2015年08月27日

夏の日の清涼剤、John Keats & Joseph Severn (デュオ・グループの名前ではない)

 今年の8月上旬〜中旬の、世界の終末を予感させるような異常な暑さと、公私に渡るさまざまに不愉快な出来事のおかげですっかり腐りきっていたところ、真に一服の清涼剤のような一文に偶然出会うことができた:

「一本の木を吹き抜け打ち寄せる波」、ナラやトチノキの折り重なるように茂った枝葉を震わせて吹き寄せる風の高まりを、そしてときには、遠く離れた林の向こうから押し寄せる風の音を耳にしたとき、彼はこのように表現した。「大波が来るぞ! 大波が来るぞ!」と、有頂天になって大声を上げ、牧場の柵や道ばたの木の枝に飛び乗り、一陣の風が草原や麦畑の上を吹き抜けるのを見つめていることがよくあった。その間、風の流れがその身をすっかり取り巻いてしまうまで、彼は身じろぎひとつせず、そのくせ顔も目もきらきらと輝かせて、大喜びの様子だった。

 上記の文中で「彼」と言われているのは、ジョン・キーツ(John Keats)という、19世紀のイギリスロマン派を代表する詩人だ。大学生の頃に夢中になって読んだこの詩人の作品を、最近ふと気になってまた読み直している。そのついでに、それこそ何気なく手にした参考書の中に上記の引用文を見つけた。上手く訳せているか心許ないが、この一節を読んだとき、特に理由もなく、胸が高鳴った。

 この一節を書いたのは、キーツの友人であったセヴァン(Josepf Severn)という人物だ。画家を志していたこの友人は、26歳の若さでローマという異土で夭逝した詩人の最後を看取った人物でもある。キーツの死因は結核であり、おそらくその最後は事実として悲惨なものだったに違いないが、信頼できる伝記によれば、セヴァンは本当に親身にキーツの看病を続けたらしい。作品と手紙を読む限り、キーツという詩人は、詩人としては「英語で詩を書いた人間で彼よりも優秀なのはシェイクスピアだけだ」と言われるほどの存在だが、「詩人」であるよりもいっそう「人間」として比類のない存在だったように信じられる。自分の見た夢を詩にしたと覚しき作品の中で「他人の悲惨を自らの悲惨と思えないような人間は、決して詩人になろうと考えてはならない」と詩の女神に言わせているような人物だ。そして、「類は友を呼ぶ」とはよくぞ言ったもので、友人の面影を語ったセヴァンの言葉も、やはりしみじみと美しい。

 もちろん、読み手のこちらに詩人キーツへの強い思い入れがあることが前提なのかもしれない。彼の残した作品と書簡、そして伝記を読めば、彼の受けた辛酸貧苦と彼の残した作品の偉大さに、そしてそのあまりのコントラストに言葉を失わずにはいられない。詩人といえば多くが「屈折した超エリート」であることが当たり前だった時代に、まだ子どもの頃に父親と死別し、結果的に一家離散、本人は大学どころかまともな高等教育も受けられず、法律上の保護者からは大小の意地悪を受け(その中の最たるものは、キーツの祖母が残した遺産を隠匿したことだ!)、家賃の支払いにも事欠くような生活をしながら、おそらくはただ天才だけに許されるダイヤモンドのような一途さで英国の詩の伝統を独学し、決して誇張なしに、音楽家ならばシューベルトやショパン、画家であればゴッホやゴーギャン、作家ならばチェーホフや芥川、詩人ならばボードレールやランボーに匹敵する仕事を残している。短命ゆえに残された作品は本にすればせいぜい一冊だが、その一冊を読み通して何よりも心打たれるのは、彼の詩人としての「成長」の度合いだ。わずか十年の間に一介のアマチュア詩人から「わずかにシェイクスピアに劣る」とまで言わしめる存在へと一気に駆け上っていく。それでもなお彼自身は自分の天才を最後まで確信することはできず、彼自身が選んだ墓碑銘は「水で名前を書いた詩人、ここに眠る」だ。自らを詩人と認知しながら、何という哀切な自己認識だったことだろう。

 しかし、セヴァンの追想に戻ろう。この一文を読んだときの感動は、キーツの悲惨な人生とは必ずしも関係ない。そうではなく、高校生くらいの男の子たちがイギリスの田舎道や草原を連れ立っていて、そう、季節は夏、夏といっても日本の気持ち悪い夏とは全然違う、日本でいえば5月の晴れ渡った日のような夏、樹木を揺らすような強い風が吹いたとき、その中の一人が「大波だ、大波が来るぞ!」と騒ぎだし、周りの友人たちは、その様に呆れつつもおそらくは一緒になって風の中を駆け抜け、うねる草原や麦穂の作り出す陰影、その造形の美しさに見とれ、木の葉のざわめきの大きさに驚き……つまりは、ありきたりではあっても、ここには人生の最も美しい時間が描き出されている。そしてさらに言えば、そのときのことを決して忘れずに覚えている人間がいた事実が期せずして証されている。

 ハムレットが死に瀕しているとき、親友のホレイショーは当初は自らも毒を仰いでハムレットと死を共にしようとする。しかし、ハムレットは「もしもぼくのことを本当に思ってくれるなら、どうか死ぬのを思いとどまり、この情けない世の中にもうしばらく残っていてくれ。そして事の真相をみんなに伝えて欲しい」と懇願し、ホレイショーもその願いを聞き届ける。そう、親友のホレイショーが生きていてくれる限りは、その限りにおいて、ハムレットの行いが狂気の沙汰ではなく、止むに止まれない正当な行為であったことが天下に示されるわけだ。同じように、セヴァンのこの思い出には、キーツが確かに過ごした夏の日(秋であったかもしれないが)の幸福な時間が封じ込められていて、その文を読む人がいるたびに、いつもこのように開示される。そして、これがおそらく一番重要なことだろうが、そのような少年の(あるいは少女の)日の思い出は、実は大なり小なり誰にでもあり、強く激しい風が自らに向かって吹き寄せる中を走り回ったときの感覚的な喜び、突然の木々のざわめきに思わず歩みを止めたときの慄然とした驚き、飛ぶように動く白雲とその雲が地面に落とす影に気づいたときの感動、こうした「宝物」を誰もが心の片隅に宿している。

そう、久々に音楽に匹敵する文章に出会えることができた。案外とこれが今の幸福感の正体なのかもしれない。
(H.H.)


キーツ.jpg
(セヴァンが描いた瀕死のキーツ)

キーツ2.jpg
(セヴァンが描いた、まだ元気だった頃のキーツ)

Severn.jpg
(ついでに、セヴァンの自画像)


John Keats (31 October 1795 – 23 February 1821)
Joseph Severn (7 December 1793 – 3 August 1879)




posted by 冬の夢 at 02:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 話題・意見・世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年08月25日

ビル・ブルーフォードのクリス・スクワイア追悼メッセージとイエスの「危機」

 イエスのベース担当者、クリス・スクワイアが亡くなっていたとは。

 一九七〇年代、ロックという一本の木に、さまざまに枝葉を茂らせる実験をして実を結ばせた当時の若者たちが、つぎつぎと亡くなっていく。

 そのことそのものは時のさだめだから、しかたないことだ。
 かつての自分の憧れの存在たちが世を去っていくのは悲しいけれど、あまり追悼ばかりしていると、いきなり自分の番が来てしまうような気もする。
 だいたい、いまの時代、知りたいことはネットを検索すれば一発だ。
 同時代に海の向こうでロックをやっている人たちのことなど、ナマの情報としては知りえなかった一九七〇年代の、雑誌やレコードで知ったつもりのガセネタの数々もいまや居ながらにして修正できる。
 だから、いまさらイエスの話を解説的に書いても、しかたないだろう。
 
 そのイエスのデビュー時からのメンバーで、リック・ウェイクマンが加わっての、1971年の「Fragile(こわれもの)」、1972年の「 Close to the Edge(危機)」という超名盤に参加、後者の収録後に脱退した──キング・クリムゾンに移籍してさらに先鋭的な演奏を行った──ドラムのビル・ブルーフォードが、亡くなったスクワイアへ弔辞を手向けている。
 とうぜんのことだが、ここであれこれ説明するより、はるかに誠実で的確な内容だ。
 また、現在もステージで演奏される代表曲ちゅうの代表曲「Close to the Edge」での、ブルーフォードにとってもっとも印象的なスクワイアの演奏の核心があげられているから、この弔辞を読みながら「Close to the Edge」を聴いて、クリス・スクワイアにお別れをいいたい。 
 
 かつてイエスでバンド仲間だった、クリス・スクワイアの訃報をかぎりなく悲しく受け取り、彼のことを親しみをこめて思い出さずにはいられない。イエスが結成されたとき、その核になったふたつの岩のひとつであり、リッケンバッカーをいつも出動態勢にして、すべての公演に唯一の正統なメンバーとして参加していたはずだ。イエスでの彼と私の音楽づくりの関係は、お互いの考えかたの違いの上に築かれていた。にもかかわらず、あるいはおそらくそのせいでか、よくいわれる創造上の緊張感というものが、奇妙にうまく機能したようだ。

 最近の、音の動きがなく色彩感がないようなベースとは、明らかに対照的なアプローチを彼はとってきた。彼のベースラインは重要だ。まるで、低音部を離れてしまい、主旋律のさらに上の音をハミングするかのような、カウンターメロディとしての構造を持っている。このことそのものに、ちょっとした独自の芸術性があるといえる。彼のことを考えるとき、考えないことはないといってもいいが、私は「危機」での、ファズで歪ませた力強いスタッカート(6分4秒から)や、その数分さきのチューバのような音色(8分)を思い出す。彼が演奏を完成形にもっていくまで時間をかけているときは、つねに待つ価値があった。そして、彼はベースを弾くばかりでなくさらに最高音部のコーラスもいつも歌ったのだ。

 個性の確立ということが、まだ可能だった時代、ひとりの個性的存在として、クリスはおそれることなく、自分がその支配者で領主である完璧なベース王国を作り上げた。その彼自身、自分の音楽が数えきれない人たちに楽しみをもたらしていることを知っていて、それができることを幸運だと思ってもいたと、わたしは考えている。ご家族に心からのお悔みを申し上げたい。
 
 さらば、パートナー。
 ビル。


 ブルーフォードが「危機」で指摘する、スクワイアのベースは、自分もはっきりこの曲の要所として記憶している。
 というより、イエスの曲というとベースの印象的なフレーズでもって長年、耳に残っている。
 自分が繰り返すまでもなく、イエスというバンドの構築美と斬新性を作り出したのは、まさに「まるで低音部を離れてしま」うかのように、ときにはメロディと、ときにはリフと、シャープにユニゾンを響かせ、またときには美しい装飾音さえ加えてしまうベースの躍動感だ。
 ブルーフォードがいうように、いまの重低音系のベースとは違うが、もちろん当時のリズム維持型のベースとも違う。
 この個性は、やはりブルーフォードのメッセージにある「リッケンバッカー」のおかげでもある。スクワイアのほかディープ・パープルのロジャー・グローヴァー、ウイングス時代のポール・マッカートニーも使った楽器。後者二人の「音色」を思い出すとわかるけれど、この楽器は構造上、固くてとんがった音が出やすい。スクワイアはピックで弾いたので、ますます音が固くなる。そのぶんベースの音列が聴き手の耳にするどく届き、ベース奏者の個性がきわだつ。
 
 で、じつは重要なのはブルーフォードでもある。自分のことなので弔辞では語っていないが、この人のスコーンと響く、とても固いドラムの音によって、低音部担当者たちが清流のせせらぎのように繰り出す高音が、イエスの曲のクリーンなシャープネスを倍加させていたのだ。
 という屋上屋な説明をすると、イエスがスカスカな音の美辞麗句調バンド、ベースが浮いてしまったアンバランスなバンドに思えてしまうが、どうしてスクワイアは、カリっとした高音を、同時にエグくズシンとさせる工夫もしていたのだ。これは、じつはネット上にスクワイア自身の奏法解説映像があり、うわぁピックの持ち方だけで音質をこんなに変えていたんだと感心しつつえた知識。余談だがこの映像で司会と質問係を担当している若者は、以後長くエルトン・ジョンのバンドでベースを弾くボブ・バーチ。彼のほうがひとあし先に三年前、五十六歳で亡くなってしまっている。がっくりだ。

 いま手元にはないのだけれど、「Close to the Edge」はLPレコードで聴きたくてたまらなくなってきた。
 初めてレコードで聴いたとき、ノイズの中から小鳥の声が響いてきて、ナンだコリャとボリュームをあげたら、いきなりあのリフが雪崩をうってスピーカーから轟いた。A面は四章構成十八分のこの「Close to the Edge」全一曲。ボソっと針が上がり、はッ、終わりか。 
 ブルーフォードのいっていることなどを細かく聴き取るならCDがいいに決まっているが、音質はともかく、A面が終わって盤が止まる、あの感じが「Close to the Edge」には必要だ……待てよ、CDプレーヤーの再生プログラムで指定して聴けばいいだけか。(ケ) 

150825ce.JPG   
ロジャー・ディーンの見開き挿画(いま見るとなにかが描いてあるようなないような)を、
曲が流れてるあいだじゅうボケッと見ていたものだ。
あの記憶からすると、手元にあるCDのブックレットはいかにも小さい。

Christopher Russel Edward Squire 1948/03/04─2015/06/27

※ビル・ブルーフォードのフェイスブック(6月28日)から。
 www.facebook.com/billbruford


posted by 冬の夢 at 18:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 ロック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年08月19日

『海の若大将』と加山雄三の「恋は紅いバラ」

映画には多くのシリーズものがある。特に黄金期の日本映画はシリーズものばかり。そこでは「柳の下のドジョウ」ということわざは無意味。二度ある事は三度あり、三度あれば四度もある。松竹映画の『男はつらいよ』は、なんと四十八回も作られた。終盤は年一作になったけれども、基本は盆と正月の年二回、間を空けることなく公開されるのが常だった。
そうなのだ。シリーズものであるからには、定期的に新作を製作する必要がある。観客は次回作を楽しみに待っているのだし、間が空くと観客を他の作品に取られてしまう。
ところが、「若大将シリーズ」ときたら、二年間も新作が作られなかったことがある。第四作『ハワイの若大将』が昭和三十八年八月に封切られたあと、シリーズは長い空白期間に入る。第五作『海の若大将』の公開は、ちょうど二年後の昭和四十年八月であった。

人気絶頂のシリーズが二年も中断したのは、加山雄三が黒澤明監督の『赤ひげ』に主演することになったから。
当時の黒澤明は映画作家としての爛熟期に入っており、しかも新作は常に大ヒット。昭和三十六年の『用心棒』に始まり『椿三十郎』、『天国と地獄』と続く黒澤組の作品は、東宝にとってドル箱のひとつだった。その黒澤が次作で加山雄三を主役に抜擢する。『赤ひげ』は、師が弟子を一人前の医師に育てあげる物語。演技力があるとは思えない加山雄三に目をつけたのは、青臭い存在感が買われたのか、黒澤明の素人好みか、それとも巧みなマーケティングであったか。
それはともかく、黒澤組の映画に出ることは、他の一切の仕事との掛け持ちが許されないということでもあった。黒澤組と言っても俳優も裏方もみんな東宝に雇われている身だから、毎月の給料は一定だったはず。ならば、経営者側としては、彼らに出来るだけ多くの仕事を重複しながらでもしてもらいたいわけだ。ところが、黒澤がそれを許さない。世界的名声を得て、興行的にもハズレなしの黒澤に反論することは不可能だったろう。冷静に考えれば、黒澤明自身が東宝専属だし、『赤ひげ』だって会社の金で撮っているのだが。当初の撮影予定期間を大幅に超過して完成した『赤ひげ』は映画史に輝く傑作となり、昭和四十年の興行収入第一位を記録したが、東宝はもう我慢ならなかった。『赤ひげ』公開後、黒澤明は東宝専属契約を解除され、そして、黒澤の不遇の十数年間が始まる。

それはまた、別の話なのであって、そんな黒澤組から解放された加山雄三を、誰もがみんな待ち構えていた。
待っていたのは藤本真澄(※1)。「若大将シリーズ」のプロデューサーはすぐに若大将最新作にゴーサインを出す。脚本は田波靖男。世相に合わせて雄一と澄子のベッドシーンを書いた脚本は、藤本に瞬殺されて書き直し。スタジオの空きがなく、関西の宝塚映画で撮ることになり、監督も早撮りが得意な古澤憲吾。全身真っ白のスーツを身に纏ったアイディアマンは、加山雄三の歌をエサに競泳会場の観客エキストラをコストゼロで集めてしまう。
そんなこんなで、たちまちに出来上がった映画が『海の若大将』なのであった。

雄一は、京南大学水泳部。澄子さんは、青山のスーパーマーケット「ユアーズ」の店員、芦屋澄子。青大将のカンニングを手伝った雄一が大学から停学処分を受けて久太郎からも勘当されるというおなじみのパターン。学術調査船のアルバイトを見つけたら、その船のオーナーが青大将で、澄子さんまで乗り込んでの航海となる。

『海の〜』というタイトルが示す通り、この航海シーンがやたらに笑える。窓から覗く澄子さんを幽霊と勘違いするあたりは、わかっていても若大将・青大将のコンビネーションで大いに盛り上がる。例によって青大将が急にサカリがついたように澄子さんに言い寄るが、「海の上ではそんなことは許さない」と雄一が仕切って終わり。台風に巻き込まれて遭難しそうになる場面では、船の規律を重んじる雄一が的確な指示を出して船長然とした姿を見せる。
離島に流れ着いた後は、雄一が島の娘と仲良くなり、澄子が嫉妬の鬼と化す。東京に戻ってからもすれ違いを続けながら、最後には誤解が解け、試合会場に駆け付ける、というこれまたおなじみの展開。
自分が雄一の試合を見るために、免許証を警官に取り上げられたままの青大将に車を走らせる澄子。これほどまでに自己中心的な、身勝手な、高慢ちきなヒロインが、いまだかつていただろうか?ただひたすらに、星由里子が美人なだけで、それが許されてしまうというキャラが成立したのだった。『海の若大将』はそんな澄子さんのエキセントリックさが最大パワーを発揮する作品。次作以降、少しおとなしくなったり、しおらしくなったりするが、星由里子自身が「澄子には女性のいやらしさ、ズルさがあった」と言う通り、根は変わらないので、そんなうわべは信じられませんな。
そんな「澄子さん」という役は、東宝映画史上でも、最高に可愛い悪女であったと思う。こんな女性と付き合うのは真っ平御免だが、近くにいたら、たぶん青大将と同じように惹きつけられて、こき使われてしまうのだろうなあ。でも、青大将みたいに金持ちじゃないから、ハナから相手にされないのかも……。

終戦から七十年が過ぎたその日、NHK-FMでは、戦争にはまったく関係のない「今日は一日、加山雄三三昧」(※2)というお気楽な番組を放送していた。およそ九時間に及ぶ放送の中で、唯一聴く価値があったのは星由里子と中真千子がゲスト出演した六十分間のみ。どんな話から入るのかと思ったら、なんと『海の若大将』から始まった。
当たり前のことだが、同時代を経験していないアナウンサーがインタビューするので、番組としてはかなりギクシャクした内容だった。それを見越して、加山雄三の歌をはさみながらゲスト出演の間をやり過ごす進行であったのだろう。
となると、「若大将シリーズ」に出てくる加山雄三の曲をかけるわけだが、加山雄三がまともに歌を歌った最初の作品が『海の若大将』だったのである。

そんなこたぁない!
そうです、その通り。第一作の『大学の若大将』から劇中歌を加山雄三は歌うし、『日本一の若大将』では「おおお、俺は!おおお、若大将!」と青島幸男アンド中村八大コンビのテーマ曲を快活に歌っている。
『海の若大将』が最初、というのは、岩谷時子作詞、弾厚作作曲のナンバーが初めて劇中で歌われるという意味。曲は「恋は紅いバラ」である。
「恋は紅いバラ」は、元は弾厚作作詞作曲の「DEDICATED」という曲。弾厚作こと加山雄三が、英語の歌詞でなければ歌えないと言っていたときの作品だ。


I love you, Yes I do
But I don't know how to tell you
My love for you makes me blue
But I'm so afraid to tell you
I must find a way to show the way
I will find the way and the courage to say
“I love you, Yes I do”
But I don't know how to tell you
My love for you is like red roses
That's newly plan in march



前作の『ハワイの若大将』ではワイキキのビーチを歩きながら、雄一が澄子に歌う。歌が上手な雄一ならそれもありかな、という流れで歌うから、まったく違和感がない。つまり、シナリオであらかじめ構成された、主人公が歌うシーンとして「DEDICATED」が歌われている。
ところが、『海の若大将』で「DEDICATED」を日本語歌詞に変えた「恋は紅いバラ」を歌う場面は、青大将主催のダンスパーティーのステージ。物語の一場面として雄一が歌うというよりは、加山雄三のためにセッティングされた舞台のようでもある。つまり、「恋は紅いバラ」は、「若大将シリーズ」の中に、加山雄三のヒット曲をはさむ「歌謡映画」のパターンを出現させたきっかけとなったのである。だから、NHK-FMの番組も、歌で「若大将シリーズ」を振り返るのであれば、『海の若大将』から始めるしかなかったわけだ。


アイ・ラブ・ユー イエス・アイ・ドゥ
愛しているよと 君に云いたくて そのくせ 怖いのさ
君に今度逢うまでに
みつけておこうね その勇気を
アイ・ラブ・ユー イエス・アイ・ドゥ
夜空に歌えば 僕の心に 恋の火は燃える

(台詞)
僕は君が好きなんだ
だけど…だけどそいつが云えないんだな
でもネ 僕は君を倖せにする自信はあるんだ

僕と今度逢うときは 黙ってお受けよ この愛を
アイ・ラブ・ユー イエス・アイ・ドゥ
恋とは男の胸に息づく 紅いバラの花


「DEDICATED」では英語にこだわっていた加山雄三も、この岩谷時子の歌詞が気に入った。以後、弾厚作は相方を岩谷時子と決めて、猛烈にヒット曲を量産していくことになる。

同時に、「恋は紅いバラ」を契機に取り込まれた「歌謡映画」的な要素は、「若大将シリーズ」に新しい魅力を加えることにもなった。『海の若大将』に続く『エレキの若大将』は、雄一自身が歌を歌いまくる設定。倒産した実家の田能久を雄一が「君といつまでも」をヒットさせて救うという、映画が現実とシンクロするような展開を見せる。黒澤組のように加山雄三が拘束されることもなくなり、「若大将シリーズ」は、俳優加山雄三が主演し、歌手加山雄三が歌う歌謡映画に昇華していくのであった。

ところで、歌手加山雄三は、日本でもかなり早い時期から自ら作詞作曲するシンガーソングライターであった。自分で何でも出来てしまうので、演奏もひとりで完成させられる。『海の若大将』の冒頭、雄一が自室にあるテープレコーダーを回しながら、アマチュア無線に自分の歌声をのせる。あらかじめ自分の歌を吹き込んだテープを再生しながら、そこにさらにギターと歌を重ねていく。即席のダブルトラッキングだ。歌うのは「ブーメラン・ベイビー」。こんな歌い方は映画界の人々では、誰も思いつかなかっただろう。
音楽、船、スキー、サーフィン、無線、絵画、コンピューターゲーム……。映画にとどまらず、自分の興味のある世界を勝手に広げていた加山雄三。その自由な生き方が田沼雄一のイメージを固定的なステレオタイプから解放したのでもある。

NHK-FMの放送で、進行役のビビる大木が、何の遠慮もなく、星由里子に「星さんは加山さんからデートに誘われるとかいうことはなかったんですか?」とビーンボールまがいの直球勝負を挑む。それを受けて星由里子、「私はね、付き合いは雄一さんと澄ちゃんだけだったんですよ」とさらりとかわす。さすがに大女優の答えである。
星由里子が言うには、加山雄三はジュース一杯奢ってくれたことがなかったらしい。宝田明や夏木陽介が「星ちゃん、お茶行こう」と気軽に誘うのに対し、加山雄三は自分の趣味に忙しくて、出番が終わるとそそくさと撮影所からどこかに行ってしまう人だった。
上原謙と共演していて、デビュー前から加山を知っていた江原達怡が、加山に将来何になるのか聞いたところ「船の設計士になる」と答えたそうだから、加山雄三からしたら映画俳優の仕事は、自分の生活の中の一部分にしか過ぎなかったのかもしれない。
『海の若大将』に至るまで、二年間の空白を生んだ『赤ひげ』の撮影時には、星由里子と中真千子がともに「加山さんの雰囲気が全然違っていた」と証言するほどに俳優業に打ち込んだのであったという。しかし、黒澤明に鍛えられたにしては、『海の若大将』の加山雄三は、以前の「若大将シリーズ」と何も違うところは感じさせない。
たぶん、役者としての力量は上がったのだろうが、加山雄三にとっての「若大将シリーズ」は、何ひとつ繕う必要のない自然体映画という認識だったのだろう。映画の基本設定自体が加山の日常から材を得たものなのだから、それももっともな話だ。
田能久の実家で、飯田蝶子のおばあちゃんからよそってもらったご飯茶碗の持ち方がふるっている。お椀の底の高台を人差し指と親指で丸く持って、そのままご飯をかっ込むのだ。
育ちはいいはず。でも、そんなこたぁ構わない。おいしいご飯を食べるのには、茶碗の縁にかける親指が邪魔になる。シリーズの中で二回はその食べ方が写っているくらいだから、海の上の、船の中でもそうしているはずだ。
黒澤組に参加したあとも、若大将らしいノンシャランとした雰囲気は変わらなかった。そして、そこに加山雄三が大好きな歌のひとり舞台が加わる。
『海の若大将』は、そんな加山雄三が辿ることになる黄金の「若大将シリーズ」乱れ打ちの始まりとなる作品だったのである。(き)


umi.jpg

(※1)藤本真澄は「さねずみ」の読みが正しいが、NHK-FMの番組で、星由里子は「ますみさん」と呼んでいる。

(※2)「今日は一日、加山雄三三昧」は平成二十七年八月十五日 NHK-FMで放送された。

(※2ー追記a)同番組のゲストコーナーで、司会役のアナウンサー黒崎めぐみが、「今日は用事があって参加できないある方からメッセージをいただきました」と読み上げる。「こんにちは、マネージャーの江口です」。黒崎がそのまま先を読み続けようとするので、ゲストであるはずの星由里子がそれをさえぎって「ああ、江原達怡さんからの手紙ね!」と口をはさみ、やっとそこでメッセージを届けた本人の名前が紹介された。司会役として黒崎がプロ失格なのはさておき、星由里子の機敏な反応と大人の対応が光る一場面だった。

(※2ー追記b)ゲストのひとりとして招かれた映画評論家の佐藤利明は、『アルプスの若大将』で澄子がパンアメリカン航空のグランドスタッフである設定に触れて、「澄子さんの職業は、最初はキャンディストアの店員から、お針子さんから、だんだんアップしていって、仕事を持っている女性の自立のヒストリーでもあったんです」とコメントした。
番組を盛り上げるための台本なのかわからないが、これはまったくの的外れで、澄子の職業は単に映画のタイアップ先の企業と連動していたに過ぎない。キャンディショップは明治製菓(大学の若大将)、レコード店は東芝(エレキの若大将)、ガソリンスタンドは出光石油(ゴー!ゴー!若大将)といった具合だ。
単なる勘違いだったとしても、キャンディショップの店員を下に見て、航空会社のカウンター勤務が「アップ」したのちの上の職業だと決めつけた発言は、映画評論家としていかがなものであろうか。


●このブログの 若大将シリーズ【大学編】全記事リスト(加山雄三・星由里子)→こちら←

posted by 冬の夢 at 20:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする