2019年10月29日

The Brothers Johnson − Get the funk out ma face 元気が出る曲のことを書こう[43]

 コンバンワァッ!
 ジュンビ ガ デキタッ!

「ニホンゴ」の挨拶が、「日本語」では聞いたこともない、雷撃のようなリズムで飛んできた!
 つづいて英語になりリズム感激増、ビートにのって連呼されるリフは、曲のタイトル「Get the funk out ma face」だ!

 げだふぉ あとまふぇぃ!
 げ! だ! ふぉ! あとまふぇぃ!
 げだふぉ あとまふぇぃ!
 げ! だ! ふぉ! あとまふぇぃ!

 ラップというジャンルがまだない時代だから、口三味線か、言葉がパーカッションとなって、ぐいぐいリズムをあおる。
 つくつく、ちきちき、つくつくつくち〜! ドラムスの16ビートハイハットがたまらない。ベースの振動がものすごく、リズム班たった二人で繰り出すピックアップは、聴いたこともないほどうるさく、うるさいのにキレがよく、ぶっ倒れそうだ。
 歌のメロディは対照的にサワヤカで明朗なのがいい。しかも、たちまちおぼえられるたった二小節が基本型。その基本型がコール・アンド・レスポンスとなり、「このファンク、どっかへやっちまえ! って、俺たちの音楽が嫌いだってのかい、でもまあ俺たちに演奏させてみなよ」という、自信たっぷりの歌詞が歌われる。ギターの兄がファルセット、ベースの弟が低音を歌い、間にはさまれたバーガーの「具」はファンク大盛りだ。寸糸の乱れもない。

191029B1.jpg 
Look Out for #1 1976

 その兄弟とは、ザ・ブラザーズ・ジョンソン。
 一九七〇年代中盤にアメリカのR&Bチャートをヒット曲で席巻、満を持して日本に乗り込んだ、一九七九年の東京・中野サンプラザ公演だ。
 まったく偶然にFMラジオで、それを聞いたわたしは高校生。うわっと叫んでワナワナ震えだした!
 大人になってから震えた経験は、仕事でひどいトラブルになったか、相手先や上司から仕事とはいえ許せない扱いを受けたときしかない。初めて聴いた音楽にノックアウトされた瞬間にこみあげた震え、あの喜びを実感するのは、もうむずかしい。

 一九七〇年代、知らない音楽に出くわす手段は、いまの百分の一くらいしかなかった。
 ちょっと大げさだろうか。しかしインターネットはないし、テレビやラジオでは歌謡番組こそ盛んだったが、発掘型の音楽番組はめったになかった。文字情報も不十分、地元の地方都市に当時、音楽を楽しめる店が多数あったとは思えない。
 鉱脈にぶち当たる機会が少ないだけに、出くわしたときの驚きと喜びは大きかった。「ワナワナ」には、そういう背景もあったと思う。

       ♪

 最近、かつてFMラジオで聴いた来日公演の録音を、やはり偶然に聴くことができた。
 音はかなり悪かったが、四十年後のいま聴いても、すごいライブだ。
 ファンクといえば、その総帥、ジェイムズ・ブラウンに始まって、スライだとかジョージ・クリントンだとかのコテコテ軍団がいるし、クール・アンド・ザ・ギャングや、アース・ウィンド・アンド・ファイアだって、一九七〇年代にはアブラっこいファンクバンドだったから、ブラザーズ・ジョンソンだけが格別にすごいわけではないと思うが、演奏をライブ録音で、いきなり聴いた衝撃があまりにも強かった。

 衝撃の核心はもちろん、弟のルイス・ジョンソン。思いっきりバンドを盛り上げるベース奏者だ。
 エレクトリック・ベースを打楽器のように叩いて鳴らす、見た目もいいスラップ奏法。
 いまや誰でも多かれ少なかれやる弾きかたの、発明者に定説はないと思うが、ルイス・ジョンソンをスラップ創世記に記載することに異論はないはずだ。そして、この人の弾きかたこそスラップ(Slap=ビシバシたたく)だといいたいほど、すぐにルイスだとわかるモーレツな弾き(叩き)かた! 最高だ!

191029B2.jpg 
Right on Time 1977

 じつは、四十年前に初めて聴いたときは音だけで絵がないから、ルイスが弾くところを見てあらためてブッ飛ぶのは、ずっと後のこと。
 彼が愛用したのは、スティングレイという楽器。その名も「エイ(鱏)」で、見るからにバカでかく重そう。わたしが持ったらバズーカ砲を持たされた少年義勇兵に見えてしまう。その楽器をルイスは三味線でも弾くかのように、ヒラリヒラリと手を動かし軽々演奏する。現代のスラップ巧者たちに比べれば音選びは素朴だが、ツボを心得た叩きかたがカッコいいのだ。
 見た目の映えというと、弟のほうが大柄で、兄のジョージのほうがやや線が細く、また左ききなので、それぞれベースとギターを持って並ぶと楽器が「V」の字に。絵になる兄弟だ! 
 兄がメンバー紹介でいっている弟ルイスのニックネームは、ベースの弾きかたどおり「サンダー・サム(Thunder Thumb=雷親指)」、兄のあだ名は、弟ほど知られていないようだが「ライトニン・リックス(Lightnin' Licks=稲妻フレーズ)」だ。まったく、いい感じの兄弟だな! ブラザーズ・ジョンソンを聴くのがますます好きになる。
 ちなみにジョージは、いわゆる「早弾きギタリスト」ではないが、リズム伴奏のシャープさといい、曲のブリッジで音階を走り抜けるようなフレーズの、正確で心地よい粒立ちといい、一聴に値する。

       ♪

 初めて聴いてブッ飛んだから、一九八〇年代初めにかけて、この兄弟バンドをもっと聴くことにしたが、愕然とさせられた。
「ジュンビ ガ デキタッ!」のライブ放送と、スタジオ録音盤──つまり全米ヒットを連発したレコードたち──が、ぜんぜん違う!

 スタジオ録音盤は、よくいえばカッチリまとまった演奏で、アブラ抜き、ツユ薄め、トッピングマシ、って感じだ。トッピングとは、ライブ演奏にはない鳴りモノなどが多いということで、キラビヤカなのはいいが、なんだかテレビ番組のジングルか、スーパーマーケットのBGMのようにも聴こえる。
「Get The Funk Out Ma Face」はデビュー盤に収録──一九七六年春発売の新人ということになるが、翌年のビルボード・ソウル・アルバム1位になっている──されているので、荒削りな面が残っているのか、けっこう熱い演奏。それでも「Thunder Thumb」が、かなり押さえられていて不満だ。この盤をかわきりに四枚連続でプラチナ盤(米)と、爆売れしている反面、演奏の濃度はどんどん薄くなっていってしまう。

 その四枚をプロデュースしたのは、泣く子も黙るクインシー・ジョーンズで、ついでに調べると、高校生のわたしがぶっ倒れたツアー・バンドの人たちが伴奏担当ではなく、そのころからスーパー・マーケットの音楽がそれ一色になった、いや、アメリカのスーパーで聴いたことはないけど、いわゆる「クロスオーバー」、いまでいうフュージョン、スムーズ・ジャズの超一流奏者たちが顔を揃えている。
 当時、ファンクの魂、ブラック・ミュージックの芯を、薄味にしちゃった内容だと批判する評論家もいたようだが、しかたがないことなんだろうな。ジョーンズの力量あってこそのトップヒット連発で、そのおかげで日本のディスコでも、きっと、さんざん回され、来日公演ができ、地方都市でラジオにかじりついていた高校生を、その放送でノックアウトしてくれたのだ。それが、小さい日常世界で悶々としていた自意識にパラダイムシフトを起こす結果になったんだからな。
 このバンドだけではないが、聴いたこともない音楽と出会ってワナワナした経験は間違いなく、いまここにいる場所でない所に行って、ひとりで生活しようという決心を、後押ししてくれたのだ。

       ♪

 ブラザーズ・ジョンソンの五作目は、タイトルが意味ありげな「OUT OF CONTROL」(一九八四年)。クインシー・ジョーンズは降りて制作者交代。それだけでそうなるかとも思うが、アメリカの総合チャートでやっと百位以内、R&Bチャートでも二十位となり、売れた盤はこれが実質最後となった。

 以後、ルイス・ジョンソンは、もちろんその腕をかわれ、売れっ子ベース奏者となって、たくさんのヒット曲で演奏している。
 いちばんヒットした曲は、さてどれだろう、マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」かな。そう、あの印象的なファ#ド#ミファ#ファ#ド#シド#ですね。むろんジャクソンに世界的スターへの道を開いたのもクインシー・ジョーンズなので、ジョーンズに呼ばれてだったと思われるが、ルイスはこの曲ではたんたんとファ#ド#ミファ#を弾き続け、「雷親指」は披露していない。
 兄のジョージは、しばらく後に実業へ移ったらしいが、近年ふたたび演奏しているようで、イベントなどで兄弟再演もしている。
 と書きつつ、どこかでライブをやらないかな、と近況を調べたら、弟のルイスが二〇一五年に亡くなってしまっていた。(ケ)

191029B3.jpg 
Blam! 1978

The Brothers Johnson
GEORGE JOHNSON 1953/05/17 -
LOUIS JOHNSON  1955/04/13 - 2015/05/21

■Music Vault が Youtube で無償公開している公式映像に、この曲の一九八〇年ニューヨーク公演があります。
 →こちら←



●「元気が出る曲のことを書こう」の記事一覧は→こちら←


posted by 冬の夢 at 00:59 | Comment(0) | 音楽 映画音楽・ソウルなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年10月26日

S.Cahn, J.Styne − The Things We Did Last Summer 元気が出る曲のことを書こう[42]

 とても好きな曲で、ふと、よくメロディが浮かぶのに、曲名も奏者も、いつどこで聴いたかも、思い出せない曲ってありませんか?
 そんな曲だらけだ。ジャンルや時代をとわず、なんでもかんでも聴くから、探す手がかりもない。
 イタズラに長く生きているぶん、かなりの数が判明したが、さっぱり分からない曲も、まだまだある。

 わからない数がいちばん多いのはジャズの曲。
 ずっと以前、学校の部活でやっていて、それがよくなかった。
 たいした知識もないのに、イキがって曲名を符丁でいったりするから、よけいわからなくなる。

 たとえば「サケバラ」。
「酒とバラの日々(The Days of Wine and Roses)」という曲で、長調で小粋なのに、アル中で破滅する話の、同名映画の主題歌とは、けっこう長い間、知らなかった!
「愚かなり我が心(My Foolish Heart)」もそう。
 これも同名映画の主題歌で、それも悲恋のB級メロドラマ──ただし、この曲が流れる場面でのダナ・アンドリューズは、とてもいい──だ。
 この曲は「マイフリ」とはいわないが、いい曲だなぁと思ったくせに、しばらく曲名を知らなかった。映画でなくピアノ・トリオの演奏で知ったが、ビル・エヴァンズだとはわかっていたから、かなり後にジャズ喫茶でレコードジャケットを見せてもらって解決。
 ジャズでよく演奏される古い流行歌の場合、曲の仕立てが似ているものがあるので、ごっちゃになってしまうこともある。お店のBGMなどで、コード進行を聴いていて、あの曲だね、とわかったりするわりには曲名が出てこなかったり、ほかの曲と勘違いしていたり。

       ♪

 最近の話を書きたいから、近ごろ知った曲を思い出していたら、この曲のメロディが浮かんだ。
「The Things We Did Last Summer」。一九四六年にジョー・スタッフォードの歌でレコードが出ている。
 さんざん探して、やっと曲名を知った。

 メロディが心にしみる曲だ。歌われているのは、湖でボートに乗ったとか、移動遊園地のアトラクションで景品をとったとか、朝からタンデム自転車でハイキングに行って弁當を食ったけど雨に降られちゃったとかいう、恋人との夏の思い出。小さいエピソードがぽつりぽつりと、ほほえましく綴られる。
 しかし、秋になったら将来の約束は、木々の葉が枯れるように薄れてしまった、どうして愛はこんなことになっちゃんたんだろう、この冬じゅう、ふたりで夏にしたことを思い出すよ──という話で、じつは典型的なトーチソング、いかにもB級メロドラマな失恋の歌なのだ。
 さまざまな人気曲を作った、詞のサミー・カーンと曲のジュール・スタインの作。このコンビが作った、いまも誰でもすぐわかる曲といえば、クリスマスによく流れる「Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!」だろうか。

 ちなみに「Let It Snow! ──」も、同じくらい世界中で聞かれている、ジャズ歌手のメル・トーメ作曲の「The Chrisitmas Song」も、一九四五年七月に作られている。
 真夏に作詞作曲されたクリスマスソングとして話題になる曲たちなのだが、ほかならぬ一九四五年の夏のこと。こちらが一億玉砕といっているときに、冷房をかけてその年のクリスマスのことを考えていた国と、戦争をしていたのだ。いまさらどうしようもないことだが、なぜ、せめてもうすこし早く「負けました」といわなかったのだろう。

 ジョー・スタッフォードの盤が発売されたのは、翌一九四六年九月。全米十位のヒットになった。当時、愛聴したアメリカ人たちがイメージした「Last Summer」は、同年の夏なのか、それとも「去年の夏」つまり一九四五年の夏なのか。そう思いつつ歌詞をたどると胸が痛くなる。
 そのころ小学校低学年で、疎開もしたウチの母の記憶ときたら、「空腹」に尽きてましたから……。

       ♪

 さて、ごく近年この曲を知ったときは、ジャズの演奏で聴いたはずだ。
 ジョー・スタッフォードの歌を初めて聴いたのは、じつはこの文を書きながら。歌詞もいま初めて見ている。 

191027Jo.JPG 
Jo Stafford 1948 public domain item

 ジャズのバラードソングに、名曲、名演、名盤は山ほどあり、ほかにも好きな曲がたくさんあるが、この曲は、とにかく最初のメロディが抜群にいい。
 ドミソのハ長調に直していうと、ミファソラ、ミファソときて、すぐオクターブ上のミミファ、下がってラドレ、この単純すぎる、似た組み合わせの動きが美しい。

 The boat rides we would take
 The moonlight on the lake

  あのボートが進むよ よく乗ったよね
  湖を照らす、あの月の光

 と、歌詞をはめると、美化したい思いが強いほど、色合いが淡くなっていく光景が、まるで自分の記憶のように浮かぶ。
 その思いが心から流れ出すように、つづけてミレド、ソミレドと、似た組み合わせでメロディが下降する。
「The」が、みなアウフタクトなのが、訥々と思い出をならべる感じなのもいい。

 The way we danced. And hummed our favorite song.
 ダンスしたときの感じや 好きな曲をハミングしたこと

 最初のメロディの終わりの「song」が「シ♭」なのがしゃれていて、コードはEm7→A7、つまり次のメロディをTとみたUm7→X7で橋渡し。
 英語のいい回しが出来ないと──もちろん出来ないが──この部分を映画音楽調には歌えないし、「song」の伴奏Um7→X7は、甘さにシャープな感じが加わってカッコいい。
 それほど難しい話ではなく、ジャズっぽい緊張感になるよう配されるコード進行「ツーファイブ(Um7→X7)」が、いいところにバッチリ仕込まれている。その造作を感じさせない構成美なのだ。
 なのに、誰の演奏でこの曲を知ったのか、どうしても思い出せなかった!

       ♪

 そこはアッサリあきらめ、「逆引き」すなわち、この演奏はいい! というのを探すことに。

 歌詞を知ってしまうと、淡々と情景描写する感じの演奏がいいと思った。
 初回発売のジョー・スタッフォードは、ゴージャスなオケつきの映画音楽ふう。いいのだけれど、希望からすると、ちょいとやりすぎだ。
 じつはこの曲は、作者たちがもともとフランク・シナトラに約束していた曲なのだが、シナトラのレコード会社が手間取っているうちに、べつの会社がスタッフォードで売り出してしまったといういわくがある。スタッフォード版がヒットしたのでシナトラは激怒したらしいが、くわしくは調べていないけれども当時は、まず作者が契約している音楽出版社に曲を預ける仕組みだったのでしょうね。
 なお、シナトラも録音・発売したが、ヒットには至らなかった。

 歌で聴くとしたら、ザ・レターメンがいい。三連符で伴奏するポップスだが。
 ビーチ・ボーイズもコーラスでやっていて、意外にそちらのほうがジャズっぽく演奏している。ただ、最初のメロディをユニゾンで歌っているから次点ということに。もっともレターメンの歌いかたは、やや堅いので、ルーズなほうが雰囲気を感じるならビーチ・ボーイズかな。

191027Lm.JPG 
The Things We Did Last Summer/Secretly 1965
英語のタイトルを見ると、山口百恵の「ひと夏の経験」を
思い出してしまう世代ですが、そういう曲じゃないです (^_^)

 かんじんのジャズの演奏は、聴いたはずの演奏はわからず、あまり好きな演奏もない。
 情景をポツリポツリ置いていくような演奏がいいと決めてしまったので、音程やテンポを揺らして情緒たっぷりなのは、どうもなぁと思ってしまう。

 そこで選んだのは、これまた今日の今日まで知らなかったトランペット奏者、ディジー・リースの演奏。
 ディジーといっても、ガレスピーではないですね。
 この人もハード・バップの奏者らしく、この曲が収録された盤には、アート・ブレイキー、スタンリー・タレンティン、ボビー・ティモンズ、サム・ジョーンズらというハード・バップ一軍選手がずらりと顔をそろえている。
 が、知らなかった。ディジー・リース。

191027on.jpg 
COMIN' ON! 1960

 どこがいいといって、飾りっけもヤマっけもないこと。
 よくいえば癖がなく、悪くいえば教科書のような、ということになるが、同じトランペットでもフレディ・ハバードの、あまりにも上手すぎる演奏と比べると、あきらかにリースのほうが、この曲の感じを伝えてくれている。
 ハード・バップのアブラっ濃さは、しっかりしみこんだ演奏なので、教科書として手にとり、教科書の中にも教科書に載らないことのタネがあるんだよ的な聴きかたでも、いいじゃないかと思う。

       ♪

 曲名探しと合わせて、山ほどジャズのバラードソングを聴いたので、食傷したかというと、そんなことはない。
 ジャズではアップテンポでふつう演奏するのに、もとはベタベタなバラード調だったという曲も知ったし、その逆があることもわかった。
 ジャズの歌ものの曲は、歌詞の内容を理解して演奏すべき、という説があり、この文もそのような文脈なのだが、そんなことはぜんぜん関係ないんで、モダン・ジャズの中にこそポスト・モダンが存在しているのがジャズのカッコよさでもあるんだと、いまさら再認識もできた。

 それはそれとして、あらためて、亡くなったチャーリー・ヘイデン──すばらしいベース奏者!──がいっていたことを思い出した。
 ヘイデンは、芸術的にも政治的にも先鋭で反主流の音楽を演奏するいっぽう、昔の映画音楽や小唄など、ロックやポップ以前のポピュラー音楽を、古いスタイルで演奏することを大切に、熱心にとりあげた。
「懐メロ」の演奏にもこだわるのは、そうしたポピュラー音楽がとても愛されていた時代は、それらは、ことに強く郷愁を歌っていて、その郷愁という感情こそが、アメリカがしばしば陥る暴力と狂気から人びとを遠ざけてくれるからだと、ヘイデンはいっていたのだ。
 その通りだと思う。なのに、これほど郷愁に満ちた美しい曲をトップヒットさせたアメリカが、その後たびたび戦争を繰り返し、いまでは国の中でさえ、こんなにもいがみ合ってしまうとは。なぜなのか、わからない。(ケ)

Originally Uploaded on Oct. 27, 2019. 11:30:00

●「元気が出る曲のことを書こう」の記事一覧は→こちら←


posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 音楽 ジャズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年10月17日

前回の東京オリンピック寄付金つき記念切手を楽しむ(3/3)

 短い間だが、十円玉を握りしめた小学生切手収集家だったことがある。東京オリンピックが終わって五〜六年後だろうか。
 そのとき、この「東京オリンピック募金」切手を集めた記憶はない。子どもの目にはジミに見えて、収集欲がわかなかったのか。それともプレミアがついていて、十円玉数個では買えなかったのか。
 いずれにしても発売時の、切手収集ブームと重なった大騒ぎに巻き込まれなかったのは、それはそれでよかったと思う。

sMG_0001.JPG

 この切手シリーズで、切手ブームに連動した大騒動が繰り返されたことは、初めて知った。
 切手の発行計画、制作や販売、そもそもの法整備からしても、暮れの大掃除のような騒ぎだったわけだが、四年間に六度にわたる発売ごとに、社会問題になるほどの騒ぎが起きていたのだ。

 ひとことでまとめると、とんでもない買い付け騒ぎと、ばかげた事後価格の浮沈である。
 ふつうに記念で欲しい一般客のみならず、切手ブームゆえの多数の収集家たちや、投機目的の切手業者や新参のブローカーらが、手ぐすね引いて発売を待っていた。
 にもかかわらず初回の発行数は、当時の記念切手の半分ほどしかなかったのだ。

 この切手シリーズには「5+5」と印刷されている。額面が五円で寄付金が五円ということで、窓口価格が十円だ。
 寄付金つき切手は人気がなく売れ行きが悪い、という経験則があったのに、額面と同じ募金額というのは多い。いまでいうと「63+63」、はがきに貼る切手が倍額なのだから。
 また、当時の皇太子、いまの上皇の、結婚記念切手(一九五九年)を景気よく二五〇〇万枚刷ったら、かなり売り残してしまったことがあり、国をあげての出来事の場合も、ほどほどの枚数にしようという判断が合わさって、東京オリンピック募金記念切手の初回分三点は、各・四〇〇万枚ということになり、三回目の発行数も五〇〇万枚どまりだった。

 その結果、発売のたびに東京中央郵便局に長蛇の列ができ、入局制限が行われる。通販の作業はパンクし発送が遅れに遅れた。学校をサボって買いにいく生徒が続出し問題化したともいう。
 まあ、そこまでは世相風俗ということで済みそうだが、発売されたばかりで、ふつうにはがきに貼って使える切手に、場合によっては三倍以上のプレミアがつく事態に。「切手は儲かる」という報道が過熱をあおり、発売日の郵便局のまわりを買取業者が徘徊したという。、
 あきれてしまうのは、きわめて多くの枚数が特定団体に割り当てられていた事実。その仕組みを利用した横流しが横行し、余録にあずかった郵政省・郵便局の関係者が、すくなからずいたらしい。黒岩重吾や梶山季之みたいな話だ。

 当初はこの思惑買い騒動を、切手マニア業界に限られた話と、ほとんど無視を決め込んでいた郵政省も、一九六三年秋の五回目(四種類発行)に、発行数をいっきょに一四〇〇万枚に増やす。
 おかげで入手難やプレミアは静まったが、値崩れを怖れた業者らの在庫がいっきに放出され、市中売価が額面を割るような状況になってしまった。冗談のような顛末である。

 素直に喜ぶべきか、それとも苦笑すべきか、切手に刷られた「+5」円、つまり寄付金は、なんと計画の三倍に及ぶ、当時の九億円以上が集まったという。
 単純換算はできないが、はがき用切手なら現在は「63+63」円になる、ということで考えると、いまの百億円以上が五輪資金になった、ということだ。
 これほどのカネが動いたとなると、こっそり隠匿した分で小遣いを稼ぎ、周囲を気にしながら、どっかの店のネーチャンとよろしくやった輩たちの背後で、はるかに大きな悪が笑っていたのかもしれない。

 世界とのスポーツ交流などどこにも見えない、せせこましい庭先騒動だが、この切手に興味をもったのも、二〇二〇年の開催で前回の記念切手にプレミアがつくかもという記事を、数年前に経済紙かビジネス誌で見たせいだ。切手は儲かる説に翻弄された人たちを揶揄する資格はない。
 それに、当時の日本人に、オリンピックによって世界が見えたかといったら、そういうわけでもないだろう。
 この切手シリーズは、スポーツ賛歌を象徴化する職人技が美しいので、あらためて注目したわけだが、参考資料がほぼすべて日本の競技や練習の写真である以上、五輪開催をかちとった戦後の日本人が頑張る姿を記念メダルに仕立てた切手だと、いえなくもないのである。
 
 いま、この切手シリーズは、一枚ずつなら、経年価値がつかない値段で売っている。
 さすがに初回の三点のみ、額面の二十倍くらいが標準価格で、それ以外は額面の五倍くらいのようだが、そもそも「5+5」円切手だから何倍といったって知れている。また、わたしの場合、ほとんどの切手が額面のままの売価で買えている。つまり一枚十円だ。
 いちどに全部はつまらないので、切手の即売会などで少しずつ集めているが、交通費がもったいないくらいだ。(ケ)

sSC00689.JPG sSC00687.JPG sSC00691.JPG

1は→こちら←
2は→こちら←

● 切手の博物館・専門図書室に、お世話になりました。

【参考】
『切手』『郵趣』の一九六〇年代のバックナンバー
『解説・戦後記念切手シリーズ3』(内藤陽介/日本郵趣出版/二〇〇五年)
 ほか


*写真の解像度は低くしてあります


posted by 冬の夢 at 20:43 | Comment(0) | 切手 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする