2017年03月21日

クラーナハと国立国際美術館(大阪)

 先日、大阪の中之島にある国立国際美術館に「クラーナハ展」を観に行った。
 クラーナハを初めて知ったのは、ご多分にもれず、大学生の頃だったと思う。その頃はこの画家の名前も「クラナッハ」と表記され、アクセントも「ナッハ」の方に置かれていた。こんな瑣末なことはどうでも良さそうだが、今後は「クラーナハ」で統一されていくのだろうか。なるべく現地の発音に近づけようというのは、それはそれで正しいことなんだろうけど、「正しさ」をこのように見せつけられると、なんだかシラケてしまうのは、こちらの性根が捻じ曲がっているからだろうか……いや、ホント、本当にどうでもいいんだけど、実はこんなことが気になってしようがなくなるような、かなり特有の気になる臭気が国立国際美術館の展覧会場に満ち満ちていたってことが書きたいわけで……
 
クラーナハといえば、彼のヴィーナスには画集で見たときからぶったまげた。それまでは「ヴィーナス」と聞けば、すなわち「美の女神」というわけで、真っ先に思い浮かべるのは『ミロのヴィーナス』:
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そしてボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』:
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その他にもジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』とかティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』だとか、要するに、「いかにも色っぽい美人!」と相場は決まっていた。
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ところがである。クラーナハの描くヴィーナスときたら、これだ!
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まだ1枚目の方は蓼食う虫にでも免じて情状酌量の余地はあるが、2枚目の方ときたら、いったいどこをどうしたらこれが『ヴィーナス』になるのか? ともかく、初めて見たときには「醜い!」と思わずにはいられなかった。「だいいち、ウェストの位置が完全に狂っているじゃないか!」と憤慨したものだ。が、正直に言えば、醜悪と感じつつも、異様なエロティシズムだけは十二分に感じ取ることができた。ジョルジョーネやティツィアーノの描くヴィーナスもそれなりに猥褻ブツとして名を馳せているが、クラーナハが表現する猥褻は、イタリア・ルネサンスのそれとは完全に異質に思われた。今もそう確信する。

クラーナハにはいまだ中世の匂いがする。あるいは、盛期ルネサンスを飛び越えて、マニエリスムスにイッてしまった感がある。さらにはデカダンスの匂いも。つまりは、「悪」の匂いだ。クラーナハが描くヴィーナスは「美の女神」というよりは「男を誘惑する悪女」であり、「性愛に潜在する悪」の権化だ。したがってクラーナハのヴィーナスには悪魔の随身である蛇や猫の連想が強く働く。

確かに全てのヴィーナスには多かれ少なかれ「男を誘惑して堕落させる悪女」の面影がある。だが、威風堂々たる『ミロのヴィーナス』は別格として、イタリア・ルネサンスの巨匠が描くヴィーナスたちには、「こんな女に騙されるなら本望だ」と心から言えるような、ある意味で(というか、全ての意味で)どこかしら「健康」な側面がある。つまり、ヴィーナスが単に「美」だけではなく「愛」の女神でもある側面が確かに描かれている。したがって、彼らのヴィーナスは、男(アダム)を誘惑して堕落させたイブの変奏というだけではなく、「第二の、堕落とは全く無縁の、人類の母としてのイブ」とも見なされる聖母マリアの(遠い)変奏にもなっている。

ところがである。クラーナハの描くヴィーナスときたら! どこを探しても、それこそ彼女の臍の穴を覗き込んでみたところで、聖母マリアの面影なんぞは一片たりともない。そんな女に懸想したことを生涯にわたって悔やみつつ、しかし生涯にわたって骨抜きにされてしまう、そのような恐ろしさがつきまとっている。

しかし、ヴィーナス(マリア)礼賛はそこそこにして、問題は第一に大阪国立国際美術館のお粗末さだ。いや、文句を言う前に、平日の午後4時頃に行ったのだが、あまりに閑散としていて、大いに拍子抜けしたことを最初に記しておこう。会場が空いていること自体は、自分の都合だけをいえば、大いに喜ばしい。混んだ展覧会にはもはや身体がついていかない。しかし、泣く子も黙るはずのクラーナハですよ! 滅多に見られない板絵なんですよ! 世界史の教科書にも載っている巨匠ですよ! 会場にたどり着く前には内心「めちゃくちゃ混んでいるんだろうな。もしかしたら入場制限か?」と案じていたのに、閉館間際だったということもあるのか、部屋によっては冗談抜きで貸切状態で鑑賞することができた。個人的には随喜の涙だったわけだが、この展覧会、大赤字なのではないかと心配にもなる。そして、大阪はこんなんで大丈夫なんですかね……が、問題は別のところ。何がお粗末だったかといえば、5時閉館というのは、「けっこうな早仕舞だな。これでは平日に仕事をもっている大人が来館することは不可能だ。来場者が少ないのは当然か」と案じられるにしても、まあ仕方ないと理解はできる。これを「お粗末」と言っては、むしろこちらに問題がある。だが、まだ最後の客が絵を見ている時間に(つまりは閉館の5時前に)早々とギャラリーショップを閉め始めるのはいかがなものか! 事実を事実として書き残しておくのだが、ぼくが絵を見終わり、最後の展示室を後にして売店に入ったときには、まだ数人の(熱心な)観覧者が展示室に残っていた。ところが、すでに売店ではカードやカタログなどの関連グッズに埃よけのシーツが被せられ、「もう閉店ですよ」というオーラを撒き散らしていた。特に何か買いたいと思っていたわけではなかったにしても、なんともモヤモヤした気分で会場から立ち去ることにした。いや、追い出された。

坊主憎けりゃではないのだろうが、他にも気に障ることがいくつもある。例えば、「なぜ地下3階まで降りなければならないのか?」とか、「そのくせ、なぜコインロッカーは1階にしかないのか? だったら、コインロッカーの表示をもっと大きくしておいてくれ」とか、他にも細々。

とはいうものの、当日モヤモヤした最大の理由は『クラーナハ展――500年後の誘惑』という企画そのものにあった。確かにこちらの落度なのだろうが、こちらとしては「単なるクラーナハ展」と思って出かけたものだから、展示作品を見ているうちに、「えっ、なんか急にデッサンが上手になったぞ!」と思うと、よく見たらクラーナハではなくデューラーの作品だったなんてことがあった。まっ、同時代の巨匠の作品が比較の上で並んでいるのは便利なこともあったのだが、さすがに500年後の現代作品が突如顔を出すと、「これはいわゆるキワモノ展なのか」と思わずにはいられない。

この頃は(といっても、あまり企画展には行かなくなってしまったけれど)、学芸員がやたらに頑張っているせいか、色々と才気走った企画展が多いような気がする。かなり前に見た『フェルメール展』もそうだったか。学芸員によるインスタレーションもどきの展示を見ると、「いったい何を見に来たのやら?」と考えこまされる。それが美術館の目論見なのかもしれないが、それは余計なお節介ではないか。単に制作時代順かジャンル別に、作品を見やすいように並べていてくれる方がずっとありがたい。それなのに、日本では滅多に観られないクラーナハの絵を観に行って、ピカソや森村泰昌の作品を見せられると、せっかく寿司を食べに来たのにカレーライスを出されたかのような気分にさせられる。(もっとも、最近はそんなお店もあるらしいから、要するにこちらが爺になって、最近のセンスについていけないだけなのかもしれない。)

要するに、久々に展覧会に行って、国立国際美術館の閑古鳥が鳴いている様に驚き、クラーナハの隣に森村泰昌が並んでいるのに驚愕し、お客の面前で店仕舞いのシーツを被せるギャラリーショップに面食らって、それ以来、なぜかモヤモヤしているってこと。でも、きっと会期中にもう一度イソイソとクラーナハのヴィーナスに会いに行くことになることは間違いない。ヴィーナス、恐るべし。   (H.H.)
posted by 冬の夢 at 01:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 旅・徘徊・発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする