2017年02月21日

映画『ヒッチコック/トリュフォー』 〜 私は視覚的に考える

今も本棚にしまってある『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』。1981年の年末に晶文社から刊行された。日本語版が出されると聞き、欣喜雀躍。新宿の紀伊國屋書店で速攻購入。下宿の部屋で舐めるように読んだ。1ページごとに映画作りの秘伝が書いてある。素材の選び方、カットの仕方、調理法、仕上げの味付け、客へのサーブ方法。読み終えると、自分が一流のシェフになったかのように思えた。これで今すぐにでも映画が作れる。もちろん単なる幻想だった。包丁すなわちカメラさえ満足に使えなかったのだから。

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ヒッチコックを知ったのは小学生のときのTV放映。日曜洋画劇場の『鳥』だった。よく覚えていないけれども「怖かった」のだけは確か。
中学生になった後、ロードショー公開で見たのは『ファミリー・プロット』。主役のカレン・ブラックが嫌いだったのを除くと、なんとも可愛らしい小品だった。同じ年に日本初公開された『バルカン超特急』。はじめて「ヒッチコックって面白い!」と思った。配給は名作の再上映などシブい番組を提供していたインターナショナル・プロモーション社。おどろおどろしいモノクロ画面とワクワクするようなストーリー展開。カラーでなくても、ワイドスクリーンでなくても、面白い映画は面白いのだ。

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ヒッチコック独自の映画技法に触れたのは高校生のとき。「植草甚一スクラップ・ブック」第二巻は「ヒッチコック万歳!」。シネマディクトJJ氏はサスペンスとショックの違いを丁寧に手ほどきしてくれた。そこで引用されていたのが『ヒッチコック/トリュフォー』。膨大な洋書の収集家でもあった植草甚一が目をつけないわけはない。もちろんタネ本にもしたのであろう。原書を探して購入するなんてことすら考え及ばないバカな高校生は、ただひたすら空想した。植草甚一からの又聞きで。『ヒッチコック/トリュフォー』に書いてあるらしいケーリー・グラントが運ぶミルクの白さを。ああ、どうしたら『断崖』が見られるんだろうか。今ならその場面はYouTubeで即時に出てくるけれども。
シックな『疑惑の影』、ゴージャスな『泥棒成金』、ショッカーの『サイコ』、どれもいいけど一本だけと言われたら『北北西に進路を取れ』を選ぶ。ひとつも無駄がない完璧な映画だから。

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トリュフォーを知ったのは『アデルの恋の物語』。宣伝の中心はイザベル・アジャーニだった。だからトリュフォーの最初の記憶は『未知との遭遇』のラコーム博士かも。高校の図書館で貪り読んだ映画の本を通して、知識として仕入れたのがヌーヴェルヴァーグ。とは言え何ひとつ見たことなかった。区役所のホールでやっと見たのが『大人は判ってくれない』。地方都市の区ごときに何であんな映画を上映出来たのだろうか。別の日にやったのは『いとこ同志』で、今でも心底感謝しかない。

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大学に入って上京後、開催されたのが「フランソワ・トリュフォー全集」という上映会。ぴあフィルムフェスティバルの特別企画で会場は渋谷のパルコパート3。なぜだか紙が貼ってある座席の前に座る。わざわざトリュフォーを招致していて、本人による舞台挨拶があった。暗転して映画が始まると真後ろの席についたのはなんとトリュフォーその人。座った途端にひとことWmauvais sonW(ひどい音だね)。このときかかっていたのも『大人は判ってくれない』だった。
『柔らかい肌』はその映画祭で一度見たきりだが、今もトリュフォーの最高傑作だと思っている。饒舌な作風になる前の映像的作品で、フランソワーズ・ドルレアックが美しい。

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そんなわけだから映画になった『ヒッチコック/トリュフォー』を見に行った。ヒッチコックを敬愛する十人の映画監督のコメントが付いただけで、元をたどれば原著に行き着く。映画版でさえ、わざわざ原著に掲載されたカット割りページをそのまま撮るだけ。本物の映像は数カットずつの名場面集程度に出てくる程度。TVの特番じゃないんだから安普請も甚だしい。十人のコメントはヒッチコック賛美に終始していて、何の特色もない。黒沢清も日本語で話すのならもう少し気の利いたことを言ってほしかった。
それでも大笑いしてしまったのが『めまい』を語るパート。みんなが口を揃えて「変態映画」と評していて、映画で大っぴらに『めまい』の本質が語れるようになった証拠だ。

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映画版で瞠目に値するのはインタビューの音声が残っていること。トリュフォーの質問にヒッチコックの声が答える。師弟か、あるいは親子のような親密さで。しかも、なんの韜晦も衒いもなく、実直に語り合う映画好きな二人の雰囲気が伝わってくる。面白いのは、やはり『めまい』を巡るヒッチコックのコメント。主役に抜擢したヴェラ・マイルズが妊娠して降板したことを「バカな女だ」とコケ下ろす。金髪にしたキム・ノヴァクが髪型だけ過去の女と違っているのを「あとはパンティを脱ぐだけだ」。そして髪を直す、すなわち全裸になる彼女を待つジェームズ・スチュワートを「今、彼は勃起している」。なんと下品な、でもそのものズバリな解説だろうか(※1)。
ヒッチコック映画は、まさに人間の心に潜む欲情を表出化する。ヒッチコックトークのような直接的表現ではなく、映像のメタファーによって。『北北西』は、ラシュモア山でケーリー・グラントがエヴァ・マリー・セイントの腕を引き上げると、そのまま寝台列車にいる二人になって終わる。その場面をヒッチコックは愉快そうに語るのだ。「あれはこれまでわたしが撮った映画のなかでもいちばんわいせつなショットだ」「列車がトンネルのなかに入っていくラスト・ショットですか」「そう、列車は男根のシンボルだ」(※2)。さすがにこれは映画版には出て来ない。

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ヒッチコックの肉声の中で、特に印象的な言葉がひとつある。「私は視覚的に考える」。ああ、このひとことで映画に親しむ人たちは映画が映画であることの訳を理解する。WI think visuallyWという言葉があれば、それでもう十分ではないか。
しかし、映画版はこの言葉を生かしきれていない。映画は常に時間的な制約下にある。だから映画版は、原著以上には本質を伝えられていない。映画化は失敗だったと思う。では、何なら良かったのか。最適なのは展覧会形式ではなかったか。
パリのシネマテークに立ち寄ったとき、たまたま地下の会場でヒッチコックを特集した展示企画が組まれていた。例えば『鳥』のコーナー。ティッピー・ヘドレンが小鳥を届けに湖をボートで渡るシーンが繰り返しビデオで流れる。その横に掲示された絵コンテと解説文のボード。
ヒッチコックとトリュフォーの声の録音が残っているなら、このパリのシネマテークの展示手法に二人の会話を加えれば良いではないか。シナリオから絵コンテ、舞台セットの設計図やカメラの配置図、映画のシーンの映像とヒッチコック/トリュフォーの声。これだけ揃えば、原著を超えられるだろう。誰かそんな展覧会版『ヒッチコック/トリュフォー』をやってくれないだろうか。絶対に見に行くし、何回も見に行く。たぶん泊まり込む。いや、そこに住んでもいい。
そうか、ならば自分の家でやってみるか。帰ったら、早速『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』を本棚から取り出してみよう。(き)


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※『ヒッチコック/トリュフォー』2015年 アメリカ・フランス映画 監督ケント・ジョーンズ

(※1)『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』での日本語訳は間接的な表現になっている。「彼はそのまま待っている。こんどこそ、彼女が全裸になってセックスにそなえてきてくれることを期待している」(晶文社刊 P252)

(※2)『映画術』P137より。


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2017年02月15日

NODA・MAP『足跡姫』〜 野田秀樹から中村勘三郎へのオマージュ

歌舞伎役者が名跡を継ぐときに行う襲名披露公演。晴れ舞台では、その役者が得意にしてきた演目が並ぶことが多く、同時にその大名跡に相応しい出し物が選ばれる。
昨年秋の芝翫の場合は、それが『幡随長兵衛』『熊谷陣屋』『盛綱陣屋』であり、一年前の雀右衛門は『鎌倉三代記』と『金閣寺』だった。
芝翫の襲名披露公演は二ヶ月連続公演で、普通で行けば昼と夜の部の合計四本の演目が並ぶはず。けれども、同時に襲名した三人の息子たちに一枠譲ったこともあり、三つの芝居で芝翫の名をお披露目することになった。それは、少し酷な言い方をすれば、四本連続で出来るほどの得意演目がなかったからであり、新・芝翫にとって二ヶ月公演はちと荷が重かったのかも知れない。一方の雀右衛門は単月公演であったが、実は『鎌倉三代記』の時姫は襲名披露のときが初役。つまり得意な演目は『金閣寺』ただひとつだったことになる。いずれにしても、歌舞伎の大看板を相次いで失った穴を埋めるための襲名であったわけだし、そんな裏事情を隠しきれない公演ラインナップであった。

このような現状を目の当たりにすると、十八代目中村勘三郎の襲名披露こそが、歌舞伎界を代表する世紀の一大イベントであったと思い起こされる。
勘三郎の襲名披露公演は、平成十七年三月から三ヶ月連続で賑々しく開催された。その出し物がすごい。どれも歌舞伎を代表する演目であり、勘三郎が五代目勘九郎であったときに手の内に入れていた役の再演であった。
女形が技の粋を結集して踊る『道成寺』、時代物の肚が試される『盛綱陣屋』。黙阿弥が創った悪のヒーロー『髪結新三』に、田舎者が狂気の殺人に到る『籠釣瓶花街酔醒』。さらにはつくり阿呆の殿様の虚実を演じ分ける『一條大蔵譚』から、三島由紀夫が愉快気に書き下ろした『鰯売恋曳網』まで。
こうして並べた演目に一分の隙もないにもかかわらず、襲名披露から漏れた中には『弁天小僧』『夏祭浪速鑑』『鏡獅子』『法界坊』『俊寛』といった錚々たるレパートリーが残されていた。控えメンバーで一軍先発が組めるくらいの豪華絢爛さ。かようにその資格が十二分にあったのに、五代目勘九郎はなかなか勘三郎を襲名しなかった。相撲で言えば、一場所だけの優勝で横綱に無理矢理昇進というのではなく、六場所連続で全勝優勝しているのだから、もういい加減横綱推挙を受諾してくださいな、と言ったところだっただろうか。

そんな四番打者が勢揃いした襲名披露公演の掉尾を飾ったのが『野田版 研辰の討たれ』。時代物、世話物、舞踊の大局とタメを張り、そのうえで大トリとして採用されたのが、野田秀樹による新作歌舞伎の再演だった。定番や名作を取り上げるのが当たり前で、三島由紀夫の『鰯売』でさえ物故作家の作品として捉えられていた中で、野田秀樹は現役バリバリの、最先端にいる演劇人。その野田秀樹が書いた『野田版 研辰の討たれ』を襲名披露に取り上げたことが、十八代目中村勘三郎の役者としての気概や立ち位置を象徴していた。
当時の再演にあたって、野田秀樹本人は次のようなコメントを寄せている。

新しい風を入れたつもりでも、あっという間に、新しくなどなくなる。新しさなど、たかだかそれだけのことである。新しいなどということに、有頂天になっていると、あっという間にそれは、古く汚れたものに変わっていく。
だが、中村勘三郎は、そのことを熟知している。一番そのことを恐れている役者である。だからこそ、彼はこの『研辰の討たれ』の再演を、勘三郎襲名披露公演の一演目に選んだのだと思う。ただの再演に終わらせず、再演するからには、また新たな風になるようにと、今現在生きている作家の芝居を襲名披露公演に持ってくるという、ありえなかったことをやって見せようとしている。(※1)


野田秀樹が指摘した通り、十八代目を襲名した後の中村勘三郎は「新たな風」を次々と吹かせまくった。日本の各地で、そしてニューヨークで。型通りの芝居で、そして型破りの芝居で。歌舞伎界の後進たちと、そして異業種の仲間たちと。「新たな風」は歌舞伎好きな人たちの心を揺さぶり、歌舞伎など知らない人たちに道を示した。その風は、七年間猛然と吹き続け、そして、突然に止んだ。
勘三郎が亡くなってから、早いものでもう四年の時が過ぎたのである。

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作品は、中村勘三郎へのオマージュです。彼から、最後の病床で「俺が治ったら、この姿(医療機器でがんじがらめの彼の姿)を舞台にしてよ」と言われた。それを、彼の遺言とも思ってないし、彼は冗談半分のつもりだったように思うのだけれども、ずっと気になっていた。今年の十二月五日で、彼が逝ってから、四年になります。「あの姿」を書こうとは思わないけれども、彼の葬式の時に、坂東三津五郎が弔辞で語ったコトバ、「肉体の芸術ってつらいね、死んだら何にも残らないんだものな」が、私の脳裏に残り続けています。その三津五郎も、彼を追うように他界してしまいました。あれから「肉体を使う芸術、残ることのない形態の芸術」について、いつか書いてみたいと思い続けていました。もちろん作品の中に、勘三郎や三津五郎が出てくるわけではありませんが、「肉体の芸術にささげた彼ら」のそばに、わずかの間ですが、いることができた人間として、その「思い」を作品にしてみようと思っています。(※2)

NODA・MAP第21回公演『足跡姫』は、出雲の阿国を主人公とした江戸時代のお話。阿国たちの舞台は幕府から公序良俗に反するとされて、女かぶきは禁止されてしまう。座付作家の猿若は、男たちだけで舞台を続ける決意をする…。
野田秀樹の舞台をそんなに多く見ているわけではないけれど、最高傑作は『パンドラの鐘』と決まっている。舞台装置は、長方形の木のフレームのみ。ただそれだけなのに、置き方ひとつ変わるだけで、入り口、長椅子、棺桶、と様々な意味をもつ道具に変わる。そして、野田秀樹得意の「言葉遊び」は、主人公の名前が長崎の原爆に結びついた瞬間、強烈なメッセージに変わる。舞台はこんなにも見事に変態するものなのだ。そう気付かされたはじめての体験だった。だから、『桜の森の満開の下』や『半神』や『贋作・罪と罰』などを見ても、『パンドラの鐘』の衝撃には遠く及ばないと感じたものである。

『足跡姫』を見ていると、舞台の使い方はすこぶる洗練されており、それは回り舞台の活用方法に集約されていてる。回転方向と逆に役者を歩かせることで移動撮影ショットのような効果を出したり、奥にあった大道具を舞台を半回転だけ回して前面に配置換えしてクローズアップしたり。生身の演劇をあえて映画的に見せる手法は、映像をスマホで簡単に持ち運べる現在においては、ごく当たり前に観客に受け入れられただろう。
かたや野田秀樹の最大の特徴である「言葉遊び」は、やや切れ味を欠き、正直なところ「またか」と思わざるを得なかった。「マタニティブルー」を「股に手、ブルー」、「リアリティ」を「理、有り体」と言い換える語呂合わせの連打。さらにはそれをわざわざ漢字の並びまで台詞にして、わかりやすく説明してあげる。諧謔なのか、言葉遊び自体を自虐ネタにしているのか。そのギリギリのライン上を狙っているのだとしても、少々食傷気味に思える。
こうした言葉遊びは終盤まで続く。阿国と猿若の姉弟が亡くなった母のことを思い出す場面。衰えて母音しか言えなくなった母は「い・い・あ・い」と呟いて亡くなった。あのとき母は何と言いたかったのだろう。子である姉弟はそこに子音をつけて考えを巡らせる。「い・い・あ・い」は、実は「し・に・た・い=死にたい」ではなかったか…。いや、そうではない。あれは「い・き・た・い」だったのだ。そうだ、母さんは生きたかったんだ。そこから舞台はクライマックスへ向かっていく。
野田秀樹の舞台の妙味は、先述した通り、言葉遊びをメッセージ化のレベルまで昇華させることにある。『足跡姫』のメッセージは「生きたい」だ。それは母(母音)と子(子音)が結びつく生命の成り立ちであり、だから子孫へと引き継がれる。
しかし、切れ味が悪いのは母音の「い・い・あ・い」からごく普通に連想されるのは「死にたい」ではなく「生きたい」のはず。ならば、あえて「死にたい」と言わずにストレートに「生きたい」に持っていくべきではなかったか。野田秀樹の言葉遊びが、策を弄したためにメッセージになり得なかった。『足跡姫』の狙いは、最後までラインからわずかに外れたままで終わってしまった。

それでも、野田秀樹自身が告白している通り、本作は「中村勘三郎へのオマージュ」なのである。歌舞伎を根源まで遡ったのも、弟を戯曲家・猿若としたのも勘三郎への敬意の現れに違いない。けれども、そうした設定や物語よりもはるかに端的で直接的に響いてきたのは、ラストでの猿若の叫びだ。
女かぶきを出来なくても、男たちが歌舞伎を続ける。その台本は俺が書く。俺が死んでも、俺の子孫が書き継ぐ。猿若の三代目、四代目まで、いや、少なくとも十八代目までは。
そう叫ぶ猿若に桜の花びらが散る。これは、『野田版 研辰の討たれ』の終幕、仇討ちで斬られた辰次の死体に一枚の紅葉が降り落ちてくる場面の、合わせ鏡になっている。思い返せば辰次はその直前まで「生きてえ、生きてえよ〜」と喚いていたのであった。辰次の「生きてえ」と阿国・猿若の亡母の「生きたい」。ひらひらと舞い落ちる桜の花。そして「十八代目まで」という猿若の叫び。
思わず、舞台を眺めながら涙が流れてしまった。
野田秀樹が中村勘三郎の仕事に限りない敬意を払っていたのだということ。その仕事が続けられなかった勘三郎の無念を、同じ演劇人として野田秀樹が誰よりも深い共感を持って共有しているのだということ。そして、野田秀樹が心から尊敬する勘三郎は、もう永遠に不在なのだということ。役者の肉体を経由して舞台の上に充満していた思いが、猿若の叫びによって決壊した。そして、観客全員に向かってなだれ落ちてきた。その思いの圧力に押され、涙が流れ落ちたようだった。

暗転した後のカーテンコール。静かに、秩序立って、幾たびかの最敬礼をして出演者が去っていく。その最後に舞台袖に残った野田秀樹が、少し照れたように両手を広げてみせる。
そこには、言葉遊びに耽り、弾丸のように台詞を喋り、巧みにアドリブを入れて舞台を走り回るいつもの姿とは違った、妙にナイーヴな野田秀樹がいた。
その瞬間、「残ることのない形態の芸術」であるこの舞台を見られて、たぶん良かったんだと、しんみり感じたのであった。(き)


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足跡姫 時代錯誤冬幽霊(ときあやまってふゆのゆうれい)
2017年1月18日〜3月12日 東京芸術劇場プレイハウス




(※1)平成十七年五月 歌舞伎座筋書 野田秀樹『夜泣きする中村勘三郎』より

(※2)『足跡姫』スペシャルサイト(2016年9月30日オープン)より




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2017年02月14日

カルトと信仰

(思いがけず長い!)

 遠い知人に、たまたまこの数日間芸能マスコミを賑わせているカルト宗教を信じている人がいる。もう何十年も前から。そのことを本人から知らされたとき(その何十年も前のこと)は、かなりショックだった。信仰はプライバシーでもあるから、他人が口を差し挟むようなことではない。とはいえ…。そのカルト集団は露骨な犯罪組織ではないから、言論と信仰の自由がある限り、彼らの活動を全否定することはできない。とはいえ…。以後その人とは明らかに疎遠になったと思う。もしも自分の好きなアイドルや歌手がカルトに入信したとしたら、そしてその広告塔として使われると思ったら、それはやはり相当なショックだと思う。

 しかし、もしもそれがキリスト教であれば、決してそのようなショックはなかっただろうし、仏教であれば、ショックも何もなかっただろう。ところが、新興宗教には特有の忌避感が漂っている。カルトに入信するそれだけで、何か大事なものが終わってしまった感が漂ってくる。これは単なる「慣れ」の問題なのだろうか? 確かに、キリスト教だって、回教だって、誕生した当初は紛れもないカルト集団だったわけで、キリスト教はユダヤ教から分派したカルトが大樹にまで育った例だ。いや、そんなことを言い出せば、仏教だって仏陀を始祖とする元祖カルトだったともいえる。とすると、21世紀の現在「カルト」と揶揄され忌避される「宗教」の中に、可能性としては「人類を代表する宗教」に育つものが含まれているのかもしれない。そんな可能性は万に一つもないだろうけれど、しかし、それでも可能性としては否定できない。

 ぼく自身はこれまでの生涯の中で、三度ほど真剣にキリスト教徒になろうと考えたことがある。いや、「真剣」に考えたのは一度だけと言うべきか。というのは、三度の内の最初は幼稚園のときだったから。しかし、小学校へ通う前の子どもにとって、毎週日曜日の朝に教会へ通うことを、親に強制されるわけでもなく、自分の意志で「ぼく、教会に行きたい」と口にして、親の黙認を得ることは、それなりに「かなり真剣」だったと言ってもよいのではないか。しかし、子どものぼくは、ある事件をきっかけに、一年ほど通い詰めた教会へ行くことをキッパリと止めてしまった。その出来事は今思い出せば、ごく当然のことだったのだが、当時のぼくには「いじめ」とさえ思われるような出来事だった。勿体ぶらずにいえば、いくら熱心に牧師(そこはプロテスタント系の教会だった)の話に耳を傾けている子どもでも、その子どもは洗礼を受けておらず、従って、正当なキリスト教徒と同じではないから、どうしても違った扱いを受ける。例えば、教会が主催する遠足やパーティーには決して招待されない。それは当然だ。が、ときには子どもの純心の方が圧倒的に正しいということだってあるのではないだろうか? つまり、本当ならば、あのときの牧師はキリスト者と非キリスト者をあのように分け隔てしてはいけなかったのではないか? 正直に言えば、今でもちらりとそのように考える自分がいる。ともかく、そのような「差別」を受けて以来、子どもだったぼくの足は教会から遠のいた。さぞかし親は胸をなで下ろしたことだろう。

 かなり切実に(危機的に?)受洗を考えたのは大学生のときだ(これが三度目)。そのときの思い詰めぶりといったら、「ぼくがクリスチャンにならないのは、つまりは『信仰から逃げている』ということなのではないか?」と考えたほどだ。「受洗する(洗礼を受ける)」とか「出家する」とか、ともかく、この種の決意にはなぜか恐怖が伴う。受洗するだけでは現世を捨てることにならないのだから、出家とは次元がかなり違うはずだが、この極東の、キリシタン弾圧の記憶も生々しい島国にあっては、キリスト教に纏わる異国趣味とも重なって、キリスト教徒になることには非常に大きな決意が必要となる気がする。それは仏教を真面目に信仰することとは桁違いのストレスをもたらし、やはり比較するとすれば、剃髪して「出家する」くらいのことが妥当なのではなかろうか。

 ともかく、「単に怖いから洗礼を受けないのであれば、それは二重に卑劣ということだ」なんて思い詰めていたわけだ。それがいったいどうしていまだに非キリスト教徒のままなのかといえば、多分それは、怖いからではなく、卑劣だったわけでもなく、「ぼくが信じるのは教会ではなく、おそらくキリスト教でさえもない」ということを、かなり確実に自覚したからだ。カッコつけて言えば、「教会にはぼくの居場所はない」と、まるで幼稚園児のときの事件を再び解釈し直すようなことだったのかもしれない。当時の「逆回心」をごく簡単にまとめると、自分なりにキリスト教について学んだ結果、自分の信仰はどこまでいっても結局は「異端」になってしまうことに気づかされてしまったということ。中世なら間違いなく火炙りだ。生きたまま焼かれたことだろう。ぼくにとっては、キリストはあくまでも一人の生身の人間で、実際に不当な死刑で殺されたことになっている。決して処女マリアから聖霊の運んできた不思議な力で生まれたわけでなく、死後に甦って「私に触れてはならない」なんて言って、心弱い弟子たちを脅かした「神」ではない。神は、それこそ、キリストのおよそ500年後に生まれたムハンマドが厳つい声で言うように、「唯一の存在」で、それをどんな名前で呼ぼうが、唯一である限りは不変なはずだ。つまり、いや、もう生半可な宗教談義は止して、ともかく、そんなわけで、周囲にはごく少数のカルト信者とかなり大勢のキリスト教信者がいるのだが、なぜカルトの方がいっそう胡散臭く感じられるのか、その肝心なことを書いておかないと。

 第一に、信仰と宗教と宗教集団が互いに別次元のものだということ。なぜかこの三つがしばしば三点セット、三位一体のように扱われているが、それはキリスト教の秘蹟と同じくらい奇妙なことだ。単に「信じる」ではなく「信仰する」とわざわざ言うのなら、それは「何か超越的な、非現世的なものの存在を確実に信じている」ということだろうが(それ以外の信仰があるとは思えないのだが、いかがでしょう?)、だとしても、特定の宗教が必要なわけではない。美しい星空を見て、「この宇宙の存在に何か特定の意志が関与したことを信じる」ときも、それはある種の信仰を必要とするのだから。また、人は色々なときに思わず祈ってしまう存在だと思うが、もしもその祈りが多少なりとも真面目なものであるなら、やはりそこにも信仰が介在するに違いない。そして、そのときであっても、何か特定の宗教が必須なわけではない。つまり、信仰するためには宗教が必要というわけでは決してない。仮に五十歩も百歩も譲って、「ここでの信仰は特定の宗教を信じることを言っているのだ」と限定したとしても、今度は、宗教と宗教集団には必然的関係はないということに注目しなければならない。世界中に浸透している太陽神信仰に特定の宗教が一律に関与しているわけではないという事実、そして、キリスト教や仏教がこれほど多様に、無秩序に「進化」してしまった事実の両方を並べてみれば、宗教と宗教集団の間にはさほど強い必然性などないことは明らかだ。

 信仰と宗教と宗教集団が本質的に別々の存在だということさえ承知すれば、カルトに対する忌避感の正体が宗教集団に対する忌避感だと言ってしまってもよいのではないだろうか。あれは宗教法人団体なわけで、特定営利団体と言ったとしても大きく間違うわけではない。

 一昔前、「千石剛賢」なる人物と「イエスの方舟」という集団がマスコミを大いに賑わせた。ちょうどぼくが大学生だった頃だ。それはまるで現代の魔女狩りを見せつけられるような騒ぎだった。キリスト教の影響を受けた老人を中心に共同生活をしていた集団に対する猛烈なバッシングだ。とはいえ、事件の内実に詳しいわけでは決してない。が、それでも、「これだけ貧しくて、質素な『新興宗教』であるなら、これほどの大騒ぎをすることではないだろう」と当時でさえ思っていた。つまり、たとえどんなに胡散臭く見えたとしても、その集団が宗教を騙った「特定営利団体」でない限り、そこに介在しているものは単なる信仰というべきものだろう。それも世俗化された信仰。つまり、その場合、人は人を信じているだけだ。そして、人が人を信じることはごく自然なことだ。しかし、もしも人が単なる人を神だと思い始めたら、それは倒錯であり、場合によっては狂気だ。その意味で、もしも「教祖」なるものが自らを「神」と言い始めたら、それは狂気かペテンか詐欺か、そのいずれかだろう。千石剛賢なる人物をマスコミは「千石イエス」と命名していたが、本人がイエスを名乗ったわけでもなく、みずからを教祖としたわけでもない。「イエスの方舟」をカルト集団としたのは、マスコミの「冤罪」だろう。

 だが、不幸にして似非宗教団体の、いわゆるカルト集団を信仰してしまったら! それは本当に不幸なことだが、それでも、事実は見つめなければならない。その場合、信仰している人はいったい何を信仰しているのか? 教祖が唱えるご託の向こうに垣間見える、何か超越的な、この世ならざる存在を信じているのだろうか? おそらくそうではあるまいが、もしも仮にそうだとしたら、それならば、仏陀やキリストやムハンマドに耳を傾けた方がはるかにいい。格段に、異次元にいい。これは、そこら辺のライトノベルを読んで感動している暇があるなら、もう少し読書力を身につけて、夏目漱石なりドストエフスキーを読んで感動する方がはるかにいいのと同じことだ。繰り返すが、もしも超越的存在、非現世的存在を少しでも信じられるなら、それは真に唯一のものであるはずで、だとしたら、世界の全ての真なる宗教は、名前とスタイルが違うだけで、実際には同じものを拝んでいるのだから。(そうでなければ、それらの宗教が偽物ということだ。)

 そして、カルトを信じる人が、別にそんな超越的存在なんてことは考えず、ただ何かにすがりたい一心で、何かの助けが欲しいばかりに、その教団に入り浸っているのであれば、それはつまりは、その教祖を信じているということだ。(念のために、「キリストを信じる」というとき、それはキリスト=神=聖霊という方程式がある限り、「神を信じる」というのと同じことで、「ムハンマドを信じる」というときは「ムハンマドの言葉=神の言葉を信じる」ということで、ムハンマド崇拝では全くないだろう。)教祖を信じるということは、一種の個人崇拝であることに間違いなく、皇帝崇拝とか、元首崇拝とか、書記長崇拝とか、社長崇拝とか、占い師崇拝とか、挙げ句は、美人の足崇拝と同じだ。美人の足や指を崇拝して、大金をつぎ込んだり、仕事を打っちゃってのめり込んだりすれば、やはり相当なスキャンダルになるだろうし、理性はそれを決して潔しとはしないだろう。

 というわけで、長々と書いてはみたものの、中身はあまりに当たり前のことに落着してしまった。要点のみ繰り返すと、信仰するなら神を信仰すべきで、間違っても人を信仰してはいけない。そして、もしも神が存在すると本当に思うのであれば、その神は宗教とは無関係に存在しているはずで(信じている者だけに存在するような、そんな変な神があるわけがない!)、従って、信仰にとって宗教が必須というわけではない。カルトに纏わる気持ち悪さは、この辺の混乱に理由があると思われる。最後に、神ではなく人を信じたいのであれば、家族や友人こそを信じるべきで、教団の主催者なんぞを信じるのは、ヤフコメに深刻な人生相談を持ち込む愚と同様だ。それは端的に博打だ。信じられる家族や友人がいないときは、そのときは、歯を食いしばって本を読むしかないと思う。例えば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にこんな一節がある:

「みなの人がもっている信仰というのは、いったいどこからきたものなのか?[中略]いったいどうすれば、これが証明できますのでしょう?[中略]死ぬほど、死ぬほどつろうございます!」
「たしかに、死ぬほどつらいことですじゃ。というても、これは証明のできることではない、信念をもつことはできますがの」
「どうやって? どのようにして?」
「行動の愛の体験によってですじゃ。あなたの隣人を行動的に、倦むことなく愛するように努力してみなされ。愛の体験を積むことができるようになるにつれて、神の存在も、あなたの霊魂の不死も信じられるようになりますのじゃ。そして、もし隣人への愛において完全な没我にまで到達できれば、そのときこそは疑いもない信仰をもたれ、もはやいかなる疑念もあなたの心にきざすことがない。これはすでに確かめられた、まちがいのないことですじゃ」(江川卓訳)

 胡散臭い説教師の話を聞くくらいなら、ゾシマ長老の「遺言」に等しい言葉を聞く方がはるかにいい。 (H.H.)

 

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