』。膨大な洋書の収集家でもあった植草甚一が目をつけないわけはない。もちろんタネ本にもしたのであろう。原書を探して購入するなんてことすら考え及ばないバカな高校生は、ただひたすら空想した。植草甚一からの又聞きで。『ヒッチコック/トリュフォー』に書いてあるらしいケーリー・グラントが運ぶミルクの白さを。ああ、どうしたら『断崖』が見られるんだろうか。今ならその場面はYouTubeで即時に出てくるけれども。
シックな『疑惑の影』、ゴージャスな『泥棒成金』、ショッカーの『サイコ』、どれもいいけど一本だけと言われたら『北北西に進路を取れ』を選ぶ。ひとつも無駄がない完璧な映画だから。

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トリュフォーを知ったのは『アデルの恋の物語』。宣伝の中心はイザベル・アジャーニだった。だからトリュフォーの最初の記憶は『未知との遭遇』のラコーム博士かも。高校の図書館で貪り読んだ映画の本を通して、知識として仕入れたのがヌーヴェルヴァーグ。とは言え何ひとつ見たことなかった。区役所のホールでやっと見たのが『大人は判ってくれない』。地方都市の区ごときに何であんな映画を上映出来たのだろうか。別の日にやったのは『いとこ同志』で、今でも心底感謝しかない。

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大学に入って上京後、開催されたのが「フランソワ・トリュフォー全集」という上映会。ぴあフィルムフェスティバルの特別企画で会場は渋谷のパルコパート3。なぜだか紙が貼ってある座席の前に座る。わざわざトリュフォーを招致していて、本人による舞台挨拶があった。暗転して映画が始まると真後ろの席についたのはなんとトリュフォーその人。座った途端にひとことWmauvais sonW(ひどい音だね)。このときかかっていたのも『大人は判ってくれない』だった。
『柔らかい肌』はその映画祭で一度見たきりだが、今もトリュフォーの最高傑作だと思っている。饒舌な作風になる前の映像的作品で、フランソワーズ・ドルレアックが美しい。

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そんなわけだから映画になった『ヒッチコック/トリュフォー』を見に行った。ヒッチコックを敬愛する十人の映画監督のコメントが付いただけで、元をたどれば原著に行き着く。映画版でさえ、わざわざ原著に掲載されたカット割りページをそのまま撮るだけ。本物の映像は数カットずつの名場面集程度に出てくる程度。TVの特番じゃないんだから安普請も甚だしい。十人のコメントはヒッチコック賛美に終始していて、何の特色もない。黒沢清も日本語で話すのならもう少し気の利いたことを言ってほしかった。
それでも大笑いしてしまったのが『めまい』を語るパート。みんなが口を揃えて「変態映画」と評していて、映画で大っぴらに『めまい』の本質が語れるようになった証拠だ。

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映画版で瞠目に値するのはインタビューの音声が残っていること。トリュフォーの質問にヒッチコックの声が答える。師弟か、あるいは親子のような親密さで。しかも、なんの韜晦も衒いもなく、実直に語り合う映画好きな二人の雰囲気が伝わってくる。面白いのは、やはり『めまい』を巡るヒッチコックのコメント。主役に抜擢したヴェラ・マイルズが妊娠して降板したことを「バカな女だ」とコケ下ろす。金髪にしたキム・ノヴァクが髪型だけ過去の女と違っているのを「あとはパンティを脱ぐだけだ」。そして髪を直す、すなわち全裸になる彼女を待つジェームズ・スチュワートを「今、彼は勃起している」。なんと下品な、でもそのものズバリな解説だろうか(※1)。
ヒッチコック映画は、まさに人間の心に潜む欲情を表出化する。ヒッチコックトークのような直接的表現ではなく、映像のメタファーによって。『北北西』は、ラシュモア山でケーリー・グラントがエヴァ・マリー・セイントの腕を引き上げると、そのまま寝台列車にいる二人になって終わる。その場面をヒッチコックは愉快そうに語るのだ。「あれはこれまでわたしが撮った映画のなかでもいちばんわいせつなショットだ」「列車がトンネルのなかに入っていくラスト・ショットですか」「そう、列車は男根のシンボルだ」(※2)。さすがにこれは映画版には出て来ない。

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ヒッチコックの肉声の中で、特に印象的な言葉がひとつある。「私は視覚的に考える」。ああ、このひとことで映画に親しむ人たちは映画が映画であることの訳を理解する。WI think visuallyWという言葉があれば、それでもう十分ではないか。
しかし、映画版はこの言葉を生かしきれていない。映画は常に時間的な制約下にある。だから映画版は、原著以上には本質を伝えられていない。映画化は失敗だったと思う。では、何なら良かったのか。最適なのは展覧会形式ではなかったか。
パリのシネマテークに立ち寄ったとき、たまたま地下の会場でヒッチコックを特集した展示企画が組まれていた。例えば『鳥』のコーナー。ティッピー・ヘドレンが小鳥を届けに湖をボートで渡るシーンが繰り返しビデオで流れる。その横に掲示された絵コンテと解説文のボード。
ヒッチコックとトリュフォーの声の録音が残っているなら、このパリのシネマテークの展示手法に二人の会話を加えれば良いではないか。シナリオから絵コンテ、舞台セットの設計図やカメラの配置図、映画のシーンの映像とヒッチコック/トリュフォーの声。これだけ揃えば、原著を超えられるだろう。誰かそんな展覧会版『ヒッチコック/トリュフォー』をやってくれないだろうか。絶対に見に行くし、何回も見に行く。たぶん泊まり込む。いや、そこに住んでもいい。
そうか、ならば自分の家でやってみるか。帰ったら、早速『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』を本棚から取り出してみよう。(き)


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※『ヒッチコック/トリュフォー』2015年 アメリカ・フランス映画 監督ケント・ジョーンズ

(※1)『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』での日本語訳は間接的な表現になっている。「彼はそのまま待っている。こんどこそ、彼女が全裸になってセックスにそなえてきてくれることを期待している」(晶文社刊 P252)

(※2)『映画術』P137より。


posted by 冬の夢 at 22:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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