2020年02月27日

国立劇場二月文楽公演『傾城反魂香』 〜 錣太夫を支える人形遣い

津駒太夫が新しく錣太夫(※1)を襲名するという記念公演。チケットもお気に入りの席を確保出来て、国立劇場へ出向くと、意外にも空席が目立つ。先月から国内でも感染者が出始めた新型コロナウィルスの影響だ。それでも開演前のロビーには人だかりがしていて、何事かと目をやる。そこには錣太夫ご本人がいて、サイン会をやっているではないか。並んでいる人たちが手にしているのは普通の公演パンフレット。急いで売店で買い求めて列に並んだ。「ご襲名おめでとうございます」と差し出すと、錣太夫さん、にっこり笑って律儀に「ありがとうございます」と返してくれる。サインと言うよりきっちりとした楷書の署名。真から実直なお人柄が伝わってきて、より一層応援したくなる。津駒太夫としては『仮名手本忠臣蔵』の高師直がとりわけ印象深い。その烈々たる意地悪さ。塩冶判官でなくても抜刀してしまうだろう侮蔑感。しかし、署名の書き方にも表れているように、性根が良いお役のほうが似合う太夫だ。そんなだから、襲名披露公演の演目『傾城反魂香』(けいせいはんごうこう)の又平はドンピシャのセレクトだと思わされた。

「土佐将監閑居の段」(とさのしょうげんかんきょのだん)は絵描きの浮世又平とおとくの夫婦が揃って土佐将監に土佐の名字を名乗らせて欲しいと頼み込む場面。又平は吃音があって思ったことがうまく伝えられず、その反対に女房のおとくはおしゃべりで夫の気持ちを代弁する。この仲良し夫婦のコンビネーションが大きな見所になっている。
二人が登場して驚かされるのは、人形遣いの熟達さ。又平を桐竹勘十郎、おとくを豊松清十郎が遣うのだが、人形の動きだけでこの夫婦の仲睦まじさが見物たちに伝わってくる。身体の向き方や二人が座る動作、互いに手を添える優しさや少しだけ視線を合わせる様子。生身の役者以上に演技が自然で巧い。錣太夫には申し訳ないのだけれど、太夫の語りが不要なほど勘十郎と清十郎による人形たちは有弁だった。演技とは「演ずる技」のことで、まさに「技」が浮き上がって見えるような又平とおとくであった。

こうして感心させられたのは、実はその前に出た『新版歌祭文』(しんぱんうたざいもん)の人形遣いと比べて見てしまったから。ご存知の通り「野崎村の段」は久松を巡っておみつとお染が女の火花を散らす場面に妙味がある。なぜなら太夫の語りでは語られないところで人形同士がやり合うから。久松との祝言が決まったおみつが猛烈にお染に敵愾心を燃やすその気持ちは、人形でしか表現出来ない(※2)。ところがこの日の「野崎村」は人形の演技が軽過ぎた。おみつとお染の人形が互いにつつき合うことはわかるものの、おみつが久松を待っていた千秋の思いが伝わらない。お染のほうは思いだけでなく、既に久松と肌を合わせている強みがあるが、その背景がわからない。

元に戻って又平とおとく。又平は腕は確かな絵師。うまく話せず師に認められない夫をなんとか出世させてやりたい女房おとく。又平のもどかしさ。それをいとおしみ、献身するおとく。太夫が語るのは「夫はなまなか目礼ばかり 女房傍から通詞して」から続くおとくの長広舌だけ。ふたりの本当の心根は、ほとんど人形が伝えている。勘十郎と清十郎が錣太夫襲名披露を祝いつつ、その実力を目に見える形で舞台に示していた。
クライマックスは、土佐の名字を名乗ることが許された後の又平の見栄。「七段目」の寺岡兵右衛門で見せたのと同じように、人形遣い三人が別々の動きをしているのにも関わらず、又平としての動きが統一されているという複雑な遣い方。そこに文楽を見る愉しみが凝縮されていた。
錣太夫を見に行ったのに、今回は人形があまりに良くてついそちらに惹きつけられてしまった。しかし床で真っ赤な顔をしながら語り続ける錣太夫には、心底実直な味がある。聞けばもう古希を迎えたと言うが、年齢は全く感じさせない。個人的には織太夫と並んで応援したい太夫のひとり。ぜひ健康に気をつけて長く活躍していただきたい。(き)


錣太夫.jpg


(※1)六代目竹本錣太夫(しころだゆう)。先代が逝去した昭和十五年以来、八十年ぶりの名跡復活だそうだ。

(※2)床本では「サア父様、据ゑますぞへ」「アツ〜〜ア、ゑらいぞ〜〜。明日が日死なうと火葬は止めにして貰ひませう。」と灸を据えるおみつと久作が描写されているだけ。お染が門口から覗いているというシチュエーションは明記されていない。あとに続く「久松様には振袖の美しい持病があつて招いたり呼び出したり、エゞ憎てらしい、あの病面が這入らぬやうに〜」というおみつの悋気の語りに、お染の存在を匂わせている程度だ。



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2020年02月23日

Lyle Mays − ORIGAMI 元気が出る曲のことを書こう[46]

 自分が生きている時代に作られて演奏される音楽で、もっとも熱心に聴いたもののひとつが、パット・メセニー・グループ(PMG)の曲だ。

 一九八〇年の二作目、『AMERICAN GARAGE』に魅入られて、これはいまも、わたしの最高の「ロック」盤のひとつでもあるけれど、すぐにデビュー盤も聴き、以後、盤が出るたびに買った。
 ライブ演奏にも、かなり行った。ヨーロッパのどこかを旅行していたら、やはりヨーロッパの別のところでジャズフェスティバルに出演していたPMGの演奏が中継放送されていて、宿の部屋でテレビにかじりついたこともある。ネットの動画はもちろんDVDもなかったころだ。
『AMERICAN GARAGE』のアルバムジャケットで、ジョール・マィェロウィッツという写真家を知り、「ニューカラー」という写真表現ジャンルがあることがわかった。それは、自分が写真を鑑賞するようになったきっかけのひとつにもなっている。

       ♪

 テレビ放送や、レーザーディスク、そして来日公演を観ると、PMGの中心は、かならずしもパット・メセニーではないことに気づいた。
 ライル・メイズだ。
 つまりメイズは、よくいわれるような、メセニーのよき伴奏者、なのではない。
 たしかにメセニーとメイズは共作で作曲するし、メセニーという最高のソリストがいなければPMGにはならないが、PMGの音楽は、メイズの「協奏曲」なのだ。

 協奏曲といっても、器楽と伴奏が書かれた譜を演奏するのではない。
 メセニーはギターで、よく、とんでもない所からフレーズを持ってくる。ギターで弾いているとは思えないほど、すごいゾーンに飛び込む。
 するとメイズは即座に、そのゾーンから溢れるメセニーの音を輝かせるべく、曲の変奏を、その場で作り出す。
 それはもちろん、ジャズの演奏方法だけれども、ジャズの基本の「解釈」にとどまってはいない。
 PMGのオリジナル曲は、じつはかなり練られた構成になっている。クラシックの形式に近いともいえる。が、ひとたび演奏されると、PMGのメンバーは、空中衝突寸前のニアミスをするかと思えば、空いっぱい散って飛び回るという、すばらしい編隊飛行をする。曲は地図をたどりつつ、有機的に変化を繰り返す。

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LYLE MAYS 1986 / Street Dreams 1988

 書いて説明すると、聴くのはなかなかしんどい前衛音楽のようだが、PMGの演奏には、どこかにいつも心安らぐ音が鳴っている。フォークソングのような、古き良き名作映画のサントラのような、
 かといって、メイズのピアノの弾きかたは、けっして情緒的でしまりのない和音や装飾をジャジャン、ピロピロとつける、カラオケふうではない。清潔な強い音がはっしと響き渡るのが特徴だ。
 これは、音源を使った笛や竪琴のようなアンビエントにも通じていて、はっとするほど強く吹き渡る風のような芯がある。

 そういうことを知ってからは、実際の演奏でメイズがしていることを見たくて、ライブに行ったようなものだ。
 メイズのソロの終わりや、メンバー紹介では、ことさら熱心にメイズに拍手したりもした。
 
       ♪

 ピアニストというよりコンポーザー(作曲家)だ、とメイズは自分を定義している。
 演奏ではなく作曲という自己表現をしている、と。
 録音した中で、もっとも個人的な表現は、二〇〇〇年に発表した盤、『SOLO IMPROVISATIONS FOR EXPANDED PIANO』だともいう。
 だから、いまほとんど毎日、この盤を回している。
 
 一九九八年の演奏ツアーの直後、メイズはニューヨークのスタジオで、なんの準備もせずに、ひとりでピアノの即興演奏を行った。
 ソロアルバム、それもひとりきりで演奏した盤を作れとけしかけたのはパット・メセニーで、メイズは笑いながら「パットが僕を説き伏せて、やりたくないことをやらせた例のひとつ」だといった。
 自分は演奏家ではない、音楽家としては違う位置にある、というメイズには、ジャズピアノの達人たちの有名なソロ演奏が、亡霊のようにちらついたという。
 しかし、思ってもみなかったことを提案するメセニーと、その提案にそって、自分自身が出来ることを探してみる、というメイズの、いつもの音楽作りの関係から、「もっとも個人的な表現」が、みごとに完成した。

       ♪

 題名の「IMPROVISATIONS」は「即興演奏」。これはいいとして、「EXPANDED PIANO」とは何か。
 これはMIDIピアノのこと。ピアノタッチで弾ける電子鍵盤は、いまふつうに売っているが、このときは、センサーを装備したグランドピアノが使われている。
 つまり、メイズが即興でピアノを弾くと、音符やニュアンスが同時にデジタル信号になる仕組み。データになった奏者の動きをそのピアノで完全に再生することもできるし、演奏中、鍵盤をトリガーにしてべつの音源を鳴らすこともできる。
 メイズは、ひとり楽団芸になってしまうような、大仰な使いかたはしていない。即興演奏に、即座にオーケストラがついてくるような、そういう鳴らしかただ。つまりメイズの「演奏=作曲」の表現のポイント、同時性、共時性を、デジタル技術によって楽器と一対一の関係から引き出している。

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SOLO IMPROVISATIONS FOR EXPANDED PIANO 2000

 このシステムから、自身の生きかたから引き出された表現というより、芸術やドラマの持つ力から来る音が現れたと、メイズはいっている。
 演奏に対し、視覚的なイメージを見いだしてほしいそうだが、それは、彼の心に浮かんだ特定の映像ではないそうだ。

 即興演奏が、即興の管弦楽のようにならないか、というのが、メイズが探りつづけた可能性でもある。
 そのためには、音楽に対して分析的になることを怖れないそうだ。即興とは魔法のようなものだ、とは思っていない。なにごとも、より深く考え、書いたり話したりするのがメイズの性格だそうで、つねに思考をリファインしたいという。
 しかし、ジャズの即興演奏を弾くときは、同時に分析している余裕はない。本能的に弾かなければならない。であるからには、さまざまな音楽の方向性を理解している脳からこそ、瞬間的に音楽が引き出されてくるのだそうだ。

       ♪

『SOLO IMPROVISATIONS FOR EXPANDED PIANO』では「ORIGAMI」という曲がいい。たった1分ほどの小さな曲で、親しみやすく聴ける。
 メイズによれば、注意深くて、デリケートで、小さいことが、この曲のポイントだという。
 ドビュッシー、あるいは、バルトークの曲のような感じもあり、メイズは影響を受けていると思うが、もちろん即興演奏だから、できあがったものをながめて初めて、ふと思うところもある、という聴こえかたをする。

 ごく最近まで知らなかったことだが、メイズは4つの大きな興味をもって育ったそうだ。
 チェス、数学、建築、そして音楽だという。

 なるほど「ORIGAMI」のフレーズは、ころがるように自由に流れるけれど、一点から一点へ、揺らぐことなく走っていく。
 一枚の紙を自在に折り曲げる、ただし、折り線はあくまでまっすぐに折ること──そうしてこそ「折り紙」は美しく豊かなイメージを小さな形にする。そして、鶴の折りかたから蛙が生まれ、カブトを金魚に変化させることもできる。

       ♪

 聴く側に多様な解釈と、イメージの想起が起きること、そのためにも石に刻まれたような音楽にしないことが、メイズの意図だというので、わたしがこの曲からどんな「折り紙」を想像したかというと「箱」だ。
 折り目正しい直線の組み合わせが、ふしぎと、あたたかい手ざわりを感じさせる箱になる。つぎからつぎへと音楽が出てくるような箱……。

 折り紙の箱、それは、この盤のアルバムカバーからも想像したものだ。
 買ったときは、ぜんぜん気に入らなかったジャケットである。
 せっかくの美しい風景写真を、なぜ、こんなふうに抜いて、痛めてしまうのだろうと。

 しかし、この盤ばかり回していると、こんなふうにも思う。
 同梱のライナーにも同じように、アメリカの雄大で心安まる原風景を白板で抜く「痛い」デザインがされているのだが、その、抜けた空白部分をライル・メイズの音楽が埋めることで、これらの風景が、はじめて完成されたイメージになる、ということではないかと。
 そして、そのイメージの眺望と響きのなかに暮らしているかぎり、アメリカの人たちは、いや、ひろく人というものは、自然に対しても、ほかの人に対しても、けっして粗暴なふるまいはしないはずだ、と。

 わたしに、音楽を教えてくれた奏者・作者たち、ということは、わたしよりやや上の世代の人たちになるわけで、自分自身が人生のたそがれを迎えているからには、その人たちが亡くなっていくのは、しかたがないことだ。
 せめて、誰それが亡くなったと、くよくよした音楽話を書かないようにして、「元気になる」をテーマに書いてきたわけだけれども、このアルバムカバーを見ながら聴いていると、ライル・メイズの不在がもたらす呆然とするほどの空虚感に、われながら驚く。(ケ)

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Lyle David Mays 1953/11/27 - 2020/02/10


参考】
・アルバムについてのライル・メイズの解説コメント
・アメリカの音楽誌『JAZZ IS』によるインタビュー


[注]ほぼ前者を参考にしました。ただし、パット・メセニーの公式ウエブサイトのフィーチャー記事の形でウエブ上に存在しているのですが、メセニーのサイトからはどうしても入ることができません。資料としての信頼度を確認できていないことを、おことわりしておきます。



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posted by 冬の夢 at 14:55 | Comment(0) | 音楽 ジャズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2020年02月19日

追悼・野村克也監督 〜 1992年日本シリーズを振り返る

 子どもの頃、子どもたちはひとり残らず野球をして遊んでいた。誰かが投げて、誰かが打つ。マウンドもホームベースも外野手もいない。たぶん捕手もいなかった。空振りしたら打者が後方に転がったボールを取りに行き、投手に返した。それは試合ではなく遊びだった。けれども背番号はあった。揃いのユニフォームはとても高価で手に入らない。だから白い半袖シャツの背中に油性マジックペンで数字を書いた。歪んだ線で平行も取れていない手書き番号。それでも憧れのプロ野球選手になり切れた。年長の子どもが年少の子たちと揉めた末に長島茂雄の「3」と王貞治の「1」をとる。私は争いを避けて高田繁の「8」。あぶれた子たちは渋々ながら黒江の「5」や土井の「6」に落ち着く。そんな中でいきなり「19」にすると言い出す子がいた。南海ホークスのキャッチャーで四番打者。史上二人目の三冠王(※1)。野村克也の背番号19を選ぶ子どもは当時ではかなりの変わり者だった。TVの野球中継はすべて巨人戦だったし、少年誌の表紙は長島か王。そして何より野村克也には子どもたちを惹きつける華やかさがなかった。だから野村が南海で選手兼監督になっても、ロッテから西武へとさまよった末に引退しても、さしたる興味を呼び起こさなかった。

 野村克也は引退後、野球解説者になっていた。当時はフジテレビが夜11時台に放映していた「プロ野球ニュース」の全盛期。関根潤三や豊田泰光らの解説者とアナウンサーの掛け合いで、ナイトゲームの結果をワイドショー的に伝える番組が人気だった。派手なフジテレビの対極にあったのが地味なテレビ朝日。そのテレビ朝日の野球中継解説者が野村克也だった。ところが野村の解説が段違いに面白い。他の解説者が投げた後と打った後に話をするのに、野村だけは打つ前、投げる前にコメントを呟く。「盗塁してくる場面だからカーブは投げたらあかんです」「前の打席でストレートを打たれてるんで、ここは同じ直球を内角高めにボール気味に放れば空振りですわ」。それまでの解説者は「今のは鋭いカーブでしたね」とか「ライトの守備位置が前過ぎました」とかプレーの結果の感想を述べているだけだった。それに対して野村は次に起こるプレーを予測し、なぜそうなのかを解説した。野村の野球解説は特別に革新的に聞こえた。それは内外の野球理論を知悉したうえで、深く長い捕手経験をベースに選手の癖や心理までを読み取って分析を加えたものだった。
 その解説が野村克也の次の道を拓く。現役引退から九年経った1989年の秋、野村の自宅を訪れたのはヤクルトスワローズ球団社長の相馬和夫。「ぜひヤクルトの監督をやっていただきたい。もう一度ユニフォームを着てくれませんか」。相馬は野村の野球解説を欠かさず聞き、新聞に掲載された評論をもれなく読んでいた。「ヤクルトの選手に野球の真髄を教えてやってほしい」という誘いに野村は肯いてこう答えた。「一年目に種を撒き、二年目に水をやり、三年目に花を咲かせましょう」。(※2)

 野村克也の言葉は現実のものとなる。監督就任初年度の1990年こそ5位に終わったものの、1991年は3位とヤクルトを十一年ぶりのAクラスに浮上させ、1992年にはついにセ・リーグ制覇を成し遂げたのだ。
 野村が掲げたのは「ID野球」。インポータント・データの言葉通り、データを徹底的に分析して、選手たちの頭に叩き込む。同時に選手起用を見直した。新人キャッチャーの古田敦也を正捕手に指名。捕手だった秦を外野手にコンバート。飯田は捕手から内野手へ、さらには外野手へと移された。ベンチで野村から付きっきりの指導を受けた古田は「頭を使う野球」をマスターして、投手の全配球を差配した。92年のセ・リーグは、ヤクルト・巨人・阪神・広島の四チームが勝率五割を超す大混戦となったが、最後にヤクルトが阪神戦を制しリーグ優勝を果たした。広岡達朗監督による初優勝から十四年ぶりの快挙だった。

 日本シリーズの対戦相手は西武ライオンズ。西武はヤクルトを辞めた広岡達朗を監督として招聘して、1982年に日本一を達成。広岡から監督の座を受け継いだ森祇晶のもと、ほぼ毎年のように戴冠を重ねていた。
 西武の圧倒的強さは巨人に四連勝した1990年の日本シリーズが物語る。一番辻が安打で出塁し二番平野が犠打で送る。三番清原が四球で歩き、四番デストラーデに長打が出て、一回で早くも先制する。なんとこのパターンが第一戦から第三戦まで同じように繰り返されたのだ。球界の盟主だった巨人をぐうの音も出ないほどに叩きのめしたその強さを前にすると、野村ヤクルトはとても西武の相手ではないように思われた。リーグ優勝したと言ってもヤクルトは69勝61敗1分の勝率.531。かたや西武は80勝47敗3分で、勝率.630と独走でパ・リーグを三連覇したのだ。
 しかし、予想はあくまで予想に過ぎなかった。1992年のヤクルトスワローズと西武ライオンズによる日本シリーズは、今日まで語り継がれるほど波乱万丈の大激戦になったのだ。

第一戦(延長サヨナラ)
ヤクルト7-4西武
先発投手はヤクルトが岡林、西武は渡辺久信。九回表に西武が追いついて3-3のまま延長戦へ。十二回裏ヤクルトは一死満塁のチャンスに代打杉浦。2ストライクと追い込まれた杉浦だが、鹿取からサヨナラ満塁ホームラン、ヤクルトが先勝した。

第二戦(投手戦)
西武2-0ヤクルト
荒木大輔と郭泰源の投げ合いを制したのは清原の2点本塁打。舞台は西武球場へ移動するが第三戦は雨で一日順延に。

第三戦(この試合だけ普通)
西武6-1ヤクルト
このシリーズで唯一の一方的な試合。ヤクルト石井一久の先発は高卒ルーキーではシリーズ史上初という奇策。打線も西武の石井丈裕に抑え込まれた。

第四戦(投手戦)
西武1-0ヤクルト
ヤクルトが再度岡林を先発させる一方、西武は渡辺智・鹿取・潮崎の継投策。岡林が秋山のソロ本塁打のみに抑えるも、ヤクルトは打線が不発のまま三連敗。後がなくなった。

第五戦(延長戦)
ヤクルト7-6西武
ヤクルトが6点先行して楽勝かと思われたが西武が6点取り返して同点のまま延長へ。十回表、不調だった主砲池山が本塁打を放ち、その裏をベテラン伊東が抑える。舞台は再び神宮球場へ。

第六戦(延長サヨナラ)
ヤクルト8-7西武
荒木と工藤の先発で始まった試合は逆転に次ぐ逆転の連続。ヤクルトが三度目の逆転に成功し逃げ切りを図った九回表、西武が秋山の長打で追いつき7-7でまたまた延長戦に。しかし十回裏、秦のサヨナラ本塁打でついにヤクルトは三勝三敗のタイに持ち込んだ。

第七戦(延長戦)
西武2-1ヤクルト
ヤクルトは第一戦と第四戦を完投した岡林が三度目の先発。西武石井丈から一点先取したヤクルトは七回表に追いつかれ同点に。その裏、一死満塁の好機に代打はまたしても杉浦。鋭いゴロを二塁辻がキャッチし本塁へ送球するも高く逸れる。跳び上がって捕球した伊東はホームベース手前に着地。その足が三塁走者広沢をブロックしてタッチアウト。ヤクルト最大のチャンスは潰えた。同点のまま試合はシリーズ四度目の延長戦。七戦のうち三試合をひとりで投げ抜いた岡林から秋山が犠飛を放つ。十回裏を石井丈が抑え、西武ライオンズが日本一を決めた。(※3)

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 第七戦までもつれ込む白熱したシリーズ。そのうち四試合が延長戦。二試合がサヨナラホームランで決し、息詰まる投手戦二試合。ヤクルトが逆王手をかけた第六戦は逆転に次ぐ逆転のシーソーゲーム。野球は筋書きのないドラマであるとは誰が言ったか知らないが、まさにドラマ以上にドラマティックな日本シリーズだった。
 同時に第三戦が雨天順延になったことも見逃せない。短期決戦の雨は両チームの勢いを削ぐ一方で、投手起用に影響を及ぼした。結果的に三試合をすべて完投した岡林は、雨天順延がなければ第七戦には投げられなかったはず。また、当時の日本シリーズはデイゲームでの開催。連日の延長戦で、夕闇迫る中、球場には照明が灯される。太陽の陽射しから照明塔のカクテル光線へ。十月下旬だから徐々に下がる気温も選手は気になったことだろう。そして、何よりも日本一を決める短期決戦が昼間に開催されているという非日常感には、特段の雰囲気があった。
 翌年の1993年。ヤクルトと西武は再び日本シリーズで対決する。やはり第七戦までもつれるも、最後にはヤクルトが制し、西武の四連覇を阻止。十五年ぶりの日本一に輝いたその年が、日本シリーズにおけるデイゲーム開催の最後となったのだった。

 1992年の日本シリーズは、野球ファンなら誰もが思い出す名勝負だった。あれから三十年近くが経ち、球場はほとんどがドーム化されて雨の心配はなくなった。ナイトゲームだから平日でもTV観戦が可能で、誰もが普通に見られるようになった。しかし誰もが日本シリーズを見ることはなくなってしまった。両リーグの覇者が争っても、毎年パ・リーグのチームが勝つのだ。第七戦まで行ったのは七年前。そもそもリーグ優勝チーム同士が戦うわけではない。クライマックス・シリーズを勝ち上がればリーグ三位でも日本一になってしまう。そんな日本シリーズでは、野村ヤクルトと森西武のようなドラマ以上のドラマを見せることは不可能だろう。
 かくしてプロ野球史上最も面白い日本シリーズは終わった。第七戦で160球を投げ切った岡林は「使ってくれた監督に感謝したい」と言った。インタビューに答えた野村監督はひと言「選手を褒めてやりたい」(※2)。ID野球を掲げながら、実は情の人でもあった。野村克也監督のご冥福を心よりお祈りしたい。(き)

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(※1)野村克也は1965年にパ・リーグで三冠王を獲得した。プロ野球最初の三冠王は1938年の巨人軍の中島治康。

(※2)「捕手ほど素敵な商売はない 野村克也VS森祇晶」(松下茂典著・朝日新聞出版刊)を参考にした。

(※3)Number303「'92日本シリーズ速報」(1992年11月20日号・文藝春秋発行)を参考にした。

(※)野村克也氏は2020年2月11日、八十四歳の生涯を閉じた。


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