2019年07月27日

On My Six

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 from the late 1980s to the early 1990s

(ケ)

2019 (c) 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌  不許複製



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2019年07月23日

ビートルズのコピーバンドとモナリサ・ツインズの「恋のアドバイス」

 公正取引委員会がGAFAなどの大手ITプラットフォーマーに対して個人情報保護の観点から規制強化に乗り出すことが明らかになった(※1)。GAFAとは、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの大手四社を指す。個人データの不適切な収集・利用が独占禁止法違反に当たるという指針が示されることになる。
今更何をという感がなくもない。インターネットが人びとの生活を席捲して以降、氏名・住所はもちろんのこと、電話番号からクレジットカード情報まですべてを曝け出さないと、ネットの恩恵に預かることは出来ない。本屋に行かなくとも欲しい本のタイトルをポチッとクリックすれば、翌日には自宅の郵便ポストに本の現物が届いている。個人情報を登録するのはその利便性を手に入れるための交換条件であって、それを加工してビッグデータにしたり、外部に対して二次利用したりするのは、違法かどうかはともかく信義にもとる行為であることに間違いはない。
一方で個人情報の持ち主たる本人へ向けた個別販促施策は、本人の同意さえあればデータ利用の許容範囲と解釈されている。アマゾンで書籍情報を検索すると「お買い忘れではないですか」というメールが数日後に送られてくる。実際に気になった書籍ならば仕方ないかとも思うけれども、「あなたはもしやこんな本も買う気があるんではないですか」調の関連書籍のお勧めメールなどはいかにも余計なお世話であって、ほとんどは未読のまま削除、ゴミ箱行きとなる。送る方はシステムがやるから何ひとつ手間はかかっていないのに、送られる側が削除するにはクリック作業が必要だ。このメールが不特定多数の人びとに対して日に何億通も送付されているならば、メール削除の手間の総計はとてつもない時間になっているはず。なんと厄介で無意味な労力だろうか。

 GAFAの中にYouTubeの頭文字がないのは、YouTubeがGoogleの傘下にあるからで、よってYouTubeはグーグルのアカウントを使って利用すると、利用者の閲覧履歴に応じた動画を優先して提供する仕組みになっている(もちろん広告も)。このシステムによって、YouTubeを開くとホーム画面のトップには利用者の閲覧回数の多いカテゴリーの動画が現れることになり、例えば今の私のYouTubeは、大相撲の取組ダイジェスト動画がトップに表示されている。
わざわざ目次の中からお目当てのページを探さなくても良いわけだから、便利は便利。でも意外な映像を発見したり、偶然の出会いを愉しむ機会は少なくなる。さらには自分の志向の偏重ぶりを形にして再確認させられると、いかに毎日下らない動画ばかりを見ているのかと情けなくなることもしばしば。
ドライブレコーダーが普及して自動車事故の現場映像が大量に投稿されるようになって、車を運転する立場からたまに見入ってしまうことがある。すると翌日開いたYouTubeには、車が衝突したり、パトカーに追いかけられたりした映像がズラリと並んでいる。自己反省すると同時に、ますます異常な嗜好へ沈んでいくというのも一興なのだから、甘んじてYouTubeの世界に身を浸して行くしかないのだろうか……。

 前置きが長くなったが、YouTubeはビートルズの映像や音源の宝庫でもある。特にオリジナルアルバム以外のスタジオセッション音源やライヴコンサートの映像が次々に見つかるので、嬉しくなって更にYouTubeにのめり込むことになる。
大昔のビートルズファンは「ビートルズ事典」(※2)の巻末に掲載された海賊盤紹介ページをつぶさに読み込み、決して聴くことが出来ないデモテープやライヴ録音に思いをはせることしか出来なかった。それが今ではYouTubeでチョチョイと検索すればマニア垂涎の的たる秘蔵映像も貴重音源も見つけられてしまう。公式アルバムのコピーが著作権管理のシステムに引っかかるのかすぐに削除される一方で、海賊盤的な映像と音源はそもそも公式なものではないから、膨大な投稿動画のひとつと見なされるようだ。おかげでYouTubeでは思う存分にビートルズ三昧を楽しむことが出来る。

 そんなだからYouTubeが勝手におススメしてくれる私向けのトップメニューには、ビートルズ関連動画も常に並ぶことになる。その中に出てきたのが、ポール・マッカートニーとリンゴ・スターが並んでマイクの前に立っている画面。「おや?」と思いながら開いてみると、アップロードの日付はつい先日の2019年7月13日。なんとロサンゼルスのドジャースタジアムで行われたポールのライブコンサートにリンゴがサプライズゲストとして出演していて、その映像が瞬時にアップされていたのだった。早速動画を見ると、リンゴの登場はアンコール演奏の終盤。"Sgt. Pepper's"と"Helter Skelter"の二曲にドラムとして参加したリンゴは、夕暮れの屋外コンサートに集まった聴衆たちからの絶叫を一身に浴びていた。
以前ならこの現場に立ち会った取材記者がいなければ、当日の聴衆たちの中だけの奇跡の出来事として伝説化するしかなかったはず。もし誰かが記事にしたとしても、日本では音楽雑誌「ミュージック・ライフ」か「音楽専科」(※3)の一色刷りページの片隅に、海外最新情報というタイトルのもと数ヶ月遅れの外電として掲載されるのがオチだった。
誰もがスマートフォンを持ち、誰でもYouTubeへ投稿可能になった現代だからこそ、リンゴのサプライズ出演をほとんど時差なく知ることが出来る。ポール・マッカートニーが自分のライヴコンサートのスマホ撮影に寛容だということが大前提だけれども、GAFAが成し遂げてきたITの進化が音楽の愉しみ方を段違いに革新してしまったのは抗いようのない事実である。

 そんなポールとリンゴの映像を見た後で、クリクリとYouTubeのページをスライドさせていると、ビートルズのコピーバンド情報がアレコレと立ち現れてくる。
公式アルバム風を装って実は全曲がコピーバンドの演奏だった、というフェイクものもたくさんあって、そんなときには引っかかってしまった自分の落ち度を嘆くのだが、それとは別にこんなバンドもいるんだなという新たな発見をすることもある。
その発見が、モナリサ・ツインズ。一部にコアなファンが存在するようなので、何を今更偉そうにとお叱りを受けるかも知れない。しかし、このモナリサ・ツインズはビートルズのコピーの有り様を根本から爽やかに覆してくれる二人組なのだった。

 そもそもビートルズの音楽自体が、究極にシンプルに出来ていて、かつ至極に唯一無二の存在であるため、コピーバンドの目的は「完コピ」を向かわざるを得なかった。日本で最初に出てきたコピーバンドはザ・バッド・ボーイズ。1973年に"Meet the Beatles"のジャケットデザインを真似た「ミート・ザ・バッド・ボーイズ」というアルバムでメジャーデビューを果たしている。私が中学生のときに市の公会堂で開催された「ビートルズ音楽祭」にザ・バッド・ボーイズが出演し、生演奏を披露したことがあった。たぶんコンサートを記録した映像を上映したあとの第二部のスペシャルイベントとして。
当時の私はコピーバンドに何ひとつ価値を見出していなかったため、傲慢にも冷ややかな目で彼らの演奏を眺めていた。バンドメンバーが聴衆に向かってリクエストを募ると、元気の良い女の子が瞬発的に「ビコーズ!」と叫んだ。するとザ・バッド・ボーイズは「じゃあ"Because"の入っている『アビイ・ロード』のB面メドレーを演ります」と言って、"She came in through the bathroom window"の演奏を始めた。『アビイ・ロード』はビートルズがライヴコンサートをやめてスタジオにこもることになってからの最後のアルバムだったので、バカな中学生の私は『アビイ・ロード』メドレーは生で演奏することが可能なのか、と的外れな驚きを感じていた……。

 もちろん今ではビートルズのコピーバンドもひとつの立派な音楽ジャンルであると認識するようになり、コピーバンドの中では「本格派」とも言えるRAIN(※4)のコンサートを聴きに行ったこともある。会場を埋め尽くした中高年の男女が恥ずかしげもなく立ち上がって踊るほどの盛り上がりに居心地の悪さを感じたのは置いておくにして、ビートルズバンドとしての完コピぶりには圧倒されてしまった。三階席の端から見ていたのだが、遠目にはビートルズの本物にしか見えない(もちろん本物を見たことはありません)。直立して正面からマイクに向かうジョン役。ギターを胸辺りで抱えて少しガニ股気味にステップするジョージ役。背筋を伸ばしながら時折髪を振り乱すリンゴ役。そして、これが一番驚いたのだが、首をやや傾げながら片足を少し前に出してベースを弾くポール役が「左利き」であったこと。ビートルズをコピーする際、ポールの利き腕まで再現出来るバンドはほとんどなかった。けれども特にライブコンサートの見た目において、ポールがカール・ヘフナー500-1を左手で弾く図、つまりリンゴのドラムが後方の高いところにあり、上手からジョン右、ジョージ右、ポール左のギタリストたちが立ち揃うビジュアルアンサンブルは、ビートルズのイメージそのものなのだ。いくらコピーバンドと自称していても、ギターが右向きに三本並ぶビートルズなんてあり得ないわけで、そこがこれまでのコピーバンドの急所だった。しかしRAINは左でベースを弾くポール役を得て、本物感を高めることに成功した(RAINのメンバーは固定されておらず、右利きのポール役も存在している)。レベルの高い演奏やステージ衣装を変えてビートルズの変遷を辿る演出も楽しめる。完コピバンドのひとつの頂点であるような気がした。

 とは言っても、こうしたコピーバンドは畢竟モノマネなのであって、感心のしどころは「よくここまで似せることが出来たもんだ」に尽きる。ビートルズ以上になるなんてあるわけがないし、ビートルズ以外の何者かになろうとしているわけでもない。いや、コピーバンドたちはビートルズの影を踏む競争をしているのだから、ビートルズなしではその存在理由すら覚束なくなる。
ところが、YouTubeで発見したモナリサ・ツインズは違う。全く違うのだ。
何が違うって、まずは女子二人組だということ。ビートルズを「完コピ」するならば、女子であることはハナから「完全」を諦めることになる。諦めると言うならば、モナリサ・ツインズはそもそも「完コピ」などを目指してはいない。彼女たちはビートルズの曲を歌うことでプロのミュージシャンになったツインボーカルコンビなのである。

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 モナリサ・ツインズは、モナ・ワグナーとリザ・ワグナーの姉妹バンドでオーストリア出身。父親がミュージシャン兼作曲家で、かつ有名アーティストをプロデュースするレコーディングスタジオを運営していた。そんな環境で育った二人は、十三歳のときにギターを手に入れて歌を歌い始めた。YouTubeで彼女たちの"Two of us"を見ると、よちよち歩きの双子の赤ちゃんが、いたずらざかりに泥んこ遊びをしながら成長して、あるときギターという最高のオモチャに出会った記録を垣間見ることが出来る。そんな二人が自分たちの持ち歌に選択したのがビートルズナンバーの数々。そのとき新しいビートルズのコピーバンドが誕生したのだ。ビートルズの曲を専ら演奏するのにも関わらず、従来型の完全モノマネ的なコピーバンドとは全く違った、ビートルズソングを自分のものにしてしまうビートルズ「エンブレイス」バンドの登場だ。

 モナリサ・ツインズがいかにもビートルズを抱きしめながら歌っているように感じられる理由はたぶん声質にある。
姉妹は素晴らしいデュエットを聴かせて、絶妙なハーモニーとともにユニゾンが見事にハマる。それはすべて声質のおかげ。姉妹だから当然だけれども、声が似ている。似ているのだが、全く同じではない。その二人が一緒に歌うことで「同じだけど違う」「違うようで同じ」に聴こえる。これこそビートルズが多用したダブルトラックの録音技法が目指すところだった。ダブルトラックはジョンならジョンが自分のボーカルトラックに被せて、同じ歌を自ら重ねて録音するスタジオテクニック。ソロだけで十分に魅力的な歌声がダブルトラックによって多層的に聴こえて、リードボーカルの魅力がマシマシになる仕掛けだ。
ビートルズのレコーディングに欠かせないダブルトラック技法が、たまたま姉妹であったモナリサ・ツインズにおいては二人で声を合わせて自然に歌うだけで再現されてしまった。意図したわけではなかっただろうが、姉妹であることの前提条件によって他の誰にも出来ないビートルズのカバーの仕方が実現されたわけだ。
さらにはこの双子が女性だったということも重要な要素。ジョンもポールももちろん男性なのだが、そのボーカルが男性的かと言えばそうではない。もちろんジェンダーフリーの現代において「男性的」「女性的」という概念自体が不要になりつつあるものの、ビートルズのボーカルは元から「男の匂い」を感じさせないアンドロギュノス風味があった。腰を振りながら歌うエルヴィス・プレスリーがいわゆるセックスシンボルであったのとは違って、ビートルズはそうした男性の性を感じさせるところが皆無だった。だからビートルズのコピーバンドたちは無味無臭な歌と演奏を志向するのだったし、たまに間違って男を感じさせてしまうから「完コピ」にならない結果を招いてもいた。
ところがモナリサ・ツインズはそもそもが女性なのである。しかも双子の姉妹だ。そこには猥雑な雰囲気は微塵もあろうはずがない。そんな彼女たちだからこそ、ビートルズのエッセンスをそのままピュアな形で再構築することが出来た。ビートルズの演奏が、時代を超えて支持されているのも、存在自体が中性的でニュートラルだからかも知れない。

 そのモナリサ・ツインズの極めつけの一曲が「恋のアドバイス」。ビートルズの五枚目のアルバム「ヘルプ!」のA面に収録された"You're going to lose that girl"は、映画『HELP! 4人はアイドル』(※5)にも挿入歌として出てくる。ジョンのリードボーカル、ポールとジョージのバックコーラス。その掛け合いがまさしくゴキゲンでウキウキするようなポップソングだ。
この曲をカバーしたミュージシャンは数組しかいないし、そのどれもが中途半端なコピーでしかない。それは「恋のアドバイス」がいかにもビートルズらしい曲だからだし、ジョンとポールとジョージの歌でしか成立しないほどの明朗さと快活さに溢れているからだ。「君さ、このままじゃ彼女に逃げられちゃうよ」という歌詞なのに、あまりの朗らかさで楽観的な気分にもなってしまう。
そんな雰囲気をモナリサ・ツインズは見事に自分たちのものにしている。YouTubeを見ているだけで、嫌なことが自然と剥がれ落ちて良い気分になってくる。いつまでもモナリサ・ツインズの世界に浸っていたくなるほどゴキゲンな感覚だ。

 と長々と紹介してきたわりには、私はYouTubeで見ているだけで、モナリサ・ツインズのCDを実は一枚も持っていない。そんなニワカファンがここまで絶賛して良いものかどうか。もっとディープなファンがいたら、ぜひ力強くモナリサ・ツインズをご紹介いただきたいものである。(き)


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(※1)令和元年七月十七日 日本経済新聞より

(※2)「ビートルズ事典」(香川利一編・著)は1974年に立風書房から出版された。278ページ、販売価格2000円で、当時としては最も網羅的にビートルズを知ることが出来る豪華本だった。

(※3)「ミュージック・ライフ」はシンコー・ミュージック社が、「音楽専科」は音楽専科社がそれぞれ編集・発行していた。

(※4)「RAIN」はアメリカカリフォルニア州出身のバンド。「A tribute to the Beatles」というタイトルでコンサートツアーを行なっている。

(※5)『HELP! 4人はアイドル』は1965年公開のイギリス映画。リチャード・レスター監督。ミュージッククリップの歴史はここから始まったとも言える映像センスに溢れたコメディ映画だ。



posted by 冬の夢 at 22:13 | Comment(1) | 音楽 ロック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年07月20日

「国」と「政府」を混同する憂鬱

 梅雨明け前の大雨もイヤだし、どうせ自民党が勝ってしまう選挙もイヤ、何よりも京都のアニメ制作工房の放火事件が悲惨すぎて、落ち着いていられない。とりわけ京都の事件は、まだ詳細が明らかにされていないけれど、もしかしたら旧い知人が巻き込まれているのではないかという、非常にイヤな予感がして恐ろしい。もちろん、被害者が自分と縁も所縁もない人々であっても、事件の悲惨さには何の違いもないのだけれど……

 こうした憂鬱な気分で新聞を斜め読みしているうちに、昔からずっと不満に感じていたことが殊更に不愉快に思われてきた。それがタイトルに記した、国と政府を混同するという、よくよく考えると、絶対に間違っているどころか、以前にも書いた暴言(迷言=名言?)「マチガイもあまりに酷くなるとキチガイになる」を想起させるほどの迷妄だ。折しも日本政府と韓国政府は、いわゆる慰安婦問題、徴用工訴訟、輸出規制を巡って、ひどく見苦しい関係になっているわけだが、それを報じる新聞(といっても、ネット上のニュースだけれど)の見出しが、端的に狂っている。具体例をいくつか記そう。

日本の輸出規制、韓国が改めて非難
・「日本の輸出規制は不当」 韓国がWTO理事会で説明へ
韓国反発「日本の一方的な主張に同意できない」
・河野氏「韓国が速やかに是正を」…大使と面会後
韓国対日批判強める

 あらためて言うまでもなく、上記の見出し中の両国名は全てその後ろに「政府」という文言を付けるのが正しい。輸出規制を決めたのは日本の現政権であり、それを非難しているのは韓国の現政権だ。WTO理事会で説明したのも、韓国ではなく、韓国の現政権の代表だろう。もちろん、スペースに限りのある見出しのことだから、わざわざ「〜〜政府」「〜〜政権」と書くわけにはいかない。だから、それは自動的に補って読むのが正しいと主張したくなる気分はわからないではない。

 けれども、本文に目を通してみても、実は事態は全く同じ。「日本政府」とあるべきところが「日本」で置き換えられ、「韓国政府」とあるべきところが「韓国」で置き換えられている。さて、この種の無反省かつ半自動的な置き換えは、はたして単なる悪しき愚かな習慣なのか、それとも邪悪な意図による深慮遠謀の反映なのだろうか?

 というのは、日本の安倍政権と韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権の間に強く深い不信感と反発が横たわっていることはほぼ確実であり、さらには、安倍が個人的に文在寅を嫌っており、逆にまた文在寅が個人的に安倍を忌避しているということも十分ありえるのかもしれない。したがって、両国政府がお互いを激しく嫌悪し、口汚く罵り合うのは仕方ないのかもしれない。けれども、そのとき、例えば、「韓国政府、対日本政府批判を強める」というのがより正確なときに、「韓国、対日批判を強める」と言われると、自分を日本人だと思っている人なら誰だって良い気分はしないだろう。まるで自分が批判されているように感じるのだから。そして、「馬鹿言え! オレは何も悪いことはしていないのに、なんで批判されなければならないんだ? 韓国人というのはとんでもない言いがかりをつけてくる怪しからん輩だ」となりかねない。もちろん、逆もしかり。「日本政府が輸出規制を強行」とあるべきところ、「日本が輸出規制を強行」とあれば、悪いのは(仮に日本政府に非があるとして)日本政府=安倍政権であるに過ぎないのに、まるで日本人全員にその責任があるかのように聞こえるではないか! こうして、両国民の間にいっそうの反感が募っていく。

 全く同じことが、外交問題のときだけではなく、例えば訴訟の際にも深刻な作用を引き起こす。端的に「国を相手に訴える」という表現だ。馬鹿を言いなさい! 誰が「国」を相手に訴訟を起こしますか! 相手は行政府だ。訴訟を起こしている人たちは、現在あるいは過去の行政府の無作為、行政府の怠慢、行政府の不正を問題にしているのであって、「日本」を相手に闘っているわけではない。せっかく特定の政権、特定の統治の問題を具体的に指摘しているときに、それを「国」なんていう、ひどく漠然としたものに置き換えてしまうために、責任の所在までが曖昧にされてしまう。「誰も悪くないんです、悪いのは『国』なんです」というわけだ。

 しかし、何度考えてもよくわからない。いったいどういう頭の構造をしていると、政権と国が混同できるのだろう。両者は少なくとも水と油ほどには隔たっているのに。政権なんてものは、通常4年で終わる。下手をすればもっと短いスパンで終わる。(もっと下手をすれば、とんでもないド阿呆が長期政権を維持することもあるけれど。)日本と韓国の現政権同士は確かに仲が悪い。だが、どちらかの政権が交代すれば、もしかしたらすぐにでも関係改善が行われる可能性もある。両国関係なんてそんなもんだ。男女の仲よりも当てにならない。しかし、国というのは基本的には、他国に征服でもされない限りは、連綿と続く存在だ。「日本」というとき、それが表象する対象は、少なくとも奈良時代から現在までの、言葉も習慣も大きく変わってきたにもかかわらず、それでもなお不思議な一体感を維持している巨大な時空間のことだろう。「オレは日本が嫌いだ」と言ってみたところで、そんなのは実は何の意味もなさない。「私は韓国が嫌いだ」と言ってみたところで、正確に同じ程度に無意味だろう。一つの「国」は、具体的な対象にするにはあまりに巨大すぎる。「ぼくは中国は嫌いだ」というとき、しかし、いったい中国の何を知ってそんなことが言えるのやら? 確実に言えることと言えば、例えば、「あの店で食べた麻婆豆腐は辛すぎて嫌いだ」程度のことのはず。麻婆豆腐一つで中国を代表させるわけには行かないように、安倍政権で日本を代表されても困るし、ぼくから見ても愚か者にしか見えない文在寅に韓国を代表させるのも気の毒すぎる。

 ……しかし、結局は毎度お馴染みの愚痴になってしまうようだ。つまり、どうか言葉をもっと正確に使ってくれ、という愚痴。新聞がこの体たらくなのだから、もうどうしようもないのだろうか…… (H.H.) 

posted by 冬の夢 at 04:09 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする