2016年10月31日

八代目中村芝翫襲名披露 芸術祭十月大歌舞伎『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』─続「桜の枝と柊の葉」(上)

 なにごとも最初が肝心というけれど、初めて観た「熊谷陣屋」が歌舞伎だったらどうなったのかと、最初は文楽で観た派は、つくづく思っている。

 中村橋之助が、亡父を襲名し八代目・芝翫となった。
 歌舞伎史上初の親子四人同時襲名だそうで、息子たちと夏に東京・浅草の浅草寺で行った襲名奉告法要と披露の「お練り」は、八〇〇〇人が見たという。
 直後に不倫騒動が起きたが、ご存じのとおり嫁は三田寛子。当然のように記者会見に出て来て、気おくれの片鱗もみせず受け流した。
 これらの騒ぎは、人材面で将来の不安が募る出来事が続いた歌舞伎の、再開発事業としての芝翫襲名に、とりわけ力が入っている証だ。
161101sk.JPG

 その八代目・芝翫は、襲名披露公演に「熊谷陣屋」を選び、熊谷次郎直実を演じた。
 橋之助時代に復活させた「芝翫型」でこれを上演することもまた、熱心な歌舞伎ファン以外にも伝えられた話題のひとつだ。

「芝翫」が「芝翫型」で演じるのは、当たり前じゃないのか?

「熊谷陣屋」は「一谷嫩軍記」の一場面で、文楽の演目。人気の場面で、ここだけ取り出して文楽でも歌舞伎でも、よく上演されてきた。文楽から引きうつした歌舞伎演目を院本(いんぽん)もの、ともいう。
「芝翫型」とは、三代目・中村歌右衛門(初代・中村芝翫/一七七八〜一八三八)にはじまり、四代目・芝翫(一八三一〜一八九九)が完成させた演じかた。文楽の仕立てに近いという。
 いっぽう「團十郎型」は、七代目・市川団十郎(一七九一〜一八五九)が新たに歌舞伎独自の演じかたにし、九代目・團十郎(一八三八〜一九〇三)が完成度を高めたといわれるもの。以後、歌舞伎の「熊谷陣屋」は、ほとんどこちらの「團十郎型」で演じられてきた。

 両者の特徴をかいつまんで比較すると、「芝翫型」は文楽に近いぶん古典的で豪快、「團十郎型」は近代的で内省的とされる。
 芝翫型の直実はメイクも衣裳もハデで力強く、文楽人形に近い。團十郎型の直実はそれらがより自然で、人としての身近さを感じさせるそうだ。

 芝居の細部もいろいろ違うが、もっとも違うのはラストシーン。
「芝翫型」は文楽と同じように、登場人物全員が舞台でポーズを決め、ストップモーションで幕。文楽を観た感じでは「つづく(to be continued)」感が強い。もっとも歌舞伎ではこの型は「余韻が残らない」と、実際に演じたうえでいった役者もいる。
「團十郎型」は、直実ひとりを残して幕をひき、じみな僧衣になった直実が、シミジミと慨嘆の台詞(文楽〜芝翫型ではすこし前で出てくる)を言って去る形に終わる。じつは「團十郎型」を一度も観ていないので説得力がないが、こちらのほうがいかにも「終わり(The End)」感がしそうだ。
 いずれにせよ、「芝翫型」が演じられなくなり「團十郎型」になったのは、九代目の作り込みの素晴らしさもあったろうが、やはり人形劇の引きうつしでなく、より人間味のある情緒を強調した表現が、観客に受け入れられたからだろう。

 芝翫は熱演だった。
 と思う。文楽以上に歌舞伎観劇の初心者なので、間違っているかもしれない。古風・豪快とされる「型」ゆえそう見えたのか、芝翫による直実解釈が「型」を越えた表現となって現われたのか、それもわからない。
 けれど、花道から現れた芝翫の、鬱々とした佇まいや、つい数珠を取り出してしまうさまには、「さすがに猛き武士も、物の哀れを今ぞ知る思ひを胸に」がイヤというほど滲み出て、これはいい結末になるぞと、瞬時にうかがい知れた。
 また男泣きの慟哭、何につけてもこれがえらく苦手なのだが、芝翫のそれは東国武士が直情につくさまをよく表しているとも受け取れ、いくさの最中に出家する決然とした行動に、よく見合っている。
 直実の妻・相模も、夫に叱られ制されて、おろおろを重ねるなかに、この事態を全面否定しつくすほどの悲嘆があふれてくるさまを、わかりやすく伝える。敦盛の母・藤の方もいい。息子思いのあまりキレたかのようで、相模とはまた違う直撃の悲しみがたちあがる。
 相模は魁春──芝翫の従叔父、なのかな──で、藤の方は菊之助。このブログの別の筆者が、やはり歌舞伎再興「事業」として書いた菊之助の結婚で、その義父となった吉右衛門が義経。亡くなった勘三郎の嫁が芝翫の姉なので、え〜と、とにかく全員、親戚……だよな?
 その吉右衛門は、「芝翫型」復活の監修役でもあり、最後にこの型を演じた二代目・尾上松禄(一九一三〜一九八九)の書き込みの入った台本──の抜き書き──をもとに、芝翫──当時の橋之助──と、こまかく動きを検討して再構成、指導にあたったそうだ。つまり義経が、登場人物にかける見守りとねぎらいの台詞は、実の情に満ちた言葉でもある。そのあたたかさが、客席にも響く。

 おかげさまで、最初に文楽で、そして二度目も文楽で「熊谷陣屋」を観て、どんどん膨らんでいた妄想めいた深読みは、歌舞伎で観ているうちに崩壊! まさに妄想もいいところで、意味ねえじゃん! と思ってしまった。

 芸は人に。
 人の芸を楽しみ、人の動き、人の言葉に揺さぶられ、人のつながりを感じつつ人情を知る。それが歌舞伎の面白さで、いまさら文楽と歌舞伎の違いがどうこうと、偉ぶって書き並べる必要もなく、よいものだ。
 しかし、最初は文楽で観た派は、同じ演目で文楽の演じかたに類似してもいる歌舞伎の舞台を、ずっと、不思議に思いながら観てもいた。

 人とは、こんなにも「薄い」ものなのだろうか。【つづく】 (ケ)


 (下)は→こちら←

※ 桜の枝と柊の葉 ── 国立劇場九月文楽公演「一谷嫰軍記」から「熊谷陣屋」(二〇一六年十月)は→こちら←
※ 別の筆者による文も含めて、このブログの「熊谷陣屋」関連の記事は→こちら←
※ 別の筆者による文も含めて、このブログの【伝統芸能】関連の記事は→こちら←


Originally Uploaded on Oct. 25, 2016. 00:00:00


posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 伝統芸能 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2016年10月30日

John Keats を読む O Solitude! if I must with thee dwell, 邦訳【テイク2】

O Solitude! if I must with thee dwell,
 ああ 孤独よ! おまえと ひとつ屋根の下にいなくちゃならないなら
Let it not be among the jumbled heap
 ごちゃごちゃと おおいかぶさるような 陰気な建物の谷間ってのは
Of murky buildings; climb with me the steep ─
 かんべんしてくれよな
Nature’s observatory ─ whence the dell,
 きつい山道をいっしょに登り 見晴しのいい自然の中にしてくれよ
Its flowery slopes, its river’s crystal swell,
 谷間には花咲く斜面 川では水晶のさざ波が 橋をわたすかのように
May seem a span; let me thy vigils keep
 孤独よ ぼくは おまえの寝ずの番をさせてもらうぞ 
‘Mongst boughs pavillion’d, where the deer’s swift leap
 あずまやのように重なる枝の間でね 鹿が目にもとまらぬ ひと跳びでもすれば
Startles the wild bee from the fox-glove bell.
 野の蜂が驚き 釣鐘花の中から飛び出してくる
But though I’ll gladly trace these scenes with thee,
 孤独よ おまえがいてくれると ぼくは そんなようすを楽しく追いかけるだろうな
Yet the sweet converse of an innocent mind,
 でも 邪心のない心どうしの心地よいやりとりあってこそだよ
Whose words are images of thoughts refin’d,
 磨かれたさまざまな考えをイメージしている言葉でね
Is my soul’s pleasure; and it sure must be
 それがぼくの魂の歓びなんだ そして
Almost the highest bliss of human-kind,
 人にゆるされた最高の歓びに違いない
When to thy haunts two kindred spirits flee.
 心許し合う ふたつの魂が 孤独の住処に逃げこむときこそが

       *

 古い歴史のあるロンドン有数の大病院で、現在はその機能のほとんどを医療教育や研修にあてているガイズ病院に、ジョン・キーツの像があるそうだ。
 行ったことはないが、院内のモニュメント案内パンフレット※を見ると確かに、中庭らしい場所にしつらえた壁龕(すぐ近くのロンドン橋の遺構だという)に、キーツがひとりで坐っている。患者や来訪者、スタッフもいっしょに坐れるそうだ。製作した彫刻家は、キーツが若いころ作ったライフマスクなどを参考に、本人に似ていることを期待して作ったという。

 キーツが、見習いをへてこの病院の学徒となったのは二〇一年前の一八一五年秋。翌一八一六年の春には外科助手となる。
 ほどなく、キーツの詩が初めて雑誌に載る。本格的に詩作に傾倒し始めたのもこの年だ。
 薬剤師──当時は医療も行った──の資格をとれたのが一八一七年の夏。ライフマスクは同年冬に作っている。
 
 その、初めて雑誌に載った詩、キーツが一八一五年に十九歳で書いた詩を訳すことにした。──さきに【テイク1】をアップしていたが、誤訳がかなりあることを指摘されたので、問題点だけ直さず前後のつながりも調整しこの【テイク2】にした。なるべく早く【完成版】にします。【テイク1】はボツ。すみません。
 
 キーツはもともと明晰な子どもで、勉強もよくできたようだ。中学の先生の影響で文学に出会うが、医者(薬屋か)の徒弟となる。馬車屋の父が事故で早く亡くなり、母も結核で失っているという家庭事情からだ。
 ガイズ病院時代はほかの研修生たちと下宿していた。もっとも、外科、薬科といっても、麻酔もろくにない時代ではなかろうか。当時の衛生や殺菌などの認知度を想像しても、研修医というより徒弟という感じか。徒弟宿となれば、among the jumbled heap Of murky buildings だったことは間違いないだろう。そんな下宿の窓辺で夢想にふけり、休みでもあれば散歩で丘に上るのが、キーツは好きだったという。
 手がたく薬店でも開業するか、それとも詩人として生きるかについては、迷っていたのか心中確信があったのかは、キーツの手紙やメモなどを研究したことはないので、わからない。とはいえ、見習い時代に始まり資格をとるまでの医薬修業を六年続けたのだから、まじめな性格ではあったのだろうか。

 写真でみるガイズ病院のキーツ像は、肩がうすく、はかない感じだ。
 こんな感じの若者が書いた詩なのかな。
 そう思いつつ、訳そうと辞書や資料を見て四苦八苦するうちに、なんともいえない気持ちにとらわれる。

 実際その像のような姿で病院の助手室にでも坐っていたとして、そのわずか五年ほど後にキーツは亡くなってしまった。詩人として広く知られることのない、短い生涯だ。
 キーツに、母と弟の命を奪った結核の症状が現われたのは、ここで訳したデビュー作から三年ほどしたころ。せっかく出版した長編叙事詩「エンディミオン」は不運もあり酷評をくらったが、恋人と出会えて、気持ちが上向いた直後のことだ。
 キーツはその翌年には、後の時代に代表作といわれるようになるオードをつぎつぎと書き、恋人と婚約もする。しかし発病1年半ほどで、療養先のローマで命がつきた。奇しくも同時代の医術や施薬を知る詩人なので、現代の素人知識でも中世の魔術としか思えない悲惨な治療を、最善と了解しつつ苦しんで死んだと思われる。公式な婚約手続きもしていたが、結婚は諦めていた。

 ふつうのエッセイでは、訳をつけた詩の後に解釈や批評を書くと思うが、ここではしないでおく。孤独と自然、そして汚れのない思想を愛するひとりの若者の言葉が、いかに美しかったか、そしてその言葉はまた、詩人としての名声に報われる結果は得られなかったけれど、その魂の理解者である友人や恋人に恵まれるということの、いかに嬉しい予見に満ちてもいたかということを、感じていたい。(ケ)

※ www.guysandstthomas.nhs.uk/resources/about-us/history/look-book-guys.pdf
 (pdfファイルが開くかダウンロードされます)

※ 別の筆者による文も含めて、このブログのジョン・キーツ関連の記事は→こちら←です。


posted by 冬の夢 at 15:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2016年10月26日

ボブ・ディランとノーベル賞(続き):My Back Pages

(附記:Dylanのカタカナ表記は普通は「ディラン」とのことなので、表記を改めました。)

 新聞などの報道によると、ボブ・ディラン御大はいまだにノーベル賞委員会に連絡を取っていないそうだ。しかし、シンガーソングライター、あるいはロックンローラーとしてのボブ・ディランのファンとしては、彼がノーベル賞を受賞しようがしまいが、それを辞退しようが、受けとろうが、結局はどうでもいい。ノーベル賞はボブ・ディランに何の栄光も栄誉も付け加えないだろう。そんなことは、アホのマスコミと物欲しげな小説家以外は誰もが知っていそうなことだ。

 それはともかくとして、先に「ボブ・ディランの詩には、かなり難しいものがある」と書いた後、たまたま同人たちの「訳詞」「訳詩」が続いたので、それに触発されて、忘れないうちに、ディランの「難しい詩」の一例を取り上げてみたい。ここに紹介する"My Back Pages"という曲は、1964年のリリースだが、そのときに早くも物議を醸したことで名を馳せている。曰く、「ディランはプロテストソングの歌い手としての自分を否定した」と。本人としては、むしろ「人はいつまでも若くはいられないんだよ。経験とともに、少しは利口になるし、詩人としても成長する」と言いたかったのかもしれない。というか、反戦ムーブメントのアイコン(偶像)扱いにウンザリしてしまったというべきか。ともかく、以後も色々と取り沙汰されることの多い歌である一方で、ザ・バーズ(The Byrds)やジャズのキース・ジャレット(Keith Jarett)がカヴァーしている(日本のミュージシャンもしているらしい)ので、ディランの曲の中でも有名な方だろう。が、その歌詞は、かなり難しい(と思う)。


My Back Pages (1964)

Crimson flames tied through my ears
Rollin’ high and mighty traps
Pounced with fire on flaming roads
Using ideas as my maps
“We’ll meet on edges, soon,” said I
Proud ’neath heated brow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now

1) 先ず、crimson flamesがピンと来ない上に、tied through my earsってのがわからない。ドラッグの影響かと考えれば何でもありなんだろうけれど……tiedというのが、具体的には不明だが、その語感として「締め付けられている」ということで十分なのかもしれない。
2) 4行目のusing ideasは完全にお手上げ。そもそも、句読点のないディランの歌詞は最初から扱いにくいのだが、ここではusingの主語が確信できない。穏当な理解では、当然のように「Iが主語に決まっている」のだが、mighty trapsが主語という可能性だってありえるし、もしかしたらflaming roadsという可能性さえ残されている。さらに細かく言えば、ideasには冠詞 (the)や所有代名詞(my)がないくせにmapsの方はしっかりとmyで限定されている。そのために、いっそうわけがわからなくなる。「さまざまな考え(?)を私の(複数の)地図として使う」……そのまま素直(?)に解釈すれば、「さまざまな機会に、自分のものでもない考えを自分自身の計画マップとして使って、要するに、他人が作った地図を使って、『町の外れで落ち合おう』なんて言ったものだから、云々」ということになろうか。しかし、on edgesは「町外れ」でいいのか???
3) 極めて「微妙」なことだが、ディランはリフレンをI was so much older thenと書いてはいるが、歌っているのを聴くと、then(その頃)はthanと聞こえる。絶対にわざとそう歌っている。ちょっとした「遊び」だ。

Half-wracked prejudice leaped forth
“Rip down all hate,” I screamed
Lies that life is black and white
Spoke from my skull. I dreamed
Romantic facts of musketeers
Foundationed deep, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now

4)ここで目を引くのは、作中、なぜか唯一挿入されているピリオドだろうか。これがないと、さすがに困るとディラン自身が思ったのか、編集の人間が勝手に挿入したのか。foundationedという語も凄い。こんな単語はない。が、何度聴き直しても、確かにディランはfoundation-edと、最後のdを発音している。次の単語もdから始まるdeepだから、一種の空耳でそう聞こえてしまうのかと何度も聴き直したが、やっぱりfoundationedだ。意図がわからない。英語には「名詞にむりやり –edという語尾をつけて形容詞にする」という必殺技があるけれど……ちなみに、The Byrdsのカヴァーでは、ここはfoundationになっている。

Girls’ faces formed the forward path
From phony jealousy
To memorizing politics
Of ancient history
Flung down by corpse evangelists
Unthought of, though, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now

5)ここは、同人の一人が狂喜乱舞しそう(?)な感じだ。「女の子にモテたい一心で音楽を始めたのに、いつの間にか民主主義とかそんなものに、云々」と。単純に面白い。

A self-ordained professor’s tongue
Too serious to fool
Spouted out that liberty
Is just equality in school
“Equality,” I spoke the word
As if a wedding vow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now

6)4行目のin schoolがどこを修飾しているのか、解釈がわかれるところ。似非教授が「教室で」そう言ったのか、「自由なんて、学校での平等に過ぎない」と言ったのか。意味をよ〜っく考えたら、どっちが「正解」なのか分かりそうなものだが、justのニュアンスが「正に、正確に」なのか、それとも「たかがそれだけ」なのかも分からず、西洋の思想史における「自由」と「平等」の小難しい論争を思い浮かべると、いっそう分からなくなる(教科書的には、アングロ・サクソン文化圏では「自由」が重要視され、フランス文化圏では「平等」がより重要視されたという。)

In a soldier’s stance, I aimed my hand
At the mongrel dogs who teach
Fearing not that I’d become my enemy
In the instant that I preach
My existence led by confusion boats
Mutiny from stern to bow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now

7)ここで分からないのは、aimed my hand at ~ のニュアンス。aim my gun at ~とか、aim my arm at ~ならば、「私」と「雑種の犬たち」は敵対関係のような感じだが、ここでhandと言われると、今度はgive my hand to ~のような感じもしてきて、ともかく両者は少なくとも一時は友好関係にあったように感じられる。
8)関連して、いっそう困惑するのは、時制だ。英語の時制はいつも悩みの種だが、この「雑種の犬たち」は「(現在形で)教えてくれる」という。つまり、いつの時代でも「教えてくれる」存在というわけだ。そして、続くpreachも現在形。ということは、「今だって、気を抜くと、この小うるさい犬たちが近寄ってくるから、いつだって手を上げて追い払わないといけないんだ」みたいなことなのかと思われてくる。となると、ノーベル賞も御大にとっては「雑種の犬」ということなのかもね。

Yes, my guard stood hard when abstract threats
Too noble to neglect
Deceived me into thinking
I had something to protect
Good and bad, I define these terms
Quite clear, no doubt, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now

9)my guardが敵なのか味方なのか? 普通(?)に考えれば「味方」なんでしょうね……

と、以上のように、いや、他にも大小の「遊び」やら「仕掛け」があり、読んでいると分からないところだらけなのに、歌を聴いていると、理屈抜きでカッコいい。そして、それがディランの歌の真骨頂だ。彼の作品は「読む」だけでは全くつまらない。あの一世一代のパフォーマンスが付いていないと、炭酸ガスの抜けたサイダーみたいになってしまう。だから、ディランはノーベル賞に困惑しているのだと思う……


(試訳)
両耳を通して繋がれた紅の炎が
高く巻き上がり、いくつもの強力な罠が
燃え上る路上で炎と一緒になって襲いかかった
さまざまな考えを自分の地図にして
「一番はずれで落ち合おう、すぐにね」と言ったぼくは
熱を帯びた額の下では誇らし気だった
でも、その頃はずっと年老いていたんだ
今はその頃よりもずっと若い

半ば壊れた偏見が飛び出してきて
「憎しみなんか全部引き剥がせ」とぼくは叫んだ
人生は白と黒だという嘘を
頭蓋骨の底から何度も言った
とにかく分厚い基礎を持った
銃士たちのロマンチックな出来事を夢見ていた
でも、その頃はずっと年老いていたんだ
今はその頃よりもずっと若い

前に進む道を作ったのは女の子たちの顔だった
生意気な嫉妬から
古代史の政治を暗記するまで続く道
とにかく考えたこともない
福音史家たちの死骸が投げ捨てた古代史
でも、その頃はずっと年老いていたんだ
今はその頃よりもずっと若い

自分で自分を任命した教授の舌は
あまりに生真面目でからかうこともできず
まくし立てていた
学校では自由とは平等だということだと
「平等」というこの言葉を
ぼくは結婚の誓いでもあるかのように口にした
でも、その頃はずっと年老いていた
今はその頃よりもずっと若い

ぼくは兵士の姿勢になって、雑種の犬たちに
自分の手をむけた
犬たちは教えてくれるんだ
自分自身の敵になることを怖れるなと
ぼくが説教をしているまさにそのときに
船尾から船首に広がる反乱
それらの混乱した船に導かれたぼくの実存
でも、その頃はずっと年老いていたんだ
今はその頃よりもずっと若い

ぼくの見張りはしっかりと立ち尽くしていた
頭の中だけの脅しが立派すぎて無視できずに
ぼくが騙されて
守るべきものがあると思い込んだときにも
良いものと悪いもの、こうした言葉を
ぼくは明確に、とにかく疑いもなく、定義している
でも、その頃はずっと年老いていたんだ
今はその頃よりもずっと若い


……さて、ボブ・ディラン第三弾はあるのだろうか……(H.H.)
posted by 冬の夢 at 00:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 ロック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする