2016年05月24日

『第三の男』感想文 〜 映画への親しみ方を個人的に振り返る

2年前にも一回見ているが、見るたびにつくづく感心させられる。もしかしたら、この映画こそ本当に映画史上のベストワンかも知れない。それほどまでに完成した画面の連続と、たたみこむような構成、息もつけないサスペンスとショック。すべてが素晴らしく、おそらく最高であろう。
まず、この映画の最大の魅力は撮影である。キャロル・リードが想像した画面をロバート・クラスカーが適格にカメラに収め、どれをとってもすきのない完成度である。多用されるのは、傾斜した画面なのであるが、その使い方が映画が終わるまで新鮮である。ここというときにうまく使われ、まったく無駄がない。特に人物のクローズ・アップが斜めになって出てくるのは、多少なりともショック的であり、これが良い効果を生んでいる。次に光と影であるが、白黒の画面には、すこぶる芸術性の高い濃度が生まれ、随所でうまいなあと感心させられる。ハリー・ライムがホリーに追われて逃げるとき、ビルに映る影が走っていくところと、風船売りの大きな影が不気味にうかびあがって来るところは、サスペンス効果を見事に高め、これが「第三の男」のきわめつけと言っても良い出来である。また、ハリー・ライムが登場するシークエンスは、絶対に映画史上最高のものだと断言出来るもので、ここだけははっきりと僕の頭の脳裏に残っている。アリダ・ヴァリ演ずるアンナのアパートでジョゼフ・コットンのホリーが話をしている。2人の会話の中でネコのことが話題になるが、「ハリーにだけはなついたわ」ということが観客にわかる。ネコはいつのまにか戸外へ行っていて、道路の男によりそっていく。このアパートの部屋から、道路上へのカメラが移動するのが、実にスムーズでカメラが2人の間をくぐって、窓の植木がアップになり、その草を押しのけてカメラが戸外をとらえると、そこに黒い服の男がうかびあがる。実にスマートな味である。ホリーがアパートから出て、暗かげのハリーを見て警察の回し者と感違いし、叫び立てる。アパートの一室の窓の明りがともる。すると暗かげのハリーの顔がパッと照らされる。ニヤッと笑うハリーと驚くホリー。ここはキャロル・リードのとっておきの手だったのだろう。こんな素晴らしいシークエンスは後にも先にも存在しないだろう。そして最後の下水道のシークエンスについてだが、ここの撮影もただひたすら、映画的面白さがたんのうできる。ウィーンの下水道は、なんとも中世的な造りで荘厳な感じさえするのだが、そんな中でハリー・ライムがずぶぬれになって逃げる。ライトが照らされたり、あまりの広さの中で声の反響により、相手の居場所がわからなくなったりするところも面白いが、何と言っても、ここでの最高の出来を見せた画面は、ハリー・ライムがマンホールを押し上げようとし、格子の穴から指をさし出すところである。地下の追いつめられたハリーに対し、地上は風が吹きすさび、枯れ葉が吹かれているのがわかる。追われる悪人をうけつけない現実を見事にひとつの画面に託してしまい、さらにハリー・ライムの指の動きが絶望感を高めるところはもう絶品である。これら素晴らしい画面の他にも観覧車のところとか、ラストの木立ちのところとか、橋の上でライム一味が会うところとかも忘れることが出来ない。とにかく視覚的に、これほどまでに興奮させられたのはこの映画がやはり最高であり、白黒の調子とあいまって、記憶から消えることはない。
キャロル・リードというのはイギリス人であり、その点から言えばアルフレッド・ヒッチコックとよく比較されるのであるが、キャロル・リードの「第三の男」における演出はヒッチコックタッチそのものである。サスペンス、スリラーの中でうまくユーモアを生かすというのは例えば、ホリーが突然のタクシーに乗り込み、その運転手が不気味な感じで、車を猛スピードで飛ばすのだが、タクシーのついた先は、約束してあった講演会場であったとか、子供がホリーを見て「人殺し、人殺し」と無邪気に歌うだとかは完全にうまいユーモアである。これがヒッチコックタッチと呼ばれるものなのだが、1949年ということから考えると、キャロル・リード自身のものだったと言えよう。ヒッチコックは、このころやっとアメリカへ渡り、成功しはじめるのだから、キャロル・リードが決してヒッチコックを真似しているわけではない。
また脚本のグレアム・グリーンも、映画的な物語を生かして、謎もひとつかふたつにしぼり、やたらとこんがらがっていないところがとてもスマートに感じられる。だからこそ、ジョゼフ・コットン、アリダ・ヴァリとオースン・ウェルズの人間関係がうかび上がり、上品なドラマにもなっているのであり、トレバー・ハワードやバーナード・リーの人間味が出ているのもそのせいである。音楽はあまりにも有名であるが、ただひたすらツィターで押し通し、ツィター一本だけで人物の心理描写までやってしまうのだから、すごいものである。テーマ曲は一度聞いたら、絶対に忘れられず、とにかくすばらしい融合であり、採用したキャロル・リードのセンスもさるものである。
このようにふりかえると、ますます映画史上ベストワンに押さずにはいられない。どれもが名場面であり、名セリフであり、とにかく素晴らしい完成度である。これほどまでの映画を生んだイギリスは、この映画一本だけでアメリカの何千本という大作を押しのけてしまえることであろう。

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以上が高校二年のときの映画感想ノートからの引用。
小学生の頃からどんな映画を見たかを記録する癖があり、高校の三年間はノートに感想文を書いていた。そのノートを数十年ぶりにひもといてみたら、あまりに現在の自分と変わっていないことに驚いた。人間、進歩しないものだな、と呆れたのだったが、自らの映画の見方、接し方は高校時代に形成されたものだと再認識させられた。

子どもの頃、最初に見た映画は間違いなくアニメーション映画だ。例えば『サイボーグ009』で、劇場用アニメとして封切られた後で、TVアニメに移植された。次には怪獣映画。『南海の大決闘』あたりからリアルタイムで見ているはずで、いずれも祖父に連れていってもらったのだと思う。その流れで友だちと一緒に見に行くようになったのが「東宝チャンピオンまつり」。ゴジラ映画の再編集版をメインにして「巨人の星」や「アタックNo.1」などの人気アニメが併映される子ども向け興行プログラムだった。
一方、TVでは夜の九時から外国映画を放映するいわゆる「洋画劇場」ものが台頭し始めていて、小学校四年の秋に見たのが『大脱走』。さらにその冬に『シャレード』を見て、子どもながらに外国映画の虜になってしまった。当時はまだ地方都市の映画館の中でも名画座が存在していて、親や兄に連れられて『荒野の七人』や『真昼の決闘』などが見られた時代だった。
そして小学五年生になったばかりのときに、はじめて独りで映画館に行った。見たのは『永遠のエルザ』のロードショー公開。たぶんTVで『野生のエルザ』を見て感動したのだろう。確か前売り券は小人500円であった。

小学生の頃に映画鑑賞記録をつけ始めたのは、『シェーン』を映画館で見たときから。映画雑誌「スクリーン」を発行していた近代映画社(※1)に切手(確か200円だった)を同封して申し込むと「映画自由日記」が手に入った。青いビニール製の表紙がついた手帳サイズの小さなノート。稚拙な感想文ばかりだったが、ノートのページが自分の文字で埋まっていくのが楽しかった。
残念ながら近代映画社にはそのノートの在庫がなくなり、追加注文しても「申し訳ありませんが在庫切れです」という手紙とともに切手が送り返されてきた。たぶん子どもへのサービスのつもりだったのだろう、マックイーンやヘプバーンのブロマイド数枚をおまけに付けてくれた。
そうして続けていた映画鑑賞記録は、高校生になると晴れて大学ノートに昇格し、鉛筆ではなく万年筆でしたためるようになった。
ちょうどその頃、ブームになっていたのが植草甚一。晶文社(※2)が「植草甚一スクラップブック」をシリーズ化して、新刊本を出していた。「いい映画を見に行こう」「シネマディクトJの映画散歩」「サスペンス映画の研究」などワクワクするようなタイトルの単行本を毎月本屋で買っていた。上記の『第三の男』の感想文などは、ほとんど植草甚一の映画の見方を真似して書いたものだ。

その後は、通っていた高校の図書館で片っ端から映画の本を読みまくった。落ちこぼれだったし、話をするクラスメイトもいなかったので、図書館にいることが多かった。弁当を三時限終了後の10分間で食べてしまえば、昼休み全部を図書館で過ごすことが出来た。そこで、紀伊國屋書店から出ていた「映画の文法」(ダニエル・アリホン著)を読んで、世の中にはまだ見ていない傑作が溢れていることを知ったし、キネマ旬報社の「世界の映画作家」シリーズで、ルイス・ブニュエルやゴダール、アントニオーニなどの作家的映画監督はすべてヨーロッパにいることを思い知らされた。
映画作法の知識を頭に入れて、毎週末、それを映画館で確認した。ショットの切り取り方、アングルの決め方、光と影の使い方、カットのタイミング、モンタージュの意味、画面の中の人物のサイズ、フィックスと移動の組み合わせ、切り返しでの視線の置き方、などなど。
こうして考えると、映画の見方は、今でも高校時代とさして変わっていないことに気づく。所詮は「たかが映画じゃないか」(※3)なのであって、二時間の娯楽を金銭で手に入れる興行なのである。「映画を見る」のは特別なことではない。植草甚一は、そんな当たり前のことを教えてくれたし、図書館の日々は、妄想の中で映画鑑賞眼を養ってくれた。
そうした意味において『第三の男』の感想文を振り返ると、今も全く同じ文章でこの映画について書き記すことが出来るのかも知れない。高校のときのノートに付け加えることがあるとしたら、ジョゼフ・コットンがトレバー・ハワードに病院へ連れて行かれ、その病床に悲惨な子どもたちの姿を見るシーンのショックだけだ。無論、それは直截的には画面に映されることはない。下から仰角でベッド舐めのアングルが、病床を見下ろすジョゼフ・コットンの表情を捉える。ただ、その映像だけで、観客は子どもたちが薬害の被害者となり、その元凶となったハリー・ライムが極悪な犯罪人であることを知るのである。この画面こそが映画であって、この描き方は、文学や演劇では決して出来ない。
あらためて考えてみると、映画とは、観客のイメージに着火する仕掛けなのだと思う。そんな当たり前のことを、古い映画ノートは数十年の歳を取った今の自分に教えてくれている。そんな長い歳月が経っているのに、まだ世に出た映画のほんの一部しか見ていない。
急がねば。映画を見ずに死ねるものか。いつもそんなことを思いながら、今日も眠たくなって寝床に倒れこんでしまうのである(き)

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(※1)近代映画社は、戦後すぐに「スクリーン」を創刊した映画専門の出版社。2015年に実質上倒産し、「スクリーン」などの雑誌出版事業は、商号変更した新しい近代映画社に引き継いだ。
(※2)晶文社は、1960年に設立された出版社で、「植草甚一スクラップブック」のほかには「ヒッチコック/トリュフォー 映画術」の刊行で知られる。
(※3)「たかが映画じゃないか」。アルフレッド・ヒッチコック監督が女優のイングリッド・バーグマンに向けて口にした言葉と言われている。



posted by 冬の夢 at 23:26 | Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2016年05月14日

五十代の私的松田聖子論

私は松田聖子と同学年、早生まれの同い年。松田聖子を追いかけ回したわけではないけれど、地方都市から上京して大学に入学した四月に、松田聖子が「裸足の季節」で歌手デビューした頃のことは鮮明に覚えている。初めての独り住い、隣人の生活音が筒抜けの下宿の部屋で唯一の社会との接点が、生協で買った14型のブラウン管TVだった。松田聖子はそのTVの中でNHKの歌謡番組に「サンデーズ」の一員として出演していた。
そんな端役の位置にあった新人歌手が瞬く間に日本の歌謡界を席巻し始める。最初は特に興味もわかなかったのに、いつの間にか松田聖子というアイドルに惹きつけられていった。あれは大学二年の秋、「野ばらのエチュード」を歌う松田聖子を眺めていたときのことだ。ありふれた表現だが、いきなり電流が走るようにして、私は彼女に恋をした。当時毎日のように通った京橋のフィルムセンターで古いフランス映画に出てくる数限りない美女を見ていても、スクリーンを通して恋愛じみた感情を抱いたことは一度もなかった。なのに、小さなブラウン管のTV画面で歌う松田聖子を恋い焦がれるように見つめてしまったのだ。
今では想像も出来ない。しかし、松田聖子の存在と影響力は、圧倒的にその時代を支配していて、私もその配下に収まってしまった。登場するTV番組は必ずチェックし、新曲の発表を心待ちにし、アルバムレコードまで購入した。それをなぜなんだろうと考えたことは一度もなかった。だから五十代の今、なぜそのときの私が松田聖子にひれ伏すことになったのかを探ってみたいと思うのだ。

松田聖子のことを思い出したきっかけは、彼女が最近出演したTV番組の映像をYouTubeで見かけたことにある。
昨年の年末、恒例の日本レコード大賞で、松田聖子は最優秀歌唱賞を受賞し、TVで「秘密の花園」を歌った。松本隆作詞、呉田軽穂(松任谷由実)作曲の「秘密の花園」は、松田聖子が松田聖子らしさを極めた1982年の名曲。松田聖子以外に歌われたことはないはずだし、ユーミン自身もカバーしていない、松田聖子のためだけにある歌だ。だが、その「秘密の花園」はあまりに無残だった。松田聖子はまったく声を出せず、歌になっていなかった。歌に外見は関係ないので、変わってしまった容貌や弛んできた身体の線を隠すための妊婦が着るようなドレスは不問としよう。そうだとしても松田聖子が松田聖子であることの証明たる歌と声がここまでダメになっていたとは!
それは見るに忍びない、あまりに残酷な映像だった。

デビューした頃の松田聖子の魅力は、その直線的な地声ハイトーンに尽きる。デビュー曲「裸足の季節」のサビ(エクボ、の〜、ひみ〜つ、あげ〜た〜い〜わ〜)は聖子の声が音符の要求を軽く追い越してしまっていて、完全に曲が声に負けている。初めてベストテンの第一位になった二作目の「青い珊瑚礁」は、その松田聖子の歌声に果敢に挑戦した伸びやかな曲だが、ここでも聖子は野太いハイトーンボイスで一蹴する。作詞家も作曲家もたぶん驚愕したことだろう。アイドル向け歌謡曲の中でもかなり難しい発声とその持続力を求めた楽曲を渾身の力で投げ込んだのに、松田聖子はバックスイングもせずに軽く振ったバットで場外ホームランを飛ばすようにして歌いこなしてしまうのだ。
初期の松田聖子ファンは、他のアイドル歌手と変わらず頭に鉢巻を巻いた若い男どもが中心だったはずだが、連続してベストテンのトップを獲得したのは幅広い音楽好きからの支持が同時にあったからだろう。そうした耳の肥えた音楽ファンは、この声が持つ重い圧力を感じ取っていたのだった。
ヘビー級ハイトーンシンガーとしての松田聖子は、翌年夏のヒット曲「白いパラソル」まで続くことになる。

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実は松田聖子の存在は、デビュー前からすでに音楽業界で話題だったという話のようだ。高校一年のときにデモテープを聴いたCBSソニー(※1)のプロデューサーが、早くもその歌の上手さに目をつけていた。芸能界入りを両親に反対され、十八歳になったときにやっと歌手になることを許されたそうだ。だとすると、聖子のハイトーンシンガー期は五年足らずで終わったことになる。なぜなら「白いパラソル」の後、松田聖子は明らかに喉を痛めてしまったからだ。
デビュー翌年の秋に発売された「風立ちぬ」。ご存知の通り、この曲から松田聖子の新曲は歌謡曲の枠を飛び越えて、日本のポップミュージックの最先端を走り始める。作詞松本隆、作曲大瀧詠一による「風立ちぬ」は、アイドルの新曲としてはあまりにぶっ飛んだ作品だ。文芸調のタイトル、震えるように上下するメロディライン、そして恋をしているのか恋が終わったのか判別がつかないような微妙なニュアンスの歌詞。聖子の歌声が変調を来していることを察知したうえでのことなのかはわからない。しかしながら、「風立ちぬ」は松田聖子にとってターニングポイントとなった。天賦の才能だけで押しまくっていたハイトーンシンガーは、喉を痛めたことで歌い方を変えた。それは声での歌い方から情感を伝える表現力への転換であった。どんな曲をも元からの地声でねじ伏せていた松田聖子は、曲を作品として自分の中に取り込み、そこに松田聖子らしい色付けをして歌で表すようになったのだ。単なるハイトーンではない、絶妙なニュアンスの表し方。そこにはパーンと高く出る溌剌な元気さはないのだが、甘く切ないのと同時に凛として艶やかな芯がある。圧倒的な声量だけが目立っていた松田聖子は、実は独自の声質を持っていて、それは新しい時代の女性を代弁するようなクオリティの高い表現方法であった。
この時期から聖子ファンの重点は明らかに女性に移っていった。作詞家の松本隆は時代が女性に傾いていくのを先取りしていて、頼りなくはっきりしない男性を自分の意志で引っ張っていく女性を描くようになる。それは暗く湿り気のある歌手では全く表現出来ない新世界であって、抜けるように爽やかな声質を持つ松田聖子の存在感にぴったりとハマっていたのだ。声だけでなく、腹の底から大声で笑う快活さやしっかりと躾られたらしい明朗さも、女性優位を歌うにあたっての彼女のアドバンテージだった。
これ以降は、感じやすいと同時に主体的な意志決定を行う女性を表現するセンシティブなポジティブさが、松田聖子の軸になっていく。
「赤いスイートピー」で「あなたの生き方が好き」と歌い、「小麦色のマーメイド」では「ウソよ、本気よ」「好きよ、キライよ」と正反対の言葉を巧みに並べる。
松本隆が作った世界観を日本のミュージックシーンのトップライターたちが作曲を担当して作品化していく。それは「聖子ラボ」と呼ぶべき実験的な仕事であって、日本の歌謡曲がいわゆるニューミュージックと一体化してJ-POPに発展していく架け橋を形作ることになった。松田聖子は声量勝負のハイトーンシンガーから、楽曲の魅力を最大限に表現するクリエイティブな歌手に見事に変貌していったのだ。

松田聖子のクリエイティビティが発揮されたこの時期が、歌手松田聖子のピークだ。前述した「秘密の花園」のあとの「ガラスの林檎」はB面の「SWEET MEMORIES」も大ヒットし、続く「瞳はダイアモンド」と「蒼いフォトグラフ」のカップリングは、誰も太刀打ち出来ない最強の組み合わせであった。普通の歌手ならこんな贅沢な新曲の出し方はしない。でも「聖子ラボ」には当時の音楽関係者の第一線が殺到していたから、それを捌くにはこうでもしないと次作に行けない状態にあった。特に「蒼いフォトグラフ」はTVドラマ「青が散る」(※2)の主題歌になり、別れをテーマにしているのにも関わらずペシミスティックなところが少しもなく、リリカルでスマートな曲調が今でも強く印象に残る佳曲だと思う。
実態として、事実上のプロデューサーであった松本隆と「聖子ラボ」に参加した作曲家たちは、松田聖子の感応力に参ってしまったのではなかったろうか。自分の書く詞を、あるいは曲を、ここまで完璧に受け止めて、しかもそれを松田聖子らしく歌い上げてしまえる強力な感受性。聴衆を瞬間的に別の場所に連れて行ってしまう能動的な表現力。松田聖子には、作家たちの刺激に素早く反応し、予想を超えるほどに感度高く感応する感じやすさをあった。のめり込めば込むほど聖子はストレートかつナイーブに返してくる。松田聖子は作詞家や作曲家にとっても、絶対的な歌のミューズだった。

しかしながら、よくあることでピークは長くは続かない。喉を潰した松田聖子は、声質と表現力をどれだけ駆使しても、歌い手として次第に劣化していってしまう。
それをまざまざと見せつけられるのは1983年暮れの武道館コンサートだ。レコード大賞の様子を見てがっかりしたところで、過去の映像を探していたら、しっかりとYouTubeにアップされていた。一時間半近いコンサートをひとりで歌い踊りながら見せる松田聖子。その体力もさることながら、これだけ歌えば喉もおかしくなるだろうと思わせるほど声を出し続ける。
そして、当時の最新曲「瞳はダイアモンド」を歌い終えた松田聖子は一旦ステージから降りる。当然のことながら観客からアンコールの拍手があり、再度登場した聖子が歌うのは「オンリーマイラブ」。二枚目のアルバムに収録されたハイトーンシンガー時代の歌い上げ型の曲だ。疲れ切った喉にこのアンコール曲を持ってくるのは尋常な選曲ではない。なのにあえて歌った「オンリーマイラブ」の途中で、聖子は声が出なくなり、歌えないまま涙ぐんでしまう。とうの昔に地声のハイトーンは失ってしまっているのだから当然だ。もしかしたら「オンリーマイラブ」をアンコールで歌うのはファンとの間の「お約束」だったのかも知れない。だとしたら聖子の律儀さは見上げたものだが、律儀であることよりも自分の喉を大切にしたほうがどれだけ良かったことか。
こうしてボロボロの「オンリーマイラブ」を終わらせた聖子に、あともう一曲アンコールが待っていた。ゴンドラに乗りながら歌う「SWEET MEMORIES」。情感を歌い上げる聖子にぴったりの楽曲がオーラスに選ばれ、それは間違いではない。が、松田聖子はもう歌えなかった。ハイトーンではないセンシティブな曲なのに、もう声が出なくて歌うことが出来なかった。
そして、松田聖子はまた泣いた。今度は声が出なくて泣いたのではない。歌えない聖子に代わって観客全員が「SWEET MEMORIES」を合唱し始めた、その観客の気持ちに即座に感応して感涙したのだ。松田聖子は感受性の化け物だったのだと思う。自分が歌えないことを差し置いて、観客が自分を助けて合唱してくれることに思いを致す優しい気持ちを持っていた。
それで終わってくれていれば、聖子と観客が感じ合えた感動の武道館コンサートとなっていたはずだ。でも、YouTubeの映像が途切れる直前、「SWEET MEMORIES」を歌い終えた松田聖子に対して、観客はさらなるアンコールを求める声を上げ始めた。それでも手を振って観客に応える聖子。これ以上は歌えない。声はもう出ない。でも、観客は聖子を求めている。たぶん、それは歌手としての松田聖子ではなく、ただひたすら聖子にイコンとしてそこにいてほしいという欲求だった。この1983年暮れの武道館コンサートは、松田聖子が歌手から偶像に変わる象徴的な場でもあったのだ。

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1984年最初の新曲は「Rock'n Rouge」。初めて化粧品会社とタイアップしたキャッチーなCMソングだ。しかし、もうそこにはハイトーンシンガーとしての松田聖子も、感度豊かな「聖子ラボ」の松田聖子も、どちらも見ることは出来なかった。喉を使わずに口先で歌う軽やかなテクニックを身につけた松田聖子は、歌手ではなく時代の偶像として生きることを決めたようにも見えた。そして、就職して東京を離れることになった私にとっても、松田聖子は恋い焦がれる対象ではなくなってしまっていたのだった。

一昨年の大晦日、NHKの「紅白歌合戦」で松田聖子が初めて大トリを飾った。「赤いスイートピー」を歌った松田聖子は極度に緊張していた。それは紅白の大トリという大役を任せられた緊張ではなく、うまく声が出せるかどうかという初歩的な怯えだったのだろう。どうにか無事に歌い終えた松田聖子は、心底からホッとした表情を見せた。
それを見て、私はなんだか松田聖子が「松田聖子」という看板を下ろせずに頑張り続けているように思えてならなかった。
彼女の周りには「松田聖子」の役割を求める人たちがたくさんいるのだろう。自分のことよりもそうした人たちの期待に応えることが大事だという気持ちもわからなくはない。でも、もうそろそろいいんじゃないか。松田聖子は十分過ぎるほどにたくさんの歌を残してくれた。その歌はどれも色褪せずにいて、今でも全く古びていない。聖子と同時代に全盛期だった中森明菜や小泉今日子の歌が、やっぱり昭和歌謡に聞こえてしまうのとは全然違う。松田聖子の「聖子ラボ」は鮮度そのままに時代を超えて生きている。
そんな歌手は他にはいない。競争相手どころが、同じ次元に立つ者はひとりも存在しない。だから、もう、そろそろいいではないか。「松田聖子」という偶像はその役割を終えたのだ。
これ以上、歌えない松田聖子を見せることはない。松田聖子には安心して自身に幕引きをしてほしいと思うのである。(き)


(※1)CBSソニーは、1968年にソニー株式会社と米CBS社との間で設立された合弁のレコード会社。現在の株式会社ソニー・ミュージック・エンタテインメント。

(※2)「青が散る」は宮本輝原作によるTVドラマ。1983年10月から翌1月まで全13回がTBSで放映された。主演は石黒賢と佐藤浩市。ヒロインに抜擢されたのが二谷友里恵で、松田聖子との因縁を感じさせる。



2016年05月10日

大林宣彦『ふたり』の不思議な魅力

 大林宣彦といえば、何はさておいても『転校生』だった。初めて観たのは、こちらが大学生になったばかりの頃だったか、ともかくいまだ思春期の名残を留めていた、というか、思春期の残滓と最後の死闘を繰り広げていた頃というべきか。要するに、言いたいことは、あれこれと小難しい理屈抜きでその映画を愉しむことができる年代で『転校生』と出会えたのは幸運だったということ。中学生男女の心が入れ替わるという、ファンタジーが全盛の昨今では特に珍しくもない設定から生じる大小の波乱を、思春期に特有の戸惑いと重ね合わせて描き出し、途中爆笑しつつ、ことの顛末をハラハラドキドキしながら見守っていると、最後の「サヨナラ、オレ」「サヨナラ、あたし」で思わず落涙。思春期からの卒業をこんなに見事に、鮮やかに、そして一番重要なこととして、こんなに軽やかに描くことができるとは! そのときも、そして今も、つくづく感心する。

 ところが、『転校生』よりもいっそう有名かも知れない『時をかける少女』には全然と言ってもいいくらい感心できなかった。もしかしたら主演の原田知世が苦手だっただけかもしれないが、ともかく、『時をかける少女』でひどくガッカリしたために、「尾道三部作」として掉尾を飾る『さびしんぼう』も長い間見ずじまいだった。ところが、このゴールデン・ウィークに退屈しのぎに『ふたり』を観たところ、『転校生』を観たときの感動が蘇り、そのおかげ(?)で勢いに乗って50歳を過ぎた今になって『さびしんぼう』まで一気に観るという、何とも奇妙な連休を過ごしてしまった。その結果いまだに不思議な気分が続いている。(連休が明けても、世間の現実と上手く同調できないくらいに「大林ワールド」にはまっている、というべきか。)

 大林宣彦という映画監督は思春期を描く天才だ。こう言ったとしても、おそらく大きな反論はないだろう。しかし、そう言ったところで、実はほとんど何の意味もない。「だからどうした?」といったところだ。問題は、「彼のように思春期を描くことにどんな(素敵な)意味があるのだろうか?」「彼が描く思春期を目撃すると、なぜこんなに奇妙な気分になるのか、なぜこんなに心が動揺するのか?」ということだ。というか、『ふたり』という映画には、情緒的にはもちろん言うまでもなく(映画の主な楽しみは情緒的なものでしょ?)、その上に「この映画には何かとても重要なことが表現されている」という、こちらの知的好奇心を刺激して止まない不思議な魅力がある。この点では音楽作品や絵画作品と全く同じで、先ず始めに情緒的な感動があり、基本的にその情動は好ましいものと思われるのだが、しかしその正体がどうしてもつかめない。「何が自分をこんなにも感動させたのか?」が、わかるようでわからないもどかしさ、じれったさ。この焦らされるような感じも芸術作品が生み出す魅力の一部なわけだが、ともかくこう考えると、『ふたり』という映画作品は立派な芸術作品ということにもなるわけだ。実際、強くそう思う。今さらだけど、そして、別にここで力んで言うようなことでもないだろうけれど(言わなくても世間はすでに承知だろうから)、大林宣彦という映画作家は末永く記憶されるべき重要な作家だ。

 『ふたり』という映画。タイトルは基本的には二人の姉妹を表している。優等生で美人の姉とグズでダメダメな妹。ほとんどジブリアニメの『トトロ』の姉妹を思い浮かべればいいが、『ふたり』の妹、北尾実加は『トトロ』のメイちゃんよりもはるかに大人しく、おっとりしている。あらすじに関してはwikiから借りることにしよう:

北尾実加が中学2年の時、高校2年の姉・千津子は、成績優秀でピアノが上手くスポーツも得意で、高校の演劇でヒロインを務め、教師や同級生からも慕われていて、実加も憧れていた。しかし、ある日の登校中に交通事故に巻き込まれ、突然この世を去ってしまう。ところがその後、死んだはずの姉の声が実加の頭の中に聞こえてくるようになった。姉の声は自分にしか聞こえないけれど、自分を確実に見守ってくれていた。
千津子の死で精神的に不安定になった母、突然単身赴任する父、親友の父の死や心中騒動など、実加の周りでは様々な事件が起こる。姉が得意だったピアノやマラソン、演劇での活躍、そして、恋と友情。姉のアドバイスもあり実加はそれらの困難を乗り越えて次第に精神的にも成長していく。様々な経験を通じていつしか実加が姉の年齢に近づいたとき、父の浮気が発覚。激高した母、家庭崩壊の時、実加が感情的に発してしまった一言で姉の声が聞こえなくなってしまう。

 映画『ふたり』で最初に驚かされるのは、仮に原作の小説を知らなくても「ともかく姉のユーレイ(幽霊と漢字で書くよりも、ユーレイとカタカナで書くのがいかにも相応しい軽さがある)が出てくる話だ」ということくらいは知らされている観客として、映画の開始早々にとりわけ母親がその亡くなった姉・千津子のことを、まるでまだ生きているかのように口にすることと、その時点では事故からまだ数ヶ月(おそらく2ヶ月程度)しか経っていないことだ。だから、母親と、そして父親がどうしようもなく暗いことは当然なのだが、それにしては妹の方は比較的明るい。いや、仲の良かった姉が事故で急逝したことを考慮すると、「異様に明るい」とさえいえる。(が、大林の演出は絶妙で、例えば、父と実加が朝の出勤・登校の際に一緒に連れ立って家から駅まで歩くときに、父が「お前、こんな(裏通りの狭い)道をいつも使っているのか?」と驚いて尋ねるのに対して、実加が「あのことがあって以来はね」とさらりと答える。)そして、もう少し映画が進み、千津子のユーレイも登場した後になって、問題の事故の場面が明らかにされると、再度、いっそう本質的に驚かされることになる。千津子の無惨な死を実加は目の当たりにしていたどころか、二人が手を繋いだ状態で姉は落命するのである。とすれば、ほんの少しの想像力さえあれば、その事故によって実加が受けた傷の深さが、両親が受けた傷とは比較しようもないほどに深刻であっただろうことは明らかだ。それにもかかわらず、北尾家の中で実加は最も朗らかに振る舞っており、「生活を元に戻さないとね」と言って、しばらく中断していたピアノのレッスン(ここでも亡くなった姉の千津子はピアノも上手で、実加は下手という設定だ)を再開する。そして、繰り返すが、自分の散らかり放題の部屋からはどうしても楽譜が「発掘」できなかったときに、いわば最後の手段として姉の部屋にある楽譜を借用するときにも、「お姉ちゃん、借りるね」と言って、まるで姉が旅行か何かで留守にしているだけかのように振る舞う。

 映画はこの実加の「朗らかさ」に不気味に不安の彩りを重ねていく。続いてのシーンではピアノ教室へ向かう実加が変質者に襲われ、レイプどころかあわや絞殺かという危機に見舞われる。首を絞められて意識が朦朧としかけたときに、姉のユーレイが登場し、地面の石を指さして、変質漢への反撃を指示する。このとき以来、実加には千津子のユーレイが優しく寄り添うことになるというわけだ。こんな風にダラダラと書き連ねて行くと、このブログ記事も果てしない長さになること必至なので、要点だけ繰り返すと、『ふたり』という映画は明るさと暗さが奇妙に同居した映画だ。レイプ未遂の直後にしては、当の本人も北尾家の両親も平然としている。映画の半ばでは、実加の親友の父親が急逝するのだが、その場面でも明るさと暗さが奇妙に共存している。中学3年生の夏休みに九州に家族旅行に行った実加がお土産を持って友人を訪ねる。旅館の娘であるその友人は浴衣姿で旅館の前の通りを掃除しており、二人は久々の再会を喜び合い、実加は友人にお土産のお饅頭を手渡す。二人はそのまま海を見ながら饅頭を食べるのだが、そのときに友人が「お父ちゃん、死んじゃった。三日前に。もうお葬式も済んだ」と言って泣き崩れる。その両手には饅頭がしっかりと握られている。こんな有様だ。

 父の死を饅頭を食べながら語る友人と同様に、実加もまた姉の三回忌で残ったお弁当を意地になったように食べまくる。これらは若さの自然な発露である。彼ら彼女たちはどんなに悲しくても食べる。食欲旺盛な青虫だ。この明るさと暗さの奇妙な同居は、言うまでもなく、思春期の一つの大きな特徴でもある。思春期の若者の、と言うべきだったか。しかし、だからといって、彼らが悲しみを感じていないはずがない。姉の無惨な死が実加のトラウマになっていないはずがない。彼女の、ある意味では平凡な日常の下に潜む死の記憶。つまりは、生と死の二重性。それは要するに生きている実加と死んでしまった千津子の二重性でもある。

 このような、引き裂かれ、それでもなおかつ一緒にあり続ける二つの正反対の存在の共存は、例えば二人の部屋の対照によっても極めて視覚的に描かれている。部屋としてはこれ以上混乱しようがないほどに混乱している実加の部屋と、整然と整えられた千津子の部屋。しかも、実加はこの二つの部屋を自由に行き来する。死んだ姉と自由に話せるように。ということは、実加という存在が二つの異なったものの共存を体現しているということに他ならない。

 思春期の少女の成長を描いている映画が、なぜこれほど暗い影に彩られているのか? 別の言い方をすれば、これほど暗いエピソード(つまりは、姉の死をきっかけにした一種の家庭崩壊とさえもいえる)に満ちた映画が、なぜ柔らかな明るさを描き出せているのか? 主人公の実加は、姉の死、母の心の病、級友からの意地悪、親友の父の死、父親の裏切り、等々の逆境の中でも、姉をお手本にして健気に努力し続ける。姉のユーレイが彼女を励ますということは、つまりは、彼女が姉をお手本にして、姉に成り代わろうと努力を続けるということだろう。だが、実加が成長するに連れて、彼女は不可避的に姉というお手本から外れていく。そして、亡くなった姉の年齢を越えた正月に、二人の姉妹は二度目の別れを経験する。姉の千津子は鏡の向こうの世界に消えていき、実加には姉の言葉が聞こえなくなる。ときを同じくして、実加は姉の恋人であった男性からのプロポーズをも断っている。その男性から届いた絵葉書を大切に所持しているにもかかわらず。これらのエピソードが実加の千津子からの自立を表していることは言うまでもないが、それ以前に、実加が両親からも、さらには無二の友人からも自立していたことは特記しておかなければならない。実加の言葉(うろ覚えだが)では「みんないなくなってしまう気がする」「また一人になっちゃった」ということだ。つまり、自立するということはお互いに一人一人になるということだから、そこに独特の寂しさが生まれる。

 このように考えを進めて、ようやく『ふたり』の独特の魅力の秘密に気がついた。この姉の死と妹の成長を描いた思春期映画がこれほどに気になる理由は、この映画が結局は「時間」を問題にしているからだ。つまり、死と成長という一見正反対のものが、時間を介在させて並べてみれば、実は同じものに他ならないということが理解できる。子どもが成長して大人になる。そのとき、かつての子どもはいったいどこに行ってしまったのか? どこにもいない。とすれば、かつての子どもは死んでしまったも同じことだ。つまり、過去とは死の隠喩だ。あるいは、死が過去の隠喩だ。同様に、喪われた人は喪われた時間の隠喩であり、失われた時間は失われた人の隠喩だ。もっと簡単に言えば、全ての大人の背後には子どもの死が横たわっているというわけだ。

 だけれども、死んだ姉と生きている妹がもはや区別がつかないほどに渾然一体となった今(映画終盤の母親の言葉を借りれば、「いいえ、実加は千津子にそっくりよ。でも、実加は実加」)、姉の千津子は実加の「過去」というわけではないにしても、それでも、すべての人間存在が必然的に「ふたり」であること(つまり、過去と現在の混合物であること)が明らかにされる。過去を思い出すこと、そのたびにぼくたちは死者に再会する。これがノスタルジーの核心だ。実加は鏡を見るたびに千津子を見出すだろう。けれども、その声は耳に届かず、お互いに触れることもできない。

 大林宣彦の映画、少なくとも『ふたり』という映画の不思議な魅力は、ごく軽妙なファンタジー仕立ての中に、時間の中でしか生きられない人間の本質が表現されているからだろう。生きている限り、誰もが「サヨナラ、オレ」「サヨナラ、あたし」と叫ぶほかはなく、その叫び声がもっとも切迫しているのが思春期のときなのだろう。こうした哀切さを健康な美少女たちを使ってサラリと軽やかに描けるところが大林の美点だ。なんてこと、今さら言うまでもないことだったかもしれない。彼は世間ではとっくの昔に巨匠だったのかもね。 (H.H.)

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(適当な画像がないので、DVDのパッケージから借用)

posted by 冬の夢 at 23:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする