2017年02月14日

カルトと信仰

(思いがけず長い!)

 遠い知人に、たまたまこの数日間芸能マスコミを賑わせているカルト宗教を信じている人がいる。もう何十年も前から。そのことを本人から知らされたとき(その何十年も前のこと)は、かなりショックだった。信仰はプライバシーでもあるから、他人が口を差し挟むようなことではない。とはいえ…。そのカルト集団は露骨な犯罪組織ではないから、言論と信仰の自由がある限り、彼らの活動を全否定することはできない。とはいえ…。以後その人とは明らかに疎遠になったと思う。もしも自分の好きなアイドルや歌手がカルトに入信したとしたら、そしてその広告塔として使われると思ったら、それはやはり相当なショックだと思う。

 しかし、もしもそれがキリスト教であれば、決してそのようなショックはなかっただろうし、仏教であれば、ショックも何もなかっただろう。ところが、新興宗教には特有の忌避感が漂っている。カルトに入信するそれだけで、何か大事なものが終わってしまった感が漂ってくる。これは単なる「慣れ」の問題なのだろうか? 確かに、キリスト教だって、回教だって、誕生した当初は紛れもないカルト集団だったわけで、キリスト教はユダヤ教から分派したカルトが大樹にまで育った例だ。いや、そんなことを言い出せば、仏教だって仏陀を始祖とする元祖カルトだったともいえる。とすると、21世紀の現在「カルト」と揶揄され忌避される「宗教」の中に、可能性としては「人類を代表する宗教」に育つものが含まれているのかもしれない。そんな可能性は万に一つもないだろうけれど、しかし、それでも可能性としては否定できない。

 ぼく自身はこれまでの生涯の中で、三度ほど真剣にキリスト教徒になろうと考えたことがある。いや、「真剣」に考えたのは一度だけと言うべきか。というのは、三度の内の最初は幼稚園のときだったから。しかし、小学校へ通う前の子どもにとって、毎週日曜日の朝に教会へ通うことを、親に強制されるわけでもなく、自分の意志で「ぼく、教会に行きたい」と口にして、親の黙認を得ることは、それなりに「かなり真剣」だったと言ってもよいのではないか。しかし、子どものぼくは、ある事件をきっかけに、一年ほど通い詰めた教会へ行くことをキッパリと止めてしまった。その出来事は今思い出せば、ごく当然のことだったのだが、当時のぼくには「いじめ」とさえ思われるような出来事だった。勿体ぶらずにいえば、いくら熱心に牧師(そこはプロテスタント系の教会だった)の話に耳を傾けている子どもでも、その子どもは洗礼を受けておらず、従って、正当なキリスト教徒と同じではないから、どうしても違った扱いを受ける。例えば、教会が主催する遠足やパーティーには決して招待されない。それは当然だ。が、ときには子どもの純心の方が圧倒的に正しいということだってあるのではないだろうか? つまり、本当ならば、あのときの牧師はキリスト者と非キリスト者をあのように分け隔てしてはいけなかったのではないか? 正直に言えば、今でもちらりとそのように考える自分がいる。ともかく、そのような「差別」を受けて以来、子どもだったぼくの足は教会から遠のいた。さぞかし親は胸をなで下ろしたことだろう。

 かなり切実に(危機的に?)受洗を考えたのは大学生のときだ(これが三度目)。そのときの思い詰めぶりといったら、「ぼくがクリスチャンにならないのは、つまりは『信仰から逃げている』ということなのではないか?」と考えたほどだ。「受洗する(洗礼を受ける)」とか「出家する」とか、ともかく、この種の決意にはなぜか恐怖が伴う。受洗するだけでは現世を捨てることにならないのだから、出家とは次元がかなり違うはずだが、この極東の、キリシタン弾圧の記憶も生々しい島国にあっては、キリスト教に纏わる異国趣味とも重なって、キリスト教徒になることには非常に大きな決意が必要となる気がする。それは仏教を真面目に信仰することとは桁違いのストレスをもたらし、やはり比較するとすれば、剃髪して「出家する」くらいのことが妥当なのではなかろうか。

 ともかく、「単に怖いから洗礼を受けないのであれば、それは二重に卑劣ということだ」なんて思い詰めていたわけだ。それがいったいどうしていまだに非キリスト教徒のままなのかといえば、多分それは、怖いからではなく、卑劣だったわけでもなく、「ぼくが信じるのは教会ではなく、おそらくキリスト教でさえもない」ということを、かなり確実に自覚したからだ。カッコつけて言えば、「教会にはぼくの居場所はない」と、まるで幼稚園児のときの事件を再び解釈し直すようなことだったのかもしれない。当時の「逆回心」をごく簡単にまとめると、自分なりにキリスト教について学んだ結果、自分の信仰はどこまでいっても結局は「異端」になってしまうことに気づかされてしまったということ。中世なら間違いなく火炙りだ。生きたまま焼かれたことだろう。ぼくにとっては、キリストはあくまでも一人の生身の人間で、実際に不当な死刑で殺されたことになっている。決して処女マリアから聖霊の運んできた不思議な力で生まれたわけでなく、死後に甦って「私に触れてはならない」なんて言って、心弱い弟子たちを脅かした「神」ではない。神は、それこそ、キリストのおよそ500年後に生まれたムハンマドが厳つい声で言うように、「唯一の存在」で、それをどんな名前で呼ぼうが、唯一である限りは不変なはずだ。つまり、いや、もう生半可な宗教談義は止して、ともかく、そんなわけで、周囲にはごく少数のカルト信者とかなり大勢のキリスト教信者がいるのだが、なぜカルトの方がいっそう胡散臭く感じられるのか、その肝心なことを書いておかないと。

 第一に、信仰と宗教と宗教集団が互いに別次元のものだということ。なぜかこの三つがしばしば三点セット、三位一体のように扱われているが、それはキリスト教の秘蹟と同じくらい奇妙なことだ。単に「信じる」ではなく「信仰する」とわざわざ言うのなら、それは「何か超越的な、非現世的なものの存在を確実に信じている」ということだろうが(それ以外の信仰があるとは思えないのだが、いかがでしょう?)、だとしても、特定の宗教が必要なわけではない。美しい星空を見て、「この宇宙の存在に何か特定の意志が関与したことを信じる」ときも、それはある種の信仰を必要とするのだから。また、人は色々なときに思わず祈ってしまう存在だと思うが、もしもその祈りが多少なりとも真面目なものであるなら、やはりそこにも信仰が介在するに違いない。そして、そのときであっても、何か特定の宗教が必須なわけではない。つまり、信仰するためには宗教が必要というわけでは決してない。仮に五十歩も百歩も譲って、「ここでの信仰は特定の宗教を信じることを言っているのだ」と限定したとしても、今度は、宗教と宗教集団には必然的関係はないということに注目しなければならない。世界中に浸透している太陽神信仰に特定の宗教が一律に関与しているわけではないという事実、そして、キリスト教や仏教がこれほど多様に、無秩序に「進化」してしまった事実の両方を並べてみれば、宗教と宗教集団の間にはさほど強い必然性などないことは明らかだ。

 信仰と宗教と宗教集団が本質的に別々の存在だということさえ承知すれば、カルトに対する忌避感の正体が宗教集団に対する忌避感だと言ってしまってもよいのではないだろうか。あれは宗教法人団体なわけで、特定営利団体と言ったとしても大きく間違うわけではない。

 一昔前、「千石剛賢」なる人物と「イエスの方舟」という集団がマスコミを大いに賑わせた。ちょうどぼくが大学生だった頃だ。それはまるで現代の魔女狩りを見せつけられるような騒ぎだった。キリスト教の影響を受けた老人を中心に共同生活をしていた集団に対する猛烈なバッシングだ。とはいえ、事件の内実に詳しいわけでは決してない。が、それでも、「これだけ貧しくて、質素な『新興宗教』であるなら、これほどの大騒ぎをすることではないだろう」と当時でさえ思っていた。つまり、たとえどんなに胡散臭く見えたとしても、その集団が宗教を騙った「特定営利団体」でない限り、そこに介在しているものは単なる信仰というべきものだろう。それも世俗化された信仰。つまり、その場合、人は人を信じているだけだ。そして、人が人を信じることはごく自然なことだ。しかし、もしも人が単なる人を神だと思い始めたら、それは倒錯であり、場合によっては狂気だ。その意味で、もしも「教祖」なるものが自らを「神」と言い始めたら、それは狂気かペテンか詐欺か、そのいずれかだろう。千石剛賢なる人物をマスコミは「千石イエス」と命名していたが、本人がイエスを名乗ったわけでもなく、みずからを教祖としたわけでもない。「イエスの方舟」をカルト集団としたのは、マスコミの「冤罪」だろう。

 だが、不幸にして似非宗教団体の、いわゆるカルト集団を信仰してしまったら! それは本当に不幸なことだが、それでも、事実は見つめなければならない。その場合、信仰している人はいったい何を信仰しているのか? 教祖が唱えるご託の向こうに垣間見える、何か超越的な、この世ならざる存在を信じているのだろうか? おそらくそうではあるまいが、もしも仮にそうだとしたら、それならば、仏陀やキリストやムハンマドに耳を傾けた方がはるかにいい。格段に、異次元にいい。これは、そこら辺のライトノベルを読んで感動している暇があるなら、もう少し読書力を身につけて、夏目漱石なりドストエフスキーを読んで感動する方がはるかにいいのと同じことだ。繰り返すが、もしも超越的存在、非現世的存在を少しでも信じられるなら、それは真に唯一のものであるはずで、だとしたら、世界の全ての真なる宗教は、名前とスタイルが違うだけで、実際には同じものを拝んでいるのだから。(そうでなければ、それらの宗教が偽物ということだ。)

 そして、カルトを信じる人が、別にそんな超越的存在なんてことは考えず、ただ何かにすがりたい一心で、何かの助けが欲しいばかりに、その教団に入り浸っているのであれば、それはつまりは、その教祖を信じているということだ。(念のために、「キリストを信じる」というとき、それはキリスト=神=聖霊という方程式がある限り、「神を信じる」というのと同じことで、「ムハンマドを信じる」というときは「ムハンマドの言葉=神の言葉を信じる」ということで、ムハンマド崇拝では全くないだろう。)教祖を信じるということは、一種の個人崇拝であることに間違いなく、皇帝崇拝とか、元首崇拝とか、書記長崇拝とか、社長崇拝とか、占い師崇拝とか、挙げ句は、美人の足崇拝と同じだ。美人の足や指を崇拝して、大金をつぎ込んだり、仕事を打っちゃってのめり込んだりすれば、やはり相当なスキャンダルになるだろうし、理性はそれを決して潔しとはしないだろう。

 というわけで、長々と書いてはみたものの、中身はあまりに当たり前のことに落着してしまった。要点のみ繰り返すと、信仰するなら神を信仰すべきで、間違っても人を信仰してはいけない。そして、もしも神が存在すると本当に思うのであれば、その神は宗教とは無関係に存在しているはずで(信じている者だけに存在するような、そんな変な神があるわけがない!)、従って、信仰にとって宗教が必須というわけではない。カルトに纏わる気持ち悪さは、この辺の混乱に理由があると思われる。最後に、神ではなく人を信じたいのであれば、家族や友人こそを信じるべきで、教団の主催者なんぞを信じるのは、ヤフコメに深刻な人生相談を持ち込む愚と同様だ。それは端的に博打だ。信じられる家族や友人がいないときは、そのときは、歯を食いしばって本を読むしかないと思う。例えば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にこんな一節がある:

「みなの人がもっている信仰というのは、いったいどこからきたものなのか?[中略]いったいどうすれば、これが証明できますのでしょう?[中略]死ぬほど、死ぬほどつろうございます!」
「たしかに、死ぬほどつらいことですじゃ。というても、これは証明のできることではない、信念をもつことはできますがの」
「どうやって? どのようにして?」
「行動の愛の体験によってですじゃ。あなたの隣人を行動的に、倦むことなく愛するように努力してみなされ。愛の体験を積むことができるようになるにつれて、神の存在も、あなたの霊魂の不死も信じられるようになりますのじゃ。そして、もし隣人への愛において完全な没我にまで到達できれば、そのときこそは疑いもない信仰をもたれ、もはやいかなる疑念もあなたの心にきざすことがない。これはすでに確かめられた、まちがいのないことですじゃ」(江川卓訳)

 胡散臭い説教師の話を聞くくらいなら、ゾシマ長老の「遺言」に等しい言葉を聞く方がはるかにいい。 (H.H.)

 

posted by 冬の夢 at 02:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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