2016年07月30日

高橋和巳「孤立無援の思想」と森田童子 [3/3]

 高橋和巳の小説を読みだしたのは、高橋が亡くなって十年ほど後のことだ。
 予備校時代か、大学生になってからか。
 なんの知識もなく手にとった。
 一九七〇年代後半に出たばかりのビニールカバーの『全小説』シリーズが、すでに古書店で店頭の安売箱にバラで突っ込まれて売られていたからだ。
 
 八〇年代に流行した「知」、つまりカッコ書きのカッコいい教養趣味、あるいは衒学ファッションか、そういうことがもてはやされる予兆からしてついていけず──基礎的教養にさえ欠けていたから追いかけられなかっただけだが──だからといって、加速度的に華美で軽快になっていく「キャンパスライフ」もまた、自分にはカッコ書きの幻でしかなかったために、初めのうちぜんぜんなじめず、前時代的だとさえ感じた文体に、いつしかとらわれていった。
 そうなったらなったで『全小説』の端本を投売箱から拾い買いしては読み、図書館でエッセイ集を探して読むというように、高橋和巳ばかり読んでいた。
 もっとも、いま正しく内容を思い出せるものは何ひとつないから、読めていたわけではないのだろう。大学闘争の時代を感じながら読むことはとうに不可能だったし、そうしたいとも思わなかった。
 堅っ苦しい文体で、追い詰められていく苦しみに満ちた、まじめ一本やりの小説を、子どもが絵本の字をたどり読みするようにつたなく追うことで、めめしく貧しい自分の日常を正当化するくらいの気分だったに違いない。

 めめしい、といえば、小説以外の文章や、死後に書かれた回想などを読む中で、高橋和巳の文学の特徴は、その重厚荘重な文体とはまるで反対の、「めめしさ」ではないか、と思ったことがある。
 ゴシップ的に、人となりを、いくつかの回想録から垣間みたり、実感は持てないまま大学闘争時の高橋について読んだりしているうちに、実際の年齢よりずっと上で、老成した作家だと思い込んでいたけれども、この人はひょっとして「まったくの世間知らず」なのではないかと感じてもいた。こんなにも「リアルで根源的な問題」を、フィクションにおいてまさにリアルかつ根源的に追い詰めていけるのに、ただの「ベタ」に過ぎないリアリティなり突っ込みなりに直面すると、そのことにあっけなく打ち負かされ、打ち負かされてしまうことに苦悩することへ描写のフェティシズムを発揮してでもいるかのように、屁理屈を乱射し出すからだ。
 そんな「めめしい」態度が、教養度も行動力も足りないが「めめしさ」だけは存分に備え、しかも「孤立無援」ではとうてい生きていられない、あのころの自分の心情を揺さぶったのかもしれない。

 参院選、東京都知事選と続く七月に、高橋和巳「孤立無援の思想」を読み返しはじめたのは、かつて森田童子が「孤立無援の思想」のことを曲にして歌っていたと知ったからだ。
 貸本屋で立ち読みし、そのまま盗んだ『孤立無援の思想』を、二人乗りの自転車の後ろで読んでいる彼氏。そんなさまを唄っているのは、自分のことを「僕」という彼女。

 春になったら 就職するかなァ
 壁に向かって 逆立ちして 笑った
 机の上の 高橋和己は
 おこった顔して さかさに見える
 どうして 生きていいのか
 解らぬ ふたりが
 畳の上にねそべっている


 森田は一九五二年生まれ。この「孤立無援の唄」は、一九八二年発売のLPに収録。
 いうまでもなく「政治の季節」が終わり、政治の方法論であった「情況論」は空中分解して社会のあらゆる分野に蔓延し、そのあたらしい情況論たちをフォローできない者は、ただ取り残されるだけになった時代の歌だ。森田はこの曲の直後、一九八三年に活動をやめている。
 当時、ほどほどの共感をもって森田を聴いていた。ずっと後のテレビドラマの曲で、幻の歌手として知った人には、森田の現役時代に聴いていた──ライブにいったことはない──というのは、おとぎ話に聞こえるかもしれない。
 いま聴いてみると、「どうして生きていいのか解らぬ」ことも、「畳の上にねそべ」ることも、ああそうだ、そうだったよなと「ほどほどの共感」をもってとどく。いまも同じ気持ちが自分にはある。
 ただ、あのころ自分は、こういう音楽に過剰にのめりこむのはよそう、と決めもしたことを思い出す。同じ「わからない」というにしても、なにかが終わった時代だから、どうしたらいいのかわからない、という凡庸な棚あげを繰り返すのは、よそうと。一九六〇年代末ごろ大学闘争や労働運動を経験し、一九八〇年代のわたしに「お前は斗ってない」という説教を執拗に行った人たちが、そんなわたしの思いを後押しする、みごとな反面教師の役を果たしてもくれた。
 
 そんなふうに決めはしたけれど、わたしは経済第一主義者には、まったくならなかった。一切が情勢論的に動いているようにみえても、そこに時としてほとんど文学的な、各自が貯えていた情熱の性質や、変ることなき態度によって事態が決せられる時機がある、という感覚は、もはや消すことはできなくなっていたのだ。以後今日までに、わたしの暮らす社会は経済第一主義者のためのものとして完成しつつあるけれども、日々の些細な局面の選択肢にこそ「時機」は訪れていると理由もなく確信しつづけて、情勢論全体の中では、きわめて平凡に生きている。森田の歌詞にある「かなァ」とつぶやいて「ねそべ」っていたい気持ち、そこからもまた、抜け出せることはないだろう。
 
 ネエどうにか やってゆけるかなァ
 タッグマッチの 君がいないから
 ぼくは 空を飛べない
 年老いた スーパーマンみたい
 どうして 生きていいのか 解らぬぼくが
 畳の上にねそべっている


 そうか森田童子が畳に寝そべるあてどのない歌を歌っていたのか、と知り、そういえば畳の部屋に縁がなくなって二〇年くらいになるなと、思ってみてもいる暑い夏の日。(ケ)
 
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森田童子のデビュー盤「GOOD BYE グッドバイ」(一九七五年)。
このジャケット写真が、本人情報があまりにも少ない森田のイメージを決めたと思う。
撮影は高梨豊。あらためて、おっそろしく上手い写真家だ。




『孤立無援の思想』(高橋和巳/岩波書店/一九九一年)本文青字はここからの引用
『高橋和巳の青春とその時代』(構想社/一九七九年)
『わが解体』(高橋和巳/河出文庫/一九九七年)
『小松左京自伝──実存を求めて』(小松左京/日本経済新聞出版社/二〇〇八年)
『高橋和巳の思い出』(高橋たか子/構想社/一九七七年)
『高橋和巳という人』(高橋たか子/河出書房新社/一九九七年)
『評伝高橋和巳』(川西政明/講談社文芸文庫/一九九五年)

※わたしの勤めていた会社では、後に、その人たちの多くが部長になった。が、部下のいない「ひとり部長」が多く、何人もの「部長」が机を並べたブロックが点在する、不思議な社内の光景を思い出す。

*本文には書かなかった昔話。就職活動のとき、ある会社の採用面接で「学生時代に読んだ小説はなにか」と聞かれた。深く考えず高橋和巳だといったら、その場でなく次段階の面接で「学生運動に関わらなかったか」としつこく聞かれて参ったことがある。べつの会社で、学生数人単位で面接されていたとき、同席の応募者のひとりが「喋ることがないのでダンプカーのまねをしま〜す」といって本当にやり出した。バブルの「泡音」が聞こえつつあり、高橋和巳よりダンプカーのほうがよほどアピールする時代に、わたしは生きていた。

★このブログのべつの筆者(き)による
「高橋和巳『邪宗門』再読 〜 日本文学の最高峰【上】【下】」は
こちら
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2016年07月29日

高橋和巳「孤立無援の思想」と森田童子 [2/3]

「五分で読める『孤立無援の思想』」のようなまとめを自分がしてどうする、と思うけれども、なにしろ高橋和巳の文章は晦渋だ。「孤立無援の思想」は読みやすいほうで、長編小説にはまいってしまう。
 一種の美文調なのだろうが、三島由紀夫の、媚薬で読者を絡めとるようなきらびやかさとは、ぜんぜん違う。陰気で重苦しく執拗だ。そのうえ、誠実なればこそ破滅するという、またかよと嘆息したくなる、あのどうしようもない展開。高橋には、母校の京都大学では研究者として次世代を担うと期待もされた正統な中国古典文学の教養があったから、それが重たいのかなと思ってもみる。かつて文系知識人の必須教養だった漢籍の知識が現代の小説読者にはまるで欠けていて、もちろん自分もそのひとりだから、ケチをつける以前に ”読めてない” んだろうなといじけなければならなかったりもする。

 だったら読まなきゃいいじゃないか、ということなのだが、そこがそうではないのだ。三島由紀夫とはまた違った意味で、その文体にとらわれる。とらわれると、たちまちその苦悩のストーリーに深く巻き込まれてしまう。小説のなかで起きる出来事は、その事件性からいえば、ほとんどがとても単純な、よくあることの組み合わせで出来ているから、なおさらだ。この点は、高橋和巳は小説家より研究者むきだったのではないか、ということにもなるのだが、高橋が、絞り尽くすように誠意を尽くして小説を書いた──思想を大風呂敷に包んで「どや」と投げ出すのではなく、あえて「情況論」にその身を投げ込むかのように──ことの証だと、ここでは強調しておきたい。

「文学は、科学や数学とちょっと違うやろ。モラルや価値を、どうしてもあつかわんならんやろう。そしたらどうしても現実とかかわりを持たんならんやないか」※1

 高橋が小松左京にこういったのは一九六七、八年ごろのことだというから、三十六、七歳である。若いんだ、と意識してかからないと気恥ずかしくなるほどの、まじめさ。その、極度に、といっていいほどの誠実さで高橋は、一九六九年一月からの京大闘争に巻き込まれた。
 いや、おそらく「現実とかかわりを持たんならんやないか」という自分の発言を自分に投げかけるように──それもまた「まじめさ」ゆえにだろう──現実に直接、より深く「かかわりを持たんならん」情況へと自分を追い詰めたに違いない。
 京都大学助教授の立場で全共闘に与した高橋は、必然的に大学組織において孤立する。そして、当初こそ全共闘学生の理想像となり強く支持されるも、三月には、その学生たちから「 ”清” をふりまき ”官” にしがみつく思想の頽廃形式」を「告発」されてしまう。
 そのことを知った日の高橋は、すでに過度になっていた飲酒をかさねたすえ、「酒で感情を抑えて仮睡」し「ふと目醒め」て「嘔吐するように嗚咽した。」という。※2
 孤立無援の思想は、どこへいってしまったのか。

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「ええかげんに逃げ出せよ、体がつづかんぞ」と、親友の小松左京がいったのは、そんな高橋の過剰な苦悩と、自滅に近い行動ぶりを案じてのことだ。
 小松は「当時すでに」「政治は(略)『汚れ仕事』の一種だと思って」おり、小松のように「少年のころから(略)否応なしに泥にまみれてきた荒っぽい連中」が、高橋のような「デリケートで貴重な存在をまもるためにこそ」汚れ仕事に「首をつっこんでいるのだ」とまで思ってくれていたのだ。※1
 しかし、高橋の返答はこうだった。
「そやけど、彼らの出しているリアルで根源的な問題には、誠実にこたえるのがインテリの義務やないか」※1
 
 すでにすぐれなかった体調は六九年秋に入院するまでに悪化、翌三月、京都大学の職を辞し、四月には手術。がんであるとは知らされぬまま、一九七一年五月、高橋和巳は亡くなる。三十九歳だった。(ケ)


※1『高橋和巳の青春とその時代』(構想社/一九七九年)
※2『わが解体』(河出文庫/一九九七年)
* 参考資料は [3/3]の末尾に付しました。

Originally Uploaded on Jul. 30, 2016. 14:40:00


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2016年07月28日

高橋和巳「孤立無援の思想」と森田童子 [1/3]

 参院選、東京都知事選と続く二〇一六年七月。
 高橋和巳の「孤立無援の思想」を、読み返し続けている。四百字詰で二十五枚ほど、岩波書店「同時代ライブラリー」版で一六ページ強の小論だ。
 初出は一九六三年、同名のエッセイ集刊行が一九六六年。初出時の高橋は三十三歳。小説『悲の器』で文学賞を受賞し本格的文壇デビューを果たした翌年である。
 
 孤立無援の思想とは、どういうものなのだろう。

 かりにここに一人の青年がいてと、この小論は始まる。その青年が自然の美に心を奪われ感慨にふけりながらたたずんでいるとき、その彼に政治に関心を持てと強いられようかと。
 わたしたちにとって、政治のことが気懸りなのは、なぜだろうか。政治は人間の社会の病める部分に関する知恵の体系だからだ。そしてその病巣は抵抗力の弱い階級や階層に偏るからそれを放っておくというわけにはいかない
 となれば、政治そのものはあくまでも散文的現実的な対症療法に終始せねばならず、政治は現在と現実の勢力関係から離れては政治としての意味を失う。それゆえ、社会を組み立て、動かし、修理し、理想形へと合意の上で向かうはずの民主主義的政治でさえ情勢論から永遠にぬけだすことのできない運命にある。対立する政治体制の理念というものが虚偽であることを暴露する、より誠実で真剣な政治的思考は孤立無援の非政治的思想としてしかありえなくなっている。

 いきおいすべての論議は力関係で処理され、現にあるものの見方の相違、立場の相違が問題になるけれども、現にあるものがよいのか悪いのか、または、現にあるものが、本当にあるべきなのか、なくてもよいものなのかという、道徳的な、あるいは存在論的な問いはどこからもでてこないのである。

 近代的思惟とその産物である民主主義は、<参加>の可能性を開いてくれたように見えるが、可能性といったって多くの者にとっては一個の幻影にすぎない。だから大衆の政治的無関心というものは、むしろ、参加をこばまれていることをうすうすは知っているその知恵のあらわれなのだ。
 続けて高橋は、自身の立場でもある反体制運動のがわの左翼諸党派を、厳しく批判する。いわく一般大衆にも共通する言語というものを育てず、公衆の面前で賞揚される著名な共感者は利用すべき一時的なシンパにすぎない。おかげで政治への無関心の上に政治への不信が加わるいま大衆の政治的無関心についてそれを真に糾弾しうる潔白さを、はたして何人の人がもっているか、と。
内に省みて恥ずるところなければ、百万人といえども我ゆかん」という孟子の有名な言葉は、高橋がことに好んだ一節だったというが、政治的思考というものが不可避に陥る情勢論的思考は、その逆なのだ。つまり情勢論はあくまで、世界や人類や歴史や国家のがわからの思考でありかけがえのない各個人の生死や喜怒哀楽が問題になっているのではないからだ。

 しかし、文学こそはその出発点を個別者の感情においているゆえに、たとえそれが老婆の愚痴や少女の感傷であっても、それが個別的な真実性を持つ以上百万人の前の隊列の後尾に、何の理由あってかうずくまって泣く者のためにもあえて立ちどまるものなのだ。
 高橋和巳の孤立無援への固執は、この後の結論で表明されるが、ほかの何より小説家になりたかった文学の人、高橋の心情として、論中のここで、すでに宣言されている。
 しかし高橋は、こうもいう。

 文学という本来非情勢的な作業にも、政治やジャーナリズムの要請によって情勢論的な思考がまぎれこむこととは逆に、一切が情勢論的に動いているようにみえる政治にも、時としてほとんど文学的な、各自が貯えていた情熱の性質や、変ることなき態度によって事態が決せられる時機があるのである

 と。そして、総体としての人類は威勢のいい修飾はいかようにも加えうるけれども自然に人間社会に手を加えつつ順応してゆくものだ、という留保をつけたうえで、だからといって無限の順応体として自分を訓練する必要はないのだと、つぎのように断言する。

 たった一つか二つの役割を自ら裏切ることなき態度の上に果たすことができれば、おそらくはそれで十分なのであり、役割が終ったと思えば、静かに退場してゆけばいいのである。(略)自らの役割の終った時の<退場>の覚悟をもっておれば、パワー・バランスの論理とその濁流に自らを見失う悲惨はなくてすませるのである。

 かくて「孤立無援の思想」は、つぎの一文で終わる。

 これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自分自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。

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 十代の終わりに読んだときはもちろんそうだったが、執筆当時の高橋よりはるかに歳をとってしまったいま読んでも、老師にさとされているようで、わが身を恥じるような気持ちになる。
 しかし、そのいっぽうで、高橋の親友だった小松左京でなくとも、
「ええかげんに逃げ出せよ、体がつづかんぞ」
 と「いってあげたく」なってしまう、痛々しく若すぎる「誠実さ」に、どこかいらだちも感じる。

「孤立無援の思想」からすると、政治はつねに現在形の情況論でしかない。
 つまり政治には未来や絶対はなく、示しも実現もしない。もし政治に対して誠実に未来を求めるとすれば、孤立無援を覚悟した者がただひとりで、未来の存在と未来の実現へと道程をさぐっていくしかない。
 その行為が文学なのだ。だからこそ、ただひとり、孤立無援であっても、暴力的な無関心のうえに生息する政治の現在形に抗しうる。その状態をさして文学の現在形というのだ。
 だとすれば若かった高橋は、自分よりもさらに若く、群れなす人たちの粗雑な「政治」の情況論になど耳を貸さず、文学の「現在形」を政治に現出させるべく、政治における、「時としてほとんど文学的な、各自が貯えていた情熱の性質や、変ることなき態度によって事態が決せられる時機」を、社会のための政治の「未来形」に向け布石していく作業に向かい続ければよかったのだ。
ぼくの文学は、大勢に読まれんでもええ。いつか、長い時期の間に誰か数人が、便所の中で読んで、泣いてくれればそれでええんやという高橋の文学は、いっときこそ「大勢」に、それこそ熱狂的に読まれたらしいけれど、その熱が冷めて以降、読む人がいない。しかし、長い時期の間にそれを読んで泣いた人びとは間違いなくいるし、高橋が「孤立無援の思想」でひいた『礼記』の一節、「苛政は虎よりも猛なり」を心にきざんで、たった一人の人間ですら、そこで何かを嘆きかなしんでおれば、それは政治の責任であると、立つべきときには立つ人びともいる、と思いたい。(ケ)


※『高橋和巳の青春とその時代』(構想社/一九七九年)
* 参考資料は [3/3]の末尾に付しました。

Originally Uploaded on Jul. 30, 2016. 15:00:00
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