2016年06月29日

大空襲から七十一年めの神戸で──三宮高架と海岸ビル【改】

 神戸市の中心街、三宮に、こういうものがあるとは知らなかった。何度となく通った場所だった。
 鉄道各線の駅が集まる三宮交差点の、神戸交通センタービル二階と三宮OPAを結ぶ連絡橋。東海道本線の高架南側に接している。三宮でポートライナーと阪急電鉄を乗り継ぐとき、よく使う。

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 鉄道高架と同じ高さの連絡橋から網柵ごしに高架を見ると、橋げたの鋼板に直径四、五センチくらいの穴がバコバコにあいている。やや斜めに乱雑に貫通した穴と、周囲にめくれあがった鋼板の厚さが不気味だ。
 何の穴なのだろう。

       

 これらは、太平洋戦争末期に神戸空襲に飛来した米軍戦闘機の、機銃弾痕だそうだ。
 三宮駅の一部が戦前戦中のものだとは知らなかった。二十数年前の震災の痕跡でさえ、保存された場所以外で見つけることは難しいから、よく残っていたと思う。※1

 神戸空襲では、戦闘機のみの編隊による機銃攻撃があった。回数は少ないが、規模が小さい攻撃は記録されなかったこともあるようで、いま把握できるより多くの戦闘機が来襲したかもしれない。
 戦闘機の役割は、おもに爆撃機B29編隊の護衛や哨戒だが、戦闘機のみで地上攻撃することもあったそうだ。爆発しない機銃弾攻撃で成果のある目標というと、誘爆する燃料施設だろうか。
 実際には、米軍戦闘機が日本への対地攻撃でしばしば標的にしたのは列車、そして人である。戦闘機の操縦士の顔が見えるほどの低空から銃撃されたのも、そもそもB29が、かなりの低空から爆撃を行っていたのも、日本の対空防御が機能していなかったためだ。

       

 あなた、機銃掃射って知ってる!

 と、わたしに語りかけるのは、九〇歳になろうという、お隣のおばあちゃん。
 世間話が戦争のことになると急に早口になり、せき立てられたように話す。
 わたしが首都圏にいるときの、お隣さんだが、空襲にあったのは大阪でだったそうだ。
 小柄で細身の、背筋のとおった人。当時、はたち前くらいとすると、いかにも可憐な娘さんだっただろう。
 防空壕に見知らぬ人とすし詰めになるのが苦手で、何度めかの空襲で、つい逃げ遅れた。そのときにはもう、米軍機が頭上に迫っていた。ひとり走って逃げる若い娘の脇で、たて続けに上がる土煙──。

 大阪で彼女を襲った戦闘機と、神戸の高架橋を撃った機が同機種かどうかはわからない。が、高架橋の穴を間近で見れば、戦闘機の機銃で撃たれたら人体など簡単に粉砕されてしまうことがわかる。
 迎撃される危険がほとんどなく、大都市もあっさり焼き払ってしまえる一方的な掃蕩戦で、あえて戦闘機が、列車を一般乗客ともどもハチの巣にしたり──三宮の高架の穴を見れば、列車に防弾力がないことも一目瞭然だ※2──逃げる若い娘を追いかけて破壊的な弾を浴びせるようなことが、作戦だったのか。
 いや、かりに作戦命令だったとしても同じだ。面白半分かワルノリの嗜虐である。関係ないといわれても、どうしても、現代の沖縄で米軍関係者が地元の女の子を襲ったりする事件を思い出してしまう。

       

 日本への空襲で当初、軍需施設の精密爆撃作戦をとったアメリカが、焼夷弾や破砕弾での無差別爆撃に切り替えたことには、人間性を疑う残忍さがある。
 いくつか読んだ本では、方針変更の公式理由──日本の軍需業は、大規模な工場より手工業的な町工場の下請が主力なので、都市の全面爆撃が必要──の裏には、真珠湾の「だまし討ち」の仕返しをしてやるという復讐心があったともいうが、原爆投下も「仕返し」だったのだろうか。

 そうではなく、人間には、人を殺したい、それもいちどに大量抹殺してみたいという潜在願望があるに違いない。その願望の実行スイッチがオンになり、人間をターゲットにしてもよいとなると、それまで害虫や雑草の駆除、動物いじめなどで気晴らししていた「抹殺欲」が解放され、尽きることなく暴れくるうに違いない。

 スイッチオンのきっかけは、一人で多数を殺せる武器を手にしたときである。乱射事件がその例だ。そして武器を持った「オン状態」の鬼畜が集団となって行うのが戦争である。あるいは、戦争をすると決まり、かり集められて武器をもらうと、オンになって鬼畜になるのか──。
 どちらでもいい。日本を空襲したアメリカも、強制収容所でのドイツも、そして侵略地での日本も、みな徹底的に邪悪で、しかも計画的で緻密だ。残忍な所業はとどまるところを知らず、そこに国民性の違いはない。

 武器にも戦争にも反対する理由は、平和や人道のためというより、武器や戦争は自分の中の悪を最悪の形で表面化するに違いないという、みじめな確信があるからだ。
 悪魔になった自分を見たくないし、周囲の人々がそうなるのも見たくない。誰だってそうでしょう? それが最大の武器戦争反対の理由かもしれない。
 お前はとりあえずいま、武器にも戦争にも関係ないじゃないかって? 冗談ではない。「関係ない」と朗らかに断言できる日本人がいたら、お目にかかりたいくらいだ。

       

 話を戻そう。

 対人殺戮願望がひとたび野に放たれると、大量殺人は一種の事業となり、無慈悲で徹底した殺戮が、まるで平時の経済活動のように行われる。その具体例を、米軍の神戸空襲にふりかえってみる。

 さきに書いたように日本への空襲は、軍関係施設をねらったピンポイント爆撃から焼夷弾での無差別爆撃へシフトしたが、悲しむべきことに神戸はその「練習場」に選ばれたのだ。有力な軍需工場が多く、北は山、南は海で、市域は東西に細長いから、風向きを見計らって火をつければ、たちまち丸焼けとみての選択である。
 米軍が、当時の日本の木造都市を効率よく燃やす研究をしたことはよく知られているが、日本の過去の大火の歴史も調べていて、強風が吹く春の焼夷弾攻撃が有効とみた。そんなことを思いついた邪鬼は、さして有名でもない気象学者か、一介の消防署員だったのではないかと思い、自分の中にも同じ悪があるのだと、怯えを新たにする。

 神戸大空襲では、焼夷弾と破砕弾がセットで投下されてもいる。破砕弾とは、日本の自衛隊も最近まで持っていたクラスター弾というやつ。一発あたり二〇〇キロ分の破片弾が飛散し人体を傷つける──というより人間、バラバラになるやろ、そんなものがばらまかれたら。公式には、消火活動妨害弾、だそうだが、焼け死なせ粉砕してやるということではないのか……。

●一九四五年二月四日、東京大空襲の一か月前に、選ばれた神戸で「火攻めの練習」。B29八十五機、焼夷弾・破砕弾一七二・八トン投下。造船所に打撃を加え、家屋一八〇〇戸以上焼失。

●三月十七日、B29三百六機、焼夷弾・破砕弾二三二八トン投下。神戸の西半分を焼き尽くす。

●五月十一日、B29九十二機、二五〇キロおよび一トンの通常爆弾、計四六〇トン投下。工場地帯へのピンポイント爆撃だが、焼夷弾が足りなくなったからだという。工場のみならず役所や官舎も直撃を受けたので、死傷者が多かった。

●六月五日、B29四百七十四機、焼夷弾・破砕弾三〇八〇トン近く投下。これは東京大空襲の倍近い。神戸の東半分も焼失。作家の野坂昭如の家が焼け、養父が亡くなったのがこのときで、十四歳の野坂は『火垂るの墓』のモデルとなった妹とふたり、北陸へ疎開した(実際には野坂の妹は疎開先で亡くなっている)。

 これらは大きかった空襲の数字にすぎず、神戸市は計一二八回、うち、空襲が本格化した一九四五年一月から敗戦までに(八月十五日まで続いた)、一二五回の空襲を受けている。
 死者七四九一人、重軽傷者一万七〇一四人、罹災者五三万八五八人とした『神戸市史』それ自体が「この数字は確定したものでなく、実際はこれを上回る膨大な損失であった」と記述。同史によると、死傷者率(人口千人あたり)は、東京や横浜より高いという。

 調べればわかる数字※3だが、自分の手で書き並べると──上に書いた以外の一二一回も加えればなおさら──アメリカらしい大規模農業か、マスマーケティングに関する資料のように、人殺しの数字は見えてくる。
 怒りとか復讐という、個人的で瞬間湯沸器的な感情では、人間は残忍さをこれほど営々と反復することはできない。潜在的欲望、本能でもいいが、その悪の深みを本性とし、まるで他人事のように邪悪でありつづけること、それが、大量殺人を農業や販売と同じ「事業」にするのだ。
 
 数字を書き並べてみたのは、最近、ある友だちから聞いた話が気になっていたせいもある。大学の先生をしているやつだ。
 日本の敗戦を認識していない大学生がいるという。
 米大統領の訪問で話題にもなったし、日本に原子爆弾が投下されたことは知っているが、あんなものを二個も落とされて、負けないでいられるのか、ということもわからないらしい。
 これだけ数字を並べても、その学生さんは、まだ腑に落ちないだろうか。※4

       

 ボクはどうも、アメリカだけが悪いというのはいいにくい。

 と、一九四五年六月五日の神戸空襲で家が焼け、養父を亡くした野坂昭如はいっている。戦後二十七年め、一九七二年の同じ日の講演で。

 神戸という町は港があって、重工業があって、どんどん発展したわけなんです。昭和になってから。それはなぜかといえば、日本の膨張政策にそのまま身をまかせてたから発展した。その中にボクの父親なんかもいたわけなんです。しかし、同じように膨張政策でもって中国大陸で、例えば南京では何人死んだか。そういういい方をするならば、神戸の空襲では八千人死んだというけれど、帝国主義というものは、日本の中に生きてた人は自分自身の中の血に染ってたんです。
 だから、ボクはどうも、アメリカだけが悪いというのはいいにくい。結局、その中に生きていた人間はみんな死んでしまう。いま生きているのは、つまり、偶然に生きているだけなんです。
※5

 そして、戦後七〇年を間近にして野坂はこう書き、ほどなく亡くなっている。

 まさか自分の家が、父や母が爆弾でやられるとは考えていなかった。やがて日本列島は空襲に打ちのめされ辺り一面焼け野原。多くの国民が死んだ。今、あの戦争は過去のことと片づけられている。戦争の話はもはや生き残りの愚痴に過ぎない。だが近頃あの時代の空気そのままに甦ろうとしている気配がある。多分、間違ってはいない。※6

 今やほとんどが戦争を知らない世代、学校で教わるといっても、通りいっぺんの内容。教える方とてあやふやなのだ。(略)なぜ日本が戦争に突き進んだのか、ひとたび戦争が始まれば、人間という生き物はいかに変わってしまうのか。あの時代が特別なわけじゃない。(略)戦争がいかに愚かであるか、数えきれない犠牲を出しながら何も伝わっていない。そのしるしが現首相の言動に表れている。このままでは危ない。日本は踏みとどまることが出来るか。お仕着せじゃない資料はいくらもある。今こそあの戦争の犠牲者の声に耳を傾けよ。※6

 わたしはもちろん「戦争を知らない世代、学校で教わるといっても、通りいっぺんの内容」の部類だ。
 けれども「教える方」を責めないし、「何も伝わっていない」ことを怒りもしない。
 受け止める気がない者には、熱心に伝えようとするほど空回りし伝わらない。戦争の話に限らないことだ。
 そもそも「戦争の正しい教えかた」があるとは思えないし、「ある」と主張するなら、その「教えかた」は疑わしい。
 
 そんなふうに思っているわたしには、ひとに語れる平和思想などはない。武器を使わずに紛争を解決する理論も手段も知らない。
 そのかわり、ひたすら怖れている。怯えているといってもいい。
 自分が武器を誰かに向ける瞬間のことを。
 つまり、正義の鎧をまとった悪魔が、自分の中から現れるときを。

 では「怯え」が、どんなときに起きるかというと。
 もちろん内外の政治家や学者など偉い人たちが、現実認識が足りない、みたいな脅し文句とともに、防衛だの制裁だのを声高にいうのを見たり聞いたりするとき。
 といってもそれらには、わたしでなくとも怯える人はいそうだ。
 わたしの場合、それとは別に、ありふれた日常光景の中に小さな戦争の影を見つけたとき、「怯え」が始まることが多い。しかも、よりひどく。あらかじめ調べて見に行ったときより、偶然に出くわしたときのほうが不安が強くなる。

 だったら、広島の原爆ドームなどに向かい合うと「怯え」が極限に達するかといったら、それはない。
 モニュメンタルな戦争遺構は、実は、にがてだ。
 事故や災害の現場を現状保存しようという考えにも、どちらかといえば反対したい気持ちがある。
 戦争をめぐる記念碑や記念館も、その意義はたいせつだと思ういっぽう、記憶の巻き戻しがイベントの様相を帯びたり、記憶に持ちあわせていない歴史の回顧が強迫的に行われたり──「忘れない」という言葉にはうんざりする──すると、もう、ついていけない。
 現職の米大統領が広島に来て、それで「今やほとんどが戦争を知らない世代」である日本人の意識がどう変わるというんだ、という思いもある。そもそもオバマは、よりによって広島に核兵器の発射命令ツールを持ってきたのだから※7、来日に感動した人たちには悪いが、笑止という気さえする。

       

 かわりに、というわけでもないが、ありふれた日常光景の中に、とても小さな「戦跡」を見つけると、とてつもなく怯えだすことがある。
 奇妙なのだが、痕跡が小さければ小さいほど。

 もともと、大局は見過ごすくせに細部が異常に気になる、病的な気質だからということもあるが、どうやら、かつて写真の仕事にかかわった──カメラマンとしてではないが──せいではないか、と思うようになっている。私ごとばかりで恐縮だけれど……。

 ひとつはニュース写真撮影現場での経験から。それにかかわっていた期間は長くはないが。
 雑誌や新聞の仕事の場合、カメラマンが現場で写真を撮る。わたしは、できた写真を見て発表内容を決め、記事を作る立場。
 写真を見ながら、時間を現場にいたときに巻き戻す。自分が撮った写真ではないから、見ている写真の周囲の様子も同時に時間をさかのぼって思い出している。
 日々それをしたために、写真でなくとも、目前の光景それも凡庸な何かを見るほど、無意識に時を「巻き戻す」ような心理癖がついたようなのだ。

 もうひとつは、モノやモデルを撮影するスタジオでの経験から。ニュースの現場とはずいぶん違うし、やはり実際にスタジオにいた機会はさして多くないが、影響があった。
 わたしの時代はフィルム撮影だったので、シャッターを切った後での修正が難しい。よって、写すまでの確認作業が長い。それを手伝っているうちに、写真でなくとも目前のモノ、それも平凡な何かを見るほど、小さな傷にどうしても目がいき、ひどく気に病む癖がついたようなのだ。

 お前は、街角の「穴」を見て七十一年前にタイムスリップできるというのか、といわれると、違うような気もするが、いまのところは、そのように考えている。
 現在は写真の仕事は完全にやめているが、目を凝らさなければ気づかない「穴」が気になってたまらなくなり、われを忘れて時を巻き戻そうとした。
 この奇妙な癖が「歴史認識」となんらかのつながりがあるかどうかは、わからない。

       

 ところで三宮の高架の「穴」だが、それが米軍戦闘機の機銃弾の痕だと活字になって紹介されている資料は、まだ見つけていない。もし後年の工事などでついた傷だった場合、この文はおかしなことになってしまう。
 ので、本に載った形で紹介されている場所を見つけ、そちらも見てきた。
 書き足しておこう。

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 戦前の近代建築の遺構がかなり残っている神戸で、海に近い地域にある大阪商船神戸支店(現・商船三井ビルディング)と、三井物産神戸支店(現・シップ神戸海岸ビル)の、南面壁面。写真は後者。
 艦載機か、硫黄島からのP51戦闘機の機銃掃射の弾痕ではないか、ということだ。本に紹介されているが断定形では書かれていなかった。※7

 シップ神戸海岸ビルは、十五階建てビルに、一九一八年竣工の四階建近代様式の外装──阪神大震災で全壊認定されたので外壁のみ保管していたもの──を合体させた、いわゆるポストモダン型。バブル時代を代表するスタイルとしておなじみだが、現在形での完成は一九九八年。現在は、とてもおしゃれなテナントが入っている。
 南壁つまり海側の、おもに一階壁面下側、明らかに修繕工事と思われる規則的な穴もあるが、それよりはるかに多い数、丸い補修跡が散っている。三宮の高架と同じくらいの直径四、五センチほどだ。
 一階の出入口近辺に多い。海岸線に近づいた戦闘機から最初に見えた大きな建物群をとりあえず撃ったのか、それとも逃げる人がいるのを見て狙い撃ちにしたのか。

 思わず背筋に冷たいものが走り、海側をいそいで振り返る。この日は梅雨の雨。降りがやや強かった。
 野坂昭如の回想によれば、一九四五年六月五日の大空襲の日は、「高曇り」だったという。(ケ)

●神戸市の空襲遺構「大空襲から七十一年めの神戸で」の記事一覧は→こちら←
●兵庫県加西市「鶉野飛行場」(特攻機基地)の記事は→こちら←
●シンガポール「セントーサ島」の戦跡記事は→こちら←


※1 橋げたを撃ったのか、駅や列車を狙って撃ったのか、人を撃ったのか──神戸空襲では、戦火を避けた市民が鉄道高架を伝って逃げた例があるそうだ──は、調べきれなかった。本文後段で別途ふれる。

※2 一九四五年八月五日の昼過ぎ、新宿発長野行列車が、湯の花トンネル(現・八王子市)にさしかかったところで、米軍戦闘機二、三機の機銃掃射を受け、五十二人以上が死亡、一三三人が重軽傷を負った。列車は8両編成。先頭の電気機関車と一両目客車が攻撃され、トンネルに2両目の中程まで入ったところで停車、トンネルから出ていた残りの客車が繰り返し機銃掃射を浴びることになった。当時の運行事情で、列車は満員だったという。(『いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会』が一九九二年同日においた慰霊碑などによる)

※3 数字の出所および、本文で参考にした神戸空襲関係の本は、おもに以下。

「神戸空襲体験記<総集編>」一九七五年
「日本の空襲 六 近畿」一九八〇年
「新編 神戸市史 歴史編W 近代・現代」一九九四年
「神戸大空襲─戦後60年から明日へ─」二〇〇五年
「日本空襲の全貌」二〇一五年

 ●米軍機の数、投下弾と重量は、神戸市文書館のサイト「米軍資料にみる神戸大空襲」による。

※4 被害者の体験談を聞くほうがインパクトも説得力もある、という人もいるだろう。しかし、若い人たちの感想を聞いたことがあるが、嘘っぽく感じることもあるようなのだ。語り手に無礼な態度をとるのは論外として、聞く側の若い人たちを一方的に責めることはできない問題だと思う。

※5 前出「神戸空襲体験記<総集編>」一九七五年

※6「シャボン玉 日本 迷走の過ち、再び」二〇一四年 ●引用中の「現首相」は安倍晋三。
   のさか・あきゆき 1930─2015

※7 これを最初に指摘したのは、国内マスコミではなく、おそらくBBCだと思う。

※8「神戸大空襲─戦後60年から明日へ─」二〇〇五年(神戸空襲を記録する会・編/神戸新聞総合出版センター)

※  二〇一七年八月十一日、おもに後段を書き直しました。管理用



posted by 冬の夢 at 04:34 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 旅・徘徊・発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2016年06月27日

イギリスのEU離脱に思うこと:教育の成果?

6月23日に実施された国民投票の結果、イギリスがEUから脱退することが僅差で確定したようだ。聞くところでは、今回の国民投票の結果には法的拘束力はないので、議会が承認しない限りはEU残留の可能性も残されているらしいが、まさか国民投票の結果を無視するわけにはいくまい。そんなことをすれば、現在の混乱に一層の拍車がかかるだけだ。議会もおそらくは渋々ながらEU脱退へ向けて重い足取りで進むことになるのではなかろうか。もしもEU残留への道がまだ残されているとしたら、先の国民投票の投票率が70%台に留まったことを根拠として、その投票結果が必ずしも国民の総意を反映しているわけではないという残留派の主張が広く受け入れられ、いわば土壇場の「卓袱台返し」が行われることくらいではなかろうか。いずれにしても、イギリスは、そしてヨーロッパも、さらには日本も大きな嵐に見舞われることになるだろう。

内外の新聞は「なぜこんな結果になってしまったのか?」と、あれこれと騒いでいる。私事ながら、このところあまりに多忙で、それらの記事を一つ一つ追っかけている時間がない。ざっと斜め読みしているだけだが、あまり触れられていないようなので、備忘録代わりに書いておきたいことがある。

どうやら今回の離脱派勝利の背景には、移民に対する不安・反発もさることながら、庶民の「反エリート」の思い、否、むしろ怨嗟ともいうべき感情が強く反映されていると分析されている。事実、離脱派の領袖であるボリス・ジョンソン(前ロンドン市長)は保守党でありながら「庶民派」を演出し、エリート批判をくり返して「英国のトランプ」とも言われていると聞く。EU離脱という判断は、「大衆の反逆」ともいうべき現象だったのかもしれない。政治家や財界が「EUから離脱したらイギリス経済は深刻な打撃を受ける」と再三警告してきたことは、その警告自体が一種の恫喝と見なされ、庶民の一層の反発を招いたことだろう。が、実際のところ、EUから離脱して、イギリスに何か利益があるのだろうか? ここだ、他人事ながら気になるのは。今回投票した人たちは、いったいぜんたい何を判断材料にして投票したのだろうか?

ここで是非とも記しておきたいことはEUの教育理念だ。

EUは「一つのヨーロッパ」というものを標榜している。ごく大雑把に言えば、19世紀〜20世紀の国民国家という考え方、いわゆる「ナショナリズム」の否定だ。EUの社会を構成する要素は、個人と共同体(コミュニティ)であり、個人と国家ではない。(したがって、ナショナリズムや民族主義を強く打ち出す右翼政党が反EUに傾くのは理の当然だ。)EUの理念を遡れば、20世紀の2つの世界大戦、特にナチスに代表されるファシズムに対する反省の下に、「国家間の戦争をどうしたら回避できるのか」という究極の問題に対する処方箋として「国家統合」「国家の段階的解消」という考え方を持ちだした、ということに尽きる。市場統合や通貨統一といった経済面ばかりが話題にされるが、EUを支えているのは平和主義という理想だ。つまり、EUとは理想へ向かっての壮大な実験だ。この点で、我らの日本国憲法とよく似ている。

ちょっとだけ横道に逸れるが、日本国憲法の真にユニークな点は、そして一部の人間から蛇蝎のごとくに嫌われる理由は、それが世にも珍しい「理想主義的憲法」になっていることだ。なるほど、現実は憲法に追いついていない。しかし、そんなことは憲法前文に最初から明記されている:「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、[中略]われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する[後略]」

理想が社会的に広く共有されるために不可欠なものが公教育の存在である。理想の価値は自然に伝搬するようなものではない。残念なことに、理想というものは放っておいて自然に繁茂する野の草ではなく、人間が苦心してようやく花を咲かす豪華なバラのようなものだ。手入れを怠ればすぐに悪い虫がつき、病気になり、最悪の場合は枯れてしまう。理想の価値、意義、必要性は社会の中でしつこいくらいに強調されなければならない。そのための強力な装置が学校とマスメディアだ。とりわけ学校教育は次世代の育成を担うわけだから、中長期的な観点からは、その重要性をいくら強調してもまだ足らないくらいだ。

もちろんEUの指導者たちもそんなことは熟知している。当然、EUは教育に甚大な関心と莫大な費用を払っている。(この程度がどの程度なのか、詳しいことを知りたければ、ネット上にいくらでも資料が転がっている。)「ヨーロッパは一つだ」ということを確実にするためには、子供の頃からの人的交流が必須であり、そのためには留学制度はもちろんのこと、外国語・外国文化に関する興味と知識を市民が深めることが前提になる。いや、それだけに限らないだろう。第二次世界大戦の悲惨、ナチス・ドイツの引き起こしたグロテスクな悲喜劇、人々がファシズムに魅了された仕組み、警察国家の恐怖、等々の歴史的事実を知らなければ、いったいどこの誰が「一つのヨーロッパ」といった壮大なホラ話を信じる気になるだろう?

しかし、教育とは骨の折れる仕事でもある。誰もが二次方程式が解けるようになるわけではないし、外国語をマスターできるわけではない。限られた時間内にできる作業量もその質も、子供たちによって随分と開きがある。ところが、EUでは「市民の義務として、母国語の他に二つの言語を学び、習得することが義務づけられる」と言われている。個人的には、ここにEUの理想主義の典型を見せつけられる思いがする。もちろん、EUが外国語に関してそれほどにまで高いハードルを課す理由を推測することは容易だ。もしも外国語学習を1言語で十分だと認めた途端、EU内の英語支配が決定される。英語さえ知っていれば、ヨーロッパでも北米でも、そして多分にはアジアと南米でも、それだけでNo problem!となるのなら、誰が他の言語を学ぶ気になるだろうか? (もっとも、念のために書き添えるが、EUではいわば方言のようなものも「言語」と捉えることが多いので、彼らの『多言語主義』というのは、日本人の耳に最初に響いたほどには恐ろしいものでも、困難なものでもない。が、たとえ「一つの外国語」でも苦労する人がいることは確実だ……)

ともかく、言いたいことは、EUはそれが自らの生命線だと自覚しているからか、恐ろしいほどに教育を重視している。しかし、教育は誰にとってもそれなりの負荷がかかる。簡単に言えば、今回のイギリスの国民投票においても、EUであることの理念に共鳴し、その恩恵を感じている人たちが残留を支持し、EUの理念を拒否して、またEUであることの恩恵も感じられない人たちが離脱を支持したことは、今さら言うまでもないことだろう。が、それがそのまま投票者たちの「教育成果」「達成度」を反映しているのではないだろうか?例えば、若年層では残留派が過半数で、高齢者は離脱に傾いたと聞くが、ここにも教育の影響が顕著に認められるのではないだろうか。だとしたら、若年層で離脱を支持した人たちこそ、教育の成果を十分に得られなかった人たちではなかっただろうか? こう書きながらも、これが書き手の悪意か愚かさの反映であればいいと願うのだが……しかし、事実、EUの理想主義は、例えば誰もが複数言語を操ることを期待し、誰もが自国のみならず他国の歴史文化を尊重することを期待する。つまり、かなり高い素養を人々に要求する。この点で、EUは明らかに「市民主義」であり、それが「エリート主義」と思われても仕方がないほどだ。そして、理想主義はいつも現実よりも高いところを見ているわけだから、「そんな多くを要求されても」という不満が生まれるのも不可避だろう。例えば、EUなんかに所属していなかったとき、イギリスの「庶民」はフランス語はおろか、ドイツ語やイタリア語を学ぶ必要なんぞ、これっぽっちも感じなかっただろう。なんせ、彼らが話す言葉は天下の大英帝国の言語であり、世界中で共通語と信じられている言語なのだから。ところが、EUに所属した途端、「英語以外に二つの言語ができないと就職にも不利ですよ」なんて言われてしまうわけだ。このように考えると、おそらくどの地方で国民投票を行なっても、EU残留派と離脱派の割合は拮抗するのではなかろうか。しつこいが、教育の達成度は、たとえ理想的に事が運んだとしてもある意味で正規分布になるしかない。およそ半分が現在のシステムの恩恵を受け、残りの半分はその割りを食う。と考えると、今回のイギリスの国民投票の結果は、案外と非常に真っ当かつ健全な結果だったともいえるのではないか。いや、もしもこれが僅差で残留となっていれば、誰にとっても非常に好ましい結果だったのではないだろうか? その意味では、残留を望んでいたくせに「国民投票なんか行ってられるか!」「行かなくても残留に決まっているだろう」と高を括っていた人が一番後悔しているのかもしれない。

翻って日本の選挙を考えてみよう。
人々はいったい何を判断材料にして、何を判断基準にして投票するのだろう? 消費税に関してはどの政党も据え置きで変わりない。アベノミクスなるものの、その正体は今では完全に空中分解して雲散霧消。ただ名称だけが幽霊のように漂っているだけだ。株価が上がって潤っている人たちもいるらしいが、生活実感として「良くなった」と思う人は少ないのではなかろうか。ちなみに家人はこのところ「何もかもが(物価)が高くなった」と毎日こぼしている。これは何も我家の家計に限ったことではないだろう。

経済はそんなものだとして、安保条約改正や憲法改正はどうなるのか? 個人的には憲法9条もさることながら、それよりもいっそう恐ろしいのは、自民党が主張する「基本的人権の縮小」だ。今でさえ基本的人権が保障されていないのに、それが縮小されたらいったいどんな恐ろしいことになるのか! いっそう恐ろしいのは、その笑止千万な新憲法を遵守する義務まで付されるらしい。さすがに行政府と立法府の違いさえ理解していない、その両者を取り違えても平気な宰相が率いるだけあり、見事に逆立ちした憲法を考え出すものだ。憲法とはそもそも権力者の権力を縛る道具であり、市民の自由を制限するものではないのに、自民党が考える憲法は政府が市民を束縛するものになるようだ。しかし、選挙前だから自民党は憲法改正には口を噤む作戦だ。

そして、議員定数問題はどうする気なのか? もうあの「約束」から何年経つのか? どれだけ嘘を突き通せば気が済むのか? さらには原発の存在。どうして原発再稼働が選挙の争点にならないのか? 

これでは、たとえ現状に不満があったとしても、国民は選挙を通して何の意見表明もできない。その結果、少なからずの人たちが政権与党に投票し、その後で「こんなはずではなかった」とか「他に入れるところがなかった」などと繰り言を言う。しかし、こんなことはどうしても信じられないし、容認もできない。政治はもっとずっと単純でいいはずだ。その社会の愚かさも含めて。イギリス国民のように、イヤなものはイヤだと言えばいい。いや、だとしたら、現状に不満があるくせに、飽きもせず政権与党に投票し続ける、自分のパートナーがモラハラ人間だと承知しつつ、いつまでもそんなクズ人間と付き合いつづける、その種の愚かさこそが、今の日本の基本的性格なのだろうか。そして、これが日本の教育の成果であり達成なのだろうか。 (H.H.)

posted by 冬の夢 at 02:57 | Comment(1) | TrackBack(0) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2016年06月22日

東京都知事と日本国首相を比べてみよう

(追記:一つ気になることを書き落としていた。「消費税を上げる」あるいは「上げない」と政権が表明することは、株価の変動に非常に大きな影響を与えるのではないか。だとすると、政権中枢、特に首相自身は誰よりも早くその「ニュース」を知っているわけで、下落しそうな株は早々に売り、高騰しそうな株は買いに走るということが容易にできる。つまり、一種の「インサイダー取引」が簡単にできるということだ。で、敏腕経済記者や政治記者にお願いしたいのだが、首相及び政権中枢で奇妙な資金運用の痕跡がないか、是非とも調べてもらいたい。善良な市民のみなさん、そう思いませんか? それとも、これこそ下種の勘ぐりというものだろうか。)

 もはや都民ではないので、都知事が辞任したというニュースは、例えばローマでは比較的若い女性の市長が誕生したというニュース、その程度の興味関心しか持てない。報道によれば、NYタイムズでも「せこい」という日本語が紹介されたらしい。日本語を母語とする身としては、その点で若干の気恥ずかしさを覚えるが、正直、それも大きく気になるわけではない。そんなことを言えば、石原慎太郎が都知事職にあったときの方がはるかにずっと恥ずかしかった。「東京都知事って、右翼でレイシストで女性差別主義者なんだって!」と指摘される方が、「東京都知事って、信じられないくらいセコいんだって!」と指摘されるよりも、はるかに、比較を絶して深刻だ。いや、深刻なはずだった。石原慎太郎の問題を回顧的に理解したければ、現在海の向こうの大統領選でトランプという候補者によって繰り広げられている騒動を注視すればいい。そのバカバカしさも、その恐ろしさもよく似ている。(※)しかし、事実として、海外では「極右」とまで紹介された都知事は暴言や差別発言を繰り返しても辞任に追い込まれることはなく、他方、あまりにセコかった都知事は衆人の嘲笑と罵声の中を案外とあっさり引き下がり、少なからずの人々が大いに溜飲を下げていると聞く。

(※)公式、半公式の場での石原慎太郎の問題発言を拾ってみると、「今日の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪をですね、繰り返している」(陸上自衛隊練馬駐屯基地「創隊記念式典」[2000/4/9]でのあいさつ)、「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。」(「週刊女性」2001年11月6日号)

 舛添の肩を持つ気は全くない。彼の政治家としての力量は知らないが、あのタイプは初めから生理的に苦手だ。やたらと偉そうな話し方が好きではない。しかし、「こんなことでいちいち辞任していていいのだろうかね……」とは心配になる。つまり、彼の辞任によって引き起こされる政治的ロスがあまりに大きいので、彼のしでかした破廉恥の応報としてはいささかバランスを欠いているようにどうしても感じられてしまう。

 なるほど、週末に公用車を使うのは怪しからん。出張の度にこれ幸いと、自腹では決して泊まらない超豪華ホテルに、都知事職という地位を理由に連泊するのも破廉恥極まる。政治資金を私用に使ったというのも、いかにもお金にだらしない。「セコい」という他はない。しかし……

 もしも破廉恥であることが政治家を辞任させるに十分な根拠であるなら、破廉恥な奴は政治家になってはいけない、ということだ。確かに、清廉潔白な士だけが政治家になるのであれば、それに越したことはないだろう。世の中、さぞかし平和に治められるにちがいない。2500年前の孔子の理想がようやく日の目を見るのだから。けれども、現実にはそんなことは絶対にない。政治家が胡散臭い人間だということは、ほとんど世間の「常識」なのではないだろうか? それとも、善良な市民というものは、政治家という輩を基本的には「立派な人間」と信じ込んでいるのだろうか? そして、その「信頼」が裏切られたものだから、その怒りが政治家を辞職に追い込むのだろうか。

 仮にそうだとしても、つまり、善良な市民というものは破廉恥な政治家を断固拒否すべきなのだとしても、「どうやら世論は舛添の破廉恥には容赦なく、他の多くの破廉恥には極めて寛大だ」という他はない。つまり、この点において、世論は途方もなく、呆れるほどに、不公平で理不尽だ。事実、石原慎太郎が多額の出張費を浪費したとき、世論は彼を辞任に追い込むことはなかった。詳しいことが知りたければ、「石原 都知事 出張費」でインターネットを検索すればいい。当時の事実が今でもわかるはずだ。石原都知事の浪費は舛添都知事の浪費に匹敵した。

 そして、こうなればもう一つの、いっそう深刻な悪例を挙げてみたい。日本国の現首相を見るがいい。原発の汚染水の「アンダーコントロール発言」にも十分驚かされ、呆れさせられたが、今回の消費税率据え置きの一連の発言に対しても、本当に開いた口が塞がらない。日本国の財政健全化と消費税問題について、多くを語る資格も能力も持ち合わせない身ではあるが、それでも言えることは、いやしくも庶民であれば、消費税だって所得税だって少なければ少ないほど歓迎するに決まっている。政府が税率を上げて、それで喜ぶ人がいるとしたら、それはかなり奇特な人だろう。だから、選挙を前にして、与党の党首が消費税据え置きを宣言するのは、何も不思議ではないどころか、むしろ敷かれたレールを真っ直ぐに進むだけの既定路線だ。

 安倍晋三が破廉恥であること、恥知らずであるのは、そのあまりの無責任な放言、いや、もとより責任などという言葉とは隔絶した、あまりにだらしない発言癖に認められる。汚染水の「アンダーコントロール発言」は言うまでもなく、およそ1年半前の2014年11月18日の記者会見でのこのやたらと威勢のいい発言を聴き直してみよう:

 来年10月の引き上げを18カ月延期し、そして18カ月後、さらに延期するのではないかといった声があります。再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします。平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施いたします。3年間、3本の矢をさらに前に進めることにより、必ずやその経済状況をつくり出すことができる。私はそう決意しています。

「再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします」って、自分でこれだけはっきり断言しておいて、その1年半後には、

 今回、「再延期する」という私の判断は、これまでのお約束とは異なる「新しい判断」であります。「公約違反ではないか」との御批判があることも真摯に受け止めています。
 国民生活に大きな影響を与える税制において、これまでお約束してきたことと異なる判断を行うのであれば、正に税こそ民主主義であります、であるからこそ、まず国民の皆様の審判を仰いでから実行すべきであります。
 信なくば立たず。国民の信頼と協力なくして、政治は成り立ちません。「新しい判断」について国政選挙であるこの参議院選挙を通して、「国民の信を問いたい」と思います。

 こういうことをいけしゃあしゃあと言い抜けるために、人はいったいどれほど恥知らずにならねばならないのだろうか。端的に安倍晋三くらいということか。何が「国民の信を問いたい」だ! 上述の通り、どこの世に「税率を(上げずに)据え置く」と言われ、真っ向からそれに反対する物好きがいるものか。こんなことは真面目に論じるにも値しない。インチキこの上ない。分かりやすく言えば、どんなに安倍政権が酷い政権で、どんなに安倍晋三が酷い人間だと思っていても、消費税率を据え置くという一点に限っていえば、それに反対する人は少ないだろうということは、あまりに容易に推測できる。だとしたら、こんな選挙でいったいどんな信が問えるというのか? 原発のなし崩し的再稼働も、自衛隊の参戦の可能性拡大も、憲法改正の問題、とりわけ個人の基本的人権の縮小と第9条の問題も、これらの重大問題については押し並べて「信を問う」ことを忌避しているくせに!

 しかし、最も根本的問題は、安倍晋三という人間の度し難い「軽さ」だ。2014年11月18日の発言をもう一度(イヤイヤながら)確認しようではないか:「(消費税率の10%への引き上げを)再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします。平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施いたします」。「断言」「確実」という言葉が、いったいどうしてこうも気軽に使えるのか、不思議でならない。

 ここで、かの悪名高い「アンダーコントロール発言」もついでに振り返っておこう。首相官邸のHPに残されている日本語訳ではこのようになっている:

フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。

しかし、彼は英語ではこう言っていたのだ(官邸はさり気なく狡いね):
Some may have concerns about Fukushima. Let me assure you,
the situation is under control. It has never done and will never do any damage to Tokyo.

under controlだけが有名になったきらいがあるが、それよりもいっそう悪質なのは、繰り返されているneverの方だろう。首相官邸の日本語訳では巧みに意図的に薄められているが、英語で聞けば「いかなる悪影響にしろ、これまで(少しも)及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことは(決して)ありません」と聞こえるはずだ。これはもちろん非常に悪質な嘘なのだが、そしてこのような明々白々な嘘を平然と吐く精神回路には恐れ入るしかないのだが、このオリンピック誘致の際の演説で用いた調子(assure, under control, never, never)と、消費税問題での「断言」「確実」から滲み出てくる軽薄さが同種のものであることに注目したい。首相の言葉には何の重みもない! 少し考えれば誰もがわかるように、放射能汚染水の処理も、福島第一の放射能の影響も、今後の景気の推移も、本来、どうしたって保証できない類のことだ。こうしたことは誰一人、絶対に断言できない。できることは、せいぜいが希望的観測を述べるだけだ。そして、政治家の仕事はその希望的観測を実現させるための手段方法を語り、それを実現することだ。ところが、破廉恥漢である安倍晋三がしていることは、肝心な手段方法は語らず、安直な「断言」を繰り返すだけ。もちろん行為は何もない。そして、その責任は決して取らない。

 確かに舛添はセコい。セコかった。破廉恥だった。だが、安倍はどうなのか? 彼が折々に話したことを冷静に思い出してみれば、この男が破廉恥だという事実も十分に明らかだ。しかし、それでも選挙は自民党が勝つのだろう。

 ぼくが死ぬのが先か、日本が滅びるのが先か、結構怪しいレースになってきている。 (H.H.)

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posted by 冬の夢 at 00:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする