2017年03月31日

Alyson Moyet − Invisible 元気が出る曲のことを書こう[20]【改】

 すばらしく大きくて、美しい。
 ミューズ姉妹の誰ひとりとして、彼女のような姿で名画に描かれたことはないと思うが、わたしが描けるなら歌の女神はそう描きたい。

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SINGLES 1995
 歌声も絶品だ。※1
 見た目どおり声がでかいとか、意外に小技が効くとかは、そのとおりなのだが、そんな賞賛では彼女に失礼だ。
 鼓膜が破れそうなハイトーンでわめくくらい、そこらの小娘がカラオケ店でもやるだろう。声量が上がるほど中低音も豊かになり包容力が強くなるのがいい。
 熟女の色気ではなく、この曲を歌ったとき二十三歳。豊かな声質は若々しい元気さが支えてもいる。この曲もフルボリュームで歌っていて、声を割るというのだろうか、思いきりシャウトしているが、余裕でやっている感じが、たまらなく気持ちいい。

 一九八〇年代のエレクトロポップデュオ、ヤズーで歌って人気を得たのち、ソロでの曲だ。
 ヤズーの活動期間はわずか二年。起用される前はエセックスの田舎町で店員やOLをしながら、ロックやブルース、パンクなどのバンドでパブに出演するくらいで、プロになるなど夢にも思っていなかったというから、彼女の歌には開花を待つ天分があったわけだ。電子音楽のポップソングをアナログの権化のような彼女に歌わせたのは──このころのシンセサイザーはまだアナログだが、もののたとえということで──デペッシュ・モードを抜けてヤズーを作った、ヴィンス・クラークのセンスだろう。 
 八〇年代のはじめ、デペッシュ・モードの『A Broken Frame』(一九八二年九月)──ジャケットも曲も、音楽的に中心にいたクラークが抜けた直後なのに、最高だ──を知って、そこからヤズーの『Upstairs at Eric's』(一九八二年八月)に行きあたり、モイエの存在を知った。当時「ピコピコ音楽」は大っ嫌いだったのに、モイエの歌が好きになったので、モイエのいないデペッシュ・モードも合わせて、よく聴いていた。

 アリソン・モイエがソロとなって発売したレコード「Alf」(一九八四年)にはいっている「Invisible」は、かつてモータウン・レコーズの専属制作者チームとしてシュープリームスの「Stop! In the Name of Love」など、つぎつぎにヒット曲を作ったホランド/ドジャー/ホランドの真ん中、ラモント・ドジャーが作った曲だ。
 ピコピコは鳴りをひそめ、いかにも八〇年代らしいゴージャスなバンドサウンドと六〇年代ヒットソウルナンバーの懐かしさが、気持ちよく合体している。
 昔のソウルミュージックの聴かせどころは、印象的なキーワードやフレーズをリフやサビに持ってきて、強く聴く側に訴えかける仕立て。その言葉が曲のタイトルである場合も多く、印象に残るようにできている。

 この曲のキーワードも、タイトルの「Invisible」。
 アリソン・モイエが歌うと身にしみるが、シンプルでわかりやすい日本語に訳すのは思ったよりむずかしい。

 You've got me so confused and there's word I could use
  どこまでわたしを とまどわせるのよ いってあげたいことがあるわ 
 But I'm afraid to say them.
  でも いってしまうのは怖い
 I feel I've been had and I'm boiling mad
  煮えたぎるくらい おかしくなる ずっとそうだった
 Still I can't live without you.
  それでも あなたなしでは生きられない
 You don't have the time and you won't spend a dime
  時間もつくらず 10セント玉も使わず
 Not even to call me.
  電話ひとつよこさないのね
 You don't know I exist and I wouldn't be missed
  わたしがいるってことがわからないし わたしがいなくて悲しくなることもないのね 
 If I had the nerve to quit you.
  あなたなんか放り出す気になれたらな

 Invisible - I feel like I'm invisible.
  いないんだわ 自分がいないように感じる
 You treat me like I'm not really there
  まるで わたしがそこにいないみたいだからよ あなたは
 and you don't really care.
  それをぜんぜん 気にしないっていうの
 I know this romance
  このロマンスには
 it ain't going nowhere.
  出口がないのね
 Invisible (just like my love). You treat me like I'm invisible.
  見えないわ(わたしの愛のように) 見えてないみたいに わたしをあつかうのね
 When you get the need to flirt you do your worst
  恋をもてあそぶつもりなの 最悪のことをしてるのよ
 You just don't care how much it hurts.
  どれほど わたしを傷つけるか 気にもしないのね  (以下略)

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Alf 1984

 彼女が「デブ」なので「わたしのこと見えてないみたいにあつかわないで!」と歌われると、よけいに身にしみる、というのではない。
 彼女のルックスは好きだが、べつに「ぽちゃ系」の女が趣味なのではない。
 皮肉ではなくて、あの当時、彼女はすごく健康そうに感じられた。同い年なのに、すでに疲れきっていたわたしを芯から元気づけてくれたのは、この人の健康な歌いかただったのだ。一九八〇年代半ばごろといえば、日本のポップ音楽ではバブル黎明を告げるような元気印女子の音楽が全開で、白井貴子、渡辺美里、中村あゆみというような歌手たちが人気を集めていた。しかし、その人たちのルックスも音楽も、わたしを力づけてくれることはまったくなかったので──申しわけないようだが、ひどく嘘くさかった──なおのことだ。
 もっとも、当時は「Invisible」の歌詞を、うまく受け取れてはいなかった。
「Invisible」という語に「見えない回復力」のようなイメージを感じながら聴いていたと思う。
 実際は、優柔不断で身勝手なのに思わせぶりという、最低男を好きになっちゃったつらさを歌っている曲なのだ。

 日本にはあまり伝わってこないが、いまもイギリスでは不動の人気のアリソン・モイエは、この曲は二度と歌わないと宣言している。七、八年前に発売されたベスト盤に収録されたのも不満だったらしい。
 近年のドイツでのライブで、その理由はふたつだといっていた。
 ひとつは、自分はあくまでヨーロッパ人──本名はジュヌヴィエーヴ・アリソン・ジェーン・モイエ、両親は英国人とフランス人──なのに、この曲はあまりにもアメリカっぽく、歌詞が米中南部ふうの間のびした英語なのが嫌なのだそうだ。
 もうひとつは、初めて歌ったときは二〇歳代のネーチャンで、歌詞のようなことでメソメソするような実感もあったけれど、いま──そのライブのとき──自分はもう五〇歳代で、こんな男なんか「F××K OFF」──オフマイクでいっていた──で終わりよ! と。
 英語の「間のび」は聴いてもわからないが、そういわれてしまうと「そうですか」というしかない。

 また、モイエは、かなり攻撃的な減量を行ったようで劇的に成功している。現在の彼女に一九八〇年代の音楽の女神のおもかげは、まったくない。そうと知らされなければ同じ人だと認識できないほどだ。
 でかくて美しい女神、その健康な美声こそが、こちらの元気の源だと昔は思ったが、もちろん太り過ぎは危険だし、実際に彼女は「不健康」だったのだそうだ。急にスターになった重圧感での──彼女は神経症にも悩まされる──ジャンクフードのムチャ食いなどが「大きさ」の原因でもあったそうで、それぞれ違う男性との間にできた三人の子どものお母さんにもなった彼女は、ほんものの健康を取り戻さねばと決心したのだろう。

 いっぽう、年齢のためか、歌いかたのコントロールを変えたのか、それとも小さくなり過ぎたせいなのか、モイエの歌声には「Invisible」のころのトーンも、なくなった。
 おそらくもう二度と、「でかくて美しい『Invisible』」を現在進行形で聴くことはできないが、それはそれで「そうですか」と納得している。
 ことし二〇一七年六月に最新盤『OTHER』が出る予定だが、タイトル曲のプロモ動画※2をみると、これはこれで、すばらしい歌いかただと思うから。(ケ)

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OTHER 2017

●「元気が出る曲のことを書こう」の記事一覧は→こちら←



※1 www.youtube.com/watch?v=F2QmdMOX8mc
※2 www.youtube.com/watch?v=eOqwiSEahrQ
【参考】Nottingham Post October 16, 2009 ほか

※二〇一七年四月三日、歌詞のごく一部を直しました。ご指摘に感謝します
※二〇一八年四月四日、手直ししました。管理用



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2017年03月30日

平成二十九年大相撲三月場所 横綱稀勢の里の逆転優勝 〜 記録に値する見事な勝利

大相撲三月場所は、稀勢の里の逆転優勝で幕を閉じた。あまりに劇的な優勝だったので、後世まで語り継がれることになるだろう。それは大袈裟だとしても、十年後や二十年後に「思い出の大逆転」特集に取り上げられることは間違いない。

スポーツの世界にはシナリオライターでも思いつかない奇跡的な結末となるゲームがある。最近では、2015年のラグビーワールドカップで、日本代表が強豪南アフリカチームをノーサイド直前のトライで逆転した試合が印象的だ。
サッカーで言えば、1999年UEFAチャンピオンズリーグ決勝、マンチェスター・ユナイテッドとバイエルン・ミュンヘンの一戦。バイエルンが開始早々に上げた先取点を守りきり、試合はそのままロスタイムへ。優勝カップがバイエルン仕様に飾られるほど、試合の行方は決したかに思われたが、ユナイテッドはデヴィッド・ベッカムのコーナーキックからゴールを奪い同点とする。あと1分で延長戦というギリギリのタイミングで再びベッカムがコーナーキックを蹴ると、途中出場のスールシャールが逆転ゴール。数分間のロスタイムでヨーロッパ王者が入れ替わってしまった。
競馬ならば、1990年の第三十五回有馬記念。最盛期を過ぎ、勝利から遠ざかっていたオグリキャップはこのレースを最後に引退することになっていた。地方競馬出身で良血とは言えない六歳牡馬のオグリは四番人気。明らかに引退記念で馬券を買ってあげようというファンのお情けによる人気だった。ところが、超スローペースになったレースの第4コーナーを右手前で回ったオグリは、直線で巧みに左手前に替えてスパート。先頭に立つと、猛然と追い込んで来たメジロライアンをかわしてゴール板を駆け抜けた(※1)。当日の中山競馬場の入場者数は十七万八千人。この記録はいまだに破られていない。

では、大相撲ではどんな逆転劇があったのだろうか。
印象に残るのは、1975年三月場所の優勝決定戦。大関貴ノ花が横綱北の湖を破って初優勝を果たした一番だ。
星ひとつリードした貴ノ花は、千秋楽の直接対決で北の湖の上手投げに敗れ、13勝2敗同士の優勝決定戦に持ち込まれる。前の年の七月場所後に史上最年少で横綱に昇進した北の湖は、すでに優勝三回と圧倒的な強さ。対する貴ノ花は、「角界のプリンス」と呼ばれながら身体の細さは否めず、大型力士である北の湖にはとても勝てそうにはなかった。しかし、優勝決定戦では、横綱の投げをこらえた貴ノ花が、掴んだ回しをぐっと引き付けると、ジリジリと北の湖を土俵際まで追い詰めて、ついには寄り切りで勝ってしまった。
親に連れられて地方都市の百貨店に買い物に出かけていた私は、家電売場のブラウン管テレビでこの決定戦を見ていた。同じように足を止めてテレビに見入っていた大勢の大人たちが、一斉に「うおー!」と快哉の声を上げた。座布団が舞う中、力を使い果たした貴ノ花の、放心したような表情が映し出されたテレビ画面は、今でも脳裏に残っている(※2)。

そして今年の大相撲三月場所。劇的な要素が幾重にも重なり、スポーツのドラマ性をまざまざと見せつけられた大阪場所となった。
稀勢の里は一月場所で初優勝し、横綱に昇進。横綱審議委員会による横綱推挙の条件には「大関で二場所連続優勝」という内規がある。それを一回きりの優勝で横綱に推してしまった。いくら連続優勝に準ずる好成績を上げたからと言って、初場所が横綱挑戦の場所であるとは誰ひとり想定していなかった。待望久しい日本人横綱として、稀勢の里はかなり甘い基準で昇進を果たしてしまったのだ。
かたや優勝決定戦で対決することになる照ノ富士は、絶対的強さで大関に昇進した後は怪我に泣き、カド番で臨む春場所であった。膝の具合が良くならず、大関から陥落した先場所の琴奨菊の二の舞になることすら懸念されていた。その琴奨菊は、関脇に落ちた今場所で10勝以上すれば大関に復帰出来る。

今までの稀勢の里は、綱取りが期待されると序盤で格下相手にコロコロと負ける相撲が多かった。そんな悪い癖は影を潜め、横綱となった今場所は取りこぼしがない安定した取り口。前半戦で横綱白鵬、大関豪栄道が怪我で相次いで休場となり、連勝を続ける稀勢の里が圧倒的に優位かと思われた。
ところが好事魔多し。12連勝で迎えた十三日目、稀勢の里は合い口の良い日馬富士との取組で、低い当たりから一気に押されて土俵下に転げ落ちてしまう。左肩を押さえて動けなくなり、そのまま呻き声を上げて病院へ直行してしまった。どうやら稀勢の里は左手がほとんど使えないらしい。それほどの重症であれば、当然休場になるだろう。
俄然有利になったのは1敗で追いかけていた大関照ノ富士だ。膝の傷が癒えたのか日々動きが良くなって、大関に昇進したときの怪力ぶりが復活してきた。稀勢の里が出てこないならば、照ノ富士の関脇初優勝以来の快挙が実現するはずだった。

ところが、稀勢の里は休場しなかったのだ。横綱としての責任感なのか、怪我が意外と軽かったのか。もちろんそんなことはなく、無理して出場した十四日目の結びの一番、横綱鶴竜に何も出来ずに稀勢の里は寄り切りで敗れてしまう。やっぱり駄目なのか。ならば怪我の治療に専念したほうがいいのではないか。
一方で、照ノ富士はその前の取組で、大関返り咲きを狙う琴奨菊に土をつける。これで13勝1敗の照ノ富士が単独トップだ。けれど、勝ち方が悪かった。頭から突っ込んでくる琴奨菊に対して、右に変わった照ノ富士。6敗目を喫した琴奨菊の大関復帰はなくなった。怪我をおして横綱の責務を果たそうとする稀勢の里と、琴奨菊とまともに当たらずに勝ち星を拾いに行った照ノ富士。この一番で照ノ富士は観客を敵に回してしまう。
千秋楽は、稀勢の里と照ノ富士の直接対決。稀勢の里が優勝するには本割で照ノ富士に勝ち、相い星に持ち込んだうえでさらに優勝決定戦でも勝たなければならない。肩の怪我をテーピングで隠した稀勢の里が二番続けて照ノ富士に勝てるわけがない。誰もがそう確信しながら結び前の一番を眺めていたはずだ。

ところが、である。まともに当たっては勝ち目がないとみた稀勢の里は、立ち会いで右に変化するが、行司待ったで仕切り直し。ならばと、今度は左に変わった稀勢の里だが、照ノ富士が厳しく左下手を与えない。ズズズーと西土俵際まで運ばれた稀勢の里、万事休したかと思われた最後の際で、俵に足を残しながら右に回っての突き落とし。一気に寄り切ろうとした照ノ富士は勢い余って前のめりに倒れて土俵下に転がった。
本当なら怪我で入院していても不思議ではない稀勢の里が勝ったのだから、やんややんやの大喝采。いや〜、まぐれってのはあるもんですねえ、ともう一番余分に対戦が見られる幸運に場内はどよめく。そう、もちろんこの時点では誰ひとり決定戦で稀勢の里が勝つとは思わない。たまたま幸運にも突き落としが決まったけれども、まともにやったら絶対に照ノ富士が勝つに決まっているのだ。それでも稀勢の里はよくやった。横綱として立派なのは、10勝5敗の日馬富士でも鶴竜でもない。稀勢の里こそ真の横綱だね。

ところがところが、である。東西を入れ替えて髷を整え出てきた稀勢の里と照ノ富士の優勝決定戦。突っ掛けた照ノ富士を冷静にいなす稀勢の里。再度仕切り直して組み合った両者は、照ノ富士がもろ差しで体勢十分。稀勢の里は両上手の回しが取れず、照ノ富士に押し込まれる。やっぱり負けるのか?そのまま照ノ富士が稀勢の里を土俵際に追い詰めての寄り切り、と思われた刹那、稀勢の里は体を開いて捨て身になっての右の小手投げ。これは照ノ富士も予想していなかった。寄りの勢いがついていたこともあり、左下手を稀勢の里に抱えられたまま、ついには照ノ富士はバッタリと倒されてしまった。稀勢の里が見事に逆転優勝を飾った瞬間であった。

スポーツ観戦をして興奮することなど、今では滅多にはない。かつてジョホールバルでサッカー日本代表が延長のVゴールでワールドカップ初出場を決めたとき、テレビの前で思わず雄叫びを上げた程度だ。それなのに、今回だけは違った。稀勢の里の優勝に思わず手を打って「勝っちゃったよ!」とうわずった声でひとりごちた。それほど大方の予想を覆す、ドラマチックな大逆転勝利だったのだ。
ドラマチックではあるけれど、ドラマでやったらウソになるような劇的な勝負がスポーツにはある。そしてそれは、あるにはあるけれど、滅多にはない。そんなにはないことに巡り会えた歓びは格別である。
稀勢の里が今回の怪我からどう立ち直るのかは、現時点では全くわからない。でも、平成二十九年三月場所での稀勢の里の大逆転優勝は、いつまでも忘れられることはないだろう。多くの人たちがその目撃者となったのだ。でも、将来、この勝負を振り返りたくなるときがきっと来る。そんなときにもう一度思い出してほしい。単なる逆転勝利ではない、それぞれの立場や事情や、勝負の綾があったことを。そして、そんなドラマが誰の手によるのでもなく、自然と成り立ってしまったことを。
だからスポーツ観戦はやめられないのである。(き)

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(※1)馬が走るとき、右前肢を左前肢より前に出して走るのが「右手前」。左前肢が前になるのを「左手前」と呼ぶ。中山競馬場は右回りコースなので、コーナーでは右手前で馬を走らせないと最短距離で回れなくなる。しかし、オグリキャップは基本は左手前で走る馬。そこで鞍上の武豊騎手は、直線に入ると左鞭を入れて、素早くオグリに手前を替えさせたのだった。
(※2)貴ノ花は2005年5月に55歳で、北の湖は2015年11月に62歳で、それぞれ早逝した。


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2017年03月27日

古事記は縄文火山の記憶の書でもあるという面白い本が出た

 このブログで紹介したことがある、蒲池明弘さんの著書が、文春新書の一冊としてさきごろ発売された。

 不思議なタイトルの本だ。
『火山で読み解く古事記の謎』。
 古事記の、さまざまなエピソードには「火山」、つまり地震や津波とともに日本が有史以来さらされてきた最強の自然現象が含意されているのではないか──。
 この着眼点から、日本でもっとも古い「歴史書」の意味をより深く掘り当ててみようという、壮大な本である。
 
 といっても蒲池さんは、はじめに「私は古事記の研究者ではなく、火山の専門家でもありませんが」といっている。そして、歴史学にも地質科学にも専門的な縁はない読者と同じところに立ち、蒲池さん自身の探求を親しみやすく「です・ます」調で語ってくれる。
 読み始めてすぐ気づいたのは、読書感が、自然科学館やプラネタリウムで上手な解説者に案内されながら展示を見るのに似ていること。それも、そこいらのじゃなく、ニューヨークのアメリカ自然史博物館のプラネタリウムとかだ。すごく作りがよくて、見ているうちに感動で泣いちゃうやつ! 蒲池さん自身は「数学がまったくダメでしたから」と書いておられるが、なんの、科学的な発想と論理こそが、この本のテーマを面白く読ませているツボだ。

 蒲池さんは、歴史のナゾ研究をテーマとした本を出版している個人出版社、桃山堂の代表で、編集者・執筆者でもある。
 と紹介すると、な〜んだコンビニなどで見かけるトンデモ本の版元かぁ、ということになりかねないので、いそいでいうと、蒲池さんは元・読売新聞経済部記者。執筆業をへて本作りを始めた。歴史の珍説・奇説に着目し、在野の研究者を紹介したり、自ら調査して書くことで、それらが持つ意外な意味を掘り起こしている。この方法は、すでに雑誌の書評などでも評価を受けている。
 大新聞の花型部門出身で、自説を世にはかる出版社代表などというと、こんどはコワイ人のような気がするが、ぜんぜんそうではなくて、読者といっしょに解いていきましょう、というタイプの筆者だ。もちろん資料への幅広い目配りを前提に、必要とあらば、いまは何も残っていないのにわざわざ古代史の「現場らしきところ」までも訪ね、実感を伝えて──臨場感があって面白い!──くれる。とても心強い案内役だ。

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二〇一七年三月十七日発売

 この本では、古事記の「舞台」である日向、出雲が、いずれも西日本の大きな火山地帯であることに注目し、登場する神々それぞれ、あるいは神々のバトルのさまが、「火山」のたとえであったり、噴火災害を鎮める祭祀を示しているのではないかと考えている。

 たとえば、おなじみのヤマタノオロチとスサノオノミコトの対決は、火山の表象である赤い溶岩流、オロチと、酒を捧げて自然災害を鎮撫するスサノオの姿だという見立て。オロチの尾から出て三種の神器のひとつとなった剣は、火砕流が「冷えて」生じた、マグマ由来の黒曜石では、とみる。そしてスサノオという数奇な生きかたの「神」もまた、人間の生涯などおよびもつかない地質学的時間を生きる火山の、誕生〜荒ぶる活火山〜恵みをなす休火山の、喩えであるという。そう思いついたよ、と書いてしまうのではなく、先人の研究を渉猟し、現場を訪ね、科学館や歴史館に話を聞きにいくなどしたうえでの、一説としての提案だ。
 ほかにもイザナミ、アマテラス、アメノウズメ、ヤマトタケルらのエピソードが続々と解読される。それらをここで、わけ知り顔に要約紹介するより、ぜひ一読いただきたい。
 きっかけはダジャレみたいなところにあっても、現代の視点・感覚で精査してみると、ナニナニのメタファーであるという散文的な読みを超える意味が見つかる興味深さ。そこを、この本は教えてくれる。

「だから古事記はこうだ」とか「現代の事象が火山録でもある古事記でこう語れる」という主義主張の本ではないので、断定的には書かれていないけれども、神々の物語は火山の物語である、という説がもし一片なりと正しさを持つならば、それは確かに天皇の問題に結びついている。
 日本各地へ行って手を振るのがもうしんどいから退位したいといっているのではなく、日本を襲う自然災害を鎮撫するという、豊穣祈願より重い祭祀を万全の体力で行うには不安があるから、より若い次代をたてたいということではないか。災害鎮撫の立役者である女の祈願者すなわち次代の皇后が、神事にかかわるには合理主義的すぎると不安を感じていて、早くから修錬してほしいという思いもありはしないか。そして、そこを忖度してよいのか。そういう問題だ。

 もちろんこれは「国家神道」に結びつくから、公然と議論はできないことになっている。前段も、わたしの想像の域を出ない。
 ただ、八百万の神とは、万物に神が宿るということより、人がそれぞれに固有の守護神を持っているということではないか。その助けを借り、自然災害だらけの島で生きのびて、たび重なる天変地異ゆえにもたらされもする、自然の「恵み」をしたたかに得ていこうとする「信仰」の形ではないだろうか。
 その「ひとそれぞれの神々」への「呼びかけ」が、天皇の、重要ではあるが単なる、機能であるはずだ。

 そこが「ぜんぜん違うこと」になってしまい、いまに至っている。
 戦争をしたからだ。

 戦前戦中に起きたことが、将来そのまま繰り返されるとは思わない。
 その程度には誰もが賢明になった、はずだ。
 しかし、防災をおそろかにして防衛を煽り、国土の大きな部分を廃墟にしてしまいながら「the situation is under control.」だからいいよねと三年後の「お祭り」で帳消しにしてしまう、とことん愚かな民族に、わたしたちがなってしまう可能性はおおいにある。
 この本の帯には「なぜ、天皇の物語は火山地帯から始まるのか」とある。
 念のためだが、この本はその答えを出すために書かれたのではない。まして、いまわたしが書いたのと違う方向へ議論を導くために書かれたのでもない。
 もっとも、それらはわたしの読み取り。違うかもしれない。
 
 高校生時代、数学ができなかったから受験理科のひとつに消去法で「地学」を選んだものの、それも無駄になったと「火山」のことを書きつつ述懐している蒲池さんだが、いや、この人は「理科」の案内者にこそ、向いている気がする。
 記紀の時代や戦国武将の時代を、「理科の目」で見ると、さらに面白いことが待っているのではなかろうか。
 そんな期待をしながら読み終え、この文を書いている。(ケ)



posted by 冬の夢 at 22:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする