2019年12月17日

夜の千切れ雲(2):月の光は流れる水(其の三)

月の光は流れる水(其の三)
「其の一」はこちら

「其の二」はこちら

 隣の部屋とは襖で仕切れるようになっていたが、二人が入ったときには襖は開かれていた。その隣の部屋にはテレビや立派な座卓が置かれていたけれど、邦郎は特にテレビが見たいとは思わなかった。ただ、いかにも疲れて眠そうな母には申し訳ないが、たっぷり昼寝をしてしまった身としては、すぐには眠れそうになかった。そこで、すでに寝間着に着替えた母に向かって尋ねてみた。
 「少し起きていてもいい?」
 「そう? もう眠くないの?」
 「うん。多分」
 「そうね、五時間は寝ていたものね。お母さんはもうすぐにも眠れそうだから、先に寝るわよ。邦郎は、起きているなら、襖を閉めて隣で本でも読んでいたら?」
 由美子の了解を得て、邦郎は隣の部屋で本を読むことにした。持ってきた本を読み切ってしまうことになるけれど、もはや仕方なかった。それに、きっと帰りの電車は眠って過ごすことになるだろう。
 (それにしても、さんざんな一日だったなぁ)
 踵の包帯を見つめながら心の中で一人愚痴を言ってみた。そのくせ、実はそれほどには惨めな気分でないのが不思議でもあった。たっぷりの昼寝にはそんな効果もあったのかもしれない。邦郎は怪我したところに障らないように気をつけて座卓に向かい、いつしか本の世界に夢中になっていた。本好きの子供だけが示す、いったん本の世界に入ってしまったら、まるで夢遊病者か何かのように、周囲の物事に対する関心と注意力をすっかり失ってしまう、そんな集中力を発揮して。だから、誰か他の人が部屋に入ってきたことにも気がつかなかった。その人が静かに声をかけ、ようやく邦郎は気がついた。
 「眠れないの?」
 本から目を離すと、すぐ近くにお婆さんが立っていた。長い昼寝から目覚めたときに、心配そうな顔つきで邦郎の顔を覗き込んでいたお婆さん、上原のお婆さんだった。そのときの第一印象と同じく、静かなくせにやけに明瞭な口調と、何よりもお婆さんにしては背の高い、背筋がぴんと伸びた着物姿は、邦郎には少しばかり威圧的にも映らないではなかった。けれども、邦郎をしっかりと見据えるその両目は、決して柔和に微笑んでいるとは言えなかったにしても、厳しさとは無縁の、それとは何か別のものを示していた。今になってみれば、それは旧い家を守る女家長としての責任感や自負と深く関係していたのだろうと信じられるのだが、子供の邦郎にはそれこそ全く無縁なものだった。その代わり、その一見冷たくも感じられる目の底に、邦郎は一種の正直さ、作為の無さを見出していた。東京の祖母に接するたびに意識せずにはいられなかった気詰まりな感じが、この初対面のお婆さんからは少しも感じられなかったのだ。それで邦郎も何の屈託もなく返事をした。
 「はい。昼間に寝すぎたからだと思います」
 お婆さんは邦郎のこの返事には直接応えず、
 「怪我したところは大丈夫なの?」と、彼女としてはおそらく一番重要な点を問い質した。
 「全然平気です。もう軽く触ったくらいでは痛くも何ともありません」
 「そう、それは良かった」というその言い方が、不注意に聞くだけでは良かったと思っているとは決して思えないほど冷淡に聞こえるのを、邦郎は内心では可笑しく感じていた。というのは、その口調とは裏腹に、邦郎の返事を聞いたお婆さんの目の光がにわかに柔らかくなったことに目ざとく気がついていたから。自分でも不思議だと思いつつ、邦郎はすでにこの上原のお婆さんに奇妙な親近感を覚えていた。
 お婆さんは閉まった襖を見ながら、
 「由美子はもう横になっているのね?」と、やはり小さな声で尋ね、邦郎が頷くのを認めると、続けて、
 「あなたは本が好きなの?」と、点灯したままの卓上ライトとその前に置かれた本を目にして尋ねた。
 「はい」とだけ邦郎は答えた。
 「今は何を読んでいるの?」
 著者や本の名前を答えたところでこのお婆さんには分からないかもしれないと考えた邦郎は、「これです」と言って、座卓に置いてあった本を取り上げて手渡した。北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』だった。
 上原のお婆さんはその表紙を見るや、
 「もうこんな本が読めるのね? 面白い?」と、少し驚いたように聞き返した。
 お婆さんが感心してくれたのをやや誇らしく思いつつ、邦郎は正直に返事をした。
 「面白いです。ときどき知らない漢字や、よく分からないところがあるけど、それでもすごく面白いです」
 「そうね、男の子はこういうのが好きね。あなたも船に乗ってみたいの?」
 そう言われて、《お婆さんもこの本を読んだの?》と邦郎は聞き返したくなるのを押さえられなかったが、「お婆さん」と呼びかけることも、「おばさん」と呼びかけることもできず、とはいえ「この本を読んだのですか?」と聞くことにも何か不自然さを感じて、その一番尋ねたいことは伏せたまま、
 「船でなくてもいいけど、外国には行ってみたいと思います」と、いつも思っていたことをそのままに答えた。
 「そう。大人になったら行けるわよ。どこへでも、好きなところへ。でも、今はまだ本が一番簡単な旅行かもしれないわね」
 邦郎が何と答えてよいかわからずに黙っていると、お婆さんは少し別の話をした。
 「あなたのお母さんもあなたくらいの頃はとても本が好きでしたよ。何か欲しいものがあるかと聞いても、いつも本ばかりお願いされたことを覚えているわ」
 「お母さんが今のぼくくらいだった頃?」
 邦郎のその言葉を聞くと、上原のお婆さんは少し怪訝そうな顔つきになった。そして、
 「あなたはお母さんからこの家のことを何も聞いていないの?」と尋ねた。
 「母からは『上原の叔母さんには小さい頃からとてもお世話になった』としか聞いていません」
 「そうなの。でも、確かに、話すとなると案外と面倒なことに思えるのかもしれないわね」と、また邦郎の顔を覗き込むように真っ直ぐに見据えた。
 「そんなに心配するような難しい話ではないのですよ。由美子は小さいとき、今のあなたくらいのときにこの家にしばらく預けられて、ここで四年ばかり暮らしていたのよ。ちょうど戦争が終わった頃のお話。そして、ここの小学校を卒業してから、東京の学校へ進んだの」
 「それはさっき、ここの家に着いたときに初めて聞きました。お母さんがここに小学校までいて、それから東京へ引っ越したって」
 「由美子と律子は小学校の頃からの友達。律子は高校までこっちの学校に通って、大学だけが東京だったけれど。由美子もこの家に始終帰ってきていたから、二人とも小さい頃からずっと仲良しのまま。詳しい話はお母さんから聞くといいわ」
 そう言うと、お婆さんはまた話題を変えた。
 「あなたのこのご本、ページの折ってあるところまで読んだのなら、もう数ページしか残っていないわね。他に読む本はあるの?」
  邦郎は黙って首を横に振った。
 「一泊の旅行にそう何冊も持っては来ないわね。そこの本棚にある本は全部私の本だから、そこの本なら好きに読んで結構ですよ。難しい本もあると思うけれど、読める本もあると思うから。でも、あまり遅くまで起きていないように。明日は東京まで帰らなくてはならないのだから。じゃあ、お休みなさい」
 そう言い残してお婆さんは静かに襖を閉めて去って行った。
 実際、その夜すぐに、邦郎は持ってきた『どくとるマンボウ航海記』を読み切ってしまった。時刻はまだ十二時前で全然眠くなかった。お婆さんの書棚――扉のついた四段ほどの、比較的小さな書棚だった――を見ると、はたして予想通り、邦郎の知っている本は一冊もなかった。背表紙の著者名を見てもほとんど知らないものばかりだった。その中で唯一聞き覚えのあったのが壺井栄という名前だったので、特に何も考えずにその本を取り出してみた。小豆島について書かれた、小豆島で暮らした思い出が書かれた本だった。
 当時の邦郎はまだ『二十四の瞳』も読んだことがなかったので、どうしてその作者の名前を知っていたのか不思議だが、その小豆島に関する本は意外にも面白かった。小豆島という田舎と、そして今自分がいる長野の田舎が奇妙に重ね合わされたかのような気がしたのだろうか。それとも、文章から感じられる作者の雰囲気が、なぜか上原のお婆さんやりっちゃんを思わせたからだろうか。それとも、文章のあちらこちらに出てくる島の子供たちの姿が、昼間見たヨーコやマサルと似ていると思ったからだろうか。いつの間にかすっかり夢中で読み耽っていた。
 「本当に小さい頃の由美子にそっくりね。あの子もそうやって夜遅くまで本を読んでいたわ」
 今度はもう顔を上げるまでもなく、その声の主が上原のお婆さんであることは分かっていた。
 「でも、さすがにもう寝なさい。子供がこんなに遅くまで起きていてはだめよ」
  時計を見るとすでに三時を回っていた。ときに夜更かしをすることがある邦郎にとっても、こんな時間まで起きていたことはついぞなかった。
 「本を読んでいて全然気がつきませんでした。もう寝ます」と、まるで修学旅行か何かで学校の先生に見咎められた生徒のような返事をする邦郎に、寝間着姿のお婆さんは、
 「叱っているわけではないのよ。もしかしたらまだ起きているかしらと思って、ちょっと覗いて見たのよ。さっきも言ったけれど、由美子もよく夜更かしをしていたから」と、不思議に優しい口調で応じていた。
 「でも、そんなに夢中になる本がそこにあったかしら? 何を見つけたの? 見せて頂戴」と、いかにも興味津々といった様子で邦郎の方に近づいてきた。そして、邦郎の示す本を手に取ると、
 「まあ、壺井栄の『小豆島』ね。それは良い本を見つけましたね。本当にそれは良い本よ」と、邦郎を大いに褒めてくれた。そして、しばらくその本を眺め回すと、
 「でも、いくら良い本でも、やっぱりもう寝ないといけません。お母さんを起こさないように静かにお布団に入りなさい。電気は私が消します」と、今度は有無を言わさぬ口調で邦郎に告げた。邦郎にしても、今や魔法が解けたように一気に眠気が押し寄せてきたように感じ、言われるままに布団に入ると、そのまますぐに眠りに落ちてしまった。


 父と母が離婚し、やや面倒な話し合いが数回行われた後に、結局は父と一緒に住むようになって数年が経った頃、ようやく邦郎はそのときの旅行が母が親族に離婚の相談をするため、いや、むしろ離婚の決心を生母の墓前に報告するためのものだったことを知った。そう、東京の祖母は祖父の後妻で、生母を失った由美子は生母の妹である「上原の叔母さん」に数年間、ちょうど小学校に通う間託されていたのだった。だが、そんなことを邦郎が知ったのもずっと後年のことだった。
 二日目は慌ただしく過ぎた。まだ読みかけだった壺井栄の本に未練を感じながら(上原のお婆さんは持って帰っていいと言ってくれたのに、母がそれを「そんなに面白い本なら、東京に戻ってから買います」と固辞したのだ)、もしかしたらもう一度ヨーコとマサルに会えるかなと期待しているうちに、上原の家の前にタクシーが到着した。右足はまだ包帯されたままだったので、靴を履くのは諦め、上原の家にあった草履を借りることにした。それも邦郎には不満だったが仕方なかった。タクシーに乗り込むとき、上原のお婆さんとりっちゃんが「また来なさい」と代わる代わるに言った。ヨーコとマサルがその場にいないことが何だかつまらなかった。
 走り出したタクシーの中で邦郎は頭に引っかかっていたことを口にした。
 「お母さん、ヨーコちゃんのリボン、どうした? 怪我したところを自分のリボンで縛ってくれたんだ」
 「あら、そうだったの。親切な子ね。とてもお利口さんなんですって。でも、リボンは気づかなかったわ。汚れたから捨てちゃったのかしら。また今度来たときにお礼をしないとね」

 だが、邦郎が祖父の実家、由美子の故郷を訪ねたのはそれが最初で最後となった。正式に離婚する前から、邦郎には知る由もなかったのだが、両親の仲はすっかり冷え込んでいた。それは二人ともが承知していたはずの事実だったのに、夫の方は妻が離婚する前から別の男性と親しくしていたことを死ぬまで許せなかったようだ。それで邦郎が母に会うことを快くは思っていなかった。まして、由美子の方が面会に来ることは決して認めなかった。裁判所の調停でも由美子のしたことは限りなく浮気に近いと判断されたらしく、邦郎が求めない限り、そして父親が許可しない限り、母子はそう簡単には会えないことになった。その上、由美子が再婚し、新しい家庭が出来てしまうと、邦郎の方でも母に会いづらく感じはじめ、いつの間にか疎遠になっていった。そうなれば当然のことだが、東京の祖父母の家にも足を運ぶことはなくなった。しかし、それを残念だと思ったことは一度もない。それなのに、あの上原の家は何かの折に不意に思い出され、ひどく懐かしい気分を運んで来るのだ。しかし、あれは実は自分の身の上に起こった本当のことではなく、小さな頃に読んだ本か何かの中のエピソードだったのではなかったか。ヨーコとマサルも、熱にでもうなされた夜に勝手に創り上げた架空の人物だったのではなかったか。そして、あの家で読んだ壺井栄の本も、母は約束通りに東京に戻ってから買ってくれようとはしたけれど、すでに版元で品切れになっていたようで、どうしても入手できず、今では幻の本のようになってしまった。 

− 完 − (H.H.)


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2019年12月16日

夜の千切れ雲(2):月の光は流れる水(其の二)

     月の光は流れる水(其の二)

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 「それじゃ、お母さんは少しご用事を済ませてくるから、1〜2時間ばかりこちらで大人しくしていなさい。りっちゃん、お願いね」
 母はこれから一人で本家とか在所とかいうところへ出かけるのだろうと思いつつ、それならなぜわざわざ自分を連れてきたのだろうと、邦郎は今さらながらに不審に思えてきた。こんな知らないところで、いったい何をして待っていればいいのやら。一冊だけ持ってきた本ももう残りは数十ページだから、今読んでしまったら帰りの電車の中ですることがなくなってしまう。
 邦郎のそんな気分をいち早く察したのか、突然りっちゃんが
 「お母さんを待っている間に沢に水遊びに行ってきたらいいわ。ヨーコもマサルも毎日のように行っているようだから。きっと今日も行くから一緒に行けば」と言い出した。
 「それはいいわね。すごくきれいで冷たい水なのよ。お母さんたちも子ども頃は夏はいつもそこで遊んでいたのよ。今も変わらない?」と由美子はりっちゃんに尋ねた。
 「この辺りは私たちの子どもの頃から本当に何も変わっていないみたいよ。道がきれいになったことくらいじゃないかな、変わったのは。沢の上流も何も変わっていないから、水も驚くくらいきれいよ。ただ、最近は昔よりも水量が減ったという人もいるみたい。私にはよくわからないけど、伐採のせいだって」
 こうして、いつの間にか沢へ水遊びに行くことが決まった。知らない子どもたちと一緒に水遊びになんか行きたくないと思った邦郎が、水着なんか持ってきていないと言うと、由美子は「この辺の子は誰も水着なんか着て行かないわよ。プールみたいに全身水に浸かったら、冷たくて死んじゃうわよ」と笑い飛ばすだけだった。りっちゃんも助け船を出すように言い添えた。
 「泳ぐようなところじゃないのよ。足をつけて水遊びするだけなの。でも、運が良ければ水晶が見つかるかも。それに、何といっても涼しいし、溺れる心配も全くないから、楽しんできたらいいわ」
 母が出かけてしばらくすると、知らない間にヨーコとマサルが来ていた。ヨーコは邦郎と同学年くらいに思われた。りっちゃんが邦郎を「東京からのお客さん。沢に一緒に連れて行ってあげて」と言ったとき、ただ黙ってうなずき、邦郎の方を見ようともしなかった。それで邦郎も「感じの悪い、暗い子だな」と思っただけだった。それでも、真っ直ぐに切り揃えた前髪がよく似合う子だとも思った。しかし、それよりもマサルのインパクトの方がはるかに強かった。一目見た途端、ひょっとしたら障害児なのではないかと思ったほどだ。背はヨーコと邦郎と同じくらいだったけれど、丸々と太っていた。年齢は明らかに年下で、多分まだ1年生か、もしかしたら小学生にもなっていないかもしれない。それほど、マサルという少年は幼く感じられた。黙っているのはヨーコと同じだったけれど、彼女とは対照的に、何が楽しいのか、ずっと笑っていた。りっちゃんが「マサルは水遊びが好きね」と声をかけると、それはわかるのか、「あー、あー」と返事をするのだが、それがやはり邦郎には常軌を逸しているように感じられて、ますます沢に行くのが億劫に感じられてきた。しかし、りっちゃんの「気をつけて行ってらっしゃい」という合図と共に、ヨーコはマサルの手を引いてすたすたと歩き始めた。今となっては、邦郎にはその後に付いていくことしかできなかった。

 おそらく十五分とは離れていなかった沢に着くまで、ヨーコは一言も話さなかった。ときおり確かめるように邦郎の方を見るのだが、邦郎がちゃんと付いてきているのを確認すると、また黙々と歩き続けるだけだった。ただ、もう車が来ない脇道に入ると、心なしか歩く速度が遅くなったように感じられた。今になってこそ、見も知らぬ都会の男の子の案内をしなさいと突然頼まれた少女の方こそ大迷惑なことだったろうとは思うし、気まずい思いをしていたのは自分だけではなく、ヨーコの方こそ、それこそ何か口を利こうにも何を話せば良いのかわからなかったにちがいないと容易に想像がつくが、そのときの邦郎には「愛想がない上に、やたらと歩くのが速い子だな」と思うのが精一杯だった。
 ヨーコから手を放されてもマサルはヨーコの横から離れようとはせず、二人が仲良く並んで歩く後姿を邦郎は数メートル離れた背後から眺めながら、やはり一言も話さずについていくしかなかった。
 「随分と体型がちがうけれど、二人は姉弟なのだろうか。仲が良さそうだな」と、一人っ子の邦郎が思うともなく思っていると、不意に目の前の視界が開かれ、川と言うには水量の乏しい、子供だけで遊んでいても何の危険もないと十分信じられる、小さな流れが現れた。水辺に近づくまでもなく、周辺の白さに邦郎はすっかり目を奪われてしまった。川辺がこんなに白いなんて! 
 その白さは周辺の岩盤の白さだった。おそらく石英か長石を多く含んだ花崗岩が大規模に露出し、その上を水が流れていた。もしもそれがもっと大きな流れであったなら、おそらくもっとずっと多くの人が訪れる景勝地になっていたことだろう。

 ヨーコに促されるように、道を外れ、川に向かい、再び邦郎は不思議な喜びと驚きに捉えられた。水は、りっちゃんが言ったように、飲み水と変わらないほどに透き通っていて、夏の太陽からエネルギーを貰ったかのように、元気に、いかにも気持ちよさそうに、適度な勢いで流れていた。思いの外に傾斜があったのだろう。そして、むき出しの花崗岩の岩盤の上を絶えず水が流れ続けているからこそ、水草は言うまでもなく藻の類いさえも育たず、そのためにこれほどの水の透明度が保たれていたのだろう。
 ここまで来ると、マサルは自分からヨーコの傍を離れ、サンダルを履いたまま流れに足を浸け、いかにも楽しげな、しかし、やはり邦郎には意味不明な叫び声を上げた。ヨーコはそんなマサルに向かって「転ばんようにね」と、ちょうど聞こえる程度の声量で注意した。マサルがここでも「あー、あー」と返事するのを目にして、ようやく邦郎は自分が大きな勘違いをしていたことに気がつき、内心では自分の勝手な思い込みを強く恥じることにもなった。マサルは、邦郎が思い込んでいたような「おバカさん」ではなく、言葉はちゃんと理解できて、しかしおそらくただ上手く話せないだけなのだと理解した。そんな自分の恥ずかしさを隠そうとするかのように、邦郎は二人から少し離れ、透き通った水に手をつけてみた。水は予想していたよりも遙かに冷たく、きっとマサルの叫び声は「冷たーい!」と言っていたのだろうと、何の根拠もないままに信じられた。「そうだろ?」という思いで二人を振り返ると、すでにヨーコもサンダルのまま水の中に入っていて、二人で楽しそうに笑っていた。その途端、邦郎は目を伏せるように、自分がヨーコたちの方を振り向いたことを知られないように願いつつ、自分の指先に視線を移した。指が水槽の中の魚のように揺らめいていた。
 二人のようにサンダルではなく運動靴だったマサルは水の中に入ったものかどうか、しばらく躊躇していたが、夏の水場の誘惑に勝てる少年は滅多にいない。いっそのこと運動靴のまま水の中を歩き回ろうかとさえ考えたのだが、明日までに乾かない可能性を考えると、それも躊躇われた。となれば、裸足になるしかない。靴と靴下を脱ぎ、まるでプールサイドを思わせるほどに真っ平らな巨岩の縁に座り、恐る恐る両足を水に浸けてみた。手のときとは比較にならないほど冷たく感じられたが、それもほんの最初だけで、その爽やかさは夏の暑さを忘れさせるのに十二分だった。足下の岩肌が滑らかなことにも驚いた。裸足になるのが嫌だったのは、貝殻だらけの海岸のように痛いのではないかと心配したことが大きな理由だったので、冷たい水とつるつるした岩の感覚にすっかり心を奪われてしまった。そして、ついさっき感じた淋しさも暑さと共にどこかに消え去っていた。
 沢は露出した岩盤の上を流れる幾筋もの流れで出来ていた。ところどころに適当な大きさの窪みがあり、大きな窪みは直径が二メートルくらいのもあって、そこでなら小さな子供であれば泳ぐ真似事くらいはできたかもしれない。実際、マサルはすでにパンツ姿になって、そんな小さなプールの一つを独占し、顔を水の中につけては、やはり嬉しそうな叫び声を上げていた。ヨーコはと言うと、いかにも保護者然とした様子でマサルが水遊びをするすぐ横の小さな流れに立ち、マサルの振る舞いを見守りながら、ときおり両手で水を掬ってマサルの頭にかけたりしていた。
 そんな二人を横目で見つつ、気安く仲間に加わることができなかった邦郎は、仕方なく一人で沢の上流に向かって歩き始めた。すると背後から「滑るから気をつけて」と、ヨーコの声がした。確かに、苔ではないのだが、流れのところどころで足の裏が取られそうになるのを邦郎自身も気がついていた。「わかっている」ということを示すつもりで、邦郎はヨーコに手を振った。ヨーコからは何の反応もなかったけれど、邦郎は特に気にはならなかった。
 こんな浅い流れに魚がいるはずないだろうけれど、何か生き物がいるかもしれない。それよりも何よりも、りっちゃんは水晶がみつかるかもしれないと言っていたではないか! そう思うと、いつの間にか邦郎はすっかり沢遊びに夢中になっていた。小さな流れを次から次へと移動し、それらしき岩を見つけると、どこかに結晶しているところはないだろうかと目を凝らした。運良く結晶らしきものを見つけると、今度はその辺りに水晶らしき小石でも落ちていないか、かなり熱心に探し回っていた。
 が、それがいけなかったのだろう。にわかに足裏に鋭い痛みが走った。そして、その痛みと同時に、得体の知れない不安とも恐怖とも言えそうな、不気味な戦慄が一気に足から背中を駆け抜け、頭にまで達し、邦郎は顔を歪めた。すぐに近くの乾いた岩場に腰を下ろし、痛みを感じた箇所を見ると、はたして血が流れていた。2〜3センチの真っ直ぐに引かれた赤い線から湧き出るように血が流れ続けている。何か鋭利なものを踏んでしまったのだろうとすぐに予想がついた。が、傷口には異物らしきものは何も残っていない。そして、先ほどまで自分が立っていた場所をあらためて見つめ、邦郎は自分でも愕然とし、それから身震いするほどの恐怖と嫌悪を感じないではいられなかった。くるぶしほどの浅い流れには割れたコーラの瓶が転がっているではないか! 確かめるまでもなく、その破片の一つを踏みつけてしまったにちがいない。しかし、これほどに歴然とした危険、手に取るまでもないほどに自明な危険に気がつかなかったとは、なんて迂闊なことをしてしまったのだろう。
 邦郎には怪我の痛みよりも、自分の不注意、愚かさの方がいっそう苦痛に感じられた。事実、冷たい水に足を浸けていたため足先の感覚が鈍くなっていたからか、最初の瞬間こそ鋭い痛みを感じたものの、その後は痛みに関してはほとんど何も感じてはいなかった。むしろ、その無感覚の方が怖かったともいえる。そして、再度勇気を出して、自分の愚かな傷口を、今度は調べるように点検してみた。傷は右足の踵を斜めに真っ直ぐ切り裂いていた。それが深刻な怪我なのかどうか、邦郎には判断する術がなかった。が、最悪な場合でも、踵をつけないようにすればりっちゃんの家まで何とか歩いて帰れそうだと思われた。そして、そう考えることで少しだけ心に余裕が生まれた。
――膿むと嫌だなぁ。でも、こんなにきれいな水だから大丈夫かな。でも、ばい菌はどこにでもいるって言うし。あーあ、とんだ旅行になっちゃったな。でも、さっきから全然血が止まらない。かなり深く切っちゃったのかな。誰だよ、こんなところに瓶を捨てたバカ者は? でも、一番のバカ者はこのぼくだ。
 そんなことを考えながら、傷ついた右足を左の膝の上に載せ、ちょうど半跏思惟像のような姿になって、左手で傷口を押さえていた。
 「どうかした?」と、ヨーコの声がすぐ横で聞こえた。そして、邦郎が振り向くのとほとんど同時に、左手の指先に付いた血の色に目ざとく気がついたのだろう、ヨーコの方が「怪我したの?」と、やや緊張した声で言った。
 「うん、足をガラスで切ったみたい」と、邦郎は努めて平静に返事をした。
 「痛いの?」
 「痛くはない。でも、血が止まらないんだ」
 「ちょっと見せて」と言って、ヨーコは邦郎の横でしゃがむ姿勢になった。それまで圧迫していた指を放してみると、どうやら血は止まったようだが、傷口は最初に見たときよりもずっと酷い様子になっていた。赤い線を引いたようだった傷口は今ではパックリと口を開き、皮膚の下にあるはずの肉が盛り上がって、それがいかにも痛々しそうに見えた。実際はさほど大した怪我ではなかったのだが、子供の目にはそうは映らなかった。
 「マサル、マサル、ちょっとこっちに来て、すぐに、急いで」とヨーコが大声で叫ぶように言った。そして、そう言い終わると、自分の髪を留めるために使っていたリボンを解き、それを一度水でゆすぐと、何も言わず邦郎の傷口に包帯のように巻き始めた。
 「何かで押さえていた方がいいから」
 「だけど、リボン、汚れちゃうよ」
 「そんなの、たくさんあるから」
 そうしているうちにマサルもやってきた。「あー、あー」と不審がっているマサルに向かってヨーコは、
 「お兄ちゃん、足を怪我しちゃったの。小母さんを呼んでくるから、マサルはここにじっとしていてね。動いちゃだめよ。水遊びするならここでしているのよ。いい? すぐに戻ってくるから、ここにいるのよ。お兄ちゃんのすぐ近くに」
 邦郎は自分が「お兄ちゃん」と呼ばれるのが不思議だったが、確かにまだ自分の名前さえ告げていなかったのだと今さらに自覚し、何とも気まずい思いがした。
 そんな邦郎の思いとは無関係に、ヨーコは今度は邦郎に向かって、
 「お母さんを呼んでくるから」と言って、そのまま小走りに駆けていった。

 その後のことはよく覚えていない。おそらくりっちゃんの自転車の後ろに乗せられて帰ったのだろうけれど、大人たちがあれこれと相談した結果、はたして医者が呼ばれたのか、あるいは誰か看護の経験がある人が治療して包帯を巻いてくれたのか、何一つはっきりとは思い出せない。
 ただ、目が覚めたとき、もうすっかり夜になっていて、母が座卓に座って手元の卓上ライトだけを頼りに本を読んでいた。最初は何が何だかよくわからず、自分がどこにいるのか、それさえも思い出せず、ぼんやりしていた。多分、足の怪我そのものは本当に大した怪我ではなかったのだろう。が、陽に当たりすぎたためか、あるいはやはり心労のためか、いつの間にか眠ってしまい、そのまま布団に寝かせられ、すっかり熟睡して、夕食の間も眠り続けていたのにちがいない。
 「目が覚めたのね。足は痛くない? 大丈夫?」
 そう言われて、邦郎は包帯された自分の右足に神経を注いでみたが、別段痛みはなかった。そうっと触ってみても、ただ包帯のざらざらした感触がするだけだったので、今度はさらに慎重に怪我した辺りを軽く押してみた。それでも特に不安を感じさせるような痛みはなかった。
 「うん。全然平気みたい」
 「そう、良かった。みんなとても心配しているから、お母さん、もう大丈夫って言ってくるね。お腹すいているでしょ? おにぎりを作っておいたから、それを食べちゃいなさい」
 そう言い残して、由美子は部屋から出て行った。昼間と同じ半袖半ズボンのまま眠っていた邦郎は、布団から起き上がり、部屋の中を少し歩いてみた。怪我をした踵に全体重を乗せるのはさすがに躊躇われ、右足をかばうように歩いてみると、それなら全く問題なく歩くことができた。それですっかり元気が戻ったのか、その途端に猛烈といっても過言ではない空腹感に襲われた。おかずの中には苦手な椎茸も入っていた。自分の家なら当然残すところだけれど、他所の家ということもあり、さらにはお腹が空いていたこともあって、邦郎は二つのおにぎりと共に出されたものをぺろりと平らげた。ちょうどそこに由美子とりっちゃん、そしてもう一人、細身で長身のお婆さん――といっても、せいぜい六十歳程度だったはずだが、その頃の邦郎の目には十分な「お婆さん」として映った――が入ってきた。
 そのときどんな会話が交わされたのか、これも全く記憶に残っていない。次に思い出されるのは、その夜はお風呂に入らず、その代わりに手拭いで身体を拭いたことだ。背中は自分でできなかったので母親に拭いてもらったのだが、それが妙に気恥ずかしかった。それから、由美子がそれまで邦郎が眠っていた布団を自分たちの寝室まで運んでいった。用意されていた寝室は廊下の突き当たりを折れ、二部屋くらい通り過ぎたところにあった。
 母と一緒に眠ることが久しくなかった邦郎にとって、母の布団と自分の布団が並んでいることが妙に新鮮に感じられた。そして、覚えている限りでは、それが母と同じ一つの部屋で眠った最後の機会でもあった。  (H.H.)

「其の三」に続く

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2019年12月15日

夜の千切れ雲(2):月の光は流れる水(其の一)

(やっと「夜の千切れ雲(2)」を書き終えた。といっても、特段誰かが待ち望んでいたというわけでもあるまいが……今度のお話はちょっと長くなってしまったので、三回に分けて載せることにした。続きが読みたい人は「其の二」「其の三」に引き続き進んで下さい。)


月の光は流れる水(其の一)

 もうまもなく梅雨入りするはずの六月の夜は、まるでヨーロッパの夏を思わせるような、もしかしたら一年の中で最も心地よい時間かもしれない。少し暑過ぎると感じられた日中の熱はすっかり鳴りを潜め、半袖ではやや涼しすぎると感じられるほどに爽やかな微風が、勢いよく伸び始めた木々の小枝を静かに揺らす。そして、満月にはまだ至らない、しかしそれでも十分に明るい月が煌々と輝き、地面の上には梢の影がまるで版画か古いモノクロ写真のようにくっきりと映っていた。

 「月の光はまるで流れる水のようだ」

 街灯の作り出す人工の光と月光が区別できるはずないのに、そのときの邦郎には、酔いの余韻も作用したのか、夜の薄明かりの中で月光だけがはっきりと見えるような気がした。それがあまりに清らかで透明だったためか、溶けかけた氷や冷たい水の連想がいつの間にか生まれたらしく、足下の影を気にしながら歩いているうちに、まるで夢見るように遠い昔のことを思い出していた。

 もうあの頃から四十年以上も経つ。その夏はまだ父も母もとりあえずは一緒に暮らしていた。それから一年もしないうちに離婚する二人だったが――そして、裁判所の調停の結果、邦郎は、再婚することになっていた母親の由美子ではなく、以後死ぬまで独り身を続けた父親に育てられることになった――、邦郎の前では仲の良い夫婦を演じていたので、父を置いてきぼりにして母と二人きりで旅行すること自体が、九歳の邦郎には少し奇妙なことに感じられた。
 「お父さんは来ないの?」
 無邪気に尋ねる彼に母親はごく自然な様子で返事をした。
 「お仕事が忙しいからね」
 それは小学校四年生の夏休みのことだった。

 行先は出発前から聞かされていた。長野県にある由美子の在所(このときだけは由美子は「在所」という、邦郎には聞き慣れない用語を使った)、つまり、母方のお祖父さんの実家を訪ねるのが目的だった。
 最初から邦郎はその旅が楽しいものになることをほとんど期待していなかった。そもそも、彼は母方の祖父母が苦手だった。子供が遊べるくらいの広さの庭を持つ一軒家を山手線内に所有し、息子(つまり、由美子の弟、邦郎の叔父)は中央省庁の官僚として働いている、典型的中産階級の家だったが、四方を隣家に囲まれていたためか、庭も、そしてその庭に面した縁側も奇妙に薄暗く、また訪れるたびに仏壇に向かって手を合わせさせられるのも重苦しい感じがした。しかし、邦郎が何よりも苦手に感じていたのは、実は祖母の存在だった。
 五十歳になる今でも邦郎には母と祖母の関係が本当のところどんなものだったのか、正確に理解することができないでいる。ただ、少なくとも子供の目には、祖母という人がなぜかしら意地悪な人に感じられた。行けばお菓子なりお小遣いを与えてくれ、学校のことや何やらを問いかけられたりはするのだが、どうしても会話が弾まない。祖父も大同小異だったのかもしれないが、それはおそらく祖父の方がずっと老年で、すでに耳が不自由だったためだったので、子どもなりに理解もできた。しかし、子供だった邦郎を何よりも怯ませたのは、祖父母の二人が母と話しているときの三人の様子だった。子供の目にも明らかだったことは、祖父は娘が孫を連れて訪れることを心から歓迎しているようだった。叔父も母のことを「お姉さん、お姉さん」と、それなりの敬意と親しみを感じているようであり、母もこのやや年の離れたエリートの弟を姉として可愛がっているように感じられた。ところが、母と祖母の間には、何とも形容しがたい、少なくとも子供だった邦郎には表現する術もない奇妙な空気が流れ込んでいた。それは、子供の単純な認識と言葉では「冷たい、よそよそしい、仲が良くない」としか言いようのないものだった。もちろんここでも再び、邦郎の前で母と祖母が何か言い争うなんてことが繰り広げられることはついぞなかったわけだが。
 比べれば祖父の方が遙かに親しみは感じられたけれど、それもあくまでも相対的なことであり、当時の邦郎にとって祖父母の家は自ら望んで行きたいと思うようなところではなかった。だから、祖父の実家を訪ねる旅行と聞いて心躍るはずがなかった。それに加え、十歳になった邦郎は事あるごとに自分を連れて歩く母の一種の虚栄心のようなものにも薄々気がつき始めていた。

 その頃の邦郎は、ひとことで言うならば、絵に描いたような優等生だった。学校の成績も申し分なく、教師たちからの評価も高かった。子供たちの間でも健康的な社交性を十分発揮していたが、大人に囲まれたときも、ことさらに物怖じすることなく、かといって調子に乗って周囲から注目を集めるようなこともなかった。問われれば淀むことなく過不足ない返事を返し、問われなければいつまでも大人しく静かにしていることができた。その意味では、邦郎の両親は彼を見事に育て上げたと言える。そんな子供を母親が自慢したとしても、また、そんな子供の母親である自分のことを高く評価したとしても、それはそれで特に非難する謂われはないのかもしれない。が、由美子には出来のいい息子を単に溺愛するというよりも、どこかもっと計算高いところがあり、自分の子供を一つの成果物としてみなして、子供が優秀なのは自分が良妻賢母であることの証なのだと言いたいがために邦郎を連れ回しているのではないか。とりわけ祖父母の家に連れて行かれ、その場に居合わせた大人たちから代わる代わる大小の賞賛の言葉を聞かされるたびに、邦郎は母のいかにも満足げな横顔を、どこか誇らしくもあり、確かに嬉しくもあるのだが、それでもなぜか心がざわつくような気持ちでそっと窺っていた。

 祖父の実家は思っていた以上に田舎にあった。特急を乗り継いで終着駅まで行き、そこからさらにローカル線に乗り換えるのだが、それが単線であることに先ず驚かされた。社会科の授業で「単線」「複線」「複々線」という言葉は習ったけれど、実際の単線を見るのも、ましてその電車に乗るのもむろん初めてのことだった。そして、線路の両横に繁る木々が車窓ぎりぎりにまで枝を伸ばし、場所によっては「緑のトンネル」としか言いようのない中を電車が進むのは、我知らず心躍るような体験だった。
 「いったいどんなところへ行くのだろう? どんな人たちに会わされるのだろう?」という一抹の不安は心の片隅に残ってはいたけれど、いわば九歳の男の子の本能として、邦郎はこの電車の旅を楽しく感じ始めていた。
 そうしてようやく辿り着いた駅は、これまた邦郎がそれまで見たこともないような駅だった。何よりも先ず、駅員が一人もいないことに驚かされた。降りるときに母が切符を車掌に手渡しているのを見たときに、いつもと何かが違うような気がしたのだが、改札口に誰もいないことを知って邦郎は本当に驚いた。
 「お母さん、誰もいないよ」
 確かに駅員の姿もなかったし、邦郎たち母子以外にはどうやら誰も降車しなかったようで、駅には心細いほど人影がなかった。
 「無人駅だからね」と答える母の横顔が微笑んでいなかったら、おそらく邦郎は恐怖さえ感じたことだろう。
 しかし、続いて不思議だったのは、そんな寂しい無人駅なのに一台のタクシーがすでに待ち構えていたことだった。母は邦郎の手を引くと何の躊躇もなく真っ直ぐそのタクシーに向かった。
 タクシーに乗ると、邦郎は三度驚かされた。母と運転手の交わす言葉が上手く聞き取れないのだ。母は行き先を告げたはずだが、それがよく分からなかった。さらに、運転手の返事ときたら! ところどころは分かるのだが、全体としてはいかにも不思議な言葉に聞こえてならなかった。そして、自分の母親がその奇妙な言葉を理解しているだけではなく、それと同じような、普段は耳にしたこともないような言葉を使って楽しげに話しているのだ。
 「お母さんもここに住んでいたの?」と尋ねると、電車を降りたときと同じ微笑みを浮かべて母が答えた。
 「そうよ。小学生まではね。中学生からは東京の学校に通うようになったから東京のお家へ移ったのよ。以前はときどきはこっちにも帰るようにしていたけど、近頃はすっかりご無沙汰していたの。でも、この辺はお母さんの小さな頃とほとんど変わっていないわ」
 それを聞いていた運転手が人の良さそうな笑い声を上げた。それから間もなくタクシーは門のある家の前で止まった。都会育ちの邦郎には神社かお寺の門のようにも思われたが、それは門というよりは、両側から続く塀の端がそのまま自然に門の役を果たすようになっていて、門扉となるものはなかった。そして、門に続く門塀も実際には塀や垣根ではなく、納戸か物置のような建物の壁がその役を担っていた。門をくぐるときに覗き見すると、寺社であれば狛犬か仁王像があるべきところに麦藁帽子や農具が見られた。自転車遊びさえもできそうな中庭には影を作るような樹木は植えられていなかったが、片隅の小さな花壇には複数の種類の花が咲き誇っていた。しかし、何よりも邦郎の目を惹いたのはその庭の向こうに控えていた母屋の、いかにも立派な瓦屋根だ。その母屋だけでも十分に大きな家と思われた。加えて庭の左右にもそれぞれに離れが建っていて、邦郎にはこんなに広い家を見るのも、ましてその中に足を運ぶのも初めての経験だった。彼が住み慣れた家はコンクリートの集合住宅だったし、祖父母の家も、都内では十分に広い家だと思っていたけれど、目の前にあるこの家とは比べものにならなかった。「こういうのを『お屋敷』というのだろうか」と内心で考えているうちにも、由美子は「こっちへおいで」と言って、一人すたすたと何の躊躇もなく玄関へ足を運び、呼び鈴を押すこともなく玄関の引き戸を開け、中に入ると、「こんにちは。由美子です。今着きました」と家の中に向かって、誰にともなく挨拶をした。すると奥から「はい」と返事があり、続いて由美子と同じ年格好の女性が現れた。途端に由美子の顔が明るく輝いた。
 「りっちゃんも来てたの? お久しぶり。お変わりない? お元気そうね。上原のおばさんは?」
 「りっちゃん」と呼ばれた方は、尋ねられたことに答える前に、「遠くからお疲れだったね。さあ、上がって、上がって」と、こちらもまたいかにも嬉しそうに二人を促した。小さな部屋なのか大きな廊下なのか判然としない空間を母に遅れないようにと従っていくと、自分たちがたった今くぐってきた門を庭越しに見通せる居間に通された。

 「由美ちゃん、今日はこっちに泊まっていくんでしょ? 使ってもらう部屋に風を通しているところだから、涼しくなるまではここでいいよね? 案外とここが一番風が通るのよ。ちょっと冷たいものを運んでくるわ」と言い残してりっちゃんは出て行った。
 「お母さん、ここがお祖父ちゃんの在所なの?」
 「ここは分家。お祖父さんの妹、つまり私の叔母が嫁いだお家よ。だから『上原』といって苗字も違うでしょ? でも、お母さんは上原の叔母さんに昔から良くしていただいたから、今夜もこちらに泊めていただくのよ」
 「じゃあ、お祖父さんの在所というのはどこなの?」
 「すぐ近くよ。歩くとちょっと大変だけど。ちょっと休んだらお母さんはご挨拶に行ってくるわ」
 「ぼくは?」
 「邦郎は疲れたでしょうから、ここでのんびりしていたら? 一緒に行っても、大人だけの話だから、退屈するだけよ、きっと」
 これを聞いて、邦郎は母の様子がますますいつもと違うことに驚かされた。普段なら、大人だけの話の場だからこそ自分を連れて行くはずなのに。
 しばらくして、りっちゃんが冷たい麦茶とお茶菓子を運んできた。
 「由美ちゃんが来ると言うから、わたしも今夜はこっちに泊めてもらうことにしたの。本当に久しぶりね。前に会ったのは父の法事のときよね。三年ぶりくらいになるのかしら?」
 「すっかりご無沙汰しているわね。ごめんなさいね」
 「仕方ないわよ。もうすっかり東京の人だもの」
 二人の話を聞きながら、(でも、りっちゃんも東京の人のように話している)と邦郎は不思議に思っていた。実際、由美子とりっちゃんが話しているのを聞いている限りは、タクシーに乗っているときとは打って変わって、ここが東京から遠く離れた田舎だと思わせるものは何もなかった。ただ、それでも母がいつもとはどこかが少し違うように感じられ、知らないところにいることも影響して、不安と言っては言い過ぎだが、何か落ち着かない気分が纏わり付いて離れなかった。  (H.H.)

「其の二」に続く
posted by 冬の夢 at 14:16 | Comment(0) | 作品(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする