2019年09月20日

フリーズとプリーズ──ハロウィンと日本人留学生射殺事件【改二】

※最下段の注記をご参照ください。

 日本で、ハロウィンが盛り上がり出したのは、いつごろからだろう。
 東京・渋谷で、仮装した若い人たちがセンター街を埋め、奇声を発したりするのに驚いたのが七、八年前。子どものイベントとしては、それより前からだから、すっかり定着しているわけか。

 ハロウィンといえば、日本人留学生の射殺事件である。
 二十七年ほど前、日本の高校生がアメリカ留学中にハロウィンパーティに出かけ、訪ねる家を間違えた。その家の男が拳銃を構え「フリーズ」(Freeze)といったが、留学生には「プリーズ」(Please)と聞こえ、そのまま近づき、射殺されてしまった。発砲した男は無罪だったはずだ。
 外国で英語が聞き取れず恥をかいたり失敗したりしたとき、かならず思い出した事件でもあるが、いま仮装で集まる若い世代は、まったく知らないだろう。

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 それにしても、本当に「聞き間違い」だったのだろうか。どうも変だ。
 事件から年月がたっているが、調べてみることにした。
 当時のアメリカの報道も確認したかったが、調査力がおぼつかず、おおむね日本の書籍や雑誌で調べたので、比較できていない。その点はお許しを。

『フリーズ ピアーズはなぜ服部君を撃ったのか』という本で、事実関係と刑事裁判の流れを、アメリカの法の仕組みと合わせて知ることができた。アメリカで弁護士をしている日本人と、アメリカ人の新聞記者との共著だ。
 法律家の目で再現された法廷の様子には緊迫感があり、事件の記述も、当時の日本のメディアが理解していたとは思えない面を伝えている。巻末に、事件直後の発砲者に警察が行った尋問調書の写しも付され、その内容も興味深い。
 ただ、この本は率直にいって読みにくい。理由を書いていると本題に戻れなくなるので、読みづらいせいで大切な箇所を誤読していないことを祈りつつ、さきへ進む。この本と、集めた雑誌の記事などを読み、たどり直した経緯はこんな感じだ。

■事件の経緯と「パーティに来ました」まで

 一九九二年十月十七日、夜八時過ぎ。
 米ルイジアナ州、バトンルージュ郊外で、ある家を二人の男子高校生が訪れた。

 ひとりは、AFS留学プログラムで二か月前に来米したばかりの、十六歳の日本人高校生。名古屋生まれ、愛知県下有数の進学校生だ。
 もうひとりは、その留学生の受け入れ家庭の子。留学生と同い年で、英語がうまく話せない留学生を助け、いっしょに学校に通っていた。

 二人が向かったのは、受け入れ家庭のある市内から、クルマで四十五分ほどの郊外。別の留学生受け入れ先だ。留学生を集め、親睦ハロウィンパーティをしてあげます、という話だった。
 運転はホストファミリーの男の子。ルイジアナ州では、深夜以外なら十六歳で運転ができた。 

 が、道を間違えて遅れ、めざす街区に着いたが番地も間違えた。ハロウィンの飾り付けがあった家のドアベルをホストファミリーの子が鳴らすが、留学生パーティが開かれる家ではなかった。

 玄関でなく、向かって左の駐車スペースの奥で、奥さんらしき人が通用ドアを開ける。
 そのドアは急に閉じられた。
 家を間違えたらしいと、二人は路上に停めたクルマに戻ろうとする。

 すると、閉じられたドアがもう一度開き、男が拳銃を両手で自分の前に構えて出て来た。
 クルマに戻りかけていた留学生はアメリカ人の友だちに「やっぱりパーティはここだよ」といって、男のほうへ歩き出す。アメリカ人の子には銃が見えた。「ノー、カムバック!」と大声で何度も叫ぶ。

 留学生は、軽い足取りで嬉しそうに体を左右にふりながら「パーティに来ました」といって──友だちの記憶では「I'm here for the party. みたいなこと」をいいながら──近づいていった。
 留学生は、映画『サタデイ・ナイト・フィーバー』のファン。主演のジョン・トラヴォルタの扮装だった。英語がうまく聞き取れないからか、話しかけられると相手に飛びつくように近づく癖があったという。

 男は留学生に「フリーズ」といった。
 留学生は立ちどまらず近づきながら、「パーティに来ました」と繰り返す。
 男は発砲した。

■フリーズとプリーズの真実

 事件後アメリカで放送された番組の映像を見ると、現場はアメリカの映画やドラマでよく見る、郊外の宅地だ。
 道に面した広い敷地の正面は芝生。道沿いに郵便受け。広いリードインのある車停めの奥に、平屋の大きい家。
 ただ、日本の感覚では「広い」「大きい」でも、高級住宅地ではない。住民の所得や教育は、かならずしも高くない地域だ。

 発砲した男は、当時三十歳。高校を出て大手スーパー勤務。前科はない、ふつうの市民だ。
 しかし撃ったのは、日本でも「マグナム」という名が知られる、四四口径の大型拳銃。鹿猟用のスコープつきで、写真で見ると持ち上げるのも大変そうな、ごつい銃だ。ほかにも拳銃や散弾銃を持っていた。
 違法所持していたわけではない。銃器マニアでも狩猟家でもなかった。シューティングレンジで撃つ趣味もなかったようだ。ということは護身用、自衛のため、と理解するしかない。
 ルイジアナ州刑法には、明文化された正当防衛の「特別規定」があった。不法侵入を企てたり侵入した他者を、その施設内で殺した場合、侵入を防ぐか退去させるため必然と信じて行ったなら正当防衛で免責、である。

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 男が「フリーズ」といったのは、調べた限りでは間違いない。
 しかし、留学生が「プリーズ」と聞き違えたという事実は見当たらない。
 撃たれて胸に大穴があき呼吸困難、動かせば痛みで全身が跳ね上がるような状態にあり、間もなく亡くなった留学生から聞くしかないのだ。
「フリーズとプリーズ」の聞き間違いは、日本の報道で、コメントする誰かが無責任にいったことが、ひとり歩きしたのではなかろうか。
 ちなみに「フリーズ(動くな)!」は、映画にしか出てこないような表現だそうだ。すくなくとも警察は使わないという。

■発砲者が無罪になった刑事裁判

 この事件が起きた年に、バトンルージュ市内と近郊では、七十四件の殺人事件があった。
 その大半が、加害者も被害者も若い黒人で、ほとんどが銃によるもの。人口は計三十数万人で、東京の中野区ほどだ。しかし、留学生の件以外の捜査や裁判は、まったくといっていいほど注目されていなかった。

 いっぽう、日本人留学生射殺事件が、早い段階から地元の注目を集めたのは、高校生が射殺されたためではなく、空港でレンタカーを借りないと市内へ行けないような小都市(州都だが)に、日本から報道関係者が殺到したからだ。
 日本が、アメリカと銃の関係を非難していると受けとられたのである。
 バトンルージュは、銃社会アメリカが、銃による正義の正当性を、日本の価値観との対決をもって主張する舞台になったのだった。

 刑事裁判は、地元では敵同士で有名な検事長と被告人弁護士──後者は功名心が強いことでも知られていた──の対決となる。
 前出の本を読むと、弁護人は過剰なほどの法廷パフォーマンスを展開するが、その必要があったかどうか疑わしいほど、陪審評決はあっけなく「無罪」。
 刑事事件で陪審評決が選ばれた場合は一審確定で、発砲した男は完全に無罪になった。
 目立ちたがりの弁護士に、敵に対してなぜか詰めの甘い検事、いきなり大舞台に立たされた陪審員たち……あらかじめ評決は決まっていたも同然だ。こんな事後発言さえ、平気で出てきたのである。

他の国から来て、私の国をどうしろ、こうしろと言うのを聞くと腹が立つの。日本国内で何が起きようと、私には関係ないわ。戦争に勝ったのはアメリカでしょう。今度は、日本がアメリカに意見しようっていうの? 私は銃規制に反対だし、一人の少年が死んだからって、銃を廃止しろなんて信じられない
(刑事陪審員のひとり、ジュディス・クーリー[当時、四十四歳の事務員、白人女性、事件発生地区在住、散弾銃所持]が、後に取材に応じたときの発言)

■民事裁判の法定戦略と判決

 刑事無罪確定をうけて、留学生の両親は民事訴訟の提訴を決めた。
 そして地元の弁護士事務所に、起訴を依頼する。
 担当弁護士は、なにびとも法の下に平等であるという哲学のもと──皮肉でなく当たり前だと思うが──他の弁護士が忌避した訴訟を、多く手がけてきた人だった。
 そして、この原告側弁護人は、周到な準備をして法定に臨んだ。

 刑事訴訟の、それが当然だといわんばかりの無罪評決が象徴していたのは、銃の所持も発砲も基本的人権のように「保障」されていて、銃に関する罪は「非合法・不正当」という領域でしか問われえないという堅固な偏見、というのがいい過ぎなら価値観、である。
 バトンルージュの弁護士たちの間でも、発砲者の行為は安全を守る正当なものという意見が多かったという。

 民事の原告側弁護士は、その価値観に正面きっては構えず、また、同様なバトンルージュ的価値観(偏見)である人種問題──黒人と間違えて撃ったかもしれない──へ、論議が行かないよう注意したそうだ。
 そして、事実を曲げないよう、情緒に訴える戦術をとった。
 留学生には暴力や犯罪の資質がなく、ただ家を間違えて「パーティに来た」だけ、を打ち出し、来米して日が浅いのに学校の人気者で明朗な少年だったと、地元のアメリカ人を証人にたて、熱意をこめて証言させる、などだ。
 陪審裁判でなく判事裁判に「なってしまう」手続きを戦略的にとったことも原告有利にはたらいたという。巧みだ。

 結果、銃撃は正当でなかった、という判決。
 ルイジアナ州では上限に近い損害賠償額の、当時で約七三〇〇万円の支払いが発砲者に命じられ、控訴棄却、確定。
 発砲した男は一部を払ったのみで自己破産、家族ともに街を出て、ゆくえは不明だという。
 留学生の両親は事件後早くから、アメリカの家庭に銃が存在しないように、という運動をはじめた。
 アメリカ国内にも声が届き、現在も運動は受け継がれているそうだ。また、以後も日本ではアメリカ人留学生の受け入れ家庭になり、娘さんもペンシルヴァニア州へ留学させたという。敬服すべき行動だ。

 ただ、それとは別に、かんじんのことはわからないまま、ともいえる。
 つまり「なぜ撃ったのか」が、はっきりとはわからない。
 ひょっとすると、発砲した本人にも、説明できないことなのかもしれない。

■銃所持発砲の是非と殺人の正当性

 最初に留学生の姿を見た妻は、ドアを強く閉めカギをかけた。が、さらにこういった──と発砲した男はいっている(警察尋問調書から)。

 she hollered at me to go get the gun.

 刑事、民事、両裁判の結論は正反対だったが、判断のポイントは共通で、銃所持の是非とは関係なく、殺人が「reasonable」だったかどうかに尽きたことは、よくわかった。
 しかし、知らない子どもを見ると、なぜ「鉄砲もってきて!」と怯えて叫ぶのか。また、どうして自分よりはるかに小さい少年に、命中すればほぼ死ぬ銃を発砲するのか。そこにいかなる「妥当さ」が見い出しうるのか。まったく理解できないところだ。
 
 こういうことをいうと、安全慣れした日本人だけの感覚だとか、アメリカの実情を知らない、と批判されることがある。
 英会話が不十分なうえ、アメリカ人はフレンドリーだ的な印象だけで、どこへでも日本で旅行している気分で行ってしまう、という指摘も、よくみかける。
 この事件に関するものは調べていないが、在住日本人から、観光や留学などで短期来米する人へ意見があると、訓示めいてもっと厳しいこともある。

 いずれも、言いすぎとまでは思わないが、この事件は、亡くなった留学生の無知や知識不足が原因ではない。
 銃を持ったほうが「リーズナブル」なら、撃ち殺されても仕方ない土地であることを考慮して行動すべきだった、という批判があるとしたら、まったく的外れだ。
 射殺された留学生をそう批判するなら、留学させた両親はもちろん、はじめに地元のホストファミリーを、愚かだと批判しなければならない。
 ましてや「フリーズ」と「プリーズ」の聞き間違いという、留学生の英語力不足が不慮の死の原因だと、この事件をまとめてしまったら、その少年の命を奪った、はるかに大きな問題が見過ごされてしまう。亡くなった少年は文字どおり、浮かばれない。

■なぜアメリカ人には銃が必要なのか

 事件当時のバトンルージュと郊外一帯は、かなりはっきりと地域キャラクターが分かれていたと思われる。
 アメリカの都市地域すべてがそうとは思わないが、所得、人種、学歴や階層、場合によっては職種などのカテゴリーごとに、人は集まって住む。後から来た人は、市域を見渡せば自分が住む場所が決まるので、集団の密度があがり、飛び地のようにコロニーが出来て大きくなる場合もある。郊外宅地など、違いがなだらかに変化せず、ストリートが変わると雰囲気が一変したりするのも、こうしたことの結果、現れる特徴だろう。
 地域どうしの間にはヴァーチャルな境界線があるわけだが、架空なのに厳然とした分断線が存在しているわけだ。

 もちろん、これも「日本人感覚」でしている話で、この住み分けの背景には複雑な感情があるはずだ。
 社会的立場が弱い人たちには抑圧感がある。ならば社会的立場が強い人たちは優越感があるかというと、そのことでむしろ不安が去らず、これまた抑圧感にのしかかられているに違いないのだ。
 こうなると、いくつかの条件を共有しているような近隣の居住者どうしにさえ、抑圧感が強く生じてしまう──わずかな差異を排他感覚でとらえてしまうような──という、始末におえない状況になる。
 抑圧感を抱えて隣接する人たちは、偽善で結びつき、ニセの正義・自由・平等を信奉している。よく知られているように、単純な悪よりも偽善のほうが苦しい。弱者は助け合わず、豊む者には競争しかない。他者を受け入れないのに、信仰心を重んじでもしたら、抑圧感は二重三重となって、爆発を待つばかりだ。

 抑圧感で塗り分けられた、べつの地図の存在。
 それを気にしながら暮らしている人たちが、自分を抑圧する存在──しまいには、自分とどこかが違うだけで、そうとらえてしまうようになる──から、身を守るには。

 銃は、抑圧された人たちの、杖なのだ。
 とりわけ、弱者がすがる杖を、奪うことはできない。

 したがって、いまアメリカの市民生活からすべての銃を突然なくしたら、銃よりも扱いが楽で、さらに暴力的な殺人道具を、たちまち人びとは手にとるだけだ。
 現実的な話でいえば、市民の銃所持を原則禁じる政策を第一に掲げでもしたら、その大統領は、こんなヤツがと驚くほどの「弱者」に、銃で暗殺されることは間違いない。いや、そもそも当選できないな……。
 銃があるから人がみだりに殺される、だから、銃をなくせば人は殺されなくなる、ということではないのだ。

■アメリカの市民生活から銃が消える日

 アメリカの市民生活から、銃をなくすことは不可能ではない。
 といっても妄想じみた提案だが、いきなり銃規制だNRAだと強硬路線をとって、暗殺が横行する──本当にそうなるかもしれんな、怖ろしいことに──ようなことなく、銃が、しぜんと姿を消していく方法がある。

 十字架、銃、クルマ──わたしはそれらを、アメリカの三種の神器といっているが、順序を選んで、これらをひとつずつ、やめることだ。
 いずれも、正義・自由・平等の市民的シンボルのような、だからこそ「神器」といいたい存在なのだが、どれも、それに隠れて心を閉ざし、よく知らない危険な──と決めつけた──他者を排除するためのものだからだ。

 まずは、クルマをやめる。
 できそうな気もしなくはないが、もちろんアメリカの大都市部以外では、まったく現実的ではない。
 が、クルマの代わりに、安全な公共交通が存在すること、そして人びとがさまざまに乗り合わせるその公共交通でリンクされた、排他的でないコミュニティの存在を想像してみてくれたら、と思う。

 そのつぎに、キリスト教をやめる。
 実際には、教会通いやお祈りを欠かさないほどの信仰度は、さほどない──しかし、歴史上キリスト教とはるかに長い関係があるフランスやイタリアより、よほど強い──が、それでもキリスト教をやめろというのは、十字架が、偽善と虚偽のコミュニティのよすがであり、また、偽善と虚偽の正義の、錦の御旗だからだ。
 アメリカ大統領は、聖書に手を置く、そして聖書にふれた手で戦争をする。核ミサイルを発射するのも、その手だ──かってな想像だが、日本の高校生が射殺されたピアーズ家の、銃をしまってあったクローゼットの引き出し、そこに聖書が入っていたとしても、まったくおかしくない、そういうことだ。

 アメリカに、これ以上むりやり「アメリカであろう」としたり、「アメリカはこうでなければならない」とツッパるのをやめなよ、といっているのだ。
 まあ、わたしがいったところで、どうなるというものでもないけれど。
 ただ、ほんとうにアメリカの人たちに、そちらに舵をきる決心があるならば、そのとき銃は、すくなくとも市民生活からは、いつしか、そしてほぼ完全に、姿を消しているだろう。

私の国をどうしろ、こうしろと言うのを聞くと腹が立つの。日本国内で何が起きようと、私には関係ないわ。戦争に勝ったのはアメリカでしょう。今度は、日本がアメリカに意見しようっていうの?

 ああ、いまさらと思うかもしれないが、いわせてもらいたいね。

 とりあえず、ここんとこ日本でとてつもなく盛り上がってる「ハロウィン」を、見に来てよ。
 そしたら「日本国内で何が起きようと、私には関係ないわ」なんて、開き直れなくなるぜ!
 というのはね、実は日本では、とても深い意味を込めてハロウィンをやっているんだよ。
 その意味は、え〜と、なんだろうな……。(ケ) 

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【参考】

・『フリーズ ピアーズはなぜ服部君を撃ったのか』/平義克己、ティム・タリー/集英社/一九九三年
・「服部君裁判」勝利の瞬間/チャールズ・ムーア/『文藝春秋』一九九四年十一月号

 www.moorehebert.com/who-we-are/charles-r-moore
 www11.plala.or.jp/yoshic/



※ 二〇一四年一〇月二十三日投稿の初稿を、二〇一九年九月二〇日、大幅に手直し+構成し直して再掲しました。
  話の流れ、文意・意見は同じ。初掲時いただいたコメントが無意味になる削除や修正もありません。
管理用



posted by 冬の夢 at 22:19 | Comment(4) | TrackBack(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
子供のための銃「マイファーストライフル」のCMでは「強く優しく頼もしい」父親とその家族の幸せそうな様子が見られます。銃による被害者にはとても正視できない内容と思いますが、銃による犯罪が起きるたびに銃規制に反対する人々が逆に増えていく現実をどう受け止めるべきかわからなくなります。例えば遠隔操作でミサイルを発射するよりは目の前でことが起きるという点でより生の暴力と言えるのか、どちらがより「人間的」なのかと。なぜ人が人を殺すのかということに正面から答えを出せない以上、この問題も永遠に続くように思います。
Posted by nul at 2016年11月07日 21:23
久しぶりにアクセスしました。(14年のは拝見していません)
この事件、もう二十年以上前になるんですね。当時の記事で、Freeze! が聞き取れず…というのは覚えていますが、「プリーズと聞き違え」は記憶にない。たぶん、後追い解説など読まなかったのでしょう。
その頃、私はアメリカ製アクション・ドラマを見まくっていて、このセリフに馴染んでいたせいか、それじゃ可哀そうだがあり得ること、と片付けていました。「フリーズとプリーズ」はカタカナで書き並べるとそっくりだが、原音セリフで聞くと語感がだいぶ違う。発する語気も相当別なはずですが。
コトバ談義はともかく、「抑圧地図」から問題をみるという視点はいいですね。
また、「なくせる確実な方法」と掲げて、問題の永続性を説く論法も気に入っています。
発音の話に戻るけれど、今の人はハロウィンをハに強勢を置いてしゃべりますね。これを新鮮(あるいは妙)に感じるのは自分の頭に昔の表記ハロウィーンが残るうえ、私が「テレビを見ない」人間なのだもので。
Posted by 山本 謙吉 at 2016年11月09日 12:59
あまり大きな声で言うことではありませんが、アメリカというところにはほとんど何の興味もないので、本来は何も言う資格はないと思っていますが、アメリカらから銃をなくす、少なくとも何らかの実効的な銃規制をするためには、アメリカ合衆国を少なくとも今のEUのような、複数国家の連合体に変えることが一番簡単な方法のように思います。つまり、州の独立を認めるということ。連邦政府の権力を制限すること。現在のアメリカ合衆国の歪みの多くは、あの国があまりに巨大であることに原因があるのでは? アメリカ、中国、ロシア。バカみたいに図体がでかい国家はどこか根本的に奇妙なところがある、というのは「小国日本」に特有の島国根性の反映でしょうかね? とはいえ、これこそありえない夢物語ですけどね。
Posted by H.H. at 2019年09月20日 22:32
フリーズとプリーズ。この発音の違いは、私は昔英語が得意だったから、静かな場所で声をかけられれば十分区別して聞き取れるけれど、例の事件の場所等知らないので被害者を非難する気にもならないし、加害者を責める気にもならない。それよりも、何故関係者がハロウィーンのやり方を教えなかったかが不思議でならない。簡単な理屈で、しかもアメリカが銃社会である事を日本人の関係者が前もって教えておけば悲劇は防げたろうに・・・・・。
Posted by 土肥定芳 at 2020年11月13日 20:16
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