2015年05月11日

ルーブル美術館──歩きつくす 絵の宮殿【動機編】

 このブログの、べつの筆者が「好きな絵」についてこんなふうに書いている。

 絵と出会う。
 出会いを感じたら、すぐ立ち去らず、向かい合って、その絵を読み解く。
 つまり、ひとつの絵と深くつきあうこと。

 絵画鑑賞の基本だなと、たしかに思う。
 しかし、なかなか難しい。

 わかるか、わからないかはどうでもよくて、その絵をめぐる情報を集めながら、絵を見て起きた感情をたどる。そして、つたなくとも言葉にする。そこに意味がある。
 自分の目と心を結びつけ、見たことを自分が絵に寄り添うように言葉で「表現」してみる──そんな余裕は、この時代にはない。視界は大量・高速に変化し流れ去り、見せられていることと見ようとすることの区別がつかない。刹那の強い刺激に中毒になっていて、ものごとをひっそりと、あるいはじっくりと見たくはならない。
 そんないまこそ一枚の絵とつきあう意味はある。そう思う。

 絵は、言語を発さず静止している視覚表現だから、長い時間、静かに観察できる。
 絵を見るとは、写真のように表面を通り抜けて被写体を見ることではない。
 わずかでも具象性がある絵画、あるいは完全な抽象画でも指標的な題がついているなら、描かれた対象、つまり写真でいう被写体はあるわけだが、絵を見るときは、絵という存在全体を見る。なぜなら描かれたものはすべて、描き手の表現で絵という支持体の表面に置かれた状態だからだ。
 となれば、絵を見る視線は描き手の表現の力で絵の表面からはね返り、絵を見る自分の内面を観察するスキャナの光となって、見ている自分にぶち当たる。それを受け入れて自分の内面に向き合うもよし、いま一度はね返し、絵の内奥に自分の感情を突き刺してみるもよし。とてもエキサイティングな関係が、白っぽい面に画材を塗りつけただけのモノとの間に生まれる。
 描く対象をいかにもリアルに描いただけの絵が面白くない理由は、もはや明らかだ。逆に被写体をリアルに撮らず装飾を加え過ぎた写真が面白くない理由もわかる。

 ここまでわかっていても、実際に、これらに即して一枚の絵を見ることは、できそうでできないものだ。

       *

「絵を読む」ことを絵を見る態度の根本とし、批評の軸として究めた美術評論家がいた。
 坂崎乙郎(一九二八〜一九八五)だ。「モナ・リザを読むのには、一つの椅子がいる」といったのは、この人。
 その絵画論は「ひっきょう、絵とは人生なのだ。キャンバスと生きることとの一体化なのだ。」という思想に貫かれ、絵の細部を見つくすことで、絵それ全体が暗示する意味を解読し、絵とともに激しく生きた画家の心の叫びを読みとり続けた。いまも読まれているかどうかはわからないが、感動的な絵画論が多数ある。

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 いっぽうそれは、純粋に絵と向かい合っているようで、絵より描き手を解釈する、かなり情緒的な絵の見かたでもある。とうぜん画家の「生きざま」──言葉そのものが苦手だ──を軸に絵を見ることになり、「絵とは人生だ」という思いを託せるドラマの存在が必要になる。ゆえにロマン主義的偏愛へ傾斜する。
 たとえば、同世代の画家・鴨居玲(一九二八〜一九八五)への、全身全霊を賭したかのような共感や、画家の自殺を追うかのように亡くなったこと──坂崎も自殺だったといわれる──はよく知られているが、絵を見る行為の純粋形として、それを認めるとしたら、「絵を読む」ことを凡人がお手本にするのはかなりきつい。
 
 それでも、「絵を読む」ことには、強く影響を受けた。
 勉強らしい勉強をしたことがなく、師と呼べる人にも出会わなかった一九八〇年代の学生時代に、坂崎の本だけは読み、話を聞いた。
 視覚に訴える情報が溢れてきて、見ることの粗雑さも増殖していった当時、見ることについて愚かなほど誠意のある先達は、ほかに見つからなかったからだ。
 坂崎は本人の母校である大学で教えていたが、美術専攻のない、人文学系でもない学部の先生だった。実際、変り者だったのだろう。
 
 しかし、影響されたなら、お前は絵をどう見ているんだとなると心もとない。「絵を読」んだ経験はない。
 なくはない、努力はした、といいたいが、「なぞり」でしかないと思う。絵の細部まで視線を配って読み解き、言葉に置き換えて伝えられるほど、つまり、前に椅子を置くかのように絵に向かい合ったことはない。

 要するに「ちら見」の繰り返しなのだ。あれでもないこれでもないと一瞥で通り過ぎる。美術館にあるホンモノだけでなく、余裕のあるときにゆっくり見ればいい画集も、早足で通り過ぎてしまう。
 これは、長年の悩みでもある。飽きっぽさだけでは説明がつかない病的な気の散りよう。集中力のひどい散漫さ。
 とくに美術や音楽、文学などの芸術に接すると、ほぼ例外なく起きる。日常生活でも起きることがあり、悩んだ場合もあるが、すくなくとも「鑑賞」という行為に向いていないことだけは、間違いないのだ。

       *

 絵に話を限ってふり返ってみる。

 西洋絵画を見はじめたきっかけは何か。
 小学校低学年のころ、親が買い与えた子ども向け図鑑シリーズの一冊をめくってみたのが出発点だ。
 百科事典が売れ、カラー図版掲載を意味する「原色」が、キャッチコピーだった時代である。われながら古い。半世紀近く前だから「現代美術」は載っておらず、おもに「泰西名画」が小さい図版で並んだ、ページ構成だ。

 その美術図鑑、じつに何度も繰り返し見た。
 何度も書棚から出した理由は簡単。「ハダカが見られる」からに過ぎない。
 セックスはもちろん、ポルノの存在さえほとんど知らないガキだが、女性のハダカという見てはいけないものを見るとチンコが……という認識はあり、図鑑という教育的な本になんでそんなものが載っているのかという疑問とともに、ハダカのお姉さんたちの「周辺」に載っている、さまざまな絵画が記憶されていった。

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 一枚の絵と出会い、それに向かい合って「絵を読む」ことは、そこでもう、できなくなってしまった。
 絵を見るとは、親に見つからないうちに急いで図鑑のページをめくってハダカを探し、あわてて見る作業でしかなく、いまだに、そこに始まりそこに終わる感じだ。
 図鑑からは、裸体画以外の多くの絵も記憶されたわけだが、それはそれで知識としては使えるから、たくさん絵を知ってて自慢、程度のまま大人になってしまったらしい。絵画に関する教養はすべて、試験勉強のような用語暗記から深まらず、「急いで、たくさん、ちら見」は、さきほどの病的傾向つまり極度の飽きっぽさと集中力の欠如とあいまって、今日まで続いている。
 見ようとすることと見せられていることの区別がつかない、それはまさに自分のことなのだ。
 やはり美術や音楽などの「鑑賞」に向いてないんだと、あきらめていい話だ。

 ところが、絵を見ていたいという欲求は、つねにある。奇妙なことに。
 絵が好き。絵が見たい。
 実際の世界と目の間に絵が置かれて、さまざまな絵が現れては消えていくときだけ、心が休まる。実世界を見ることからの逃避にすぎない、というなら、そういうことだろう。
 いまから思えば、親の目を盗んで図鑑をめくっていたときも同じような気分だった。あのときすでに、憂鬱の中にいたに違いない。

 女性のハダカそのものには関心がなくなったいま、とうに手元にないあの美術図鑑を見たときと同じような体験を、あらためて「ホンモノの絵」でひたすら行ってみたら、どうなるのだろうか。
 それをきっかけに絵の「急ぎ見」がなくなりはしないだろうか。あるいは、「ちら見」を繰り返すだけの「絵画鑑賞」にも、なんらかの意味が見いだせないだろうか。いや、「絵画鑑賞音痴」だと確信させられてもいい。絵を見ることにいつもつきまとう奇妙ないらだち、それがおさまってほしい。それだけなのだ。(ケ)

【実践編】につづく→こちら←

posted by 冬の夢 at 15:03 | Comment(4) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 二〇一七年二月三日にルーブル美術館で起きた治安部隊員襲撃事件について、本文で関連する部分の直後に赤字で注記をつけました。
Posted by (ケ) at 2017年02月05日 00:42
大阪の造幣局の桜の「通り抜け」のように、絵画展示を通り抜ける、しかも印象派以前、ということなら、筆者にぜひお勧めしたいのは、ヴァチカンのシスティナ礼拝堂を含む美術館。「通り抜け」の最後にシスティナ礼拝堂の天地創造の天井画と最後の審判の祭壇画があります。イタリアはルネサンス絵画がたくさん見られますから、フィレンツェのウフィツィ美術館、ローマのボルゲーゼ美術館(ちとちょうこくがおおいか?)なども訪れてみてはいかがでしょうか?
Posted by spore at 2017年02月18日 08:42
 なるほど。ルーブルでこのようなことをしてみようと思いつくよりはるかに前、そのうちのふたつ、システィナとウフィツィには行ったことがあります。しかし、ひどい混雑で入るのに苦労したうえ、中も文字通り立錐の余地もないほど混んでいた記憶しかありません。あの当時は、有名な絵の前に行くことだけが目標みたいな、観光目線だけで行っていましたから、混雑がよけいに気になったのかもしれませんが。死ぬまでに、たっぷりヒマができるほど長い期間イタリアに行くことなんて、できるのだろうか……。
Posted by (ケ) at 2017年02月22日 02:02
 本文をふたつに分けました。この文は前半の【動機編】で、コメントが関連しているのは、後半の【実践編】となります。
 この文末尾の「【実践編】につづく→こちら←」の「→こちら←」の部分をクリックすると後半の【動機編】が表示されます。
 ややこしくて、すみません。
Posted by (ケ) at 2017年02月22日 02:58
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