2017年04月26日

AVERAGE WHITE BAND − WHATCHA' GONNA DO FOR ME 元気が出る曲のことを書こう[23]

 徹夜仕事が重なったりしたとき、よく聴いた音楽を思い出してみた。今回はバブル崩壊後、つまり二十五年くらい前のこと。

 徹夜明けの早朝、通勤ラッシュ前の電車で帰るとき、よく聴いた音楽。
 斜め坐りに席にヘタリ込む。沈む舟の穴ふさぎのような仕事の後で、日本のポップ音楽を聴く気にはなれなかった。説明的で煩わしい歌詞。前ノリというのだろうか、聴き疲れしてしまうリズム。
 自分を、それとなく支えてくれたのは、このバンドだった。

 アヴェレイジ・ホワイト・バンド。
 気持ちいいファンクやR&Bを演奏する。一九七二年、スコットランド出身のメンバーで結成、解散、人員交代をへて現在も活動している。
 一九七四年のヒットで歌のない「pick up the pieces」のリフは、音楽にあまりくわしくない人も、どこかで耳にしたことがあるはず。カバーやサンプリングででも。
「あ! これか!」──そう、アヴェレイジ・ホワイト・バンドの曲なんですよ。 
「pick up the pieces」のころはバンド全員が白人だけれど、黒人のソウル、ファンクのグループだといわれたら、もちろんそう聴こえる。
 もっとも、そういう表現はナンセンスだな。白人ながら黒っぽい演奏、というふうに、いまだによく使われるようですけどね。

 いきなり固い話にするつもりはないが、ソウルやファンク、R&Bを、白人が演奏すると黒っぽくないといったり、黒人が演奏していると「黒い(いい意味でだが)」というのはおかしい。わたしもよくやってしまうが、音楽を黒さの濃度でいうのに悪意はないにしても、生まれつきの「色」で決まるはずがない。
 この「平均的白人楽団」の演奏を、「白人にしては黒っぽい」とか「白人だから黒っぽさが少ない」とかいってしまうと、バンドメンバーを、ただの「なりたがり」wannabe だといっていることになりかねない。

 だったら、白人が黒人文化の共有を推進しているバンドだといっておけばいいかというと、こんどは「クロスオーヴァー」の問題がある。
 クロスオーヴァーとは、黒人音楽を白人社会が共有したように見えても、あくまで「白人用」に調整ずみの、「ソウル」を失った音楽が売れているにすぎない現象のこと。わたしが思いついたのではなく、一九八〇年代に黒人としての立場から攻撃的な音楽評論を書いていたネルソン・ジョージがいい出したことだ。
 以後、現在までに、状況がどうなったかは実感として知ることはできなかったから、わからない。同様に、音楽を黒と白に分けないと「ソウル」が失われていくかどうかも、わたしには答えられない。デビューしたときはまったく売れなかったアヴェレイジ・ホワイト・バンドは、アメリカでの大ヒットをきっかけに地位をつかみ今日も演奏を続けているが、アメリカやイギリスでは、人種的な意識があったうえで人気を得ていたのか、それとも人種のことは誰も気にしていなかったのか。

 バンドメンバーのひとりによれば、「踊れる音楽、バーでお酒を飲みながら聴ける音楽、それがAWBのベースにあるんだ」という。
 結成当時のスコットランドでソウルやR&Bが流行していたり、カバーバンドが多かったりしたことは、まったくなかったそうだ。人気があったのはデイヴィッド・ボウイやプログレッシブ・ロックだったという。
 人気者たちと同世代だったバンドメンバーは「もう十分大人になっていたからロンドン・ブーツにフリルのズボンみたいなのを履くのも気が引け」たとのこと。ソウルやファンキー・ジャズを聴いて育ったというから、同世代の若者としては、大人びていたかもしれない。

 そうか、バーで呑みながら聴いたことはなかったな!
 早朝の下り電車で、よく聴いた盤は一九八〇年の「Shine」。
 このバンドにしては、かなりポップス、ディスコっぽくて、やや異色の盤だ。
 それもそのはず、くそ、またデイヴィッド・フォスターが制作している盤じゃないか!
 結局そこですか、俺の趣味は……。
 持っているアナログ盤をカセットテープに録音して持ち歩いたので、いつも一曲目の「Our Time Has Come」から聴いていた。

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 Looking back on the road we left behind
  通り過ぎてきた道をふり返り
 I wonder just what it is we've done
  俺たちがしたことは なんだったんだと思う
 Seems like we've earned the right
  もういちどダイスをふれる権利を
 To throw the dice again
  つかもうとしてきたってことらしいな
 Let's make the pieces fit together - As one
  とっちらかったことを ひとつにまとめようぜ
 To be masters of our own fate
  自分の運命は自分で決めろってことさ
 - is all we're asking for
  俺たちが求めるのはそれだけだ
 Looks like we don't have long
  これ以上 待つことはできない
 To wait, no more
  みたいだから もう

 Now, now that our time has come
  さあ 俺たちの番はもう来てるぞ
 - let's take our chance right now,
  いまこの瞬間 チャンスをモノにしよう
 Now, let's finish what we begun -
  始めたことにケリはつけなきゃな
 - no time to hang around
  おたおたしてるヒマはないぜ
 Now that our time has finally
  俺たちの番が いよいよめぐって
 Come around
  きたんだからな  (以下略)

 いま聴くと、たしかに、同じくフォスターが制作にかかわったアース・ウィンド・アンド・ファイアに、似ていなくもない。
 しかし、仕立ては似ていれど、歌がかもしだす空気感はまったく違う。
 アラン・ゴーリーの、ジャリっとパンチが効いた声のAメロ、ヘイミッシュ・ステュアートの、煙ったハイトーンがたまらないブリッジ、そして二人のハモに強烈なホーンセクションがぶつかるサビ! それぞれとても個性的な声が、フォーメーションシフトで迫ってくる気持ちよさ。
 和訳すると気恥ずかしい歌詞だが、当時は同時に聞きとる英語力不足。おかげで「意味は知っている」くらいの距離感があり、それがよかった。

 この曲と四曲めが、完璧に響き合う。
 心の凝りがわずかに緩む。首や肩のコリも楽にしたかったのか、頷くようにリズムをとっていた記憶もある。いま電車内でやると通報されるかもしれないが。
 四曲めとは「What cha' gonna do for me」! 
 のちに日本でもよく聴かれたチャカ・カーンの歌で知っている人がほとんどだと思うが、これもアヴェレイジ・ホワイト・バンドなんですよ。
 作曲者のひとり、ステュアートが自分で歌っているが、そのスモーキーボイスが、はまり過ぎるほどはまった曲だ。

 All night and day
  夜も昼も
 Just chippin' away
  ただ骨身を削る
 It's all in a day's work
  毎日それしかない
 Tryin' hard to defend
  必死で守りながら
 The time that I spend alone
  ひとりで過ごせる時間と
 The crown that you lose
  あんたらが失うカネ
 Exploiting the blues
  ブルースを歌ってみても
 Won't get the job done
  仕事は終わらない
 As hard as it bites
  まるで仕事に噛みつかれたみたいに
 I'm keepin' my sights on you
  お前をただ見つめるだけ

 What cha' gonna do for me
  俺に何をしてくれるんだい
 What cha' gonna do for me
  俺に何をしてくれるんだい
 What cha' gonna do for me
  俺に何をしてくれるんだい
 When the chips are down
  いざってときに  (以下略)

 ぱららドたたたたチーとッ
 イントロのドラムが、さりげないのにカッコいい!
 基本のコード進行は、Dm7 → Am7 だ。スチュアートはギターでDm9を弾いている。チャーの「Smoky」の Em9 → Dm9 もそうだが、ギターのマイナー9thにはどくとくの浮遊感があって、ロックやファンクの曲でそれを使うと、ほとんど自動的にカッコいい。地を這うようなブルースの呪詛ではなく、大都市労働者の憂鬱を曇った早朝の街路に浮かべたような感じ。そこが身にしみた。

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「Shine」のジャケット裏 右端がゴーリー、左端がステュアート

「Shine」の翌年、一九八一年に出たチャカ・カーンのヴァージョンは「仕事とわたしと、どちらが大切なの」って文脈での「What cha' gonna do for me」だといえて、それはそれで解りやすく、だから日本ではオリジナルより知られたのだと思う。
 女に「What cha' gonna do for me」といわれたら反論できないが、仕事と女の板ばさみに合ったような気分で──実際にそういうこともあり──自分にはあまり気持ちのいい歌ではなかった。
 この文での歌詞の解釈は間違っているかもしれないが、真夜中のパブの紫煙のようなステュアートの声で聴くオリジナルを、こんなふうに受け止め、1曲目の「Our Time Has Come」と響き合わせて聴くほうが心地よかった。オリジナル発売から十年以上のちのことだけれど。
 ひょっとすると、三十年たってもっとも変わったこと──日本の労働環境で──は、若い世代に「仕事とわたしの、どちらをとるつもりなの」なんて場面は、あり得なくなったということではないか。
 それともいまだに、そういうモメかた、するのだろうか。

 最近はこの曲を聴くことはめったになくなり、AWBのライブにも行ったことがないが、いま書きながら「Shine」を回してみると、さまざまな解釈や記憶が心を巡り、懐旧にふけるというより、いまの気持ちで聴き入ることができる。「What cha' gonna do for me」のコード進行もあいかわらずカッコよく、しまい込んだギターを出してみたくなった。仕事は結局うまくいかずに何年もの人生をムダにしたけれど、自分のそばに、こういう音楽があったことは、ありがたい。

 ところがメンバーは、この盤が好きでないらしい。それも、ぜんぜん!
 たしかにこのバンドにしては異色っぽいが、いい盤なのにな〜。

 そこそこヒットしたが、作らされた気がして不満がたまったそうだ。
 そのくせ二年後、懲りずにディスコソングが得意なダン・ハートマン──ジェイムズ・ブラウンの「Linving in America」(一九八五年)を作った人──の制作で盤を作る。しかしバンドは「割れたグラスのようにもう元には戻ら」なくなっていて、ヒットもせず、いったん解散することになる。
 だったら、ポップスやディスコの制作者に仕切られる録音などせず、好きなスタイルにこだわってレコードを作り続ければよかったじゃないかとも思うが、さっきの「クロスオーバー」が本格的に起きている時代だ。売れてバンドを続けたいなら妥協的変化やむなし、という判断があったに違いない。そして、話をむし返すつもりはないが、ファンクやソウルミュージックをやるバンドにおける、「白×白」、それが裏目に出てしまったということだ。
 
 バブル景気騒動に直接ゆさぶられる職種ではなかったけれど、はじめに書いたように明らかに細っていく、すべり落ちていく感覚があったのは確実だ。残念ながら「妥協」という判断が多く、こだわりも、変わり身も、積極的な方針にはならなかった。だから辻褄合わせだけが増え、仕事が長くなったのだ。
 ちょうどそんなころ、似たような事情で制作された盤が好きで聴いていたとは! 巡り合わせとは怖ろしい。(ケ)
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現在のメンバー  from promotion kit


※バンドメンバーのコメントほか情報は、創設メンバーのひとり、オニー・マッキンタイア(上写真・白帽子の人、腕組みの人がアラン・ゴーリー)のインタビュー記事を参考にしました。『AOR AGE vol.2』二〇一五年/シンコーミュージック・エンタテインメント
2017年04月21日

『君も出世ができる』 〜 日本でもミュージカル映画ができる

出張で地方都市のビジネスホテルに泊まったときのことだ。疲れる飲み会がやっと終わって、ホテルの部屋に戻り、何気なくホテルの有線TVのスイッチを入れた。ブラウン管の小さな画面に出てきたのは、益田喜頓と雪村いづみと有島一郎の三人。こ、これは!思わずTVにかじりついた。この顔合わせは『君も出世ができる』じゃないか!放映の途中からだったが、スーツも脱がずに見入ってしまった。
『君も出世ができる』は昭和三十九年(1964年)の作品。本格的なミュージカル映画を日本で作ってみせようと製作された東宝映画。DVD化はされているが、神保町シアターという旧作ばかりをかけるシブいミニシアターで上映されることになった。これでいよいよスクリーンで見られると仕事帰りに駆けつけたら、やっぱりほぼ満席。待望の映画館での上映だったのである。

日本におけるミュージカル映画というと、真っ先に出てくるのが『鴛鴦歌合戦』。昭和十四年(1939年)にマキノ正博(※1)監督が早撮りで作った「オペレッタ時代劇」だ。二年後に太平洋戦争が始まるという時期なのに、ジャズ調歌謡曲がてんこ盛りという快作。若き美男子だったディック・ミネがお殿様役となって、着物姿が美しい服部富子(※2)と並んで江戸の町を歌いながら練り歩く。その二人をフルショットでカメラをドリーバックさせて長回しで撮るあたりに、マキノ正博の映像センスの良さが伺える。
戦後では、注目は『初春狸御殿』あたりだろうか。昭和三十四年(1959年)に大映が市川雷蔵、勝新太郎、若尾文子を揃えて正月映画として公開した。落語で狸と言えば人間を化かす、化かされるという位置づけだが、本作では狸の世界と人間界がほぼ対等。逆に人間の娘が狸御殿の殿様に嫁入りして、玉の輿に乗ろうとしたりする。いい気分で歌っている雷蔵と勝新は、後の眠狂四郎と座頭市。大映ならではのキャスティングが楽しめる。

しかしながら、両作ともに「ミュージカル映画」と言うにはどうも寸足らずであって、歌入り時代劇とでも呼ぶのが適当であろう。何が不足していたのかに思い及ぼすならば、「ミュージカル映画」とは何かという問題に立ち還らなければならない。
ミュージカル映画の発祥の地は言わずと知れたハリウッド。アメリカで映画産業が一大ビジネスになったのは1920年代以降のことだが、いち早くミュージカル映画をジャンルとして確立したのがMGMであった。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの三つのスタジオが合体して出来たMGMは、1929年に世界初のミュージカル映画『ブロードウェイ・メロディ』を世に送り出す。映画が音声を持った、いわゆる「トーキー」の誕生は、1927年製作の『ジャズ・シンガー』。MGMはその二年後に初めて「声」を「歌」に変えたのだった。
そして、ミュージカル映画の覇道を行くMGMは、「歌」に「踊り」を加え、「踊り」は個人と集団に分かれて進化していく。個人技は、フレッド・アステアやジーン・ケリーに代表されるプロフェッショナルなタップダンス。集団はと言えば、巨大なセットの中で大勢のダンサーがマスゲームのように群舞するアンサンブルへと発展した。エスター・ウィリアムズの水上ダンスのように、ひとりだけだと絵にならないものが、大勢でやると一大スペクタクルに変わってしまう。
歌、ダンス、巨大セット、群舞、スペクタクル…。MGMが中心となって作り上げた「ミュージカル映画」の構成要素を『鴛鴦歌合戦』や『初春狸御殿』に当てはめると、何が足りないかは明白であって、そこには「歌」しかない。個人技と言えるダンスはないし、群舞もない。貧弱なセットの中で、俳優が台詞代わりに歌を唄うだけ。これではとても「ミュージカル映画」とは言えないだろう。

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では、「和製ミュージカル」と銘打って製作された『君も出世ができる』はどうなのか?それが、なんと、「ミュージカル映画」になっているのである。アスファルトの上にチョークで書いたオープニングタイトルから工事現場で主役の四人が踊る大団円まで、歌と踊りとセットと群舞が面白おかしく組み上がった、あっという間の1時間40分なのであった。

まず歌がいい。作詞谷川俊太郎、作曲黛敏郎のコンビがキャラクター別にテーマ曲を書き分け、俳優が演技をしなくても歌を唄うことで物語が進んでいく。フランキー堺は開巻と同時に「出世ができる」を早回しの画面で歌って踊り、仕事で失敗すると酔っ払いサラリーマンの集団(※3)とともに夜の街を「出世ができない」と歌詞を変えて行進する。
居酒屋勤めの中尾ミエは酔い潰れたフランキー堺と一緒に、星空を見上げて郷愁溢れる「田舎においで」を唄う。主役を張る高島忠夫はラクダがいる砂漠の国「タクラマカン」に想いを馳せ、アメリカ帰りの雪村いづみは「アメリカでは」と合理主義を社員に説く。
歌はキャラクターを伝えるだけでなく、人間関係まで表現する。雪村いづみと高島忠夫の箱根のホテルのシーンは見事だ。雪村の「アメリカでは」が高島の「タクラマカン」に次第に押し切られて、ついには「タクラマカン」の合唱に変わる。別々のソロがデュエットになって、恋に落ちたことがわかる。単純だが、これこそがミュージカル映画らしいわかりやすさだ。

そして俳優がいい。その中心にいるのは、間違いなくフランキー堺。そのエネルギッシュでありながら洒脱な動きは、日本映画において類を見ないオリジナリティがある。小太り体型なのに垂直に跳び上がりながら、手と足で別のポーズを決める。キレがあるのにユーモアを感じさせるのは、その飄逸なコロコロ感なのだろう。「出世」が口癖なのに嫌味がなくて品がある。中尾ミエとのシーンで聴かせる低音で深みのある歌声。摩訶不思議な存在感だ。
フランキー堺の動きと対極にあるのが、雪村いづみ。スレンダーなスタイルは別のベクトルで日本人離れしていて、どんなときでもポージングがスタティックに決まる。そして、超絶的な歌の上手さ。声は軽いのに歌はスプリングが効いていて快活だ。さらに決定的な音程のスタビリティ。楽譜そのものを声にして表現する歌唱力は、映画で見ていても明らかだ。
雪村いづみの「アメリカでは」は、ピチカート・ファイヴが2001年に発表したアルバム『さ・え・らジャポン』の中で、収録曲のひとつとして取り上げられた。ピチカートの小西康陽は、雪村いづみ本人をフィーチャーして「アメリカでは」をリプロダクションした。その傑出した完成度が2001年の時点で『君も出世ができる』の再評価につながったことは言うまでもない。加えて、雪村いづみは「さくらさくら」という曲をピチカートのヴォーカル担当野宮真貴とデュエットした。当時四十歳の野宮を六十三歳の雪村が歌唱力で圧倒する姿を見て、小西は絶望したはずだ。このアルバムを最後に、ピチカート・ファイヴは活動を停止することになるわけで、その引き金を引いたのは雪村いづみだったと確信する。
フランキー堺と雪村いづみに比べると、高島忠夫も中尾ミエもやや凡庸に見えてきてしまうのだが、個性派揃いの脇役陣がその才能を遺憾なく発揮する。
益田喜頓。日本映画にこんなに優雅で余裕溢れる紳士然とした俳優がいたことは驚異だ。しかもタッパがあって見栄えがする。デヴィッド・ニーヴンやレックス・ハリスンにも対抗出来そうだ。若大将のお父さん役の有島一郎も登場。情けない課長役を「だからさ〜」「でもさ〜」と「さ〜」ひとつで愛嬌のある人物に変えてしまう。東宝映画には欠かせない芸人系俳優である。そして浜美枝。脇に収まるはずではない女優を社長の愛人役で起用するあたりに本作の意気込みが感じられる。この人もまた日本人離れした派手な顔と抜群のプロポーションを持っていて、まだ二十歳だと言うのに惜しみなく下着姿を披露している。

歌、俳優と来たら、次はセット。印象的なのは箱根のゴールデンホテルと東和観光本社オフィス。ポストモダン建築の特徴が要所で押さえられていて、セット自体が映画の洗練さを主張する。美術を担当した村木忍は、黒澤組の村木与四郎の奥さんで、『乱』では夫婦共同で美術監督を担った実力者だ。
ホテルのほうは、ロビーやラウンジの造りが当時の東宝映画の王道を行っていて、もしかしたら他の映画との共用だったのかも知れない。エントランスの外観はロケ撮影で、使われたのは箱根の小涌園ホテル(※4)。校倉造り風のL字型の建物は、『エレキの若大将』にも取り上げられた。瀟洒なリゾートホテルの代表的建築物だったのだろう。
東和観光本社オフィスは、柱のない広いフロアに一人一台のデスクが一方向に向かってズラリと並ぶ。その平場のデスクを飛び越えて壁際の個室に移動したのは『アパートの鍵貸します』のジャック・レモンだが、そのひたすらに広いオフィスのスタイルを踏襲している。社長令嬢がアメリカ式経営を導入する前からアメリカ式オフィスなのはご愛嬌だが、これが本作ならではの舞台装置になってくる。

そう!『君も出世ができる』の中で最高にセンスが良く、最大のスペクタキュラーシーンは「アメリカでは」の歌と踊り。この場面だけでも『君も出世ができる』を見る価値は十分にある。雪村いづみのドライでクリアな歌声を軸にして、数十人の社員たちがオフィスの様々な機能や備品をフル活用して、ダンサブルかつジオメトリックに動き回る。デスク、回転椅子、電話室、パントリー、部署表示の看板などなど。黛敏郎の楽曲もゴキゲンなら、谷川俊太郎の詞も今なら即発禁ものの大胆さ。そこに瞬間たりとも止まることのないフランキー堺と、動いているのにファッション雑誌のグラビアのように見える雪村いづみが重なる。総天然色の色のあせ具合も相俟って、これぞ日本映画が到達したミュージカル映画の最高峰だと断言出来る出来栄えである。

『君も出世ができる』の製作にあたって、プロデューサーの藤本真澄は、監督の須川栄三にアメリカへ出張させて本場のミュージカルを勉強させたと言う。『君も出世ができる』というタイトルからすぐに思いつくのは、アメリカ映画『努力しないで出世する方法』(※5)だが、1967年の製作で計算が合わない。調べてみるとやっぱりで、元はブロードウェイで上演された"How to succeed in business without really trying"という舞台だった。1962年にトニー賞最優秀ミュージカル作品賞をとっているから、須川たち一行はこの舞台を見たに違いない。映画を見る限り、出世のためには平気でエゲツないことをするイヤな小男が成り上がる唾棄すべき駄作だったが、ブロードウェイではどうだったのだろう。いろんな影響を受けたのだと推測するが、『君も出世ができる』に出てくる「サラリーマン出世三ヶ条(1)社長の娘と結婚する(2)労働組合の幹部になる(3)社長の弱みを握る」だけは日本のオリジナルであろう。

こうして、今見ても十二分に楽しめる本格的ミュージカル映画が残されたのは、プロデューサーとスタッフとキャストが一体となって日本映画の歴史を刻もうとした意欲ゆえのことである。同時に、この映画には1964年の東京がありのままに記録されてもいる。東和観光本社を出たフランキー堺と高島忠夫が歩くのは西河岸橋。向こうには日本橋がかかっていて、その上にはすでに空を覆うような首都高が完成済みだ。
大団円となるラスト、フランキー堺は主任、高島忠夫は課長に「出世」する。「出世」が合い言葉になり得た時代ははるか昔のことである。と締めようと思ったら、今の新入社員の意識調査によると9割近くが「出世意欲がある」らしい(※6)。ならば、現代版『君も出世ができる』を作ってもヒットするかも知れない。
いや、でも作れないんだな、これが。だってフランキー堺と雪村いづみがいないんだもの。この二人に代わる人材が現れない限り、日本でミュージカル映画はできないのだろう。(き)

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(※1)マキノ正博(1908ー1993)は、日本映画の父とも呼ばれる牧野省三の息子。たびたび名前の表記を変える癖があり、代表作の『次郎長三国志』シリーズは「マキノ雅弘」名義のときの作品。俳優の長門裕之、津川雅彦は甥にあたる。

(※2)服部富子は、作曲家服部良一の妹。多くのアニメテーマ曲やCMソングを作曲した服部克久の叔母にあたる。

(※3)集団の踊りに入る前のガード下の酒場の場面では、植木等が「無責任男」として特別出演している。

(※4)2017年2月22日の産経新聞によると「ホテル小涌園、来年一月閉館 箱根の"顔" 60年の歴史に幕」になると言う。

(※5)『努力しないで出世する方法』は1967年のアメリカ映画。デヴィッド・スウィフト監督、ロバート・モース主演。

(※6)「2016年マイナビ新入社員意識調査」によると「出世したいと思いますか」の問いに対する答えは「出世したい」43.3%、「どちらかといえば出世したい」46.0%で、この回答傾向はここ数年ほとんど同じである。



posted by 冬の夢 at 21:47 | Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2017年04月19日

VAN McCOY − THE HUSTLE 元気が出る曲のことを書こう[22]

 ソウルやディスコの曲がなかなか登場しないので、なぜかなと思っていた。
 どの曲を聴いても元気になるから、だろうか。 
 追憶や後悔、あるいは夢想にふけるより、いまの君が好きなんだ、今夜こそ、みたいな曲が多く、踊り出したくなるリズムで聞いたら、いやおうなく調子が出る。だから、これ1曲となると、思いつきにくいのかもしれない。

 ならば、このジャンルで「元気になった初めての曲」を思い出すことにした。
 初めての曲かどうかは、さだかでないが、すぐ思い出すのはこれだ。

  Woo
   う〜うううう〜
  Woo
   う〜うううう〜
  Do it!
   ちぇすと!
  Do the hustle!
   皆ハッスル!
  Do the hustle!
   皆ハッスル!

 はい! ヴァン・マッコイの「ザ・ハッスル」! 
 いまの人は知らんでしょうが、旧制、帝大時代は、ここだってとき怒鳴ったと思いますよ、「チェーストゥ」と! 実際、薩摩示現流の気合らしい。もとの歌詞とは関係ないけど。
 曲は一九七五年夏の大ヒット。世界中で人気となり、トータル1千万枚以上売れたそうだ。日本でも同年夏の、洋楽最大の人気曲だったという。
 日本での人気は、それで間違いない。その年は小学生、いや中1くらいだが、地方都市だったこともあり、まだ街なかに「BGM」がいまほど流れていないのに、どこへ行ってもこれが聴こえたという、うっとうしいほどの思い出があるからだ。
 歌詞や歌メロが、まさに「気合」みたいな、歌唱ものでない洋楽が日本でトップヒットになったことは、ほとんどなかったのでは。まして当時の日本では、ディスコに人気が出つつあったにしても、このジャンルのファンがいまほど広く多くいたとは思えないので、なぜ全国ヒットしたのか不思議だ。

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 想像だが、「ハッスル」という言葉が、さきに日本に根づいていたからではなかろうか。

 ものの本によると「ハッスル」を最初に輸入したのは、阪神タイガースなのだという。一九六三年のアメリカキャンプから「ハッスルプレー」を持ち帰り、流行語になったのだとか。※1
 当時の新聞を調べると阪神は、その年の二月に初の海外キャンプを実施していて、フロリダ州リーランドで、デトロイト・タイガーズのキャンプに参加している。※2
 そっか、「ハッスル」って言葉はモータウン由来だったんだ! と、かなり感動。

 その、阪神タイガースが輸入したての「ハッスル」が、いかに広まっていたかは、同年秋公開の東宝映画「クレージー作戦 くたばれ!無責任」をみれば一目瞭然だ。※3

 製菓会社の経営改善のため開発された新商品、それは、元気の出るコーラ。
 ためしに社内有数の無気力社員、田中太郎──もちろん植木等──に飲ませてみたら、たちまちバリバリの働き手に変身。無気力社員のときは画面がモノクロで、コーラを飲んで効能が現われるとカラーに!
 ところが興奮成分を入れたせいで販売認可が降りず、責任をとらされそうになった重役は、子会社の販社を作って、成分抜きの生産済み在庫の営業を押し付ける。内幕を知らずクビ含みで出向させられたのは、クレージーキャッツ演じるダメ社員たち……という設定だ。
 おかしいな。書いていて、どこか笑えない感じもする。

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 元気の出るコーラとは、その名も「ハッスルコーラ」!
「飲めばたちまちファイトがわいて、猛然とハッスルするハッスルコーラ」
 なんの説明もなく「ハッスル」が連発される。
 さらには植木等の歌で、こんな劇中歌までも。

  ハッスル ハッスル ハッスル ホイ
  なんだか知らぬが 天下取った気分だヨ
  ハッスル ハッスル ハッスル ホイ
  この世は春だよ お祭りだ

 う! ヴァン・マッコイより、いいような気もする。この曲のほうが。※4
 それはともかく、「ハッスル」は語感もイメージも、すっかり日本人にとっての「元気語」として定着していたわけだ。

 ヴァン・マッコイのヒットはクレージー・キャッツ映画の十年後だが、オイルショックのおかげで、その前年はついに戦後初のマイナス成長、ひどい物価高騰が続いていた。「ハッスル」がめいっぱいよみがえったのも、無理はない。
 わたしのことを書くと、当時の景気低迷は明らかにウチの空気を暗くしていた。クレージー・キャッツの映画と同じサラリーマンで営業社員の家庭だが、石油製品の会社だったからだ。
 あこがれの高機能ラジオや、「コンポ」つまりオーディオ機器は、「ウチは無理だな」と、経済は無知ながら家庭内の空気を読んでひとり決めし、電器店の品々をながめる。すると、よく鳴り出すのだ。ヴァン・マッコイが。
 踊りかたは知らないが、体が自然に上下動。ションボリ気味に通る電器店やオーディオショップの店頭で「またこの曲か」と毎度思い、聴いて急に元気いっぱいになるわけでもないが、ウキウキする気持ちを扱いかねる……「うっとうしさ」としか表現できない複雑な気分は、いまも新鮮に思い出すことができる。
 海外のウエブ投稿なので本当かどうかわからないが、当時、サンフランシスコのショッピングセンターか街路かで初めてこの曲が流れたとき、その場に居合わせた人がみな踊り出したという。気持ちはわかる。

 最初の「う〜うううう〜」のオープニングコールが、効果バツグンなのだ。充分にタメて「Do the hustle!」でウワッと爆発する。
 が、そこからピッコロが軽やかにリードする。案外と軽い感じの曲なのだ。コテコテじゃない。そこがいい。
 無名のハウスバンドの演奏で、こんなにヒットするものかと調べてみると、マッコイ自身のピアノのほか、ゴードン・エドワーズ、スティーヴ・ガッド、リチャード・ティ、エリック・ゲイル、ジョン・トロペアの名がある……え! これってほとんど「スタッフ」じゃん! ※5
 もちろんこのことは、よく知られているんでしょうけれど、なるほどグルーヴは強力だが、ネチっこくなり過ぎず聴きやすい。いかにも「スタッフ」。その面々ならではのヒットかと、いまごろ納得。「スタッフ」の曲「リアル・マッコイ」が、ヴァン・マッコイに捧げる曲だったということも、やっと知りました。すみません。

 なぜこうも「知らなかった」か。ヴァン・マッコイという人を、よく知らなかったからだ。
 それもそのはず、プレーヤーや歌手でなく、ハウスコンポーザーやプロデューサーという、制作担当者としての功績が大きい人なのだ。「ハッスル」がヒットするとは夢にも思っておらず、とつじょプレーヤーとしてスター扱いされるのに本人が驚いたという。
 しかも「ハッスル」のわずか四年後には、三九歳で急死してしまう。キャリアからして決して「一発屋」ではないのだが、歴史に大きくは書き残されなかった人なのだ。

 ところでヴァン・マッコイのこの「ハッスル」、含意としてはあるだろうが「ハッスルしようぜ」って意味の曲じゃないのだ。
「ハッスル」とは、ダンスのスタイル。「ハッスルを(ハッスルで)踊ろうよ」かな。
 そして、ヴァン・マッコイも出演しているこの曲の動画を見ると、驚くべきことに「ハッスル」は「社交ダンス」に似た感じのペアダンスで、元気いっぱいのディスコダンスとはかなり違って優雅な感じだ。
 もはや、自分がこの曲に持っている記憶を正しく書き直し整理するのは、ほとんど不可能な気がする。
 ちなみに、この踊りかたは、もとの「ハッスル」が流行していたのと同じニューヨークで「ニュー・スタイル・ハッスル」となって新しく注目され、二〇一五年ごろから日本でも人気になってきているらしい。
「らしい」ばかりでは文にならないが、「クラブ」といわれて「銀座」だと思った世代なので、追いかけるのは無理だ。「ニュー・スタイル」を、ヴァン・マッコイで踊ることがあるのかどうかも、わからない。(ケ)

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※1『暮らしの年表 流行語100年』講談社/二〇一一年
 この本によると「ハッスル」は、娼婦が客引きをする意味の俗語でもあるので、当時のNHKでは放送禁止用語になった、という。
※2『スポーツニッポン』一九六三年二月一〇日
※3 監督・坪島孝/星由里子と同期の浜美枝、いうまでもなくボンドガールだが、星が「若大将」シリーズなら、浜はクレージー映画のマドンナ的ポジションでもある。メチャカワイイうえ芝居も出来ている! 女優人材にこと欠かなかった当時の東宝はすごい。永遠の二枚目スター、上原謙が東北弁の社長でコミカルさを見せているが、上原の提案で決まった演出もあるそうだ。上原は二枚目役に飽き飽きしていて、後年テレビ番組に招かれるとコントをやらせてと頼み、関係者を困らせたという。
※4 作詞:青島幸男
※5 トロペアの代わりにコーネル・デュプリー、もう一人ドラムのクリス・パーカーで、バンド「スタッフ」だ。日本でとても人気があったが、本国アメリカでは大きくは売れなかったようだ。


2017年04月14日

六甲山と鉄塔──「関電巡視路」を登る

 神戸市を南北に分かつ形で、六甲山系は東西にのびている。
 市街からすぐに行けて標高も高くなく、山頂には舗装道路も通っている。
 日本ではきわめて早い明治中後期ごろ、居留地の外国人のレクリエーション向けに登山道がいくつも作られた。おかげで大正から昭和にかけ、市民の「毎日登山」が盛んになり、多くのクラブが出来た。現在も毎日登る人が数千人規模でいるそうで、神戸市主催で表彰式が開かれていたりもする。※1

 いまの居宅も登山口のひとつに近いので、坂を下って繁華街でもぶらつくかと散歩に出たとき、ふと思い立って坂を上れば、一時間半ほどで直近の峠までは登れる。
 といっても毎日なんて無理。運動しなくちゃならんから登るが、月にせいぜい一度か二度だ。それもヒイハア、ゼイゼイ、這うように登っている。平日に山中で会う人が、ほとんど高齢者のかたなのには恐れ入る。
 そもそも「毎日登山」はもともと早朝か夕方にやるものだそうで、昼間は会社に行ったりしていたらしい。兵庫が誇る大正昭和の山岳王、加藤文太郎は、もちろん若かったが、六甲山なら全山を往復踏破──百キロくらいだ──した翌日ふつうに出勤していたというし、神戸市街から六甲山によく登る人は、基礎体力が違うのかもしれない。

 それでも、たまにとはいえ同じ登山道を登り降りしていると、気づくこともある。
 ある分岐の道標に記された別の道。「関電巡視路」という名が気になる。一般のハイキングガイドには載っていないらしい。危険なんだろうなと、道標を横目で見て通り過ぎてきた。
 さきごろ、六甲山に登るのが好きな地元のかたに、ときどき使うルートだといわれた。やはり高齢のかたで、わたしより三〇歳くらい歳上。そんなら、というのは失礼、いや身の程知らずだが、まだ寒さが去らない四月上旬、「関電巡視路」を登ってみることにする。

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 なるほど、尾根にそって巨大な送電鉄塔が立っている。本来はその「巡視」に使う、マイナールートだろう。いくつかの鉄塔の下や脇を登り、登り口に案内板もある一般のコースに合流する。
 ややきつい登りが続くのと、鉄塔に出くわすたび写真を撮っていたりして、所要時間はあまり変わらなかったが、おそらく案内板どおりの一般コースより近道だ。とうぜん一般コースより多少わかりにくいが、道はじゅうぶん目視できる程度についているし、正しく登っていると、もちろん鉄塔に、そして旧・建設省や関西電力の境界票につぎつぎに出くわすので、迷う心配はさほどなかった。さきほどの地元の六甲山ファンのように、通る人もそこそこいるらしく、下山の人にも会い、その足跡をたどることもできて、いままで通り過ぎてきた道標のある合流点にあっさり出られた。

 かんじんの鉄塔だが、鉄塔マニアという趣味の世界があるそうで、好きな人は「たまらん」のでは。わたしにはそのケはないが。
 こんな山中でどう造ったのかと首をかしげてしまうほど巨大な鉄塔の下で、山はだに沿って彼方へ向かう電線を目で追っていると、複雑な気分になる。
 藪深い山道で立派な鉄塔に出くわすと、たしかに感動する。が、山なみ全体から見れば、バースデーケーキに立てるローソクよりずっとずっと小さい。ここを通る電線に原発で起こした電気がどれほど流れていたのか、知るよしもないが、山に直接、こんな鉄塔くらいの電極をぶっ刺したら電気がとれないのだろうか、などと考えてしまう。わたしたちには、山々を乗り越えるように鉄塔と電線を付設していく力はあった。六甲山を通る送電線の震災被害は調べきれなかったが、当時、阪神地域の電力状況は比較的早期に立ち直っている。※2 それらは、すばらしいことだ。しかし山そのものからパワーを得ることは、出来ないのだな、と。

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 まるで子どもの夢想だが、子どもと鉄塔といえば、映画『鉄塔 武蔵野線』を思い出す。※3

 両親の離婚で、母と引っ越すことになっていた小学生の男の子が、父がよく見ていた近くの鉄塔に番号があることに気づき、番号を遡って鉄塔をたどり「1」をめざす話だ。
「絵がいい」つまりとても美しい映画であったことと、話の軸が日本の映画にしてはめずらしく即物的だったことで、いまも記憶に残っていはする。
 が、どこか上出来なコマーシャルを見ているような「できすぎの絵」っぽさがあった。また「番号を逆にたどり鉄塔を見つけていく」ことだけを淡々と映像と音にしていけば、映画にしかできない表現で観客を揺さぶれるのに、亡くなった父がどうとか、大人たちはどうで、主人公がちょっと成長して云々というように、まったく余計な設定をのっけていて「そりゃないぜ」と呟きながら観るはめになり、かなり辛かった記憶も強い。
 この文を書くにあたって観なおす気にはなれず、はじめて原作を手にとってみた。※4

 映画と設定が違っていて、話の方向や、主人公は筆者の思いを昔語り形式で伝えているのだと思うが、その話者の立ち位置も違う。
 もちろんそれは「あり」だと思うし、こまかい紹介は略すが、原作はまったく、わたし向きではなかった。
 映画化を間にはさんだことで、文庫収録にあたって結末が大きく変更されているというので、変更バージョンの結末だけ見てみたが、もし筆者のポジションを変更しないまま、映画に影響されてオリジナルを変更したのだとしたら、その手直しは作品のアイデンティティを台無しにしている。

 というわけで、鉄塔に出会いながら山に登った話を、ちょいと器用にまとめてみようかという下心がいけなかったのか、気持ちの落としどころがなくなってしまった。
 鉄塔と送電線の来歴などに注目し、電気の話を書いてみる気持ちもあったのだが、大部の社史などを抱え込んで調べても、確実なところがわからず、書けない。
 なんでも高圧電線の通り道は、電力会社は公表しないのだという。テロ対策が理由らしい。
 公表されている山の地図には電線がそれと書かれているものがあるし──わたしのような登山初心者でさえ、道があやしいとき自分の向きの目印にしたことがある──古い送電図を見つけ「六甲線」という送電ルートがあることまではわかったが、六甲山中の電線がそれかどうかはわからず、どの発電所や変電所が出発点かもわからない。
『鉄塔 武蔵野線』の原作では「<きっと原子力発電所だ>とわたしは断定しました。」となっている──冒険が断たれたあと、白日夢で「変電所」に招待される設定──が、わたしには、この文の筆を進める力はない。

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 知らない道をたどってその出発点へ行きたい、という気持ちは、子どものころ確かにとても強かった。
 半世紀近くも前、田舎町の田畑を急造成した借家に越したとき、そこらの悪童どもの仲間に入れてもらいたくとも、どうしても越えられないハードルがあった。
 ひとしきり遊んで暮れかけると、みな自転車で突如、彼方をめざして爆走し出す。
「水源地へ行く」が合言葉だ。
 実際、遠くに、ホットケーキの上にマストを立てたような不思議な建造物が小さく見えているのだ。
 奇妙な建物がある、彼方の「源」、それはしびれるほど魅力的だったが、行けば明るいうちには戻ってこられない。自分で嫌になるほどの臆病者で、その地域に二、三年住んでいたが、とうとう一度も行けなかった。
 
 歳をくって、臆病なのは変らないにせよ、悪所に踏み込む経験はそれなりに積むに──積まなくてもいいけど──つれ、知らない道を先へ行きたいという気持ちは、やむことなくいつも抱くようになった。
 道の出発点を訪ね当てたいという気持ちとは、違うこともわかった。それも、子どものころから違っていたのだ。
 いまいる場所から逃げ、境界を超えたいという気持ちなのだ。
 境界の存在が苦手なのである。
 人嫌いなのも、そこから来ていると思う。
 いちばん大きな境界といえば国境だ。知らないうちに国境をつぎからつぎへと越えていきたい。いちばん大きな境界を越えて進み続けたいと思う。中東でやると身の危険があるだろうが、ヨーロッパで列車にただ乗っているのが、わけもなく好きだったのは、そのせいかもしれない。(ケ)





※1 www.city.kobe.lg.jp/information/press/2015/11/20151104840801.html
※2 十か所の火力発電所、変電所四十八か所、多数の送電回路や配電線路が損傷した。地震直後には阪神地域を中心に約二六〇万軒が停電。順次切替送電を行い、同日午後七時三〇分に停電約一〇〇万軒に。
 震災被害は、過去に自然災害や事故で壊れた設備を修理してきた状況とは比較にならない甚大さだった。それでも地震発生六日、一五三時間後に応急送電完了。もっとも迅速に復活したライフラインだった。(関西電力のサイトを参考にしました。本文に出てくる資料は関西電力の社史です)

※3 一九九七年/監督・長尾直樹
※4 新潮社版・単行本(一九九四年)、同文庫、ソフトバンク文庫の各版あり、それぞれ内容が違うようだ。結末部分は、本文に書いた修正が最終版のようである。全版を読んではおらず確認していない。


※ 神戸市灘区、神戸伯母野山住宅街碑のさきの登山口から、長峰山(天狗塚)へ上がります。登山口を入り、突き当り右折後すぐ左へ入るルートです。長峰山への一般コースは、直進を続けて奥のフェンスを抜けると案内板があり、左へ入ります。その案内板には、このコースは書かれていません。やや急な登りが何か所かありますが工事用ロープが張ってあり、登りやすいです。ただし、ふだんジョギングシューズで登っているので、このルートを下るのはやめ、一般コースで下りました。鉄塔の周囲は樹木を払ってあるので市街の見晴らしは一般コースより楽しめるかもしれません。鉄塔関連の検索ヒットでアクセスし、鉄塔を見たいから登ってみようと思う場合、じゅうぶん調べ、注意して行ってください。とくに未経験の場合、一般コースを試して(この途中にも鉄塔がひとつあります)からにするか、経験者といっしょに行くようにしてください。


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2017年04月10日

「アメリカのポチ」と言っては、日本中のポチに失礼だ

無粋とは承知しつつ、また、すでにあちこちで言われていると思う(そうでなければ、それはそれで酷い話だろう)けれど、それでもやはりここに書き残しておいた方がいい「悪口」もある……(とはいえ、教育勅語問題はあまりに呆れてしまい、スルーしてしまっているけれど。)
※悪文を発見したので一部修正するついでに、蛇足を付記(4月10日)。

我らが首相の安倍くんの振る舞いを「尻尾を振る」と言ってしまっては犬に失礼だと思うのだが、本当にトランプの飼犬のような輩だと苦々しく思う。というか、そもそも日本がアメリカの犬なんだろうかね。

言うまでもなく、シリアを空爆したアメリカを躊躇なく真っ先に支持しているアホな日本の首相のことを揶揄している、いや、揶揄どころではない。本当は大声で罵りたいところだ。この種の悲惨で滑稽な軽率さ・軽薄さが、よりによって自分が帰属している社会で、信じられないようなデカい顔によって発揮されているのを目の当たりにするのは、心底辛い。何が軽率かといって、

1)仮に化学兵器が意図的に使用されたことが事実だとしても、その主犯格はいまだ特定されていない
2)仮にサダト政権側が意図的に使用したことが事実だとしても、指揮系統がどうなっているのかが判然としない
3)仮にサダト政権が確信犯的に化学兵器を使用したことが事実だとしても、その反撃にトマホークを使う是非が問われる

以上に並べたように、事実確認の段階でいくつもの重大かつ深刻な疑問がある上に、

4)全てがアメリカの主張通りだとしても(しかし、イラクのフセイン政権による『大量破壊兵器所持』を理由に開戦に踏み切り、ミサイルをドカドカ発射して、イラクを滅茶苦茶にして、後に『大量破壊兵器所持』がガセネタだったということがほんの十数年前にあったばかりだというのに……)、なぜアメリカがシリアを空爆できるのか、全く意味不明。他国で行われた不正を理由にその国を爆撃する権利は、国連決議でもない限りはどこの国にもないと信じているのだが、これは間違った理解なのだろうか? いったいアメリカにどんな権限があって、アメリカはイラクを空爆しているのだろうか?

ざっと思いつくだけでもこれだけの疑問点があるとき、なぜに日本国の首相は「米国政府の決意を支持する」なんて軽率なことが言えるのだろう。不思議を通り越して、絶句するしかない。ミサイルで人を殺しているという自覚が、はたしてポチにあるのだろうか? 

今度の空爆によって、アメリカ本土で再び大規模なテロが起こったとしても、何の不思議もない。むしろ当然の帰結と思われる。ISのスカウト活動にも大きな弾みがついていることだろう。そして、アメリカの暴挙・狂気の沙汰を真っ先に支持した日本が少なからずの人々から激しく憎悪されることになっても、やはり何の不思議もない。何といっても、日本がアメリカの忠実な犬であること、これ以上に類を見ないほど滑稽かつ軽蔑すべき太鼓持ちであることが、またもや明らかになってしまったのだから。

いや、それよりも何よりも、一国の首相として、あまりに幼稚かつ稚拙、知性のなさを全世界に「これでもか」と見せつけるのは、もういい加減に止めて欲しい。ついでに首相職もいい加減に辞めて欲しいと切に願うばかり。「アンダーコントロール発言」に対しても「森友問題」に対しても「教育勅語」に対しても、世界の少なからずの人々が絶句していることだろう。彼が露出すればするほど、この国の文化と知性の水準が疑問視される。この点でも、太平洋を挟んでアメリカと日本の置かれた現状は悲惨なほど酷似しているのかもしれない。しかし、類は友を呼ぶとはいっても、あちらが飼い主でこちらがポチであることは、これまた悲惨なほどに明白だ。

もはや多くは望むまい。せめて尻尾を振るときは、もう少し目立たないように、小さく振れよ、頼むよ、アホなポチ。 

(付記)トランプ政権というのは、今回のような他国への「『出しゃばり』はしない!」ということを公約にして成立したのではなかったか? つまり、「アメリカ第一主義」を標榜し、他国のためにはなるべく金と労力を費やすことを避け、アメリカの貧しき(とはいえ、世界的には立派な「小金」持ちだ!)人々のために金を使うことを約束して、トランプは大統領になったのではなかったか? だとすると、今度の空爆の真の理由は、トマホークの在庫整理、軍需産業振興、雇用促進ってことなのか! それにしても、日本の外交政策がこれほどまでに「アメリカ第一主義」で良いとは決して思えないのだが、戦争に負けて占領されるということは、こんなにも悲惨なことなんですね。70年も経つというのに。そして、よりによってその「アメリカのポチ」が、敗戦の唯一の「成果」である憲法を書き変えようとしている理不尽。不条理すぎて理解できない…… (H.H.)
posted by 冬の夢 at 02:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする