2016年06月17日

『エクス・マキナ』〜 視覚効果と美しいアンドロイド、それだけの映画

待望の『エクス・マキナ』を映画館に見に行った。たまたまYouTubeで映像を見かけ、アンドロイドを演じるアリシア・ヴィキャンデルの美しさに惹きつけられてしまってから、日本公開を待ち望んでいた。
アンドロイド「エヴァ」の美しさは、まさに人工的に作られたもの。顔と手首、足首が皮膚として貼り付けられているだけで、他はスケルトン仕様の機械がむき出しになっている。髪の毛もないし、メッシュ製のボディスーツで覆われた胸と腰回りが「女性」であることを表わすのみ。しかし、美しい。人間の要素が顔にしかないので、評価が一点に集中するためなのだろう。髪の生え際から耳と首までに切り取られた「エヴァ」の顔は、瞳と鼻と唇だけが強調され、このパーツが完璧な美しさで並ぶ。アンドロイドなのに、絶世の美女なのである。
YouTubeで見かけなければ、この映画の存在自体を知らずにいただろう。イギリスで公開されてから一年半後にやっと日本で上映が開始されたが、全国で十数館でしかかからないマイナーな扱い。「エヴァ」役のアリシア・ヴィキャンデル本人は、別になんてことはない普通の女優に見える。いろんな画像で確認しても、「絶世」から程遠い。なぜアンドロイドの「エヴァ」になると、あれほどの美が出現するのだろう。そこが、この映画のキーポイントでもありそうだ。

大手インターネット検索会社に勤めるケイレブは、社内抽選会に当選して、カリスマ的な社長ネイサンの別荘に招かれる。いくつもの山々に囲まれた森の中にある別荘は、厳重なセキュリティ装置で守られた要塞のような建物で、ネイサンはそこにひとりで暮らしていた。別荘は、高度な人工知能を持ったアンドロイドを製作する研究所でもあり、ケイレブは試作品「エヴァ」を評価するために選ばれたのだった。毎日一度「エヴァ」と面会するうちにケイレブは「エヴァ」に惹かれていく。一方で「エヴァ」は「ネイサンを信じてはいけない」とケイレブに警告し始める…。

この先のあらすじは、(いわゆる「ネタバレ」になりますが)ほぼ想像通りに進んでいく。人工知能をもったアンドロイドが出てくる映画とは大体においてそんなものなのだ。すなわち、アイザック・アシモフの「ロボット三原則」の基本ルールを逸脱し、人間が作ったロボットが人間に反逆する、お決まりの路線である。
しかし、観客が『エクス・マキナ』に引き込まれてしまうのは、ひとつには「エヴァ」の美しさがあるからだ。映画の終盤に彼女が髪や皮膚を身につけ、見た目にほとんど人間と変わらない姿になるシーンは瞠目に値する。念入りに「身繕い」した結果、全裸の美女になる。アイロニーが興奮を誘う場面だ。
もうひとつは、視覚効果。最近ではVFX(ヴィジュアル・エフェクツ)と呼ばれるそうで、撮影された後の映像をCGや合成処理によって加工する技術はまさに圧巻である。そもそも「エヴァ」のキャラクター設定自体がVFXなしでは成り立たないのだから、本作はほぼ全編が加工された映像作品であると言っていいだろう。

映画館とは不思議な空間である。そんな引き込まれ感で観客を虜にしたかと思えば、上映が終わるとひとつのスクリーンと主のいない座席がズラリと並んだだけの中身のない空間に戻る。電車の時間を気にしながら足早に映画館から出ると、今見た映画はもう観客の気持ちから離れている。離れながら、次第になんとも安っぽい作り物だったように思えてくる。美女も視覚効果もすでに色褪せて、粗が目立つ安普請さを隠してはくれない。『エクス・マキナ』とは、そんな作品である。

SF作品に欠かせないのは、科学的であること。この大原則を『エクス・マキナ』は踏み外している。この欠陥は覆いようがないほど明らかなので、観客は加工された映像以前に脚本段階で幻滅を感じてしまう。
明らかと断言するのは、「エヴァ」の設定そのものが非科学的過ぎるからである。
ネイサンは会社社長であり、「モーツァルトのように天才的なプログラマー」と設定されている。「エヴァ」に至るまでも複数の試作品を作ってはスクラップしている。ケイレブとの会話でネイサンは自身を「神である」と定義するが、実際にアンドロイドの創造主はネイサンなのである。
そのネイサンが、「エヴァ」が起こす停電の原因を「わからない」と言う。これは全くおかしな話で非科学だ。要塞であり研究所である別荘にとって、停電はすべての機能が失われる深刻な事態。停電が起きたとしても非常電源に切り替わる構造であるべきだし、アンドロイドが停電の原因であることくらい「モーツァルト」レベルのプログラマーが分からないはずはない。ケイレブと「エヴァ」に秘密の会話をさせるために停電発生を意図的に看過していたとするなら、それに伴って発生するリスクを見抜けないのは、経営者としてあまりに低脳過ぎる。ヒソヒソ話など二人だけの会話をさせる手法はいくらでもあるし、盗撮や盗聴の仕方はそれを上回るほど考えつく。
さらに「エヴァ」は、ネイサンがメイドとして使う「キョウコ」に何やら呟くだけで、主人であるネイサンに刃物を向けさせる。プログラミングを真逆に再設定する呟きなどあるものか。それこそ科学ではなく、呪術の世界である。「キョウコ」は、アンドロイドが自ら意思を持ち過ぎてネイサンに反抗する中で唯一従順に作られた、謂わば「失敗作」である。単純な言葉にしか反応せず、しかしネイサンの欲求不満を解消する動作(つまりはダンスとセックス)には長けている。言葉さえ不自由な「キョウコ」の人工知能が、どうしたら短い呟きの音声信号だけでネイサンを傷つけるように考え方を変えられるのか。全く不可解である。
そして、最も根本的にサイエンティフィックでないのは、「エヴァ」の動力源が何なのか説明されないことだ。皮膚を剥がせば単なる機械式ロボットであることが、映画の途中でも表現されている。人間だって食物と水がなければ生きられない。機械にはエネルギー源が必要なはずだ。その「エヴァ」が何ひとつ確保することなく、生まれ住処の別荘から逃げていく。途中で燃料切れになることは明白だ。せめて一箇所でも充電する画面やエネルギー栄養素の口径充填シーンを見せてほしかったし、都会に逃げる「エヴァ」がその装置をバッグに詰めるショットの挿入が必要だった。

これらを揚げ足取りと非難する向きもあるだろう。どうせ映画なのだし、単なるファンタジーなのだから、と。しかしながら、視覚効果だけで観客を騙そうとする浅はかさを放っておくことは出来ない。すべてSF作品における基本部分の手抜きなのだ。基礎をしっかり築かない構築物がやがては傾いてしまうことなど、いくらでも悪例があるではないか。作品を作り上げる監督や脚本家や製作者が、基礎部分をおろそかにして、視覚効果と美女だけを売りにした映画で満足してしまっていることに、真剣に腹を立てるべきだと思う。待望久しい映画だっただけに、正直なところ「ふざけんな」と言いたい気分だ。

また、これは非科学性とは関係ないところだが、ケイレブの人物設定も疑問符だらけのものだ。
ネイサンが求めているのは、アンドロイドの人工知能の出来栄えをテストすることだ。ネイサンはケイレブに、専門家としての意見ではなくシンプルな感想を求める。普通に見てどうなのか?美女にシンパシーを持ちやすいか?その美女から逃避行を持ちかけたら協力するか?テスト役にはそんな資質だけが必要だったのであって、一流のプログラマー社員を選ばなければならない必然性はない。ケイレブが自在に別荘の管理システムを修正したからこそ、「エヴァ」は逃げる機会を得られたのだし、ケイレブは別荘に閉じ込められてしまう。そんな面倒なことを起こしそうな人物をなぜテスト役に選んだのか。
そもそもケイレブに秘密保持契約書にサインをさせるだけで、このプロジェクトの存在を秘匿出来るだろうか。ネイサンの「別荘を作った建設作業員は秘密保持のために全員殺した」という嘘か本当かわからない台詞の通り、テスト役の人物などテスト終了とともに抹殺すれば良いではないか。何を馬鹿正直に帰りのヘリコプターなど用意しているのか。これでは「エヴァ」を都会に連れて行く道具立てを揃えておいてあげるだけではないか。

いやいや、実はそうなのだ。『エクス・マキナ』は高度な人工知能を持った美女アンドロイド「エヴァ」を研究施設から都会に逃げのびさせる映画なのだ。そのラストシーンのためにすべてのストーリーが逆算で作られ、そこにウロつかせる人物を設定した。しかし、それでは見えすいているので、目眩しに飛びっきりの視覚効果と美しい「エヴァ」というアンドロイドを配した。そういう作り方の映画なのだ。それを良しとするエンタテインメント産業の在り方は、良質な作品づくりから徐々にゆっくりと乖離しながら、「映画」という現代の芸術分野を少しずつ腐敗させていると言えよう。
静かで人工的な映像で構成された本作において、どこかしら腐った臭いが感じられるのは、そんな映画づくりの姿勢が見え隠れするからである。(き)


Ex Machina 2015年 イギリス映画
監督・脚本 アレックス・ガーランド(※)

ex_machina.jpg


(※)本作はアレックス・ガーランドの初監督作品。ガーランドは『わたしを離さないで』(2010年 イギリス映画)の脚本を書いた人。
『わたしを離さないで』は、もとはカズオ・イシグロによる長編小説で、2005年4月にイギリスで発刊された。小説の途中で主人公たちが臓器提供のために生育されているクローンであることが明かされる。
同じ2005年の6月に公開されたアメリカ映画『アイランド』は、閉鎖されたコロニーで暮らす住民たちが理想郷「アイランド」行きを決める抽選を心待ちにしている設定。実は住民全員が臓器提供のためのクローンで、臓器が必要になったときに「当選」するというシステムの中で生かされている。
たまたま発表されたのが同時期だったため、よく比較される両作であるが、『わたしを離さないで』の脚本家がアレックス・ガーランドであり、『アイランド』の「抽選でひとりだけ行かれる」「しかしそれは予め仕込まれた生贄でもある」という仕掛けが『エクス・マキナ』にも使用されていることに注目したい。



posted by 冬の夢 at 22:23 | Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 読んで浮かんできた映画。

 インドの超人気俳優、シャー・ルク・カーン主演のアンドロイドSF映画「ラ・ワン」(2012年)。
 インド映画って要するに歌と踊りでしょ、と思っているとはずれです。いや、歌と踊りもコッテリです。面白くないはずがありません。インド映画なんだから、というのはひどい解説ですが。
 シャー・ルク・カーンはもともと、どこか哀愁を感じさせるタイプなので、話の設定にぴったりでした。

 2014年のリブート版「ロボコップ」。1988年のオリジナル版ファンに非常に評判が悪く、アメリカで厳しい興収だった(シリーズリブートの可能性低下)という映画。そういう映画を応援したくなる悪い癖。たんに、ロボット改造される主人公マーフィの嫁役(オリジナル版より嫁のポジションが重視されている)アビー・コーニッシュが好きだってことなのかな……田舎っぽくていいんですよ。警官の嫁、なんですし。ちなみに、イヤイヤ改造人間にされロボット超人にされてしまうが、もとの人間性を取り戻して……という設定は、オリジナル版の17年も前に「仮面ライダー」で知っているわけだから、「ロボコップ」シリーズにオリジナリティがあるとは、昔も今も思えなくて。 

 本文の映画は未見ですが、ケイレブ役ドーナル・グリーソンが主演している2013年のコメディ「アバウト・タイム」で、グリーソンの父を演じているビル・ナイが、むちゃくちゃにいい! もちろんグリーソンよりはるかにいい。本文とぜんぜん関係ないのですが、自称「ビル・ナイ友の会」主宰。日本人女性でファンだという人は案外いそうな気がしているが、男でビルがいい、といっているの、日本じゃ自分をいれても数人かもです……。
Posted by (ケ) at 2016年06月18日 00:02
この映画、見なくてもいいということを教えてもらいました。
そのお礼(?)に、ex machinaといえば、「機械性の」「機械で出来た」のような意味だが、deus ex machinaという語句を思い浮かべてもいいかも。文字通りには「機械仕掛けの神」、古代ギリシアの劇作家エウリピデスの劇に典型的な、「ご都合主義の安直な収拾の付け方」に対する批判として用いられる。「ここでまたまた機械仕掛け、即ちハリボテの神さまのご登場か! ガッカリ、どっちらけ!」といった感じ。話題の映画もどうやらそんな感じのようだから、まさか、制作者たちがここまで考慮した上でのタイトルだったか? まさかね。
もう一点は、言うまでもなくEvaという名前。「神である」ネイサンが作った「女」だからEvaでいいわけだが、それならAdamもいないと……「女」しかいないとなると、それはEvaというよりは、オカルトなどで囁かれるLilithの方をより強く想起させる。Lilithというのは、神がEva以前に創り出した女だったと言われている。そして、それが楽園の蛇にもなる……いや、いっそのこと『人形の家』になぞらえて、女主人公(アンドロイド)の名前と基本的性格はノラから借用すべきだったのではないだろうか? その方がずっと面白い奥行きを持てたような気がする。「私はあなたのお人形ではない。ここから出て行きます」。しつこいけれど、「楽園追放」と『人形の家』との差は、パートナーの有無なわけで、ケイレブというキャラがアンドロイドの「パートナー」に相応しいというわけではなさそうだから。
Posted by H.H. at 2016年06月19日 16:33

本当に同感なので、絶賛な意見が多くて不満が溜まっていた中、ほっとしました。
Posted by じゅん at 2017年01月12日 00:07
面白い!という意見が圧倒的な中、共感できる記事があって嬉しかったです。正直なところ、映像美以外では、古いSFを見た方がずっと楽しめます
Posted by at 2017年03月20日 13:04
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