2017年06月28日

東京都民への切なるお願い

今週末の7月2日(日曜日)に東京都議選がある。「自民大敗」とか「都民ファースト」とか「豊洲市場」とか、新聞マスコミではすでに大騒ぎのようだが、実際に蓋を開けてみたら、いったいどんな結果が待ち受けているのだろうか。投票率次第かもしれないが、結局は自民党がやや議席を減らす程度で終わってしまい、大いに白けた選挙になるのではないかと案じている。

というのも、先日ボンヤリとTVを見ていたら、都議選に関する街頭インタビューが聞こえてきて、それを聞いているうちに、とてもイヤな気持ちになってしまった。答えていたのは中年の男性だったと思うが、こんな意味のことを言っていた:
「安倍政権には色々と問題はあるが、都政は国政とは違うので、しっかりと選びたい」。
なるほど、いかにも優等生的なご発言だ。「私は一過性のブームに乗って考えもなしに投票するような軽薄な輩ではないぞ」という気概に満ちている。

しかし、本当に国政と都政は別物なのだろうか?

都民の方々はお忘れかもしれないし、あるいは日頃から意識さえしていないのかもしれないが、いっとき東京で生活し、その後地方に移住した人間としては、ある意味では極めて残念なことに、東京一極集中という現実は否定しがたい現実だと実感している。つまり、あえて誤解を恐れずに言えば、東京=日本と言っても過言ではないと思う。人口は10分の1かもしれない。しかし、経済も政治も、そしてこれまた極めて残念なことに、文化さえも東京に集中している。(ちなみに東京のGDPは日本全体の5分の1に相当するらしい。)このように、東京が日本の名実共に中枢である限り、「国政と都政は別物」というわけにはいかないだろう。つまり、東京都民が何と思おうとも、今度の都議選は日本国全体にとっても極めて重要な選挙なのである。それにもかかわらず、地方在住者には選挙権がない。ただ指を咥えて、成り行きを見守るしかない。

そこで、都民の方々への切なるお願いと相成る次第:
今回だけはどうか自民党以外の政党に投票して下さい。

安倍政権の悲惨さ、というか、つまりはアホさ加減については、森友学園と加計学園の二つの学校騒動と元TBS記者によるレイプ疑惑などで、今さらのように注目を浴びてはいるが、一連の国会中継やマスコミを通しての安倍総理及び閣僚たちの発言から明らかなことは、彼らがまともな(普通の?)日本語を使ってコミュニケーションを図ることさえできないという事実だ。政策の中身が問題なのではなく、それ以前の問題として、担当大臣も総理大臣もその政策の中身を知らないままに国会運営が行われているという、信じがたいようなことが繰り返されている。誓ってもいいが、いわゆる共謀罪の中身を知っている大臣は1人もいないだろうし、国会議員に話を移しても、せいぜい10人くらいしかいないのではなかろうか? 事実、安倍総理と金田法務大臣は共謀罪の中身を知らなかったし、おそらくは今も知らないだろう。(ついでに、安倍は憲法の中身も知らないに違いない。)自分たちさえも理解できていない法案を国会に持ち出しておきながら、「審議は尽くした」とヌケヌケとテープレコーダーのように言い放ち、「多数決だ、文句あるか!」と採決するのだから、これを支離滅裂と言わずに何をか言わんや?

たとえどんなに非民主的な政策を進める政府であっても、せめてまともな日本語が使える政権であって欲しいと願うことは、大それた、過ぎたる願いなのだろうか? しかし、政権があまりにアホなことを繰り返しているとき、「そんなアホを繰り返すなら、さすがに見放しますよ」と意思表示することは、それこそ市民・国民の責任なのではないだろうか。これほどアホな政権をそのまま放置していることは、それはもはや犯罪に荷担することに等しいのではないか。日本がこれ以上アホな国だと思われないように、どうか都民の皆さん、迷走に迷走を重ねている自民党に対してきついお仕置きをお願いします。さすれば、さすがの阿呆どもも、心を入れ替えて、もう少し真っ当な努力をすることが期待できるのではないか。(いや、やはりアホには無理かも……) (H.H.)
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2017年06月25日

たまには詩でも #6

  君の場所(1)

永遠に失われた君ともう一度話したい
心ゆくまで
夜が白々と明けそめるまで

あの日からぼくに何があったのか
あのときからぼくが何を考え
何を少しは知るようになったのか
君の静かな、先を促すような微笑みを見つめながら
もしも君かぼくの片方が女であったなら
二人の関係はどんなだったかと
いたずらに夢想しながら

永遠に
もう会うことはない
生きている限り
この哀しみが消えることはない
心臓の音にいつまでもつきまとう哀しみ

それとも君の代わりにこの哀しみが来たのだろうか?


  君の場所(2)

君のことばには羽が生えているから
眠りから醒めるとすぐに飛び去っていく
影さえも残さない
ぼくの目−−それははたして目なのか?
ぼくの耳−−それははたして耳なのか?
それでもぼくは飛び去った言葉を探し求める
空しく、空のかなたに
やがてうっすらと消えていく飛行機雲のような
優しい、意味のないことば
(H.H.)
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2017年06月09日

たまには詩でも #5

悲しみ〜古いノートから

アスファルトの道には足跡もつかないから
離れていく君を追う術はぼくにはなかった

記憶が蘇るというからには
やはり忘れるということは
死ぬ、殺すということを含意するにちがいない

祭りが終わり
「さあ、もう帰ろう」
そう言わなければならない物悲しさ
しかしその悲しみの最中にあって
人は本当には幸せだった
帰るところがあり
帰らねばならないことを知っていた人は  (H.H.)



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2017年06月06日

翻訳の問題:ポール・ヴァレリー『カイエ篇』

 ときどき音楽中毒になる。そして、もっと稀には「中島みゆき病」にもなる。が、今はフランスの詩人というべきか、偉人というべきか、異人というべきか、ともかく、かなり風変わりな知性を発揮したポール・ヴァレリーという人に夢中になっている。それこそ、他にしなければならないことが山積しているのに、そういうときに限って、まるで逃避行動のように何かに夢中になってしまう。
 実は30年くらい前にもヴァレリーに夢中になったことがあった。近所の図書館に『ヴァレリー全集(12巻)』と『カイエ篇(9巻)』が揃っていて、その中の一冊を何気なく手にして、パラパラとページを繰っていたら、「人間は、放っておけば、多神論者になるはずだ。つまり、人間の価値観は多様である−−私の神はお前の神よりも強いのだ、云々」という意味の文章に出会い(もちろん、それと共に他の章句にも)、非常に感銘を受けて、しばらくは熱心に読み耽っていた。しかしそのうちに、どういうわけか(多分、引っ越しをして、その図書館から離れてしまったからか)、読まなくなってしまった。『ヴァレリー全集』や『カイエ篇』がもっと安価であれば購入していたのかもしれないが、そんなこともなかった。その後、それこそ比較的安価な『テスト氏』やエッセイ集などには目を通し、それなりに感心もしたけれど、『カイエ篇』を手にしようとは久しく思わなかった。

 この『カイエ』というもの、ご存知の方には言わずもがなだろうが、かなり異様な代物だ。内容のことではない。その成立というか、その背景が。ヴァレリー氏は非常に偏屈な人だったようで、ほとんど全ての知的活動をこのカイエ(つまり、ノート、覚書)を書くことに費やすことを決意し、事実、それを淡々と実行した。wikiによれば、

1894年から『カイエ』と呼ばれる公表を前提としない思索の記録をつづり始め、その量は膨大な量(およそ2万6千ページ)となった。1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表、1896年に小説『テスト氏との夜会』を発表の後、『カイエ』の活動を基軸とした20年に及ぶ文学的沈黙期に入る。

 毎日早朝の数時間をこの断片を書き綴ることに使い、それが彼にとっては一日でもっとも大切な時間だったという。それを休むことなく何十年と続けるだけでも十分に異彩を放っているが、そこに鏤められた輝かしい断章を読むと、こちらもついつい眠る時間を逃してしまうことになる。真面目にヴァレリーを研究している人たちからは叱られそうだが、「ときどき通う近所の飲み屋にこんな面白いオッサンがいてくれたらいいのにな〜」と、有り得ないようなことを願ってしまう。本当に、超高級与太話のような感があるのだ。思わず耳を傾けたくなるという点で。

 ところが、これほど夢中になって読み耽っているのだが、同時にかなり困ったことに直面している。端的に翻訳の問題だ。オリジナルのフランス語を見ていないので、本当のところは何とも言えない。けれども、日本語の翻訳を読む限りは、とんでもなく読みづらい。もともとヴァレリー本人が出版する気もないままに書き溜めた断片なのだから、読みづらいのが当然かもしれず、フランス語で読んでも、その高度な中身と関連して、かなり手強い読み物である可能性は大であろう。しかし、他方で、ヴァレリーという人は「明晰でなければカスだ、正確でなければゴミだ」と言い出しかねない人だったし、「書くことは考えることだ、考えるとは言語化することだ」といった意味のことも言っている人なので、その彼が不明瞭なことを書き記したとは絶対に信じられない。それなのに、日本語で『カイエ篇』を読んでいると、所々で首を傾げたくなる表現に出会う。「知性的」を「智性的」とするのは、正直「勘弁してくれ」とは思うが、しかし、訳者の権利の行使なのかもしれないと我慢できる……漢字にすべきところを漢字にせず、仮名に開くべきところを漢字にしているために、かなり読みづらくなるのも、これも個人の好みの問題だろうと我慢しよう。(例えば、「ひとつの概念」というとき、訳者は必ず「一の概念」と記す。せめて「一つの概念」とでもしてくれたらと切に願うのだが、今さらどうしようもない……)

 しかし、あまりに読みづらくなってくると、ヴァレリーの真意が汲み取れなくなってくる。例えば、次のような文章を目にして、皆さんはどう思われますか?

 人間がかれ自身と交信連絡するのは、かれがその同類と、しかも同一手段で、交信連絡する心得のある範囲内のことでしかない。
 かれは自分と話すことを−−私としては『他人』と呼びたいものを迂回して、習い覚えたのだ。
 かれかれのあいだで、仲介をつとめるのは『他人』である。
(下線は翻訳では傍点)
これは、正直、「わかるようで、わからない」ということになりませんか? 「交信連絡」ね。「他人を迂回して」ね。「かれとかれのあいだ」ね。いったい何のこっちゃ?

 けれども、世の中にはその同じ文章を次のように訳してくれている人もいるのだ:

 人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。
 かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。
 自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。
(恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)

 個人的には、後の訳の方がはるかに分かりやすく、はるかに魅力的だ。ちなみに前者の訳だって、当時の日本を代表する知性が共同で訳したもののはずで、一種の「決定版」なはずなのだが。

 翻訳は演奏と同じで、一種のパフォーマンスなのだから、個々の翻訳に対する好悪はそれこそ個人の好みの反映なのかもしれない。しかし、だとしたら、ヴァレリーの思想、ヴァレリーの思考パタンに対しては強く惹かれ、それを少しでも理解したいと願っているのに、その日本語訳に対しては心が離れてしまうというアンビバレントな気分を、いったいどうしたらいいのだろう? 苦手なフランス語を読むしか道はないと承知してはいるのだが、その勇気がまだ足りない。そこに宝があると分かっているのに、その険しい山中に足を踏み入れる勇気がない。他力本願とは思うけれど、誰でもいいから、ヴァレリーにふさわしい日本語に訳し直してくれないものか。(H.H.)

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2017年05月31日

ALLMAN BROTHERS BAND − IN MEMORY OF ELIZABETH REED 元気が出る曲のことを書こう[27]

『エリザベス・リードの追憶』──まったくすばらしい邦題だ!
 かつて、ロックのレコードタイトルや曲名の「邦題」は、まさにつけ「放題」、客が知らんと思って、いかにノリでつけられていたか! 多少は英語が読めるようになると、そのことを思い知り、ガックリの連続だったことを思い出す。
 しかし高校一年のとき、いや二年かな、初めてこの曲を聴いたとき、曲のカッコよさはもちろんだが、邦題にもしびれた。
 歌がない演奏のみのこの曲の「ココロ」を、もとの英語タイトルはワンフレーズで表現しきっているが、邦題もその意をばっちり汲んでいる。日本語の用法としては、すこしおかしい気がしなくもないが、そんなことはどうでもいい。

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『AT FILLMORE EAST』─1971

 この曲、エレキギターのでかい音でブルースをもとにしたロックをがんがん演奏する、米南部諸州出身の七〇年代のバンド、つまりサザン・ロック・バンドがやる曲にしては、いっぷう変っている。同じ短調でも、泣き節ブルースとは違って、おしゃれといってもいいほどの浮遊感がある曲だ。オールマン・ブラザーズ・バンドの曲と知って、びっくりしたくらいだ。
 悲しみを叫ぶ歌もないし、ブルースギターの定番フレーズを並べるような、ありがちなソロもない。たった二つの和音の繰り返しを背景に、えんえんと音が紡がれる。それがむしろ悲しみを深く表現する。もちろん情緒表現ではなく、大多数が「キメて」いたに違いない当時の聴衆の気分に合わせたサウンドを作った、ということでもあっただろうが。
 とはいえ、テーマのすばらしいハーモニーや、ソロの終わりを示すユニゾンはメチャクチャにカッコよくて、伏せた顔をすこし上げて、歩き出してみようという気持ちになるから、うれしい。
 いずれにしても、曲の感じと邦題だけで、若くして亡くなった美しい「エリザベス・リード」の悲運に思いをはせていた。曲を作ったディッキー・ベッツの、当時の彼女だったのかなと思ってみたりもしながら。

 たしかにベッツが、つき合っていた女のコのイメージで作った曲だ。一九七〇年ごろのこと。ヒスパニック系の、いやイタリア系という説もあるが、とにかくイケイケなコだったらしい。
 ただし、ボズ・スキャッグズの彼女だ。

 オールマン・ブラザーズ・バンドが六〇年代末から七〇年代初めに拠点にしていたジョージア州メイコンにある、一九世紀初頭からの歴史があるローズヒル墓地は、バンドメンバーがよく遊びに行ったり作曲したりしていた場所だそうだが、ベッツはそこで、スキャッグズの彼女とよろしくやっていた。デュエイン・オールマンによると墓地で「いたしていた」というのだが、ベッツは、勝手なことをメディアに吹きやがってと怒ったそうで、真偽のほどは定かでない。
 ともかくベッツは、そのコのイメージで曲を思いついたが、彼女の名を曲名にするわけにはいかず、目についた手近の墓碑から名前をいただいた。それは、ELIZABETH JONES REED (1845〜1935)という人のお墓だった。悲運薄命の美人とはちょっと違った、かな?

 ちなみにそのころのオールマン・ブラザーズ・バンドは、まだ目が出ていなくて、この曲を収録して発売した二枚目のレコード『idlewild south』(一九七一年)も、後々までステージで演奏された曲がずらりなのに、売れていない。
 そのかわり、いまはバンドの記念館になっている大きな家にメンバーが集まり、家族がある者は家族ともども暮らして、練習につぐ練習を繰り返していた。息抜きに地元の女のコたち、酒、ドラッグと、ヒマにまかせて若さを謳歌もしていたようだ。飲酒やドラッグは、ときに小さなバンにメンバー全員が詰め込まれて回る演奏旅で、ストレスを収め、すこしでも寝ておくための必需品だったそうだが、キメていたせいで度が過ぎるケンカにもなったらしい。ヤケ酒やヤケブツはいかんです。

 そんな生活が続くと、もう、友だち以上である。オールマン・ファミリー・バンドと呼んでいいほどの家族的な結びつき。それは、このバンドを聴くとき忘れてはならないものだ。
 だらだら弾いたりルーズに歌ったりしているように聴こえるが、芯がものすごく太くてぶれない、強力にカッコいいアンサンブル。どんな演奏巧者を集めても、一朝一夕にやれるやりとりではない。『idlewild south』のころ、メンバーは二〇歳代なのに、長年はきっぱなしの土埃だらけのジーンズで、大地にがっしり立ったオヤジたちが演奏しているように聴こえる。
 アメリカ南部諸州の家族性というと、閉鎖的、差別的ではないかと想像してしまうが、ひとりやふたり増えるくらいどうぞ、まあウチに入んなよ、とでもいうようなホスピタリティも南部気質にはあるのではないか。それが、「オールマン・ファミリー」の演奏におのずと漂っているなら、米南部出身者でなくとも、アメリカ人でなくとも、ブルースもカントリーも知らなくても、この音楽は聴き手の心に届く。

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『idlewild south』─1970

「IN MEMORY OF ELIZABETH REED」が、ブルース・ロックにしては変わった曲だという話だが、それもそのはず、この曲のつくりはジャズ、それもモード解釈の曲だ。
 マイルズ・デイヴィスの「So What」、つまり4度のコードふたつをずらすだけで曲ができていて──ドミソ → ドファラ → シレソのようなコード進行感がしない──しかも短調っぽい、モード・ジャズの代表曲を思い出せば、「あ! それじゃん!」と納得できる。
「So What」がA面1曲目の『Kind of Blue』が登場したのは『idewild south』の十年前で、ベッツの愛聴盤だったらしい。ただ、ベッツがこの曲について話したインタビューなどを読むと、ベニー・グッドマンや、ウェスタン・スゥイングといわれる、ビッグバンドジャズをカントリー調に演奏する音楽を意識していたともいっている。よく知られているとおり、もともとベッツはカントリー音楽になじみが深く、「RAMBLIN' MAN」や「JESSICA」など、彼が作ったオールマンの大ヒット曲はしばしば陽気なカントリー調だから、「IN MEMORY OF ELIZABETH REED」も、哀愁を表現したというより、あけっぴろげな朗らかさも含んでいるのだろう。ま、ひとの彼女とイチャついていて出来た曲だしね。
 余談ながら興味深いのは、『Kind of Blue』の十年後、オールマン・ブラザーズ・バンドがブレイクする一九七〇年ごろのマイルズ・デイヴィスは、ジャズではなくロックやファンクに急接近していた。オールマンに大ヒットをもたらした名作ライブ盤『AT FILLMORE EAST』と同じ場所──ロックバンドが出演するコンサートスペースだ──で前年に演奏し、ほとんど同じタイトルの『MILES DAVIS AT FILLMORE』を残している。
 四十年後のいま、クロスジャンルだとかミクスチャーだとか、言葉はにぎやかだけれど、自由にいきかう音楽たちの呼吸の中に身を置く喜びは、ほとんど感じられない。なぜなのだろう?
 
 さて、『AT FILLMORE EAST』でせっかく有名になれたのに、その喜びにひたりきる間もなく、メンバー二人が亡くなってしまう。バンドの中心にいたオールマン兄弟の兄、デュエインがこのレコード発売のわずか数か月後にバイク事故で、その一年後には、ベースのベリー・オークリーがデュエインの事故現場のすぐ近くで、またもバイク事故で、あいついで世を去った。ふたりとも二十四歳で亡くなっている。
 ロックミュージシャンが事故や飲酒、ドラッグ禍などで急死し、主軸を欠いたバンドが崩壊したり、当人が伝説化するというのは一九七〇年代にはよくあった話で、オールマン・ブラザーズ・バンドもそうなる運命だったが、「家族」の力はとてつもなく強かった。というより、死をファミリー・ヒストリーに刻みながら、死を忘れずに日々を繰り返しつづける。それが「家族」なのである。

 二人の死後、バンドを支えたのは、この曲を作ったディッキー・ベッツで、さきほどのとおり陽気なカントリー調の大ヒット曲をバンドにもたらす。オールマン・ブラザーズ・バンドで「元気が出る曲」といったら、そちらをとりあげた方がいいくらいだ。
 高校時代、いつかアメリカに行くことがあったら、南部のダイナーで飯を食いながら、ラジオからウキウキするようなザザン・ロックが流れるのを聴きたいなと思っていたが、はるか後になってアメリカで本当にそういうことがあり、かえってびっくりしたことがある。ジョージア州ではなく、レイナード・スキナードのご当地、フロリダ州で、でしたが。※

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『An Evening with The Allman Brothers Band: 2nd Set』─1995
「IN MEMORY OF ELIZABETH REED」のアコースティック演奏が聴ける

 それはともかくファミリー・ヒストリーの継承という点で、なにより感動したのは、さらに後の、若い新人ギタリスト、デレク・トラックスのバンドへの参加だ。
 苗字のとおり、創立メンバーでずっとドラム担当のブッチ・トラックスの甥御さん。音色の美しさといい、こなれたテクニックといい文句がつけがたく、しかも、ときにハッとするようなシャープで新しいフレーズを出す。誰か若手ギター奏者でお奨めの人はと聞かれて、何度この人の名を出しただろう。
 それ以前からバンドに加わっていたウォーレン・ヘインズが、これまたブルース・ロックのギタリストとして望みうる最高の人材のひとりだと思うので、「いまのオールマン・ブラザーズ・バンドは、デュエインの生前に匹敵するラインアップだ」と口走ったことも、たびたびある。

 もっとも、かんじんのディッキー・ベッツが、そのラインアップにはいない。
 どうしたのかというと、「クビ」になっていた。
 もともと、デュエインの弟でボーカリストとしてバンドのもうひとつの核であるグレッグともめることが多く、七〇年代に起きた対立はバンド解散にまで至っているが、二〇〇〇年にバンドは、ベッツを解雇して維持をはかった。
 演奏公演直前にファックス1本でクビにされて驚いたベッツが、グレッグに問い合わせると、その返事は「お前に説明しなきゃならんことなんかない、このところの演奏の、クソ録音を聴いてみろ」というものだったそうだ。飲酒や麻薬のせいで演奏がひどい、というのが理由だったらしいが、録音を聴き直したベッツは、そんなはずがない、長年の鬱積がたまっていたのかも、などといっていて、真相はよくわからない。
 ベッツは、もともと自分のバンドにいたヘインズはもちろん、伝統芸能の襲名者になぞらえるなら、どこに出してもはずかしくない実力がある「身内」のトラックスも、おそらく認めていたには違いない。が、自分が追い出された後のバンドのことは、(まだ現役なのに)「トリビュート・バンドになっちまったわけさ」といっていた。

 そのバンドも、二〇一四年にはついに活動停止を表明。知らないうちにオールマン・ブラザーズ・バンドは終わっていた……。
 それにさきだち、デレク・トラックスとウォーレン・ヘインズが、二〇一四年内に同時脱退することも発表ずみ。さきに入っていたヘインズは途中でぬけていた期間をのぞいても二十年以上、初代メンバーのジュニア世代にあたるトラックスでさえ十五年もバンドにいたのだから、脱退は潮時だが、この二人の代役を同時に立てるのはムリというものだ。いや、すくなくとも創設メンバーのベッツがいるが……この年一〇月末の最終公演に、ディッキー・ベッツの姿はなかったという。

 そうとう深刻にモメても、なんとなしに和解することもあるのが家族なら、はた目にはコドモのケンカでも、けっして不和が解けないのもまた家族、ということだろうか。 
 翌二〇一五年には、グレッグ・オールマンが、ベッツと演奏してもいいとメディアの取材に答えるようになってもいたのだが、ことし一月になって、ずっとバンドの一員だった初代メンバーのブッチ・トラックスが自殺。ファミリー・ストーリーは残念ながら再々度の和解なきまま、終焉を迎えることになった──。

 ──という気は、じつは、ぜんぜんしていない。
 オリジナルメンバーの子どもたちはみな、もちろん、いい歳になっているが、かなり多くが音楽活動、それもオールマン・ブラザーズ・バンドが得意としたブルース・ロックをやっている。
 たとえばディッキー・ベッツの息子は、その名もデュエイン・ベッツ。やはりギタリストだ。グレッグ・オールマンの子どものひとり、デヴォン・オールマンもギタリストで、丸い輪っかのついたストラップをつけたエレキを弾く姿はデュエインを思い出させる。 
 この人たちを集めればバンドがたちまち復活する、とは残念ながら思えないけれども、この人たちの子どもの代、つまり、ひと世代おいた後の時代に、なにかが起きそうな気がする。わたしは死んでしまっていて聴けないだろうけれど、かまわない。家業が絶えずに継承され、復活することがすばらしいのだ。オールマン・ブラザーズ・バンドのようなロックが前世紀の遺物として完全にしまい込まれたり、オールマン「ファミリー」の末裔がだれひとりとして、ファミリーメンバーの名をわが名として継ぐことがなくなったりしない限り。

 エリザベス・ジョーンズ・リードの墓碑は、いまもローズヒル墓地にあるという。ここには、デュエイン・オールマンと、ベリー・オークリーのお墓もある。ふたりの墓碑は、ゴッホとテオのそれのように、並んでいる。数日前に世を去ったグレッグ・オールマンも、まもなく、この墓所で眠ることになるそうだ。兄、デュエインの隣で。(ケ)
 
Gregory LeNoir Allman 1947/12/08 - 2017/05/27
Claude Hudson Trucks  1947/05/11 - 2017/01/24


※ そのときのメニューはこれ! 毎朝のように通ったファミレスの店名もメニュー名も、すばらしくて(笑)忘れられない。そのメニューがいまもあって懐かしい。でも、いま食べたら、死んでしまうんだろうな……。www.friendlys.com/menu-item/lumberjack-breakfast/

● 作曲者のディッキー・ベッツは「とくに好きなテイクはないけど、スタジオヴァージョン(『idlewild south』のことだと思う)はダメだ。クズだよ、短か過ぎるよな」といっている。「ボックスセットの中にはけっこういいバージョンが入ってると思うぜ」とのことだ(Herald-Tribune; Oct. 30, 2014)。ボックスセットとは、上段『AT FILLMORE EAST』の「完全版」というフレコミで発売された『The 1971 Fillmore East Recordings』(二〇一四年)のこと。CD6枚組にブックレットで1万円以上する。買ってません……。

【参考】
「Rolling Stone」「Herald-Tribune」「radio.com」「WGXA」のインタビューおよびニュース記事を、おもに参考にしました。→管理用←



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