2016年08月30日

Silent Songs 4

*「gallery」へ移動すると、写真を拡大・前後送り表示できます
ここをクリックして「gallery」へ
Click here to [gallery]


(ケ)

160830os.JPG



2016(c)趣味的偏屈アート雑誌風同人誌  不許複製


→Silent Songs - Singapura -  →Silent Songs 2 - New York -  →Silent Songs 3 - London -
→in the shadow of the city - Paris -
→promised land  - Hong Kong -  →promised land II - Hong Kong -
→tyger, tyger ! - seoul, uijeongbu -

posted by 冬の夢 at 11:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 写真 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2016年08月18日

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声: この蝉はヒグラシに決まっている

 神戸に暮らし始めて二年になる。つまり、この夏で神戸の夏を二度経験したことになる。住居が海沿いにあるので比較的涼しく、朝夕出歩くときに海を眺め、凪いだ海を大小の船が滑るように進むのを童心に戻ってしばし楽しみ、夜になり人々が寝静まる頃となれば船の霧笛が遠く響くことも面白く感じている。まるで長く旅行をしているような気分ともいえる。もっとも、これは元来縁も所縁もない土地で生活しているせいなのかもしれない。が、ともかく、神戸という町での生活に基本的には満足している。
 
 ところが、神戸の夏に一つだけどうにも耐えがたいことがある。セミだ。クマゼミの大合唱。いや、合唱ではない。むしろ「戦場の雄叫び」と喩えるべきか。いずれにしても、耳を覆いたくなるほどの騒音である。とりわけ、夜が明け日が昇り始めると共に騒ぎ始めるあの習性だけは何としても改善してもらいたいと切に願っている。早起きを習慣にしている人にとってはさほど大問題ではないのかもしれないが、午前4時や5時に就寝することの多い身としては、「頼むから静かにしてくれ!」と怒鳴りつけたくなる。(それに、夏場は窓を開放して寝ることが多いでしょ?)

 そして文字通りにクマゼミの鳴声攻撃で叩き起こされ、寝不足状態で玄関を出ると、そこでもまた彼らの第二次攻撃に曝される羽目になる。玄関の鼻先に住宅地にしては目立つ巨木が立っており、それがどうやらクマゼミの好む木なのか、「たかっている」と表現するのがふさわしいほどに集結しており、その喧しさたるや、決して大袈裟でなく、耳が痛いほどに感じられ、そのつど我が鼓膜が心配になる。

 以上はクマゼミの騒音を実際に経験したことのある人にとっては釈迦に説法であろうが、関西(神戸?)のクマゼミの意気盛んな様子は格別な気がする。十年ほど前まで暮らしていた東京では、セミといえばもっぱらアブラゼミであり、アブラゼミはアブラゼミでそれなりに騒がしく、日差しの厳しい日中にあのうっとうしい声で鳴かれると、暑苦しさの度合いもいや増しに増すといった感じではあった。しかし、音量・音圧の点で比べれば、アブラゼミなどクマゼミの足下にも及ぶまい。事実、アブラゼミが鳴き喚いているときに鼓膜の心配をした記憶はない……

 このお盆の時期に関東に(といっても、伊豆半島の真ん中辺り)来てみると、なんと、懐かしいミンミンゼミが鳴いているではないか! 「懐かしい」というのは、一説によると、クマゼミとミンミンゼミは共存することを避けるようで、生息地域を異にするか、あるいは成虫になる時期をずらすことによって、いずれにしても、同じ時期に同じ場所で鳴くことはないらしい。即ち、クマゼミが意気盛んな神戸の海沿いの地域ではミンミンゼミの鳴き声を耳にすることはごく稀ということになる。そして、逆もまた真なりで、ミンミンゼミが鳴いている伊豆半島のこの辺りは、クマゼミの殺人的音響・殺人的環境汚染を辛くも免れているようで、お盆も過ぎようとしているこの時期、ツクツクボーシやヒグラシの声の方が一層際立っていた。

 そんなある晩のこと。年老いた義父が「芭蕉の俳句『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』のあのセミがいったい何ゼミなのかご存知か?」という、高尚なのか低俗なのか微妙な、その点でいかにも俳諧的な、そして、真面目に考え出すとけっこう難しそうなことを問いかけてきた。義父が言うには、歌人の斉藤茂吉が、あれはアブラゼミだと主張し、それに対して別の著名な文学者がニイニイゼミだと反論して、それなりの論争に発展したらしい。

 この論争自体は、現地調査も含めて、結論としてはニイニイゼミに落着したという。

 しかし、詩を愛好する人間としては全く納得がいかない。ここに断固として宣言したい:
「岩にしみ入る」ように鳴くセミが存在するとしたら、それはヒグラシしかない。

 ヒグラシの鳴き声を耳にして、そして芭蕉のこの句を知って以来、この蝉はヒグラシと決まっていた。アブラゼミやミンミンゼミ、ましてクマゼミは論外として、ニイニイゼミでも「岩にしみ入る」ことはあるまい。そう思っていた愚生にとって茂吉や小宮豊隆の説は「珍説」以外の何物でもなく、博識な専門家たちが何ゆえにそれほどの迷妄に囚われたのかと訝しく思われる。

 ちょっと調べてみると、芭蕉がこの句を詠んだ場所は現在の山形市の立石寺という山寺で、時期は新暦相当で7月13日、この時期のこの場所で聞くことのできるセミは、アブラゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、エゾハルゼミだそうだ。(この最後のエゾハルゼミというセミがどんなセミなのかは知らなかったので、これまたちょっと調べてその鳴き声を聞いてみると、この甲高い鳴き声も「しみ入る」あるいは「しみこむ」に相応しいのかもしれないと思えたりもした……)しかし、「7月中旬に立石寺周辺で聞くことのできるのはこの4種類のセミである」との現地調査を聞かされても、江戸時代から多少の気候変動や環境変化もあっただろうから、こうした「科学的データ」を簡単に盲信する気にはなれない。それよりも芭蕉の俳句そのものをもう少し詳しく検討した方がまだ意義があるだろう。

どうやらこの句には二つの先行句(というのだろうか?)があるらしい。一つは、
   山寺や 石にしみつく 蝉の聲
もう一つは、
   さびしさや 岩にしみ込 蝉の声
現行の最終案(『奥の細道』に記されている)が断然良いことは歴然としている。

 しかし、非常に興味深いことに、第一の「山寺バージョン」を読む限りでは、このセミをアブラゼミだという斎藤茂吉説にも俄然有義性が生じてくるではないか。「石にしみつく」ような粘着性にはアブラゼミが似つかわしい。この句に透けて見えるのは、山寺への上りの坂道、暑さにふき出す汗、ゴツゴツあるいはゴロゴロした石、そして、鬱陶しいセミの鳴き声だ。
 
 ところが、「さびしさバージョン」では景色は一変する。時刻は夕暮れの迫る午後であろうし、周囲は湿り気を帯びた鬱蒼とした森の中である。そして何よりも重大なのは、この「岩」が「心」と等価になっているということだ。岩に「しみこむ」のではなく、寂しさを感じている心にしみこむのである。

 けれども、結局芭蕉は寂しさの、いささか安っぽいセンチメンタリズムを厳しく斥けた。最終的に選ばれたのは「閑さ」という、即物的でもあり、同時に極めて複雑な様相を示す、その意味で非常に抽象度の高い言葉だ。この切り出し方ひとつ取っても、芭蕉の天才が存分に発揮されている。

 言うまでもなく、今や辺りに響くのは蝉の鳴き声だけだ。それを「しずか」と表すところがすごい。なぜかって? あえて言えば、セミが鳴き喚いているのに「静か」なはずはない。しかし、辺りに誰もいない孤独孤高の中で、心は「閑か」である。自己を煩わせるものはここには何一つない。やれやれ、ここまでやってきて正解だった、といった心情が透けて見えてくるではないか。

 こうした方向、こうした心構えで「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」を読んだとき、この岩が心でもあることには疑問の余地はなく、そうであるからこそ、俳聖は「しみこむ」を「しみいる」に変更したのでもあろう。心に染み入るように、岩にしみ入るのである。となれば、このセミがアブラゼミはおろかニイニイゼミでもなく、ヒグラシの寂しげで硬質な鳴き声でなければならないことはほとんど自明ではないか。言い換えれば、「しみつく」から「しみいる」に変更されたとき、セミもまたアブラゼミからヒグラシへ変貌したのである。

 ……と書き進めつつ、本当のところは、夏の盛りのセミの命が儚いほどに短く、あの2〜3pほどの体躯のほとんどがいわば共鳴箱に過ぎず、つまりはほとんど空洞で、とても生命を維持するには向いておらず、我ながら感傷的な言い方だとは自覚しているが、あのやかましいセミの鳴き声が短い命の精一杯の燃焼であることを承知すれば、セミの鳴き声にしみじみと感じ入ることは、それがどんなセミであったとしても、さほど難しいことではないと確信できる。また、おそらくは、現に伊豆半島の谷間にある一軒家の窓の外ではアブラゼミとミンミンゼミ、ヒグラシ、それにツクツクボーシ等々が一斉に鳴いていたように、1689年の山形にいた芭蕉の耳にも雑多な蝉の鳴き声が同時に響いていたに違いない。その中からどのセミを思い浮かべるかは、もはや読み手の心理問題というべきことだろう。

 つまり、長々と書き進めた結論は、ぼくはセミの中ではヒグラシが一番好きで、クマゼミが一番嫌いということに過ぎなかったか。 (H.H.)

posted by 冬の夢 at 02:02 | Comment(2) | TrackBack(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2016年08月17日

箕面大滝とヒグラシ【追記二個あり】

 2016年08月18日の記事
 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声:この蝉はヒグラシに決まっている(H.H.)の挿絵のつもり。
 箕面大滝(大阪府)への滝道の渓流沿いで鳴くヒグラシ。二〇一六年七月末。
 ボリュームの上げすぎにご注意ください。

oMG_3295.JPG


 動画でいちどに楽しめると涼しさ倍増だけれど、滝壺では水音がすごくてセミの声は録音できない。
 でも、音声のバックグラウンドの渓流の音やほかのセミの声は、ただの雑音に聞こえる。
 昔「デンスケ」という趣味がありましたが、録音ってのも奥が深いです。(ケ)


【追記その1】

 ついでに、近場の街路樹にいたアブラゼミ(左)とクマゼミ(右)の画像もアップ。
 体の形を比べると、阪神地域に轟くクマゼミの爆音が、首都圏でウルサイと思っていたアブラゼミの比でなく凄いことに納得。
160818ab.JPG 160818km.JPG
各クリックで、パソコンの場合、平均的な実寸程度に表示。

 クマゼミはサイズもデカいが、アブラゼミがやや平たくギターみたいな形なのに対し、太鼓の「コンガ」みたいな形。いかにも響きそう。またクマゼミはヒトの可聴周波数帯域の低め音域にまんべんなくでかい音を放っているそうだ。くそっ。
 調べたのではなく経験ですが、どちらも鳴き出すとトランス状態に陥るのか、素手で捕まえることもできる。手の届く高さにもよくいて、近づいて写真を撮ってもあまり逃げない。
 ミンミンゼミやツクツクボウシは、鳴いている状態でも素手では捕まえにくく、路面の低い所にはあまりいない。
 セミを見つけたり捕まえたりなんて、小学生時代以来。


【追記その2】

 あらためて、2016年08月18日の記事「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声:この蝉はヒグラシに決まっている」(H.H.)で、そうか! と思ったのは文末のこの部分。

 芭蕉の耳にも雑多な蝉の鳴き声が同時に響いていたに違いない。

 中高生のとき俳句を、たぶん松尾芭蕉で最初に知り、以後「五・七・五」の音で読むようになった。黙読でも音で三分割、字余り句もそれに近く分けてとらえる。
 当然、「静かさ(名詞)」「岩」「蝉」は、単数のモノとして思い浮かぶ。
 それらを白紙の想像空間にポンと浮き出させ、空気感や音を絵のように動かすのが芭蕉の力量なのだろうけれど、その点はここでは置いて、「静かであること」の大きな単数性と三連立する「モノ」のイメージは、やっぱり単数、ということ。岩は一個、セミも一匹って感じがしていて、それを今のいままで疑ったことがなかった。
 なるほどセミシャワー。軽い夕立のようにサアっと岩々にそそぐ。「岩々」と書いたのは、山寺なんで、京都の寺の庭石みたいなんじゃないかもなと。そんな場面にひとりで立ったら、いやおうなく「静かさ=寂しさ」がきわだつことは、よくわかる。

 といっても、「蝉(単数)」なのか「蝉ズ(複数)」なのかは、字面からはわからない。
 この俳句を英訳している、日本文化にもくわしいであろう人たちの英訳つまり「解釈」を、いくつかピックアップしてみた。

The locust's trill. ドナルド・キーン
the cicada sound ドロシー・ブリトン
the cicada's cry ロバート・ハース
the sound of the cicadas アーサー・ビナード

 ドナルド・キーンがわざわざ「イナゴ(あるいはセミ)」という単語を使ったことには、また意味があるんだろうな、くらいで、よけいわからなくなってしまった。いつものことですが。
 今年の関西は盆過ぎでも爆暑、ツクツクボウシも参加したセミミックスでドラムンベース状態。「セミシャワー」の例も録音するかと、所用の帰途に近くの神社に立ち寄ったが、住宅街で録音すると、どんなにセミたちがうるさくても市中の機械音・生活音がかなり混じる。「閑さや」について思い直している暑い夏。(ケ)

Originally Uploaded on AUG. 18, 2016. 07:30:00 
posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 旅・徘徊・発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする