2018年02月17日

カジノは連続する7日に3回まで!だそうです

 日本人客がカジノに入場できる回数を「連続する7日間に3回まで」にしたいのだそうだ。
 そんなことをまじめに法制化したら、子どもの前で「主婦のオナニーは週に3回まで」と言い放つのと何も変わらないほどバカだということに、なぜ気づかないのだろう。

 自民党PTの会合に向けて政府から提案したそうだが、政府提案者は自分のギャンブル経験を明らかにしたほうがいい。カジノに入りびたった経験から言っていると主張するなら、それは大嘘だと断言できるし、世界のどこかのカジノで勝負がつくまで張ったこともないくせに、こんなふざけたことを本気で言ってはいけない。
 もっとも、PTの座長は統合型リゾート推進派の自民党衆院議員、岩屋毅なのだが、この男は「カジノの収益の一部で、すべてのギャンブル依存症の抑止対策を行うことを考えている」と「本気」で言っているので※1、もはや何をいってもむなしいという気もする。

 日本にカジノを作る話については、以前もいちど書いているのに、なぜまた書いたか。
 マカオ、オーストラリア、アメリカなどでカジノに行ったことがある。本気で張ったことも入りびたった経験もないから、お前だって説得力がないじゃないか、といわれたら確かにそうだが、ひとつだけ言えることがあるので、言っておきたいから書いている。

 上にあげたどの国でも、カジノは自国に大きな収益と雇用機会をもたらしている。
 しかし、それらのカジノを、たまにスロットマシンにコインを入れたりしながらでも、じっくりと歩き回ってみるといい。
 レストランやお酒、あるいは新築マンションや住宅の広告みたいに、大人たちが老若男女で明るく笑って楽しんでいる様子があちこちでみられるか。
 ないとは言わないが、多くない。
 それより、ミニマムベットぎりぎりの額をちびちび張っては、なけなしのヘソクリを持って行かれた人々の薄暗い顔が、避けようもなく目に入る。キラキラのマシンやルーレット、ふかふかの床じゅうたんがうそ寒い。

 いわゆるハイ・ローラー、つまり賓客扱いで超高額の勝負をするリッチ族の特別室を見たこともなく言うな、とおっしゃるかもしれない。
 ならばいうが、高額で本格的に勝負しようという日本人客、つまり負けもでかくて巨額のカネを落としてもくれる日本人をもしカジノに招きたいなら、いかなる形であれ入店回数を制限するのは勝負のルールとしてフェアでない。そしてもちろん、フェアでないルールで賭場を開帳するのは、小遣い銭でスロットを回す末端の客もふくめ、すべての入店者に対するイカサマ行為だ。
 いったん盆を敷いたら依存症対策もくそもない。回数や金額に関係なく、やりたいと感じる人がすべからく依存するからこそ場が立つ。博徒じゃなくたって、それくらいわかるでしょ?

 間違っていたらお詫びするが、統合型リゾート(カジノ)推進派の政治家は、韓国ではソウルのウォーカーヒル、あるいはシンガポールのベイ・サンズなど、自国人は入れないか、そもそも自国民を厳しく管理している国のカジノ──のキレイな部分──しか見学したことがないのではないか。
 机上で調べただけで未訪なので大口はたたかないが、たとえばおなじ韓国でも韓国人がプレイできる唯一のカジノ、カンウォン(江原)ランドはご覧になっているだろうか。
 炭鉱業衰退で寂れた地方再開発で、まさに統合型リゾートを建設、二〇〇二年秋の開業以来、韓国の人たちをおおいに集めているという、日本にとってのモデルケースなのだが、もしここを見学したなら、日本にカジノを作ることには怯懦さえ感じたのではないかと思うが。
 それとも、日本人は韓国人みたいに熱くならない、韓国人より冷静だとでもいうつもりだろうか※2

 どうしてもカジノを作る! というなら、べつに反対しない。
 やるならやれば、と思うだけ。
 ほんとうに東京・台場あたりに出来たとして、大勝ちしたやつが銀座で大盤ぶるまいしてくれるのは、悪くないでしょうから。バブル時代よりデカいカネが落ちそうだし。
 ただバブル時代と違うのは、大負けしたやつが銀座、でなけりゃ新橋や有楽町あたりで何をしでかすか、ってことだが、それも「カジノの収益の一部で抑止対策」できるんでしょうね、たぶん……。(ケ)。

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※1 産経新聞 二〇一三年十一月八日
※2 ちなみに江原ランドでは、韓国人には入場回数制限があるようだ。



 
posted by 冬の夢 at 00:37 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年02月14日

アルマーニの制服とフーゴー・ボス

 もし、「アルマーニ」の標準服──事実上の制服だそうだから以下「制服」──を、それまでの負担額より安く着せられるという話だったなら、外野から多少、皮肉をいわれる程度で、むしろ喜ばしく受け入れられたのではないか。
 もし「アルマーニ」や、校長が他にも相談をもちかけたという海外の高級ブランドでなく、銀座の老舗テーラーであるとか、卒業生がやっている服飾店や縫製業者の案を制服にしませんかという話だったなら、やや価格が上がっても「美談」になったのでは。

 きっと、そうだろう。
 だから、この話は間違っているのだ。
 校長ひとりがバカなのではない。全員が間違えている。
 ブランドの可否でも、値段が高いか安いかでも、公立か私立かでもない。

 校長がいう「服育」とやらを、あえて受け止めるなら、「服育」のめざすところはなんだろう。
 それは、「自分が着られる」ことと、「自分で着られる」ことの、ただ二つに尽きる。
 わかりやすくいえば、@お仕着せの制服がないこと、A生徒が自分で決めた服を自分で身につけられること、だ。現代の子ども教育の話でしょ?
「スクールアイデンティティー」のために制服を着ろだの、成長期の子ども服を選んだり買ったりは面倒で費用もかさむから制服にしてくれだのという、愚かな考えはいますぐ捨てたほうがいい。「服育」が必要なのは生徒ではなく、大人のほうだ。

 校長がどこまで本気か理解に苦しむが、銀座に風格があると考え、銀座の学校であることにこだわるなら、生徒たちが、高級すぎも奇抜すぎもしない服装、まあ小学生ならこのあたりが落としどころでしょうという、いろいろな「なり」をして、あの銀座にふつうに群れていればいい。その姿こそ、騒々しい銀座の一端にあっていい風景だし「スクールアイデンティティー」だと、わたしは感じるけどね。
 どうしても見た目のアイデンティティーに固執するなら、体操着やTシャツのフロントに「泰明」なり「GINZA TAIMEI」とでも入れて「ふだん着にしていい」としたら? アメリカの大学のネーム入りトレーナーみたいに校章も入れるか。生徒が着ているのを見て、銀座みやげに欲しがる観光客がいる気がする。

 アルマーニのスーツで小学校に通いたいという子は、そうすればいいし、和装で来たっていい。そのかわり自分で着なさいね、毎朝。
 それをいうなら、受け入れ体制がどうなのか知らないが、外国人の生徒も多くいて、よりさまざまな服装の子がいることのほうが大切だ。教育者なら、有名な「一休さん」のエピソードをご存じないはずはないが、見た目や衣で人を判断したり、ましてイジメたりしては絶対にいけない、ということを教えるほうが、何を着るかという問題以前の「服育」だろう。
 まあ、コトのついでにイヤミをいっておけば、わたしは以前、銀座の近くにある会社に勤めていたから分かるけれど、銀座が伝統と風格だなんて偉ぶったら、笑われますぜ。

 校長が行った「説明」の全文を読み、泰明小学校で行われた、その他の教育プログラムを調べていくと、この学校の空気感は、かなりイヤな感じで伝わってくる。
 校長は、要するに見た目好きの男だ。代理店かプランナー出身ならともかく、そうでないならウラでそれらが入れ知恵しているのではないかと思うほどに。
 そういう人間はしばしばいるので、そのこと自体は構わないが、勇気がないのか斜に構えているのか──人を教える者としては二重に失格だが──そういうやつの案を、バカげているとボツに出来る職員がいない。そのほうが問題かもしれない。

 もし泰明小学校が、そんな職場環境ではないと主張するなら、実際どうなのか説明すればいい。
 まあ、それもこれも含めてPTA総会というのですか、保護者の集会を早急に開くことですね。なぜなら問題があるときこそ、じつは集団の「アイデンティティ」は確立しやすい。もし泰明小学校のPTA活動がさかんでないなら、学校側にとって、かえっていい機会だ。この文の初めのように問題意識の角度が違い過ぎていると、どうしようもない結果になるかもしれないが、それはそれで。

 いまの時代、なにをいってもむなしく、この出来事を調べたり書いたりしようという気持ちはあまり起きなかった。しかし、やはり書いてしまった。
 経験上、「制服」に対する極度の嫌悪感があるからだ。
 べつにヤンキー生徒のような変な制服を着たことはないが、服装で教師に叱られることが意外なほどあった。それは例外なく、くだらなくて抑圧的な、そのうえ現在はとっくに消え去っているに違いない、数々の校則と連動していたことを昨日のことのように不快に思い出す。

 アメリカ西海岸に住む友だちがいて、ずいぶん前に彼が「制服」について教えてくれたことも、中高生時代の制服経験とつながって心に残っている。
 その友だちは、「制服」には悪魔のような誘引力があるといっていた。
 ことにナチスのそれは「最高よ!」。
 デザイン、色彩、小道具、どれもワクワクするような、すばらしいカッコよさなのだそうだ。つまりゲイである彼の性的興奮をおおいに刺激するのだが、誰でも、そのケは持っているのよ。あの制服は、それを煽るように造られているのね、男はみな憧れて、ナチスの男世界に吸い寄せられるように出来ているのよ、と。
 
 まさかと思っていたわたしも、その後、めずらしいナチス・ドイツ時代のカラー記録映画を観る機会があったとき、「それはありうる!」と感じてしまった。歴史の知識が皆無なら、もっと強く感じたかもしれない。
 親衛隊の黒、国防軍の緑、突撃隊やヒトラー・ユーゲントの茶色……その色合いのよさ、誰にも似合うラインのシャープさは、怖ろしいほどだ。それらのワードローブの多くをデザイン──基本形を洗練化──したのは、フーゴー・ボス(HUGO BOSS)であることは、もちろんご存じだろう。

 もちろん、現代の「ヒューゴ・ボス」はいうまでもなく「アルマーニ」を批判するつもりでこの文を書いたのではないが、まだ、子どもに「すてきな制服」を着せたいですか? まあ、どうしても着せたい、着たいというならしかたないけど……。(ケ)

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こういう写真で「ロゴ」を載せると怒られるんでしょうか。ご覧の通り「空き袋」ですが。
と思ってネットを見ていたら、この「空き袋」がオークションやフリマで売られていると知った。
 いかん、目まいがしてきた……。

posted by 冬の夢 at 14:49 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年02月13日

ジャーナリストというチンピラ……の初仕事、国会議事堂と少年探偵団

 これ以上、記憶の切れっぱしを書き並べるのも、どうかと思うけれど……。

 国会議事堂へ行けと命じられたときのこと。
 雑誌の記者になった年か、それとも二年目めか。ともかく三十年以上前だ。
 はっきり思い出せるのはワンシーンだけ。
 けれど、家電店に並ぶテレビに国会中継が映っていたりすると、いまだにその場面が記憶の底から立ちあがる。

 またしても、いつ、なにを取材していたのか分からない。
 ニュースの現場にいた期間は長くないから、かかわった記事を探していけばわかるだろうが、そんな気にはなれない。
 議事堂へ入るのは、小中学校どちらかの修学旅行以来のはずで、だとしたらまさに「初仕事」だが、何度めかだった気もする。取材でなく何かことづけで行っていたのか。当時の雑誌周辺にはまだトップ屋さん業界の人々がうごめいていたから、あるいはそのひとりに連れられて議員会館あたりへ行ったのを勘違いしているのか。

 かようにあやふやなうえ、以後、国政取材の経験はないも同然だから、ほんとうの経験であるのは間違いないが、短編小説のように読んでいただいたほうがいいかもしれない。

 記憶に残るワンシーンは短い。
 叱られた。
 たしか知らない記者に。自分と関係ない社の記者だ。
 すぐ、自分と関係がある社の先輩記者──ずいぶん歳上に思えた──にも叱られた。恥をかかせるな、という感じで。
 この人たちの顔も風体もすっかり忘れた。自分の近くに集まっていた政治担当記者の集団から飛んできた叱声だった気もする。

 お前は、どこのどいつで、ここでいったい何をしているのか、ということだった。バッジ──出入許可証となる記者章──を、どこで手に入れたんだ、というようなこともいわれた。

 あれは地下だったのか、階段をすこし降りた──いや、上がったか、ひょっとすると議事堂でなく自民党本部だったかもしれない。すみません──扉を閉ざした室の近くに記者たちが集まっていた。
 わたしは扉に近づき、中のやりとりを聞いていた。経験のないわたしに政治記事を任せたとは思えないので、ほかのベテラン記者のため、知り得たことをメモして渡せという指示だったのでは。でなければ、やらない、

 それが、いけなかったらしい。
 会合が終わって出てきた政治家を、大手メディアの政治部記者たちのみが「囲み取材」し、政治家が去った後、記者全員で「読みあわせ」をして、統一した内容を各社の政治部へ送る。「立ち聞き」はなし──それは、国会取材の不文律だということを、そのとき初めて知った。

 国会へ行けと命じた上司だったか編集長だったかが、社のどこかの部署に、こうこう申し出ろと教えてくれ、わたしはバッジとカードつまり記者章と証明証、そして腕章を持っていた。それと小さいメモ帳。
 三十数年後、当時の編集長より歳をくってみると、あのときの自分はまるで「少年探偵団」に見えただろうなと苦笑してしまう。当時の政治記者たちには、まさに「記者に変装でもして紛れ込んだつもりか小林君!」てなふうに見えたに違いない。

 わたしが属した社は国会記者会の加盟社だったから、議事堂内への通行手形であるバッジとカード──国会記者会への申請発行だったはず──は、政治担当記者でなくとも社内のしかるべき管理部署に申し出ればワンショットで使えた(その数年後『日常的に政治取材を行う者』に限られるようになった)。
 いわれた通り社内手続きをして来ているのに、なぜバッジ泥棒あつかいされたかについては、説明が必要だろう。説明しなければならないことがそもそも、国会や省庁の取材方法の奇怪さを「説明」しているわけだが……。

 説明の前にお断りしておくと、民主党が政権を得た二〇〇九年から二〇一〇年にかけ、各府省の取材オープン化が進められたことはご存じだろうか。
 全面開放でなく担当大臣それぞれの考えかたが軸だったことや、形式に実質が伴ったかどうかは別としても、わたしが「紛れ込んだ」ときにくらべれば、現在では事情が大きく変わっていると想像されるので、これはあくまで三十年前の話だ。

 全国紙や在京キー局の政治部員であること、それは出世への特急列車の乗客であることを意味した。
 社長や役員への近道であり、社内出世など興味はなく記者職をまっとうすると表明し、編集委員や論説委員という立場を選んでも、テレビ出演できたり大学教授になれるなど「社会的出世」の可能性が開ける。逆にいえば、どのような記者であれば、その列車に乗れるか、ということになろうか。
 そして、その特急にだけ特別車内サービスがある。乗っている者たちだけが情報をひとり占めにできるという。
 その特急にとつぜん「紛れ込んで」きた、わたしという「チンピラ」が、すでに指定席についている乗客にどう見えるか、想像していただこう。それで説明はじゅうぶんだと思う。

 もちろん、そのときのわたしは、まちがいなく「少年探偵団」、それも団員バッジも持て余すようなガキだ。叱られても追い出されても、しかたがない。
 しかし、問題意識や探究心があり活動歴もあるのに、政治を直接取材したくとも「看板」がないだけで座席指定券を得られない人たちを、わたしのような「チンピラ」と同列に閉め出す理由は、あったのかどうか。

 実際には、「政治記者」を名乗れば誰も彼も議事堂内を闊歩できるとなったら、優秀なフリーランス記者でなく「チンピラ」だらけになるかもしれない。その昔の「羽織ゴロ」というやつだ。政治の側に「院外団」というのがいたように「清濁」でいえば「濁」のフロント企業みたいな存在だ。
 記者クラブ方式による取材管理システムは、メディアが自ら衿を正し濁を廃して、政治に「清」の流れを招く水門のようなものとして、始めたものかもしれない。そうであるなら、理がないとはいえない。
 すべて、その方式のおかげかどうかはわからないが、いまでは政治の側から表門を通して情報が伝わるようにもなり、スマートに持論を語る政治家もふえ、公表資料はネットで直接に調べられもして、風通しがよくなったような感じはする。
 しかし、家電店のテレビに映った政治や省庁の会見中継にふと見入るたび、ここで書いたワンシーンが消えることなく心中に現れる。

 調べようがなくわからないが、フリーランスの取材者や小規模メディアの記者の数は、政治取材現場に増えたのだろうか。どうもそうは見えない。テレビに映らない後方に配席されるのか、質問機会が制限されているのか。それとも、結局は出席する数が少ないのか。
 会見取材のオープン化が議論になったのち、記者クラブに属するマスコミ記者たちの姿勢や取材は変わったのだろうか。そして、民主党政権時代が終わって以後、状況としてはどうなっているのだろう。
 これらも、よくわからない。まれに、かなり攻撃的に質問している記者もいるが、なぜか「仕込み」のように見えてしまう。
 それが、政治取材の仕組みに抜本的な変化も改善もなかったか、あるいは「オープン」になっても、それが有効に機能しなかったことの現われでないことを祈りたい。

 政治関連の会見が、荒れた場合を含めても、いつもどこかお芝居めいて見えるのは、少年少女のように清新な心で政治の清濁を見きわめたいと考える記者が、そこにはいられないか、そもそもいない、ということでもあるかもしれない。
 残念にもそうだった場合、それはかならずしも、比較的若い世代の現場の取材者たちの非ではない。小林少年ら少年探偵団員たちが、完全な信頼と尊敬とともに、その正義を信じて現場へ走らんとした「明智先生」こと、明智小五郎のような存在が、いまのメディアに欠けているということでもある。(ケ)[この項おわり] 

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現在の国会議事堂が竣工したのは昭和十一年(一九三六年)。
同年十一月七日に発行された四種類の記念切手のひとつ、十銭切手。
切手にもあるとおり完成当時は「帝国議会議事堂」である。
public domain item



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posted by 冬の夢 at 02:22 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年02月10日

ジャーナリストというチンピラ……の初仕事、ホロホロ鳥を絶滅せよ

 三十年以上前のこと。
 雑誌記者になりたてのころ、取材をしていてホロホロ鳥に蹴られ──ツツかれたのかも。瞬間のことでよくおぼえていない──眉の上が切れた。
 数年前に事故で、やはり眉上がかなり切れ、その傷が目立つから「ホロホロ傷」はあまり分からなくなった。いいのか悪いのか分からないが。

 ホロホロ鳥の飼育業者でもない限り、ホロホロ鳥に蹴られる仕事というのは、あまりないのでは。まあ昔の新米記者には、そういうこともあった。

 なんだか、話題がどんどんセコくなってきた。
 そろそろやめよう、この方面の話は。
 誰もが知っている事件の裏話が面白がられることは分かっている。それを自慢話の「定番ネタ」にしている元・記者たちを、かつて知っていた。
 わたしの場合、新人を卒業できたかどうかもわからないうちに記者の仕事に縁がなくなった。大きな事件に長くかかわったことはない。
 それもさることながら、出来事の大小に関係なく、どうでもいい細部くらいしか思い出せないのだ。記事に書くため忘れないよう見聞したのに、忘れてしまっている。

 いま思うに、失敗が不安で──上司や先輩からじつによく怒声を浴びた──ひとつ終わるたび、なにもかも記憶から飛んでしまったのだろう。所変われば品変る仕事へ毎度つっ込むには、無意識に「リセット」するのも必要だったのか。

 だから、なぜ「ホロホロ鳥」だったのか、よく思い出せない。
 たしか「わが街の変わった有名人特集」のような記事づくりか。地方へ出張までした記憶があり、カメラマンも同行したから、見た目からしてかなり「変わった」ところへ行ったはずだ。
 くどいが、インターネットがない時代だ。どう見つけたかも不思議だが、事前に検索できないからには、わざわざ遠出したうえ「出たとこ勝負」だったわけだ。

 取材先のようすは、なんとなく記憶がある。
 ふつうの住宅なのだが、飼える限りのあらゆる動物を飼っている「個人動物園」みたいなウチだった。
 まさかゾウやキリン、牛馬はいないが、ニワトリやブタ、ヤギに、ウサギなどか。そのほかあれこれ、ホンモノの動物園にある「こどもどうぶつコーナー」みたいなラインナップだったと思う。
 が、それらが家の内外で放し飼い、いや放置プレイみたいな状態なのだ。その家の子どもが座る座卓の隣を、ヤギが歩き回っていたりする。
 そう、いま思い浮かべていただいているとおり、明らかに「ヤバい」!
 現在なら、場合によっては地域問題では……。

 が、その状態を見ても踵(きびす)を返して逃げられず、なんとか記事にしなきゃと思うのが新米の悲しさだ。とにかく場をつなぐ。しかし聞ける話とてなく、座が持たない。それでも撮影もでき、辞すことに。
 そのまま帰途についていれば何も起きなかった。
 しかし不運にもそのときのカメラマンが、踏ん切りがつかない性格なのか取材が終わって帰る挨拶をすると、あらためて撮り直し始めるようなタイプ。しかたなく居残った。
 あっ、という間もなく、部屋を歩き回っていたホロホロ鳥がこちらへ……。

 この文を書くために、はじめて鳥類図鑑にあるような生態を調べると、攻撃本能まではわからなかったが、どうやらかなり神経質なトリらしい。べつに、チョッカイは出さなかったと思うけど……目を直接やられなかったのは、幸いだったというしかなさそうだ。

 それから六、七年ほど後か、仕事で初めて行ったのをきっかけに、ときどきフランスに行くようになり、フランス料理ではホロホロ鳥がレストランのメニューになっていると知った。
 もちろん食ってやった!
 食った! 食った! 食った!
 いや、それは大げさですけど。

 ホロホロ鳥の味は七面鳥に似ていて──外見もなんとなく似ている──クセが少ない。だから、さまざまな「タレ」に凝っているフランス料理だといい。街角の惣菜店やマルシェで売っているようなテリーヌもイケる。
 そのさらに十年後ぐらいか、日本でも、めったになかったホロホロ料理を、やはりフランス料理店などで見かけるようになった。
 もちろん、食ってやった! 
 最近は焼き鳥店でも供されているらしいが、ここ五年で、すっかり外食をしなくなったので、絶滅するまで食い尽くすつもりだったヤツらは、さんざん繁殖したに違いない。
 こうなったらホロホロ猟師になってショットガンを撃ちまくるか! と思い、いま一度、生態を調べ直すと……日本にはいないみたいですね、野生のは。(ケ)[この項つづく]

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Guineafowl public domain item


Originally Uploaded on Feb. 11, 2018. 13:20:00

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2018年02月09日

ジャーナリストというチンピラ……の初仕事、カロリーメイトのうんこ

 三十数年前、新米記者として週刊誌のニュース誌面作りに加わったわたしは、命じられるがまま右へ左へと走り、記事を書くことになった。

 もちろん大きな事件を長く追ったり、筆力を発揮して連載記事を書くような仕事を任されるはずはなく、このブログの文よりずっと短い報告記事が中心だ。
 そのかわり、あちこちで、さまざまな出来事が待っていた。この分野は知りませんとか、そんな歌手いましたっけ、なんてことは許されない。
 しかも、いまの取材者には想像できないだろうが、インターネットはない。基礎知識を得ることからして、ひと苦労だった。
 
 またしても、念のため。
 この文のタイトルにまつわる話は、嘘も脚色もない本当のことだが、そもそも、いつ、どこで、なにを──記者の基本ですけど──取材していたときだったか確信がない。ひょっとすると取材対象をまったく勘違いしているかも。そうだった場合は、ご容赦いただきたい。

 わたしの「この分野は知らない」「それって誰ですか」つまり、苦手なもののひとつはスポーツだった。いまもそうだ。
 運動神経がなく、学校の体育の授業は恐怖。運動が苦手なぶん競技観戦に熱心になったという人もいるだろうが、見るほうにも、さほど興味がなかった。
 すこしは知っている分野でさえ右往左往なのに、やるも見るもスポーツ音痴の新米記者に、スポーツニュースの記事づくりは容赦なく回ってきた。
 記憶に間違いがなければ「スピードスケート」。その時まで、実戦はもちろんテレビでもほとんど見たことがなかった。
 速報ではなく、翌週に売られる雑誌に載せるのだから、大きな競技会だったろう。

 話している当人が、調べて思い出すようではしかたないが、おそらくそれは世界スプリント選手権。当時の日本のエース、黒岩彰の活躍を紹介したのではなかったか。黒岩はこの選手権で二度も優勝しているが、いずれも海外開催。国内開催時は三位をとっていて、そのときが、わたしの短い記者時代に重なっている。

 取材対象がスケートだったにせよスキーだったにせよ、開催地ではひどく疲れてしまった。
 北陸か信越への出張だったが、慣れないので寝食の手配を怠っていた。パソコンもネットもないから、海外選手の名や競技結果などは、その場で間違いないようにまとめ、持っていなければならない。競技の技術的なことが分からないままなのも、心配のタネになり続ける。

 さて本題。
 兵站の調査・準備不足で、寝食にとても困った。
 天候不順で足止めもくった記憶がある。
 寒いので、食べて休んで体力を回復しないと、凍えてしまう。

 そのとき、わたしとカメラマンを救った「食糧」は「カロリーメイト」だった。
 おそらく大塚製薬が協賛社で、サンプルだったのか、会場にカロリーメイトが山とあった。缶入りドリンク版もあり、記者さんはご自由にというわけで、取材期間中の食事と飲みものは、カロリーメイトだけで過ごした。大塚製薬には借りがある。
 しかし、食べても飲んでもカロリーメイト味、それも毎食……あんなことがよく出来たものだ。「若かった」としかいいようがないし、ミスしないようにというプレッシャーが強くて食事などどうでもよかったのだろう。空き時間の間食にもカロリーメイトを食べていた。
 
 そしたら、朝、色もニオイもカロリーメイトのうんこが出た。
 わびしかった。
 というわけで、この話は終わり。つまらなくて、すみません。

 同行のカメラマンも同じ「食生活」だったが、この話はしていない。
 ほぼ同世代の、フリーランスの契約カメラマンだった。悪いことをした。
 早々にフリーカメラマンを廃業し、地元に戻って手堅い仕事についたように聞いた。
 インタビューした記憶がまったくないので、やっぱり取材した出来事を間違えているかもしれないが、黒岩彰──「クロサワアキラ」と一音違いなんですね──も同世代。この人は以後、スポーツ界の表にも裏にも付き合った後、明日から平昌で始まる冬季オリンピックスピードスケート競技に、日本選手団の総務担当として名を連ねている。(ケ)[この項つづく]

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