2016年04月24日

バルトーク体験

「芸術作品はそれぞれ固有の言語で話している。だから、作品を楽しむためにはその固有の言語を理解できるようにならなければならない」

 こんな意味の文言をどこかで聞いた(読んだ)気がするのだが、それがどこだったか、全く思い出せない。哲学者ショーペンハウアーが「個々の芸術作品を比較するのはノンセンスだ」とどこかで言っていたはずなので、その前後にあったのかもしれないが……いずれにしても、多少の記憶の歪みが介在しているとしても、その内容には全面的に賛成だ。つまり、ゴッホの絵にはゴッホの絵に固有の語彙や文法があり、モーツァルトの音楽にはモーツァルトの音楽特有の語彙や文法がある。そして、英語やフランス語を勉強していると、少しずつその言葉が使えるようになり、ある頃を境に英語やフランス語の本を読むのが苦でなくなるように、それまで馴染みのなかった絵や音楽も、わからないと思いつつ接し続けているうちに、あるとき、その美しさや面白さが心中に染み渡って陶然となる。人生の中ではこういうことが少なからずあり、そのおかげで、この面倒な人生も生きる価値のあるものだと信じられたりする。芸術作品と邂逅したときの思い出、その魅力に初めて耳目が開かれたときの驚きの記憶−−「モーツァルトと最初に出会ったのは、兄が買ってきたLPだった」とか、「バッハを本当に美しいと思ったのは、無伴奏チェロ組曲を聴いたときだ」とか、「ぼくにとってのゴッホとは、つまりは『ひろしま美術館』のゴッホだ」とか……こうした記憶のおかげで、世界に対する信頼が回復される。世界にはぼくがまだ出会ったことがない美しいものが、文字通りに無数に存在するのだから。

 バルトークとの最初の出会いは、全くの偶然だ。二度目の大学受験のシーズン。ということは2月だったろうか。都内の私立大学で入学試験を受けた後で、何とも気怠い、物憂い気分(ほとんどの受験生は物憂いでしょ?)で、学生街にあった、時代に取り残されたような音楽喫茶にふと立ち寄った。ひどく疲れていたのでどこかで休みたかったし、もちろん一人にもなりたかった。「名曲喫茶」には受験生は来ないだろうと考えたのだが、そのいかにも古びた外見から察するに、そもそもまだ営業を続けているのか、そうだとしてもわざわざ入店しようなんていう物好きなお客がいるのかも疑われるような喫茶店だった。扉を開けると、案の定、客はほとんどいなくて(もしかしたら一人もいなかったかもしれない)、はたして掃除をしているのかも怪しい、翌年まで、いや翌月までその店が存在しているかが危ぶまれるような佇まいだった。出されたコーヒーの味は覚えていない。覚えているのは、それまで聴いたことのない、しかし一聴するだけで「現代音楽!」と識別できる不気味な音楽が流れていたことだ。普通、「名曲喫茶」と言われるところでは、いわゆるバロック音楽(バッハに代表される)からロマン派(代表はショパンにしておきましょうか)にかけての音楽が流れているのが期待され、マーラーが流れていてもちょっと驚くのに、昼日中の喫茶店で不協和音が連続する音楽を聞かされるとは!

 それがバルトークの弦楽四重奏だった。なぜ覚えているかというと、なんと、その音源はレコードではなくFM放送で、演奏の後にアナウンサーによる曲目の紹介があったからだ。多分3番だったと記憶しているが、この記憶はとても怪しい。しかし、一度聴いただけのその音楽のインパクトは衝撃的だった。美しいとは全く思えなかった。ただ驚いた。つまり、バルトークの第一印象は「驚き」だったわけだ。プラトン、あるいはプラトンが描いたソクラテスによれば、哲学(つまり知の探求)の端緒は「驚き」であるらしいから、出会いとしては全然悪くなかったのかもしれない。確かに、あの喫茶店での出会いは、すでに30年以上の歳月が流れているのに、相変わらずに生々しく、懐かしく、愛おしい。

 それから段々とバルトークという作曲家を意識して聴くようになった(同時に、シェーンベルクやウェーベルンの音楽も聴き始めた)。バルトークといえば『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』や『管弦楽のための協奏曲』がとりわけ有名で、ぼくもこれらの曲目から聴き始めたのかもしれないが、当初は特に印象にも残らず、当然ながら(?)好きにもなれなかった(現在はもちろん頻繁に聴く)。最初に強い印象を残した曲はピアノ協奏曲の1番と2番だ。今になって30年も前に感じた印象を思い出すことは難しいが、ポリーニとアバドが共演しているLP(まだLPだった)を聴いて、バルトークのアレグロとアンダンテ(あるいはアダージョ)の対照の妙にノックアウトされた。オスティナート主題(単純なモチーフの執拗な繰り返し)がとりわけピアノに特徴的で、打楽器(ティンパニ)と管楽器の使い方が派手(アクロバティックとさえ言ってもいいかもしれない)な両端楽章も印象的だが、それよりも中間の緩徐楽章の不思議な静謐さ−−バルトークのいわゆる「夜の音楽」に共通する静謐さ−−が心に残った。今になって思うのだが、この得体のしれない「静謐さ」こそが、ぼくにとってはバルトークの音楽の最初の、そして最高にミステリアスな魅力だったのだろう。

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(とにかく爽快かつカッコいいピアノ協奏曲)

 あまりよくわからないままに、ますますバルトークの深みに填まっていく途上、バルトーク自身が優れたピアニストだったこともあってか、彼のピアノ曲に極めて魅力的な曲が多いこともわかってきた。ハンガリーやルーマニアの民謡に依拠した曲には素朴と洗練、単純と深みという相反する性格が付与されており、ピアノ練習曲(と言われているが、むしろソルフェージュのため?)としても意図されたと言われている『ミクロコスモス』にも同じ対照が認められる。そして、この「単純な深み」「素朴な洗練」という性質が彼の「夜の音楽」にも当然のように表現されている。そうなると、バルトークの音楽を通して「夜」というものの基本的性格が明らかにもされ、さらには、なぜ自分が昼よりも夜を好み、夜の散歩を好むのか、その理由を教えられたかのような気がした。ともかく、夜は単純で深く、素朴に洗練されており、今でも、深夜に彼の「夜の音楽」をヘッドフォンで聴くことは、他には代えがたい贅沢の一つになっている。

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(例えば「シク地方のハンガリー民謡」を聴いて欲しい。きっとバルトークを好きになるはず)

 とはいえ、「バルトークの最高傑作は何か?」と尋ねられたら、「6曲の弦楽四重奏だろう」と即答すると思う(もしかしたら、ちょっと考え込むかもしれないが、それでも結論は変わらない……)。そもそもの出会いが弦楽四重奏であったことは上述の通りだが、「再会」は1986年にあったはずだ。アルバン・ベルク弦楽四重奏団のリサイタルで第1番を経験したとき、少し(かなり?)の大袈裟を許してもらえるなら、「何もかもがわかった!」という感じがした。「何もかも」の要点を極めて簡単に言えば、「バルトークの音楽とベートーヴェンの音楽は確かに連続している」ということだ。20世紀のいわゆる現代音楽が19世紀のロマン派音楽と血の繋がった親子関係にあることが、一切の面倒な理屈なしに直感された。実際、バルトークの弦楽四重奏第1番は非常にロマンチックであるばかりか、その冒頭は例えばベートーヴェンの弦楽四重奏第14番の冒頭と不思議に似ている。「不思議に」と言うのは、一方は無調の音楽であり、もう一方は嬰ハ短調という調性の歴然とした音楽であるにもかかわらず、という意味である。もっと正直に言えば、素人の耳にはバルトークのこの曲に調性がないということ自体が信じられないくらいだ。もっとも、この曲の、特に最初の楽章にはまだイ短調としての調性が残っていると明示しているCDもあるようだから、素人耳に調性があるように感じられるのも当然なのかもしれない。が、その正否はともかくとして、アルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏を通して、その5年前には「奇怪な音楽」としか聞こえなかった類の音楽が、その美しさを十全に発揮したということなのだろう。先に上げた外国語の喩えを再び用いるなら、5年の間にバルトークの言葉が少しは聞き取れるようになったということだったかもしれない。面白いことに、いまだにシェーンベルクやウェーベルンの音楽、あるいはストラヴィンスキーの音楽は、バルトークの音楽のようには好きにはなれないでいる。我ながら不思議だ。アジア系とも言われるマジャール人を祖に持つハンガリーの音楽にはアジア人のDNAを刺激する何かが確実にあるということなのかもしれない。実際、バルトークを聴いていると日本の農村の風景が彷彿とされることが少なくない。

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(いわば「恩人」による記念碑的演奏)

 けれども、こうして自分自身の「バルトーク体験」を思い返していると、新宿の早稲田通りにあった(今はもうない)古ぼけた名曲喫茶での出会い、新宿文化ホールで初めて聴いたアルバン・ベルク弦楽四重奏団のリサイタル、これら二つの体験と並んで同じくらいに重要な、しかし、音楽とは直接の関係はない決定的な事実に思い当たる。

 それは、「アルバン・ベルク弦楽四重奏団体験」の数年後、海外の大学院に留学するために必要な推薦状を出身大学のイギリス人教授に書いてもらったときのことだ。欧米での推薦状の意味合いは日本での推薦状とは月とスッポン、全く異なっている。日本での推薦状はほとんど形骸化している。形式的な「推薦状」よりも、有力者による短い「紹介状」の方がずっと有益だろう。しかし、欧米での推薦状は言ってみれば「紹介状+α」のようなもので、つまり、「誰に、何を、どのように書いてもらったのか」がしばしば決定的な意味を持つ。事実として、海外のかなり有名な大学院に入学できた際に、ぼく自身は日本の英語検定試験は言うに及ばず、アメリカ留学には必須と言われているTOEFLも、昨今鳴り物入りで騒がれているTOEICも受検さえする必要がなかった。然るべき人物が認めた推薦状に「この人物は英語が使える」と書いてありさえすれば、それで十分だった。言い換えれば、推薦状を書いてもらうこと、推薦状の執筆を引き受けてもらえることが大問題ということになる。出身大学の先生がケンブリッジ大学出身であり、イギリスの文化政策にも多少は関わりあっていたことを思い出し、そもそもその先生以外に英語の推薦状を頼めるような知り合いもいなかったので、卒業以来連絡も取ったことがなかったにもかかわらず、勇気を出して恐る恐る電話をしてみた。すると、きっとぼくのような学生がいたことも忘れているのではないかというこちらの心配とは裏腹に、「ちょっと話も聞きたいから大学に尋ねてくるように」との返答だった。緊張して出向いたぼくに「決して口頭試験やインタビューではないのだが、君のことを知らないと推薦状が書けないから」と前置きして、さらにはビールとサンドイッチも同席の上で、実に様々なことを尋ねられた。その中に「どんな音楽を聴く? 好きな作曲家は?」といった質問があり、そのとき思いつくままに「好きな作曲家はモーツァルトとバルトークだ」と答えたのだが、そのときの先生の返事が極めて印象的だった。曰く、「面白い、ユニークな組み合わせだ。でも、たしか君は大学にいた頃、『チェーホフが好きだ』とも言っていたね。バルトークとモーツァルトを足すと、いわばチェーホフができる。悪くない取り合わせだ」と。確かにチェーホフは古典主義的ロマン主義ともいうべき、つまり、内実は非常にロマン的、手法は象徴主義的だが、形式は極めて堅固に整っており、その点で古典主義的ともいえる。さらに、チェーホフにはどこかモーツァルトに似た軽やかさと、そのアダージョにも似た淋しさもあるので、この二人を並べることにはそのときも今もあまり驚きはない。が、その仲間にバルトークが加わることになるとは! ぼく自身には丸っきり想像すらできなかった。

 大学生の頃には敬愛するというよりもほとんど畏怖していた−−事実、在学中は「三歩下がって師の影踏まず」を律儀に実践していた−−その教授もクラシック音楽が相当に好きだったらしく、後年ケンブリッジのご自宅を訪問したときには先生の書斎からBBC3(BBCのクラシック専門FM局)が居間に通されたぼくの耳にも聞こえてきた。また、先生の昔話を聞かせてくれたときには、「子どもの頃は聖歌隊でバードやタリスの聖歌を歌っていたよ」とも言っていたので、音楽に対してもそれなりの審美眼(耳)があるのだろう、ともかくその人から「チェーホフが好きなら、そりゃ、バルトークだって好きになるのも当然だろう」と言われると、何となく自分の嗜好にお墨付きをもらったような気がしたわけだ。バルトークへの偏愛が伊達や酔狂ではなく、自分の内部のもう少し深いところに根ざしているのかもしれないという指摘は、「芸術を学ぶということは、要するに、自分の趣味を洗練する、つまりは自分自身をより良いもの、より有機的に統合された存在にすることだ」と、かなり時代遅れなロマン主義的信条を持つ身には、とても心強いお墨付きだった。

 「バルトーク体験」について語るなら、さらにヴァイオリニストのメニューインのことやピアニストのゾルターン・コチシュのことも書かなければならない。バルトークが最後に残したヴィオラ協奏曲や第三ピアノ協奏曲の独特の美しさについて書かずには、バルトークについてまだ何も話していないに等しい。しかし、それは別の機会に譲ることにしよう。おしまいは、バルトークから大学時代の恩師の思い出に横滑りしてしまったついでだから、その先生の逸話をもう一つ書き残しておきたい。

 その先生は学生の前では文字通りに一言も日本語を話さなかった。フランス文学の同僚(この人は日本人なのに)と話しているときは、フランス文学の先生はフランス声で話し、先生は英語で応じ、そしてその会話は尽きることなく続けられた。その不思議な様子をぼくたち日本人学生は呆然と見ていた。ともかく、先生が日本語を使っているのを見聞したことは誰にもなく、「先生は日本語が全然できないらしい」という噂さえあった。実際、廊下や中庭ですれ違っても、その口からはHello, Good morningくらいしか聞いたことがなかった。が、他方では「しかし、庭師(学内の芝生や樹木の世話をしていた)の人たちとは日本語で会話しているらしい」という〈伝説〉が学内では囁かれていた。ある程度親しくなった頃に先生にその真偽を尋ねたところ、こんな返答だった:

学内では学生とは英語を使うことにしていた。それが私の仕事だから。庭師とは? 彼らと話すときは「鳥のコトバ」を使うんだよ。お互いに花と緑が好きだから、自然に「鳥のコトバ」を共有するだろ?

だから、先生がどれほど日本語ができるのか、実はいまだによくわからない。 
(H.H.)
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2016年04月23日

元気が出る曲のことを書こう [Ex]

 好きな曲、といわれてもすぐ出てこないが、元気が出る曲、というお題でなら、ぽつりぽつり思い出せることがわかった。
 けれど震災被災地にむかって、いまこれを聴けば元気が出ますよとは、とてもいえない。
 もともと日に何千回もアクセスがあるブログではないが、このところ来訪者が減りつつある。こんなときに能天気に「元気が出る曲」だといいながら、一般の人には解りづらいマニアックな話を書き連ねているせいではないかと疑っている。

 暴風雨が襲う断層だらけの火山島。そんなサバイバルドラマの舞台のような所に住んでいると思えば、自然災害そのものには諦めがつかなくはない。ただ、物質的破壊もさることながら精神的破壊に日本が塗り潰されていくようで心配だ。傷んだ心が解放感を求めるうち、なにかとんでもないことを受け入れてしまったり、粗暴であることを恥じなくなるのではないかと。
 東日本大震災の被災地はもちろんだが、首都圏の人々だって被災者であり、まだ被災者の「まま」のはずだ。よく解らないうちに浴びた放射線といい、地域によっては補修されないままの液状化といい。
 親族や知人を喪ったり家をなくしたりした人に比べたら、という話もあるが、むしろ首都圏の人たちこそ、自分の被災者経験──ことの大小に関係なく──と向かい合い、抑圧したままにしないほうがいいと思っている。東日本大震災以前から、なくはなかったことだが、刹那的で粗野なワルノリや、他者への無礼な攻撃が増えた気がしてならず、いやな気分になることが多くなった。

 熊本市、益城町、御船町などで空き巣被害があいついでいる。※
 東日本大震災の後、東北のある被災地を訪ねたとき、やたらにパトカーがいる理由をむじゃきに地元の人に尋ねて苦笑されたことを思い出す。
 警察官を巡回にあてなければならないことのばかばかしさ。避難状況が落ち着けば住民の自警団が出来るという説に至っては、そんなものを作ったらどうなるか、お前がやってみろ、といいたくなってくる。
 時代が違う、八十三年前と同じことが起きるはずがない、といわれるに決まっているが、ほんとうに、絶対に、そうだろうか。(ケ)

※時事ドットコム 二〇一六年四月二十一日
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2016年04月19日

『魔法使いサリー』の泣ける話、または東映動画、あるいは「魔法のマンボ」

「マハリークマハーリタヤンバラヤンヤンヤン〜」
考えてみれば何語なのかよくわからないのに、多くの人がスラスラと歌える呪文の言葉。誰もが知っている『魔法使いサリー』のオープニングテーマだ。昭和四十一年の初放映以降、再放送が繰り返され、リメイクもされているから、世代を超えて愛され続けている。その成り立ちはもちろん、印象深く泣ける話の数々やいつまでも耳に残る音楽など、『魔法使いサリー』だけは今でも特別なTVアニメだ。

原作は、横山光輝が雑誌「りぼん」に連載した少女マンガ。その人気に目をつけてTVアニメ化したのが東映動画株式会社。劇場用長編アニメーション映画を製作していた東映動画は昭和三十九年に『狼少年ケン』でTVアニメに進出したばかり。女の子をターゲットにした『魔法使いサリー』は「魔法少女」ものの嚆矢となりアニメ界の代表的ジャンルを創った。東映動画にとっては金脈を掘り当てたも同然であった。

「日本のディズニー」を目指して設立された東映動画の生い立ちを振り返っておこう。
東急電鉄で五島慶太の側近として辣腕を振るった大川博は、グループの映画会社東映の社長に登用される。すぐにその経営の立て直しに着手し、松竹や東宝と肩を並べるまでに成長させた。アメリカ本土を視察した際にTV時代の台頭を予感した大川は、帰国するとすぐにTV向けコンテンツの製作に乗り出す。昭和三十一年に日動映画という小さなアニメ製作会社を買収し、東映動画を立ち上げたのだった。
この東映動画が長編アニメーション映画に加えてTV向け30分枠用アニメを量産していくのだが、その過程で多くのアニメーターたちが発掘・育成されることになった。ディズニーから学びながらも、日本独特のマンガチックでコミカルな動画やキャラクター設定は、東映動画が確立したものだ。
東映動画の初期を支えたのが森康二。日動映画出身の森は初の長編アニメ『白蛇伝』で原画を担当した後、『わんぱく王子の大蛇退治』で作画監督に昇進。そのままの勢いで大傑作『長靴をはいた猫』を完成させた天才アニメーターだ。その森康二の下で動画と原画の主要メンバーとして働き、東映動画の裏の頂点と言われる『太陽の王子 ホルスの大冒険』で作画監督になったのが大塚康生。大塚の元で新入社員としてシゴかれたのが宮ア駿で、二人とも東映動画退社後は『ルパン三世』シリーズを産み出すメンバーとなる。ここから先は、もう何の説明も要らない日本を代表するアニメーターの系譜につながっていくのだ。
人物像をよく知るわけではないが、大映の永田雅一のクセの強さに比べると東映の大川博は実直そうなサラリーマン社長風でもあり、自ら案内役として登場する『安寿と厨子王丸』の予告編では、そのモッサリとしたしゃべり方にイラつきを感じるほどに切れ味は鈍い。そんな大川も東映動画がその後の日本のアニメーション発展に欠かすことが出来ない礎になるとまでは予想していなかったに違いない。

さて『魔法使いサリー』に話を戻すと、昭和四十一年から四十三年にかけて全109話が作られた。基本的に一話完結形式で、サリーを中心によっちゃんとすみれちゃん、カブや三つ子たちが絡みながら物語が進んでいく。原作マンガを読んだことはないのだが、脚本執筆者の中に佐藤純弥(※1)や辻真先(※2)の名前が登場するから大半はオリジナル脚本だったのだろう。「お茶目でお転婆、慌てん坊」のサリーが主人公だから、そのほとんどは明るい学園もので笑いとギャグがいっぱいなのだが、「ときにはセンチになるけれど」と言う通り、たまに涙腺を刺激して止まない哀しく切ないエピソードが挟み込まれる。そして、それは当時の子どもたちに強烈なインパクトを残すような哀切さであったので、誰もが語り合いたくなるほどに今でも胸の奥底に登場人物とともに大切に保管されてしまっているのである。

まずは「ポニーの花園」。
サリーのクラスに外国人の女の子ポニーが転校してくる。言葉や慣習に戸惑うポニーは、クラスに馴染もうと校庭の一角に花壇を作るが、いじめっ子たちにその花壇をメチャクチャにされる。ポニーは自分の気持ちをわかってもらいたくて、雨に打たれながら花壇の手入れをして体調を崩し、入院してしまった。サリーたちはポニーの回復を祈りながら、ポニーの花園を丹精込めて世話をし始める……。
どれだけいじめられても日本人の優しさを信じて自ら歩み寄ろうとするポニーのいじらしさ、健気さ。最後にはいじめっ子たちも花の世話を手伝う姿が描かれ、悪者はいないことになっていて、それなら最初から異邦人差別などするなよと思う。その一方で、自分こそが転校生を異端と決めつけ、率先して仲間外れにしていたのではないかという悔恨が頭を擡げる。
ポニーが作った花壇に花が咲き誇るイメージで物語は終わる。アニメではポニーは退院してクラスのみんなに迎えられるのだが、心象としては無数の花々がポニーの死を暗示していたように記憶されており、自分の心の狭さが他人を死に追いやるのだという罪悪感だけが残滓となるのであった。

続いて「みにくい人形」。
サリーのクラスで人形製作の宿題が出される。クラスメイトのマンゾウは不器用でうまく人形が作れない。たまたま知り合った病気の女の子の母親から友だちになってあげてと頼まれたマンゾウ。女の子はマンゾウが宿題用にやっと作った馬の人形を気に入った様子で、マンゾウはそれを女の子にあげてしまう。翌日、宿題を提出出来ずに先生から怒られそうになるマンゾウのところに女の子の母親が現れる。女の子はマンゾウが作った馬の人形を抱きしめながら昨夜亡くなったのだった……。
こんな哀しい話をTVアニメで作って何の得があったのだろうか。カブと三つ子の追いかけっこでいいじゃないか。そして、病気の女の子を死なすなんて、子ども向けにはあまりに残酷だ。たぶん、TVの前で大泣きしたに違いない。あの女の子が最期の夜に見た馬と戯れる夢。ああ、あまりに哀しくて思い出すだけで悪夢に出て来そうだ。

最後は「ポロンの子守唄」。
サリーとカブと一緒に暮らしていたイタズラ娘のポロン。自分には両親がいないことを寂しがるポロンだが、実はポロンは生まれたばかりの頃に本当の両親と離ればなれになった人間の子どもだった。そんな折、実の両親が現れ、ポロンを引き取りたいと申し出る。家族として暮らしてきたサリーは、魔法使いの世界から人間界に戻すため、ポロンの記憶を一切合切消してしまう。ポロンはサリーやカブのことを忘れて、両親の元に帰って行く……。
おいおい、昨日まで末の妹のように可愛がっていたポロンがその記憶を失くして、今日からは他人になるのかよ。放映後半から登場したキャラクターだが、その可愛らしさからすっかりレギュラーメンバー化していたポロン。「パパパのチョイナ」の歌と相俟って親密な気分でいたところなのに、突然にポロンではない女の子に変わる。いつか自分も周囲の人から忘れられてひとり寂しく打ち捨てられるのではないか。そんな怖れがトラウマとなったまま消えないでいる。

こうして話を反芻するだけで、どんどんと哀しい気持ちが渦巻いてくる。子どもの頃、マシュマロのように真っ白でフニャフニャだった感受性が、『魔法使いサリー』の背後に隠された「いじめ」や「死」や「別れ」という棘をまともに喰らったのだ。柔らかだった精神は今では真っ黒に汚れて、何をされても痛みを感じないように訓練されてきたけれど、その棘だけはいつまでも抜けずに刺さったまま、心のうちに持っている。それは痛いようであり疼くようであり、同時に懐かしく郷愁を誘う傷付き方でもあったのだった。

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こうした陰鬱な記憶は『魔法使いサリー』のダークサイドだけを取り上げた話であって、基本特性は楽しく明るく斬新なアニメなのだった。その大きな要素だったのが、小林亜星作曲の音楽で、アニメーションが音楽と一体化されて設計されており、それは一種のミュージカルコメディとなっていた。毎度お馴染みのカブと三つ子のケンカのシーンで流れるBGMは今も頭の中で完璧に再現されるほど脳壁に染み付いている(「タララッタタラタラ〜」というアレです)。
さらに印象深いのはエンディングロールの名曲の数々。「魔法のマンボ」「三つ子の唄」「パパパのチョイナ」はどれもアニメソング界のスタンダードナンバーと言っていいだろう。特に子どもにとってインパクトがあったのは「魔法のマンボ」。パンチの効いたボーカルの間に入る「ウーッ!」の声。幾つになっても口ずさんでいた唄をYouTubeで見つけたときは涙ぐみそうになった(ならないって)。
そのようにして再見したときに初めて知ったのは、歌っていた前川陽子が当時十六歳であったということ。あまりに巧いし発声もジャズっぽいから弘田三枝子(※3)のような人なのかと思い込んでいた。初期のTVアニメの主題歌は児童合唱団によるものと決まっていたのだったが、ひとりだけやたらと歌唱力がある前川陽子が注目されてソロをとることになったらしい。その最初が「ひょっこりひょうたん島」で、前川陽子がなんと十三歳のときのこと。
『レインボー戦隊ロビン』(※4)のヒロインを歌った「すてきなリリ」も、後に倖田來未が歌うことになる『キューティーハニー』のテーマソングも全部この人。今でも現役のジャズシンガーとして活躍している。
もう話が止まらなくなるわけだが、「三つ子の唄」はアテレコを担当した声優が交代で歌う楽しい曲。歌い手が代わるときにひと言台詞が入って「おやつあげないわよ」とか「ホントかしら?」とか「ちぇー、しょってら」とかそれぞれのキャラクターごとの個性がそのまま出ている。
けれど、ずっと謎だったのは、三つ子が入れる合いの手。よっちゃんが「気は優しくておしとやか、そのうえ美人で力持ち、勉強嫌いが玉にきず」と歌った後、三つ子たちの台詞は「みぞ、れだ」にしか聞こえなかった。「みぞれ」って何だろう、と思っていたところ、ネットで「三つ子の唄 歌詞」で調べたら「いいぞ!ねえちゃん」となっている。もともと耳は悪いほうだったが、数十年間「ぞ」しか聞き取れていなかったことに、今更ながら驚いたのであった。(き)

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(※1)佐藤純弥の代表作は『新幹線大爆破』(昭和五十年 東映)。日本公開は興行的に失敗したが、フランスで話題になり大ヒットした。
(※2)辻真先はアニメ脚本家で、後に推理小説家。関与した作品を並べるとそのままTVアニメの歴史になる。
(※3)弘田三枝子が歌った『新ジャングル大帝 進め!レオ』のエンディング曲「レオの歌」(作詞辻真先、作曲冨田勲)は、たぶんアニメ史上最高の名曲であって、これに匹敵するのは『あしたのジョー』の「力石徹のテーマ」(作詞寺山修司、作曲八木正生)くらいではなかろうか。
(※4)『レインボー戦隊ロビン』(昭和四十一年放映開始)はモノクロ作品だったのでTVがカラー化された後は全く再放送されなかった。いきなりサビから入る服部公一作曲のテーマソングが忘れがたい。



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