2012年04月05日

クソ真面目の精神:教師は競艇に行ってはいけない!

4月は相変わらず「最も残酷な月」だ。春の嵐があってもなくても。春愁とはよくぞ言ったもので、それだけでも昔の人はエライ。
 
もうずっと昔、大学の1年生か2年生のとき、倫理学の授業でカントとサルトルの本が教科書になっていて、その二人の思想にふれた。カントは何となく分かったような気がしたが、サルトルはどうだったか。多分、その授業ではカントほどには理解(共感)できなかったように思う。自分なりにサルトルの思想に魅力を感じたのは、彼の『悪魔と神』を読み、運良くその上演(もちろん翻訳劇)を見る機会があったからだと思う。サルトルの、いわゆる「生真面目な精神」(l’esprit de sérieux)に対する批判も、この劇を通して自分なりに理解できた。神の名の下での戦争や虐殺、ナチス時代の職業軍人や官僚によるユダヤ人虐殺。彼らはそれぞれに「真面目」だったに違いない。真面目に信心し、真面目に職務を遂行したのだろう。アイヒマンに代表されるように、「真面目」で有能な官吏が、何の良心の呵責もなく大量に人を殺し続けるということ。この事実を直視すると、心は石のように重くなる。

先日、新聞やネットのニュースで知ったちょっとした事件、いや正確にはその事件の報道にかなり驚き、ショックを受けた。それは、大阪かどこかの教員(記憶では中学校だったか、あるいは高校か)が、生徒に渡す通知表を競艇場で作成していて、それを目撃した人が教育委員会だか学校に通報したという事件。事実の詳細がいい加減であることはご容赦願いたい。というのは、事の詳細は私が感じた驚きや衝撃に全く関係がないのだから。私が驚いたのは、「どうしてそれが全国ニュースになるのだろうか?」という、極めて単純なことである。

記事を読んだ記憶では、その教員は休暇を取って競艇に行っていたか、あるいは休日だったか、いずれにしても職務を不正にサボって競艇に耽っていたわけではなかった。そして、競艇は言うまでもなく公営ギャンブルであり、仮にその教員が大金を賭けていたとしても、そのお金が彼の私有財産である限り、何の問題もない。事実として、その教員が犯した不祥事の全ては、「学外持ち出し禁止である通知表を学外に持ち出した」ということであり、「覗き見をしようと思えばできるような場所で通知表を広げ、生徒の個人情報が流出する危険を冒した」ということであろう。これは確かに規則違反であろう。しかし、仮にこの教員が自宅で通知表を作成して、その事実が明らかにされたとしても、何のニュースにもならなかったのではないだろうか? それとも、教師が試験の採点を自宅でしたことが明らかになるたびに、全国ニュースになるのだろうか? 個人情報流出に関しても、なるほど、もしもこの教師がその通知表を競艇場に置き忘れたならば、さすがに大問題である。しかし、事実として、そのようなことはなかった。
 
率直にいって、そのニュースの主眼は、「教師がよりによって競艇場で通知表を」ということに尽きよう。だが、それはせいぜいゴシップ程度の問題ではなかったのか。「教師がよりによって短パンで教壇に立った」というのと大同小異、五十歩百歩ではなかったのか。繰り返すが、もしもこの教員が喫茶店で通知表を記入していて、その姿を目撃されたとして、それもまたもちろん通知表の校外持ち出しに相当するのだが、ここまで問題視されたとは想像できない。(それとも、それでさえも今のご時世では白眼視されるのだろうか? 私にはわからない。)

だが、このニュースは全国規模で報道され、その教員の実名も明らかにされた。そして、先日、その教員が依頼退職したことも報道で知った。「生徒に迷惑をかけた」という旨の本人の談話もあったので、責任を感じての退職であろう。

このニュースと顛末を知って、「生真面目な精神」が直ちに思い出された。いつから日本の社会はこんなに「生真面目」になってしまったのだろうか。この「生真面目さ」が一人の人間を失職に追い込んだとしても、誰も何とも思わないのだろうか? だとしたら、その「生真面目」が強制収容所に至っても、おそらく何とも思わないだろう。事実、これもまた大阪だが、教員が君が代を歌ったかどうかを、その口元の動きまでチェックしてご丁寧に調べた管理職がいたという。それは最早「クソ真面目」と言っても何の差し支えもない精神だ。サルトルでなくても、そのような精神はすでに人間ではないと言いたくなる。いつの間に日本は人間でない人間が多勢を占める社会になってしまったのだろうか。

クソ真面目な人たちは、例えばサンソン・フランソワのような、酔っぱらったような演奏をするピアニストを決して容赦しないだろう。だから今日ぼくは彼の、少し、いや、かなり変テコな、まるでジャズピアノのような一世一代のショパンを聴きたいと、心の底から思う。そして、夜が更けて、家人もみな眠りにつき、遠くの車の音も消え去った頃に、金子光晴の「おっとせい」を読み返そう。


その息の臭えこと。
口からむんと蒸れる。

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのようにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、
おお、憂愁よ。

そのからだの土嚢のような
つづぐろいおもさ。かったるさ。

いん気な弾力。
かなしいゴム。

そのこころのおもいあがっていること。
凡庸なこと。

菊面(あばた)。
おおきな陰嚢(ふぐり)。

鼻先があおくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反対の方向をおもっていた。

やつらがむらがる雲のように横行し、
もみあう街が、おいらには、
ふるぼけた映画(フィルム)で見る
アラスカのように淋しかった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

おお。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が、たちまち、さけびもなくわれ、深漂のうえをしずかに辷りはじめるのを、すこしも気づかずにいた。
みだりがわしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは氷上を匍いまわり、
…………文学などを語りあった。
うらがなしい暮色よ。
凍傷(しもやけ)にただれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろえて、拝礼している奴らの群衆のなかで、
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、
反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらいなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むこうむきになってる
おっとせい」
posted by 冬の夢 at 23:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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