2019年11月16日

たまには詩でも #11

(本当はずっと前から「夜の千切れ雲」の第二作を載せたいと思っているのだけど、肝心の「小説もどき」がちっとも完成しない。仕方ないので--というわけでもないけれど--、その代わりに懲りもせずに「詩もどき」を一つ。)


夜、いやむしろ深夜と言うべき時間
善男善女の面々ならとっくの昔に大人しく床に就いているはずの時刻
独りお風呂で水を使うと
昔からいつも人の話し声が聞こえた

子どもの頃はそれが幽霊やお化けを思わせ
怖くて怖くて仕方なかった
だから馴染みのない他人の家でお風呂を使うのは凄く嫌だった

少し大きくなると
水のはねる音やぶつかる音は
現代音楽のようにも聞こえ
もうお化けに怯えることはなくなった
それにいつの間にか幽霊は霊に昇格し
恐怖の対象ではなくなっていた

ところが今度は
静まりかえったお風呂の中だけでなく
水の流れるところならどこでも人の声が聞こえるようになってしまった
ひそひそ密談したり
ケラケラ笑ってみたり
突然ふっと声を顰めたりもするが
水のおしゃべりは止まらない

自分でも当惑するのは
例えば旅先の温泉で髪を洗っているときに
不意に誰かに呼ばれた気がして
思わず振り返ってしまうようなときだ

そんなとき
自分はもしかしたら気が狂いかけているのかもしれないと思う

(H.H.)
posted by 冬の夢 at 02:20 | Comment(1) | 作品(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年11月10日

台風19号と荒川放水路(3/3) ─ もう安心だ、なのか?

 明治のはじめから四〇年で、荒川は十回以上におよぶ床上浸水以上の被害を出している。

 富国強兵時代の明治政府が、なぜ首都治水に手をこまねいていたかというと、河川工事は自治体に委ねられていて、流域を網羅する大工事はやりにくかった。また政府が財政難に陥っており、国家事業化がそもそも難しかった。隅田川沿いの都市化が進みつつあり、移転と用地買収をともなう再開発は容易でなかった。
 しかし、一九〇七(明治四〇)年の大洪水で川沿いの工場群がやられ、一九一〇(明治四十三)年の荒川大洪水で下町一帯が壊滅状態となるに至り、明治政府は本格的な河川改修計画の策定に乗り出す。
 そして、岩淵水門から下手へ、幅が五百メートル前後、長さ二十二キロにわたる現在の荒川下流、つまり「荒川放水路」が、二〇年がかりで掘られたのだ。

       *

 そう書けばひと言だが、工事初期は人力で川を掘っていったそうだ。
 川沿いの都市化が進んでしまったのが、治水工事が立ち上がらなかった理由のひとつだったが、一三〇〇世帯が移転に応じている。寺社も移転した。
 現代の再開発とは事情が違う──上からのお達しに逆らえない時代だ──にしても、用地買収は比較的順調に進んだという。下町流域の人びとはさすがに、浸水の繰り返しにうんざりしていたのだろう。

 そこからの工事の展開も興味深いが、きりがないから略すとして、工事期間ほとんどで指揮をとった、東京帝大の土木工学出身で内務省技術員だった青山士(あおやま・あきら/一八七八〜一九六三)のことは、素通りできない。

 青山は、治水それも分水路工事のエキスパートだったが、日本人でただ一人、パナマ運河の建設に参加した人だ。測量員から始めて、工区副技師長になっている。
 その経験ゆえに、現在でも困難に違いないメガプロジェクト──当時の荒川放水路工事は関東大震災に襲われてもいる──を、俯瞰視線でとらえることができたに違いない。この人の存在は、じつに大きかったと思う。
 岩淵水門の設計建造に対する官僚の横やりにまったく妥協しなかったり、自ら現場に出て作業を手伝ったり、完成顕彰碑に自分の名を刻むのを許さなかったりしたそうだ。潔癖で清廉な人だったということか。土木業界的には、つきあいにくい、堅苦しい人だとも思われていたらしい。内村鑑三門下だったと知り、なるほど! とも思う。
 こういう、わが身を後世に捧げるような責任者って、いまの都市再開発事業にいるのだろうか。いないだろうな。いられても困るだろうし……。

       *

 メモ書きのつもりが、ずいぶん書いてしまったが、そもそも気になるのは、荒川や隅田川は今後ずっと大丈夫なのか? ということだ。荒川放水路完成後、氾濫は発生していないし、台風19号のときも大禍はなかったのだが、将来も安心していていいのか? 

 温暖化が原因かどうかは、ここでは断定できないが、台風や低気圧による降水量が増加の一途であることは間違いない。同じく断言はできないが、首都圏に大型震災が襲来する可能性はゼロではない。

 いま書いたとおり、荒川放水路と岩淵水門が出来た後の、分岐点から下流は、放水路も隅田川も、いかなる増水にも耐え、決壊や溢水で東京都市部に洪水被害をもたらすことはなかった。
 設計上の限界を超えた場合──一九四七(昭和二十二)年のカスリーン台風──でも大丈夫だったし、抜本的な大改装工事は現代の東京ではもはや不可能だが、補修増強工事は、さまざまに行われてきた。

 ちなみに、多摩川下流域の川崎、狛江、東京大田区などでは市街浸水被害──逆流や支流の溢水──が起きた台風19号で、岩淵水門での荒川の状態はどうだったかというと、台風通過後、氾濫危険水位まであと五十三センチというところまで増水した。放水路と水門の完成後、三番目に危ない水位だった。
 しかし、これは前日の夜九時、隅田川を守るため岩淵水門を閉じたために起きた現象でもある。隅田川の都心側は荒川より堤防が低く、「あと五十三センチ」がそのまま隅田川に流れると、隅田川は溢れた可能性があったという。
 じつは、荒川のみを見ると、都心側より下町側のほうが、やや堤防が薄く低いそうだ。東部各区が犠牲になり都心を守れという構造かと怒られると返答に窮するが、すでに書いたとおり、当初はまったくその通りの目的で作られた放水路なのだから、今回の事態に大きな危機感を表明しつつ、河川改良工事を求めていくほかない。オリンピックも大事だろうが……。
 なお、岩淵水門が閉じられた後に、「氾濫警戒情報」の一段階前の「氾濫注意情報」も出た。荒川下流の下町側に住む知人は、それ以前に避難したと聞いた。

191110a3.JPG 
二〇一九年一〇月の台風19号では、荒川放水路完成後、三番目の増水となった。
写真はの赤丸印地点にあるデッキ周辺。
写真正面やや右にある青い指標の、上から三番目くらいまで水がきた。
遊歩道デッキから手前の堤まで水没していたことがわかる。写真はすべてクリックで拡大

 というわけで「とりあえず安心」か。
 いや、残念だが、安心はできない。
 
 いまそういう「気分」だから、怖がらせようというのではなく、荒川下流河川事務所が発信している資料や報告だけでも、続けて見れば、誰しもそういう意識になると思う。ならないか……。
 河川事務所の公開情報も、脅したり煽ったりはしていない。しかし、宅地や企業でぎゅう詰めになった都市部を、ここまで増水してしまう大きな川が流れている仕組みを見て、数字も、わかる限り並べ直して見ていると、自然の力にもうあと一押しされたら危ないことは、イヤというほど思い知らされる。

       *

 ここまでは河川事務所の資料だけを見て書いてきたので、ついでに、東京都下水道局が公表している「現状と課題」を書いておこう。

 東京の下水道は「合流式」という構造になっている。
 東京のみならず、全国の二百近い都市や、海外主要都市もそうだ。
 これは、雨水と汚水を同じ下水管で流す方式。両者が別の管になっている下水は「分流式」という。

 豪雨で大量の雨水が下水管に流れ込むと、下水処理場がパンクする。しかし下水の流れを止めれば、下水の逆流による浸水被害が起きる。
 これによって都市に大きな被害が出ないよう、下水が処理場に来る途中で、汚水が混じったままの下水を「吐け口」から河川などに放流するのだそうだ。

 もちろん逆流した下水が浸水したり、荒川や隅田川が決壊して、いまや広範囲に及んでいるゼロメートル地帯から濁水がひかない事態になったりすることを考えれば、やむを得ないことはいうまでもないが、もし今後、台風や豪雨の連続攻撃が続くような気象状況になっていったとしたら、つらいものがある。

       *

 荒川放水路ができて、隅田川の氾濫もなかったので、それらの下流地域は完全に都市化した。地下水を汲み上げまくったことで地盤沈下が進んで現在に至り、驚くべき範囲にまでゼロメートル地域が広がった。
 万一、荒川や隅田川が氾濫して東京東部や都心部に出水があったら、どうしうようもないことになってしまうのだが、百パーセントその事態を避ける方法は、近年、大きな氾濫被害を受けた各地のほとんどについていえるように「そこに住まない」しかない。
 それが無理なら、東京の場合、いったん都市機能を休んで行うほどの大規模な防災工事が必要だ。震災や火災対策もするとしたら、なおのこと。
 いまさら遅いが、東京オリンピックを「返上」し、高度先進都市ではなく自然が荒れくるう前史時代の火山島に住んでいるつもりで、都市づくりを抜本的にやり直してはどうか。

 いまの世の中、ワルノリかと思うほどの楽観主義で動いている。楽天家が社会を動かす力だ。
 政治をみよ。将来を左右する議論までもチャラく「流す」政治家ほど、ウケがいい。誰もがみな、すべてが川のように「流れ」ていてさえいれば、いいのだろう。
 これが庭先騒動でなく他国との関係になると、お前が楽天家でいられる話じゃないだろ、と怒られているのがわからず、「なにをいつまでもクドクドいっているんだ」という態度になってしまうのだ。
 みな、しかたないことだと最近は思う。アンタのように悲観的で、なにが楽しいんだ、といわれたら、なにも言い返せないから。

 台風19号通過後に多摩川にも行ったので、観察記にでもしておけばよかった。
 メモ書きのはずが、長広舌のあげく、むなしくボソって終わった。
 毎度のことだけれど。(ケ)


(1/3)は→こちら←
(2/3)は→こちら←

191110t2.JPG 191110t1.JPG 
本文とは関係ないですが、多摩川河川敷のゴルフ練習場(東京都大田区)
左は二〇一四年、右は台風19号通過後の二〇一九年一〇月一四日


【参考】
 この文の、歴史やデータはじめ資料的記述はすべて荒川下流河川事務所(国土交通省関東地方整備局)が公開している資料で、より詳細に見られます。
・『荒川放水路変遷誌』(二〇一一年)
・出水速報「令和元年10月台風第19号による荒川下流管内の出水状況等について」(二〇一九年十月二十一日)
・防災啓発動画「荒川氾濫」(二〇一八年三月改訂版)→こちらで視聴できます←
・荒川治水資料館(東京・北区)の展示も参考にしました
・「合流式下水道の現状と課題について」(東京都下水道局) ほか


Originally Uploaded on Nov. 11, 2019. 00:25:00

posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(1) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年11月09日

台風19号と荒川放水路(2/3) ─ 伊藤左千夫と明治の荒川洪水

 毎年秋の初めの二百十日前後には、隅田川が氾濫して低い土地は水につかるならいなのだ。

 川口松太郎の小説『しぐれ茶屋おりく』(一九六九年)に、そういう一文がある。
 明治末から大正初めに現代の墨田区東向島にあったという設定の、料理旅館の女将を主人公にした人情話だ。
「その年の秋、向島一帯に出水があった。」と始まるこの篇は、色ごとの行き違いで女将に借りをつくった歌舞伎役者と指物師が、それぞれ、浸水で孤立した「しぐれ茶屋」に舟で向かい、炊き出しを届ける話。
 歌舞伎俳優が持ってきた握り飯、そして指物師が運んだゆで卵と、仕事の派手地味に関係ない真っ白な男気が泥濘に輝く粋な話だが、このあたりにある現代の名所といえば、東京スカイツリー。「水につかるならい」とは、想像もつかない。

       *

『しぐれ茶屋おりく』の時代設定と同じころ、『野菊の墓』の伊藤左千夫は、いまのJR総武線錦糸町駅近くで牧舎を営んでいた。やはりたびたび氾濫被害にあっている。
 体験をもとに書かれた短編がいくつかあり、そのひとつが『水害雑録』だ。執筆は一九一〇(明治四十三)年。
 同年の、明治最大といわれた荒川洪水のことを書いているとすれば、梅雨前線に二つの台風が重なった八月の豪雨により、関東だけで死者七百数十人、当時の東京府の罹災者およそ百五十万人という怖るべき災害だが、数字だけでは思い浮かべにくい様子が、観察眼と描写力にすぐれた左千夫の筆で、まざまざと立ち上がる。

       *

 臆病者というのは、勇気の無い奴に限るものと思っておったのは誤りであった。人間は無事をこいねがうの念の強ければ、その強いだけそれだけ臆病になるものである。

『水害雑録』は、そう始まる。
 身ひとつなら、いっそ笑い飛ばせる気力も出ようが、係累が多いと、いやおうなく「痛切に無事を願うの念が強い」と左千夫はいうのだ。多くの子をかかえ、搾乳業のかたわらの文芸だった。
 安全を望むのは誰しもだが、望むほどに気が弱る、そのことに共感しながら読んでいくと、豪雨の怖さを音と量で描き出す筆力に引き込まれる。

 有る限りの音声をもって脅すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。(中略)
 さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅される。庭一面に漲り込んだ水上に水煙を立てて、雨は篠を突いているのである。庭の飛石は一箇も見えてるのが無いくらいの水だ。いま五、六寸で床に達する高さである。
 もう畳を上げた方がよいでしょう、と妻や大きい子供らは騒ぐ。牛舎へも水が入りましたと若い衆も訴えて来た。

 
 周囲が騒ぐと意固地になり、たいしたことはない大騒ぎするなと叱りつけるが、

 その一喝した自分の声にさえ、実際は恐怖心が揺いだのであった。

 こういうときは体を動かすしかないと近隣の様子を見に出る(危ないです)。

水の溜ってる面積は五、六町内に跨ってるほど広いのに、排水の落口というのは僅かに三か所」「自分は水の心配をするたびに、ここの工事をやった人の、馬鹿馬鹿しきまでに実務に不忠実な事を呆れるのである。」「人事僅かに至らぬところあるが為に、幾百千の人が、一通りならぬ苦しみをすることを思うと、かくのごとき実務的の仕事に、ただ形ばかりの仕事をして、平気な人の不親切を嘆息せぬ訳にゆかないのである

 そして、本格的な大被害は、晴間が出て二日もしてから起きた。上流からの増水が限界を超え、近隣の川がみな溢水し出したのだ。
 左千夫の筆は、水を恐れると乳が出なくなる牛たちを、水に浸かって牽き、乾いた場所へ連れ出す「水との争闘」の描写に向かう。

       *

 超世的詩人をもって深く自ら任じ、常に万葉集を講じて、日本民族の思想感情における、正しき伝統を解得し継承し、よってもって現時の文明にいささか貢献するところあらんと期する身

 とまで気負いながら、

 わがこの容態はどうだ。腐った下の帯に乳鑵二箇を負ひ三箇のバケツを片手に捧げ片手に牛を牽いている。臍へそも脛はぎも出ずるがままに隠しもせず、奮闘といえば名は美しいけれど、この醜態は何のざまぞ。

 と、わが身を嘲る。
 そして、床上の胸元にまで水がつき、汚水でいっぱいになった自宅を見たときの、左千夫の気持ちは、こう綴られる。

 自分はこの全滅的荒廃の跡を見て何ら悔恨の念も無く不思議と平然たるものであった。自分の家という感じがなく自分の物という感じも無い。むしろ自然の暴力が、いかにもきびきびと残酷に、物を破り人を苦しめた事を痛快に感じた。やがて自分は路傍の人と別れるように、その荒廃の跡を見捨てて去った。

 みな無事であれと臆病にひきこもった心に、勇気がわいたということだろうか。いや、むろんこれは、一種のニヒリズムだ。当時の東京下町で水害にあうつらさは何より、水がその暴力を明るい晴天の下にさらしたまま、ひかないことだった。荒川洪水では、八月に起きた出水が同年十二月までひかなかったという。
 家屋をだめにし、いつまでも侵食し続け、病害さえもたらす濁り水は、生活に必須の「水」でもある。それが、ひたひた揺れるさまを見続けねばならないのは、いかにつらいことか。

       *

『野菊の墓』を書いた伊藤左千夫は『水害雑録』で、「肉体を安んじて精神をくるしめるのがよいか。肉体をくるしめて精神を安んずるのがよいか。」という、芸術と生活をめぐる自問に、迷いなく自答している。
 心さえ腐ることがなければ「文芸を三、四年間放擲してしまうのは、いささかの狐疑も要せぬ。」と。
 が、疲れた身体をしばし横たえると、こんな考えもよぎるのだ。「人間は苦しむだけ苦しまねば死ぬ事もできないのか」。

 牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる

 歌人・詩人としての伊藤左千夫は、よく知らないので、水害体験がよまれた短歌については、またいつか。(ケ)



191110as.PNG 
偕成社 ジュニア版日本文学名作選 一九六四
この版で初めて伊藤左千夫を読んだ
「ジュニア」には難しい文だと思うが『水害雑録』も収録されている


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Originally Uploaded on Nov. 10, 2019. 23:55:00
posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする