2020年04月27日

散歩とキスと厄病よけの護符 .

 運動するよう、病院でいわれている。運動は不得手だから散歩をなんとか習慣にしてきた。しかしもう三週間以上、外出せず室内運動もあまりしない(二〇二〇年四月)。
 日数がたったし、とうぶん出歩かないので、ウイルス拡散者になる可能性は低い。この点は、ほぼ大丈夫だろう。
 ただ今後の感染回避となると、たとえ外出が週一回でも、首都圏でウイルスとの接触を完全に断つのはむずかしい。
 わたしは年齢や病歴から、発症すると死ぬ率が高いと思う。それはあきらめているが、できるだけ気をつけたのに死ぬことになったら、苦しいだけでなく悲しいだろうな、と思う。

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 寿司屋でキスはダメ! という話がある。
 サヨリ(鱵)は祝い寿司には使わない、というのは聞いたことがあるが、キス(鱚)がダメとは知らなかった。どちらも好きな寿司だ。
 寿司店で食べたことがあるわけで、どちらも絶対に出しませんという寿司屋はめったにないと思うが、江戸前寿司らしい語呂合わせや伝承へのこだわりは面白い。しかも鱚を避けるのは、厄病よけにまつわる話だそうだ! 江戸時代の実話が起源だという。
 外出しない昨今にかぎらず、何年も、寿司屋にはめったに行っていない。つぎの機会がないまま死ぬことになったら泣くに泣けないな、と思いつつ、調べてみることにした。

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 門柱や屋内の柱に貼られた護符を、昭和世代のわたしは記憶している。地方の古い家や、昔ながらの旅館などで。
 厄病よけにお札を貼る場合、寺社札以外に、厄病神を助けた逸話のある武士などの名を書いて貼る習慣もあるそうだ。厄病神も一宿一飯の義理は立てるらしい。

 厄病神に貸しがあり、しかも鱚にまつわる人は「釣船清次」という。その名を書いたお札を貼ると厄病よけになるそうで、寿司屋で鱚を握らないのも「釣船清次」が由来だそうだ。
 江戸時代の実話というからには資料を見たいが、部屋に閉じこもっていては無理……ではなく、意外にあっけなく見つかった。国立国会図書館デジタルアーカイブ。古い文献などをスキャン画像でネット公開している。
 さっそくパソコンの画面で紐解いたのは、蜀山人こと大田南畝(一七四九〜一八二三)の『蜀山人全集』(吉川弘文館/一九〇七〜一九〇八)にある「半日閑話」。戦後に再刊されているが、公共図書館は閉館なので一冊ずつ目次を見て探せないし、まさか全巻買って調べるわけにも、と思っていたものだ。

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 大田南畝とは、天明時代、おなじみの田沼意次が幕政を牛耳った時代に、狂歌作家、戯作筆者として大衆に人気があった人だ。しかも学芸家にして評論家であり、ルポライター的な仕事もした才人である。
 そのうえ、ふだんは勘定方、いまでいうと財務、経産、農水、国交などの各省を兼ねたような江戸幕府の重要部署に勤務する、レッキとしたサムライで官僚だった。驚きだ。

 その南畝が、街中で見聞したことを三百以上の記事にしたという「半日閑話」に、「釣船清次か事」という一文がある。
 さっそく目を通したが、ウッ! 江戸時代の文語とはいえ日本語なのに、英文和訳なみにわからんところが! バカな間違いをしないよう、読める人に添削してもらった。

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「釣船清次か事」は、こんなふうに始まっている。

 本八丁堀二丁目半兵衛店清次申上候私儀奇怪之義申觸疫病除之札差出候趣相聞え被 召出御尋御座候

「釣船清次」は、八丁堀の半兵衛長屋に住む釣船漁師。なにやら怪しい厄病よけの札を出しているらしいと、番所に呼びつけられ、申し開きした。

 寛政二年(一七九〇年)の、五月二十四日朝六時ごろ、清次は品川沖へ鱚釣り漁に出た。百匹ほど釣ったという。
 ちょうどいまどき(新暦四月)だったのかと、ちょっとしみじみするが、それはともかく、清次はいつもの買い取りさき、日本橋の魚屋へ持ち込もうと築地に船を着けた。

 すると、どこから来たのか「みごとな鱚だな」という男。
 面体は判然としなかったが、栗梅色の唐人織のような衣姿で、髪もヒゲも逆立てた、背丈六尺余りの大男だ。「丈ケ六尺」とは一八〇センチくらいだが、当時はさぞ巨大に見えただろう。

 一匹さしだしたところ、受け取り、名を聞いてきた。「清次」と名乗ると、「お前は正直者だな、おれは厄病神だが、家内や親類のところに、お前の名を書いて置いておくなら、その家には行かんようにするぞ」といって、どこかに去った。
 このことを妻子や長屋の人たちに話すと、近所の人の妻が病気で、ぜひ清次の名を書いたものがほしいと頼まれた。字が書けなかった清次が長屋の人の代筆をまねて名を書き、渡すと、なんと快癒してしまった。

 たちまち、あちこちから名前の札をくれと、さんざん頼まれるようになったが、べつに謝礼をとったことはないし、訪ねてくる人だらけで生業の漁に差し支えるので、もう頼まれても断ることにしておりますと、申し立てた。

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 ということが、その翌月、六月二十二日付の御番所の記録にありと、南畝は書く。そして文末に、こうつけ足している。風聞では、その大男は「大盗人にて水中を潜事魚のことく、家根なと飛ぶ事鳥の如く」。翌年の寛政三年に捕縛されたらしい、と。
 
「釣船清次」の護符は、後々まで厄病除けに効くとされ、どこでそうなったのか「鱚断ち」で厄病神を避けられる、となって、寿司屋では縁起をかついで鱚の寿司は握らない、という習わしができたようだ。
 実際は、自称「厄病神」の泥棒が「お前の家には盗みに入らないでおいてやる」といった、という話だ。「大盗人」が長屋を荒らすのも変だから、冗談だったかもしれない。

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 この話、なぜ書くことにしたんだっけ。
 キス断ち(チューをしない)をすれば感染が減らせまっせ、というつもりだったのかな。
 それとも、日本中の家庭や会社で玄関やエントランスに「釣船清次」と書いた紙を貼りましょう、という企画案だったか。

 いや、そうじゃない。昨今の、二つのあきれた状況のせいだ。
 ひとつは、もはや悪い冗談でしかなくなった「マスク」。これは説明するまでもないし、なにか書くと絶望しそうなので、こまごまと書くのはよす。
 もうひとつは、ほとんど着信がなくなっている電子メールアプリに──もともと知人は少ないが、安否確認が怖くなったのだろうか──ときどき届く、セキュリティソフト会社のアラートだ。

 セキュリティソフト会社からのメールは、新しいコンピュータウイルスの出現報告が主だが、いまの事態につけこんだ便乗詐欺や、騙(かた)り商法、架空請求なども警告してくれている。
 その種類や巧妙さときたら、よくも飽きもせずアレコレと手口を思いつくね、と感心するほどだ。そんなにクリエイティブな発想力と実行力があるなら、なんで正業につかんのかと不思議なくらいだ。
 いや、彼らはべつに正業でも利益を出す能力があるが、人がだまされてカネを出すのが面白いのだろう。カネはある所にはあるんだから多少カスメ取ったって、などと開き直り、甘言を弄して人心をもてあそぶ──そういうことを楽しんでいるんでしょう。
 待てよ、「マスク」の内情も似たようなものなんじゃないのか? ウラは知らないし、これ以上、邪推させないでくれと政府にお願いしたいくらいなのだが。

       ♪

 思えば、トイレットペーパーがない、にはじまった、品薄大騒動がなければ、まるでズッコケ劇場みたいな「マスク配り」だって、影も形もなかったはずだ。
 しかし、なんだっていいから縋(すが)りたくなるのも、不安になると騒ぎ立てて、不安なのは自分だけじゃないと思いたい気持ちも、よくわかる。他人を救いながら自分で自分を守るなんて、わたしにだってとても難しい。
 ならば、何ができるのだろうか。
 いや、さして何もできないだろう。わたしだって、よけいな身動きをせず、できるだけ科学的な背景のある情報だけを選んで聞く、それくらいしかできないでいる。

 後々まで厄病よけのお札に名を残すことになった「釣船長次」は、恬淡としたものだった。こんなふうにいって、いつものように毎朝、釣り船を出し続けていた。

 禮物等請取候義は無御座候尤私日々渡世に罷出候に付き所々より認貰に参り候ては渡世之邪魔に相成り候事ゆへ當時は頼來候ても相断認遣不申候

 礼を寄越せと受け取ったことはないですし、自分は毎日、生業の釣漁に出なくてはなりませんのに、あちこちから書いたものを貰いに来られては仕事のじゃまですので、当今は頼みに来ても断って、書きものは渡しておりませんです。


(ケ)
200427Hs.JPG 
「品川すさき」──歌川広重『名所江戸百景』 1857
public domain


■「釣船清次か事」の解釈を確認してくださったかたに感謝します。
■二〇二〇年七月二十二日、文のつながりのみ直しました。


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2020年04月25日

パチンコ店騒動:頭の悪い奴は嫌いだ!

 愚生は、愚生のくせに、かなり若い頃から(例に違わず?大学生の頃か)「頭の悪い奴は嫌い」だった。もっとも、ここに記すまでもなく、愚生は受験に失敗したくらいで、結局はいわゆる「滑り止め」の大学に入学したくらいだから、本人も阿呆であることは間違いない。そして、「***は自分のことを***とは言わない」と言い慣わされているように、おそらくはその逆も真なりで、阿呆に限って阿呆が嫌いなのかもしれない。が、ともかく、「頭の悪い奴は嫌い」だ。

 その理由は、そういう阿呆はこちらの話を決して聞かない。聞く耳を持たない。意固地に自分の考えに凝り固まっている。そして、意見が対立したときに、「じゃあ、お互いのいいとこ取りをすればいい」とは決して思わない。こういう輩を愚生は「頭が悪い奴」と見なしている。実際、他人と意見が合うことなんぞ、王様と奴隷の間でかろうじて表面的にあり得るだけで、それ以外のところでは、「十人十色」とか「百人百様」とか So many men, so many minds. などと言われているように、各人の意見は絶対に異なる。異なるのが自然だ。そして、この場合も自然は決して間違うことはなく(我ながらなんて立派なロマン主義者!)、異なった意見の存在が結局はお互いの利益となる。これこそが、ロマン派ご推薦の弁証法的発展というものだ。対立意見との葛藤を経て、より合理的な、より高次な考え方に辿り着く。これが世界の根本的原則だ。だから、そういうスキルを微塵も持たない輩は、つまりは真正のバカということだ。

 この真正のバカのもう一つの特徴は、(というか、同じ特徴の別の顕れ方に過ぎないが、)「何が問題の本質なのか?」と決して問わないことにある。現在自分たちが直面している問題の本質は何なのか、現在追求している真の目的、目標は何なのか、なぜ君とぼくはここで、こんな風に対立しているのか? 彼らバカ者たちは決してそのようなことを問題にしようとは思わない。そのため、対立する人たちと共通の土俵を持つことさえできないのだから、話し合いを通じてお互いの「いいとこ取り」なんてできるはずがない。

 こんなことを書き出したのは、愚生が大嫌いな大阪府知事(世間では「この危機に凄く頑張っている」と高評価らしいが、愚生には所詮は橋下徹と同じ穴の狢、いわゆるネオコン=新保守主義者、しかも個人の自由は抑圧するというのだから、それならつまりはファシストということ、『庶民は権力者のいうことを素直に聞くべし!』と言っているようにしか聞こえない)が、またまた阿呆なことをしでかしているからだ。

 事は緊急事態宣言発令下でのパチンコ店の営業。行政が市民に外出自粛を要請しているのに、一部のパチンコ店は休業要請を無視する形で営業を続けているようで、そうした店舗にパチンコ大好き人間たちが集中しているらしい。それを怪しからんと憤慨した知事殿は、そうした店舗の名前を公表すると息巻き、おそらくすでに公表したようだ。(あまりにバカバカしいので、その後のことは何も確認していません、悪しからず。)

 先ず、何も考えなくても、このやり方はほとんど「いじめっ子の論理」を思い出させる。より大きな力を持っている側が、「こちらの言うことを聞かないなら、もう我慢できん。覚悟しろ」といって、弱い方を切り捨てているだけだ。こんなことをするくらいなら、「『新型インフルエンザ等対策特別措置法』に罰則がないことは致命的欠陥だ」と吠えている間に、大阪府で独自の条例を作れば済むだけだし、その方がずっと理解できる。タバコのポイ捨てだって条例で取り締まれるくらいなのだから、休業要請に従わない場合の罰則規定くらい、地方自治体レベルで制定できそうなものだ。(それとも、これは意外とハードルが高いのだろうか?)

 しかし、次に気分が滅入るのは、「いったいこの人は何がしたいのだろう?」と、あまりに不可解で、それで気分が悪くなってくる。つまり、運悪く「頭の悪い奴」と遭遇してしまったときの気分。

 「オレ様が何がしたいか? それがわからないお前の方がよっぽどのバカだ。新型肺炎の蔓延を食い止めたい、ただそれだけに決まっている」といかにも言われそうだが、事の本質はここだ!

 パチンコ店に限らず、休業を強いられている飲食店も同様だが、なぜ「いいとこ取り」を本気で追求しないのだろうか? 不思議でならない。しかも、コロナウイルスの問題が深刻化してからもう1ヶ月も経っていて、つまりは、考える時間は1ヶ月もあったのに。そして、もしも今現在(4月25日)の時点で飲食店やパチンコ店、本屋などが休業しなければならないのなら、それこそ期待の神頼みの神風でも吹いてくれない限り、5月も6月も休業要請を撤回する根拠は「これでは経済が止まってしまう」しかないわけで、それなら、今現在「これでは経済が止まってしまう」と主張する人たちを説得できるはずがない。であるなら、どんな阿呆が考えても、「どうしたら、コロナウイルスへの対策と、お店の営業を両立できるのか?」を追求するしか手はない。「いいとこ取り」をするしかないではないか!

 そんな妙案があるのか。これも不思議だが、少しでも頭があれば、いくらでもアイデアはある。(先のクルーズ船のときも、素人が考えても、もっとマシな対応ができたと思われるが、あのときの『失敗』と現在進行中の愚策は、見事に重なる。)

 例えば、飲食店に対しては、「休業しない場合、テーブル、椅子を通常の半分以下にする」「来店者に対しては、感染経路の明確化のために、氏名と住所を記録する旨を伝え、それに応じた客だけを受け入れる」「テーブルでの会話はできるだけ小声で行うように強く要請する。応じない客には退席を求める」「調理師を含め、勤務者には検査を実施する」、等々の策を講じた上で、営業を認めるしかないではないか。さもないと、日本中の外食産業が衰亡する。ところが、今のままでは、どうやら連休明けには「全ての飲食店が元通りに営業再開する」ような勢いではないか。そんなことをすれば、あっという間に患者数が激増するような気がするのは、はたして愚生だけだろうか。

 問題のパチンコ店にしても、「休業しない場合は、遊戯台の台数を通常の3分の1以下にする。換気は最大にして、ドアや窓は開放する。それに伴い、店内の音声は止める。喫煙も厳密に分煙化する(禁煙が望ましい)、等々」の細かい条件を提示して、その上で認めるしかないではないか。

 そもそも、これは地方のレベルでは不可能なことだが、なぜ日本政府は緊急にモラトリアムを発令しないのだろう? モラトリアムといっても、心理学分野の話ではなく、元々の経済学領域の話で、おそらく今必要なのは、原則あらゆる支払いを停止することではないだろうか? 賃料や家賃、そして従業員の給料でさえも、1ヶ月の支払い猶予・停止を行うことと、休業要請はセットでなければ正しく機能しないだろう。だからこそ、実質的にベーシック・インカムの導入が必要になるだろうし、だからこそ、野党からの批判を無視して決定した先の予算案があらためて後悔される。あのときに、「確かに、この先コロナウイルスでどれだけのお金が必要になるかわからないから、対策費を確保しておこう」と、少しでも冷静に考えることができていれば、もっと有効な手立ても考えられただろうに。

 それにしても、いかにもバカバカしいのは、この期に及んでまだパチンコ通いが止められないのは、そういう御仁にはお気の毒だが、明らかにパチンコ中毒者であると思われる。ところが、維新の会という政党はカジノを誘致して、ギャンブル依存症の患者を増大させることに邁進している張本人だという事実がある。こうした本質的な自己矛盾には頬被りして、「どうしたら積極的な妥協案が見出せるか」とも考えずに、自分の権力を誇示するかのように反対者を叩き続ける。そして、それに対して一部の庶民が喝采を送る。何度も言うが、「理性の眠りは怪物を生む」。今、日本のあちこちで多くの怪物が生まれているような気がしてならない。そして、その怪物はコロナウイルス以上に厄介で怖ろしい。(H.H.)

posted by 冬の夢 at 21:19 | Comment(0) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2020年04月20日

無観客の皐月賞と外出しないこと

 2020年4月19日のJRAメインレースは第80回皐月賞。三歳牡馬によるクラシックレース初戦だ。結果はホープフルステークス圧勝の後、休養明けでの出走となったコントレイルが、サリオスとの競り合いを制して優勝。鞍上の福永祐一騎手は皐月賞での初勝利となり、これで三歳馬五大クラシックレース完全制覇(※1)を果たすことになった。
 福永祐一は1996年に騎手デビュー。落馬事故によって三十歳が最終騎乗となった天才騎手福永洋一の息子だということで、新人時代から騎乗依頼に事欠くことなく勝ち鞍を重ねてきた。初めてのクラシック勝利は1999年プリモディーネに乗った桜花賞。待望の日本ダービーは、一昨年ワグネリアンで獲得。父・洋一の宿願でもあったダービージョッキーの座に就いた。
 父の落馬は祐一が二歳のときの出来事だから、現役時代の父のことは知らないはず。それなのに母親の大反対を押し切り、懸命にリハビリする父と同じ職業を選んだのは、武豊に憧れたからだと言う。桜花賞勝利はデビュー四年目のことだったが、その翌週に落馬し左腎臓摘出の大怪我を負う。そのせいもあってか、G1レースに勝てない時期が何度もあった。今回の五大クラシック制覇は二十一年かけてのこと。武豊の十一年に比べると倍近い時間がかかっている。そんな福永祐一だからこそ、無敗の皐月賞馬となったコントレイルで二度目のダービー戴冠を狙ってほしい。父・洋一の騎乗ぶりは空を飛んでいるようだと形容された。コントレイル=飛行機雲が、息子・祐一を空に運んでくれるのを期待したい。

 さて、今回の皐月賞は、周知の通り無観客で行われた。普段なら中山競馬場に十万人近いファンが押し寄せるところ、スタンドには誰ひとりいない。新型コロナウィルスの感染拡大に対応して、日本中央競馬会では今年2月29日から無観客開催を続けており、競馬場にも場外勝馬投票券発売所にも入場することは出来ない。では、なぜレースだけが行われているかと言えば、インターネットで馬券が買えるからだ。しかもいとも簡単な手続きでパソコンやスマホから購入が出来てしまう。実は私も今回の皐月賞出走三時間前に思い立って「即PAT」の会員になってコントレイルの単勝馬券を買った。三月末に行われたG1レース高松宮記念は前年を上回る売上を記録したらしい。新型コロナウィルスで外出自粛要請が出されるようになり、家で過ごす人が増えたことも一因なのだろう。中央競馬の無観客開催は、感染拡大防止と経済効果維持をなんとか両立させているようである。

 しかしながら「無観客」がどこでもうまく行っているわけではない。プロ野球はオープン戦全七十二試合を無観客で開催したものの、シーズン開幕には至っていない。大相撲も大阪での三月場所を無観客で強行開催した後、一部の部屋で力士に感染者が発生し、初日の予定を二週間遅らせた五月場所は実施出来るかどうかわからない。
 プロ野球オープン戦も大相撲三月場所もTV中継だけはされていた。スポーツ観戦好きの身としてはいつものようにTVをつけてみるものの、やはりいつものようではない。東京ドームも大阪府体育館も観客席は空っぽ。歓声も応援の声もない。中にはそれが良いと言う人もいる。ある人は投球がミットに当たる音が新鮮だと言い、別の人は力士の頭がぶつかり合う音に迫力があると言う。しかしそうだろうか。それらの音は誰にも受け止められることなく、中空をさまようばかりで、虚しさを上塗りする効果しかなかったように見えた。
 一方ですべての活動を中止したうえで、あえて「無観客」を試みたのが歌舞伎公演。国立劇場、歌舞伎座、新橋演舞場などは三月以降の公演をすべて取りやめたため、チケットはオールキャンセルになった。スポーツ観戦以上に「密閉・密集」の危険性がある劇場公演では致し方ない。それでも舞台装置や鬘、衣装など上演に向けて準備してきたものがすべて無駄になってしまうことも事実。ならばと「無観客」で一日だけ役者が集まって芝居を行い、その模様を収録した映像をYouTubeにて期間限定で無料公開することにしたのだった。
 そのYouTubeで私が見たのは、国立劇場の小劇場で上演されるはずだった『義経千本桜』の「渡海屋」と「大物浦」。かつて見たときも寝てしまった記憶しかないように、物語に入り込まない限りは決して面白くは見られない出し物だ。実際にYouTubeで見続けるのは少なからず難儀だった。集中出来ずにぼやぼやと眺めていたら「生き変わり死に変わり恨みはらさでおくべきか」という台詞が聞こえてきた。『魔太郎がくる!!』(※2)の決め台詞は浄瑠璃が元ネタだったのかと知ったのだけが収穫ではあった。

 スポーツにしろ演劇にしろ、TVやネットで見るということ自体は現代において開発された愉しみ方だ。プロ野球はともかくとして、相撲と歌舞伎は江戸時代から続く興行もの。興行とは本来「演芸やスポーツを行い、入場料をとって客に見物させること」(岩波国語辞典)であって、観劇や観戦を目的とした観客を集めることでしか成り立たない。観客のいない興行は有り得ないし、観客がいないところで行われるとしたら、それは単なる稽古や練習でしかないだろう。確かにスポーツには審判がいて勝ち負けを判断するし、演劇では演出家や師匠がいて芸に駄目出しをする。しかしそれはスポーツや演劇にあらかじめ組み込まれた前提条件のひとつに過ぎない。審判も師匠もその本分は結果を客観視することにある。客観とは観客の視点に他ならず、その意味で本当のジャッジは観客がするのだし、芸の良し悪しは見物人が決めるのだ。
 主体と客体。この両者が揃うことではじめて興行が成立する。見る者と見られる者。見られる者は同時に魅せる者であり、見る者は魅せられる者でもある。主客は「見る」と「魅せる」の間を行きつ戻りつしながら一体となる。「主客一体」とは茶の湯を表す言葉。茶を振る舞う主人だけでは何も出来ず、招かれる客人がいてはじめて茶の湯の場が出来する。興行も等しく主客一体に他ならない。
 無観客の『義経千本桜』がつまらなかったのは、もちろん私がこの物語の基本をよく理解していないこともあるのだが、観客のいない舞台で役者たちがどこか空々しく演じているようであったからだ。大相撲の三月場所も同様で、結びの一番がまるで幕下の取組のように感じられたのは、上位対決の場を盛り上げるべき観客の不在に起因する。
 見る者と見られる者は、感じる者と感じられる者と言い換えられる。感じるとはすなわち意識すること。スポーツにしろ演劇にしろ感じる者も感じられる者も互いのことをいつのまにか恐ろしく深く意識している。数万人のスタジアムの中で優勝が決まるペナルティキックを蹴るサッカー選手。彼または彼女はひとりきりの練習と同じようにボールを蹴ることは決して出来ない。失敗するかも知れない。そのせいで負けるかも知れない。その意識を数万人の観客もまた意識している。あいつ大丈夫なのか。また外すんじゃないだろうな。なんとか決めてくれ。そんな万単位の意識の集中を受け止めて乗り越えた者だけが勇敢にも一本のキックを蹴ることが出来る。成功するか失敗するかは誰にもわからない。ただそのキックを蹴る者こそがプロフェッショナルであると誰もがわかっている。
 先日亡くなったプロ野球監督の野村克也が、チームミーティングで最初に配布するのを常としていた「野村ノート」。その冒頭には「グラウンドと観客席との空間にこそ"生き甲斐"が存在する」(※3)と書かれていた。選手と観客。役者と見物。お互いに主となり客となり、主客がひとつになって同じ時空を共有する。これこそが興行の本質であり、その時空を横から眺めるのがTV中継だったりインターネット中継だったりするのだ。
 競馬で容易に無観客レースが成立するのは、競争馬に見るとか見られるという意識がないからだ。サラブレッドたちにあるのはただ走ることのみ。競争相手や騎手のことは「感じて」いるだろうが、馬にとって観客はなきものと同じ。出走を告げるファンファーレのときに騒音を響かせるだけのハエみたいなものだ。レースをTVで見ていてもあまり違和感がないのはそのためではなかろうか。

 サッカーやプロ野球、歌舞伎や文楽が、新型コロナウィルスの感染拡大によって開催出来ない。未見で楽しみにしていた『新薄雪物語』も、脂が乗ってきた菊之助による『白浪五人男』も、通しで見て勉強し直そうと思っていた文楽の『義経千本桜』もすべて公演中止になった。海老蔵の團十郎襲名公演は延期になり、1200円で見られるというから会員になったシネコンは閉鎖されたままだ。
 ついこのあいだまで当たり前に見られていたものがすべて取り上げられてしまった。新型コロナウィルス恐るべしである。これまでもスポーツや演劇が開催出来ない危機は何度もあった。戦時中のことは知らないが、東日本大震災後興行界は危機的状況に陥った。けれども復興のために働く多くの人たちのおかげで、安心してスポーツ観戦が出来るようになり、映画や演劇も復活した。
 今回は違う。誰かが何かをしてくれるわけではない。待っていればやがて収束されるというものではない。自分がやらなければならない。他の誰でもない。自らの行動を制限して接触をこれまでの8割減にしないと新型コロナウィルスの感染は止まらない。止まらないとどうなるか。ずっと今のままだ。ずっとこの先、芝居は上演出来ない。文楽の人形は遣われることなく横たわったまま。野球場には誰も入ることが出来ない。それで良いわけないではないか。早く芝居が見たい。映画館に通いたい。スタジアムに行きたい。
 「今こそ思いやりを」「利他の精神でコロナウィルスに打ち勝て」云々。本当にそんなことが出来ると思っているのか。ほとんどの人が自分のことしか考えていないのだ。だから緊急事態宣言が全国に発出されたその週末に江ノ島が大渋滞し、戸越銀座に人が溢れ返るのだ。自分のことで精一杯の人たちがなぜ他人のことを思いやってなどいられるだろうか。
 しかし、このままでは、当たり前だった暮らしは戻って来ない。誰もが自分なりに取り戻したいものがあるはずだ。パチンコやりたい。カラオケで歌いたい。キャバクラに行きたい。宴会したい。USJでデートしたい。何でもいい。まず自分がやりたいことを思い浮かべるのだ。それは強く念じているだけでは戻って来ない。そうだ。外出するのをやめるんだ。外出しないことが、自分のしたいことが出来るようになる唯一の手段なのだ。8割減では足らない。絶対に外出しなければならない人たちがいるからだ。尊敬すべき医療従事者。大量の物資を運ぶ運送業の人たち。毎日品出ししながら生活必需品を販売してくれる小売業の従業員。電気・ガス・水道や交通機関など社会のインフラを支える人々。そうした人たちは出勤しなければならない。その人たちの分を減らす必要がある。8割ではなく9割。出来るならばそれ以上。引きこもっても良い。自分がやりたいことを取り戻すために。外出するのをやめよう。誰のためでもない。自分のために。

 蛇足だが、中央競馬の無観客開催は続けるべきである。中央競馬会の収入は他でもない勝馬投票券売上であり、100円の馬券を買うと10円が国庫納付金として国の一般財源に繰り入れられる。さらに中央競馬会が年度決算で利益を出した場合、その半分がさらに納付金に加えられる。言うまでもなく10万円給付金や事業者への持続化給付金などで国の財源は今後逼迫してくるだろう。JRAが収める納付金は畜産振興や社会福祉に充当されていて、レースを中止してしまうとこの金流が止まってしまうのだ。
 また一方で、100円の馬券収入のうち15円で、レースの賞金や手当、競馬開催費用、人件費が賄われる。レースに馬を出走させる厩舎はこの15円がないと立ち行かなくなる。厩舎が潰れるとあぶれるのは厩務員や騎手だけでない。馬たちも路頭に迷う。中央競馬に所属する現役競走馬は7800頭余り(※4)。すべての競走馬を馬肉にして食べてしまうのもなくはないが、出来ればサラブレッド本来の役割として競馬場でレースをさせてやりたい。馬のために使う税金などはないのだから、走ることが馬自身を救うことになる。
 もちろんそれは、安心して競馬関係者が集まってレースを開催できるようにしてくれている中央競馬の様々な人たちの尽力なくしてはあり得ない話。真に重要な仕事をする人は自らの働きを喧伝などしない。政治家たちとは大違いである。(き)


レース.jpeg


(※1)三歳牡馬の皐月賞/東京優駿(日本ダービー)/菊花賞、三歳牝馬の桜花賞/優駿牝馬(オークス)の五レースのこと。

(※2)『魔太郎がくる!!』は藤子不二雄のマンガ。昭和四十七年から週刊少年チャンピオンに連載された。『ドカベン』『がきデカ』『ブラック・ジャック』などとともにチャンピオンの黄金期を支えた作品だった。

(※3)スポーツグラフィックナンバー999号「名将野村克也が遺したもの。」より引用。

(※4)農林水産省馬関係資料(2015年)現役競走馬登録頭数より。



posted by 冬の夢 at 23:25 | Comment(1) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする