2015年04月01日

くらもちふさこ『おしゃべり階段』〜いつまでも変わらない成長物語

萩尾望都や大島弓子のマンガを読むようになったのは大学生の頃だったろうか。まるで小説のような人間関係や舞台設定に触れて、その作品としてのレベルの高さに驚かされた。萩尾望都のマンガなんかあまりに難解な展開にページをめくるうちに眠ってしまったこともある。
しかし、よく考えてみると、萩尾望都で初めて少女マンガというジャンルに触れたわけではない。高校の授業中、クラスで回し読みされていた別冊マーガレット。女子生徒の誰かが暇な授業(例えば進学先を文系私立と決めてしまったらば地理とか物理の授業は「暇な」時間に分類されていた)をやり過ごすために自宅から持参した分厚い月刊誌が、仲間から仲間へと、机の奥に居場所を変えながら、最後には捨てるよりマシという具合になって、窓際に数冊重ねて放置されていた。
表紙は折れ曲がり、ページがヨレて厚さが倍ほどにもなったそんな「別マ」の一冊を抜き出して読んだのが、初めての少女マンガ。そのほとんどはたぶん何の興味も呼び起こさなかったのだと思う。
ただ一編だけ、普通の学校生活を普通に悩みながら過ごす何も特別なことは起こらない内容なのに、とても印象に残ったマンガがある。そのくせすぐに題名も作者も忘れてしまった。
それが、くらもちふさこの『おしゃべり階段』だと認識したのはずいぶん後になってのことだった。

『おしゃべり階段』は、主人公森本加南(もりもと・かな)が中学から大学に進むまでの六年間の物語。幼なじみの中山手線(なかやまて・せん)との淡い恋愛を軸にして加南を取り巻くクラスメートや教師、家族との交流が描かれる。
驚くのは、今読み返しても思春期の子どもたちが共通して抱える悩みが十分に伝わってくること。受験生が飛び降り自殺しそうになって云々というニュースを聞いた加南の父親が「こんなことみんなも経験することだしな」とぼやく。 それに対し加南は「でもパパ、あたしたち当人にとっては『こんなこと』じゃない」とつぶやく。
「いつだって今の悩みがいちばん。あの幼い日に悩んだ重さはその内容はちがっても今悩んでる重さとほとんどちがわないはず」
大人になると忘れてしまう些細な、けれども子どもたちには切実な悩みを『おしゃべり階段』は見事な鮮度で切り出し、深い感受性で語っていく。そうそう!そうだったんだよな〜!と加南の悩みのひとつひとつに年代を超えて多くの読者が共感するのももっともなことで、『おしゃべり階段』のファンは世代を問わず幅広く潜在しているらしい。

物語は、誰もが経験する学校時代の授業や放課後や行事とともに進む。
理科の実験、ドッジボール、文化祭。クラス替え、修学旅行、進路相談、卒業式。高校の制服、バスケ部の試合、夏休みの旅行。大学受験、予備校、合格発表...。
誰にでもある当たり前の日常の中で加南は傷つき、諦め、でも、癒され、信じ、掴む。天然パーマで教師に嫌われていると思い込むコンプレックスだらけの少女が、少しずつ自分に自信を持ちながら、等しい感性を持つ少年と共鳴し合っていく。その普通な日常の描写がいかにも「誰にでもある」シーンやエピソードで満たされていて、しかもその描き方や語り口が巧妙に組み立てられているのである。
例えば、生徒に人気のない理科の立川先生が加南を慰めて言う。
「てんびんばかりを覚えてるか。自信のある部分とない部分と両方兼ねそろえているやつがいちばん魅力的だ。どっちかにかたむいているのはいただけないよ」
あるいは、加南が線の仲間たちの内輪の会話についていけないのを見て、さりげなく話題を変える線の優しさ。
ちなみに加南と家族以外は、すべての登場人物が山手線と中央線の駅名から名付けられている。神田、四谷、中野、そして中山手線と円の兄弟。仕事でたまにケーススタディの手法を使うとき、面倒臭いケースの人物設定は今でもこの手を流用させてもらっている。

連載当時くらもちふさこはまだデビューして間もない新人。編集者の忠告ひとつひとつに素直に従っていたと振り返っているが、『おしゃべり階段』でのストーリーの組み立てと伏線の張り方には天性のセンスが滲み出る。
当時の連載回数の都合もあったのだろう、時制的には加南の学年単位でストーリーが進んでいく。
中学から高校にかけて次々に変化していくことのひとつが弟との関係。いつも加南にひっついていた弟はいつの間にか自転車の相乗りを拒み、コンサートにはガールフレンドを連れてくる。弟がしがみついていた首元が「スースーする」という喪失感。時間とともに手に入れるものが多い年代である一方、失うことに目を向ける視点もしっかり持っている。
登場するのはみな、個性が際立つ直前の年頃で、言ってみれば「子ども」とひとくくりにされがちな時期。そのせいか、高校で加南の親友になる光咲子の顔はどこかしら線に似ている。加南は光咲子の中に線の面影を追う一方で、自分より先に大学に進み自分らしさを作り上げようとする光咲子を見ることになる。
また、加南の声は国分寺さんにそっくり。線が国分寺さんと付き合うことになったきっかけが声の勘違いからだった。そして、国分寺さんは逆に自分の声を加南のものと聞き違えられて、線の本心に気づく。
子どもたちが「似ている」ことを契機に互いを知り、知るうちに顔や声ではなく、その個性に気付いて好きになる。あるいは離れて行く。
そのようにして、徐々に「子ども」ではなくなって、「おとな」の階段を上り始める登場人物たち。それは弟の哲夫が声変わりするというエピソードで現される一方で、一緒にいるだけで楽しく勉強に身が入らない加南を線が厳しく叱るという二人の関係の深まりで表現されている。

正直なところ絵の筆力という点ではまだ未熟な時期の作品なので、コマ割りや筆致に感心するところはない。けれども、絵だけで物語を組み立てる力はしっかりしている。
兄の彼女としては加南より国分寺さんがいいと思う、線の弟の円。彼が自宅にやって来た加南から手編みのセーターをもらう場面がある。もちろん線へのプレゼントのおまけなのだが、円の気持ちを思いやる加南は贈り物をしたこと自体に照れてしまい、線といっしょにすぐに出かけてしまう。「なんだかガチャガチャした人ねえ」と見送る母親の後ろで、ソファに身を沈めた円は無言でセーターを抱く……。
中学の場面。加南の後輩のイタズラなのだろう、校内に駐められた車に窓に加南と線の相合傘が幾度も描かれ、その度に加南はあわてて消す。高校を卒業して加南と線が一緒に理科の立川先生に挨拶に行くと「おまえら本当にくっついたのか」と驚く。イタズラ描きされた車は立川先生の愛車だった……。
いずれも読んでいるうちに過去の場面のページの絵がありありと蘇ってくるように表現されている。何気ない日常の中にひとつの変化を与えて、それが登場人物の心象を自然と描くような作風。くらもちふさこが他の多くの少女マンガ家に影響を与えたというのも納得出来る。

マンガのラストは合格発表を見に行く加南と線が地下鉄の階段を駆け上がるシーン。
「わからないから悩む。悩んで悩んで、ある日悩むことがむだではないことを知り、そして、いつかテキストになるであろう「今」を大事にしたいと思う日もくる」
駅の改札で切符の代わりに間違って受験票を出してしまう加南。その番号を見て、線は「へえ、わりとまともな番号。俺なんか逆から読んだら『死になさい』だ」と答え、さりげなく二人の受験番号が示される。そして、これから二人が見に行く掲示板の中に、そのふたつの番号があることを読者の我々だけが先に知る。階段を上がって成長していく二人をいつの間にか祝福するような気持ちにさせられてマンガは終わるのである。

わずか二巻のマンガで六年間を描く『おしゃべり階段』は、言い換えれば加南や線たちの成長物語である。考えてみれば本格的な成長物語は日本にはあまり見当たらない。どこか私小説的であったり、自我に寄り過ぎていたり、マンガではいきなりスポ根ものに行ったりしてしまう。
一部では教養小説と訳される「ビルドゥングスロマン」とは少年少女の成長を描く作品に冠せられる言葉である。『おしゃべり階段』はその意味で中学から高校に至る成長期を見事に生き生きと描き出している。今でも読み継がれ、新たに出版コンテンツとして取り上げられている(※)のはその鮮度が落ちないためだろう。日本に生まれた「ビルドゥングスマンガ」が世代を超えて愛されていることは、何やら嬉しいような恥ずかしいような心持ちである。(き)


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(※)集英社刊の「YOU」2014年12月号と2015年1月号に『おしゃべり階段』(1978〜79)の復刻版が付録として封入された。



posted by 冬の夢 at 00:59 | Comment(1) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 さほどマンガにはノメリ込まなかったほうですが、やはり読んだ少女漫画、そして青春成長もの。たしかに時刻表や電話帳みたいな漫画誌でした。あ、そっか、いま誰も使わない。分厚い時刻表や電話帳。
 そのバックナンバーを、もらって来たのかどうしたのか山と積み上げて、ひたすら読んだのは学生下宿の寒々しい裸電球(いくら昔とはいえ八〇年代!)の下。試験の前になると「逃避」と称してそれをしていました。
 少女系青春成長もの、いまタイトルなどを思い出せるのは、くらもちの妹、倉持知子の「青になれ!」くらいか。たしか中学バスケットボール部が舞台では。あんなに読んだのに内容は忘れています。しかし、この漫画にあまりに影響されて、のちに「SLAM DUNK」が出て来たとき手にとったら、ページを追うことも出来ないほど「身に合わな」かったことのほうをよくおぼえています。
 本文で書いてもいいと思ったけれど「青になれ!」は入手できるのだろうか。また、比較のために「SLAM DUNK」を読み通す気にはまったくなれないし。
  
Posted by (ケ) at 2015年04月02日 11:03
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