2020年10月18日

「男はつらいよシリーズ」全作品鑑賞苦行記 B(まで来た)

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「男はつらいよシリーズ」連続鑑賞をなんとか継続して、第二十六作まで来たところ。折り返し点を通過しながらも、シリーズがパターン化・マンネリ化していくのを見ると次第にいたたまれない気分になって来る。とは言え、ここまで来て途中棄権するのももったいない。この記事自体もおざなりで型通りになってしまっていることを自覚しつつ、製作順、タイトル、公開年、マドンナ女優、採点(双葉十三郎基準)、騒動、特徴の順で記録しております。


[18]『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』1976年12月 京マチ子 ☆☆★★
【騒動】旅先から帰ったばかりの寅。満男の担任・檀ふみが家庭訪問に来て、博とさくらを差し置いて保護者のような顔で面談してしまう。とらや全員から非難されて飛び出した寅は旅芸人一座と再会。座員を宿に招いて祝宴を張るが、翌朝無銭飲食で警察へ。連絡を受けたさくらが迎えに来る。久々にゲンナリする悪行と犯罪クラスの騒動。
【特徴】檀ふみに惚れそうになる寅にさくらが「娘くらいの子よ。そのお母さんならともかく」と忠告。そこへ母親役の京マチ子が現れて「公認の相手」になる仕掛け。

[19]『男はつらいよ 寅次郎と殿様』1977年8月 真野響子 ☆☆☆
【騒動】題経寺で「トラ」と呼ばれていたノラの仔犬を引き取ったおいちゃんとおばちゃん。そこへ寅が帰って来るが、おばちゃんや博が「トラトラ」と呼ぶのを自分のことを言われたのかと勘違い。バカにされたと出て行ってしまう。
【特徴】「ゲスト俳優=先生」のパターンで嵐寛寿郎の存在感が圧巻。死んだ息子の嫁と暮らしたいという舅がいたらスケベ爺にしか思えないが、アラカンが演るから全く下品に見えない。

[20]『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』 1977年12月 藤村志保
すみません、見逃しました。

[21]『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』1978年8月 木の実ナナ ☆☆★★
【騒動】寅が夢のようなとらや再建計画を語り、そんな甘くないと言うタコ社長と喧嘩になる。とらやを飛び出た寅からの葉書には「熊本の旅館にいて宿賃がない」と。さくらが熊本まで寅を迎えに行くが、送金すれば済むのにと思ってしまう。
【特徴】松竹歌劇団のバックステージものにもなっている本作。木の実ナナはトップスターなのに結婚するとなぜ引退しなくちゃいけないのか。「女性の結婚=専業主婦になる」という時代の作品なのだった。

[22]『男はつらいよ 噂の寅次郎』1978年12月 大原麗子 ☆☆★★★
【騒動】銀行から帰って来ないタコ社長。金策尽きて自殺したのではないかと葬式の準備を始めようとする寅。旅に出るはずが大原麗子を見た途端、仮病の腹痛で救急車で運ばれる寅。森川信でなくても「バカだねえ」と嘆くしかないくらいに本作の寅はバカにしか見えない。
【特徴】脚本がダメ。デリカシーがない変な中年男の寅になぜ早苗が惹かれるのか全く描けていない。でも大原麗子が歴代マドンナの中でも最高ランクに綺麗でチャーミング。★ひとつおまけ。

[23]『男はつらいよ 翔んでる寅次郎』1979年8月 桃井かおり ☆☆☆
【騒動】三重丸をもらった満男の作文を寅が読み上げると「いつも振られているおじさん」と自分のことが書かれていた。「子どもはよく見ているね」と感心するタコ社長と取っ組み合いに。
【特徴】なんと言っても布施明。「君は薔薇より美しい」でヒットを飛ばした後なのに情けない若者役を飄然と演じている。寅が仲人をつとめる披露宴でのギターの弾き語りが歌手ならではの見せ場。

[24]『男はつらいよ 寅次郎春の夢』1979年12月 香川京子 ☆☆★★
【騒動】おばちゃんが貰い物の葡萄を仕分けしているところに帰ってきた寅の土産も葡萄。さらに満男が英語塾に通っていることからTigerの単語が喧嘩を引き起こす。あいみょんではないが「どうでもいいよもうどうでも」。
【特徴】脚本家レナード・シュレーダーと出演者ハーブ・エデルマンは『ザ・ヤクザ』から五年後に本作に参加。さくらがエデルマンから愛の告白をされる展開が珍しい。

[25]『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』1980年8月 浅丘ルリ子 ☆☆☆★
【騒動】リリーが急に旅立って沖縄から後を追った寅は柴又に着いた途端「行き倒れ」に。戸板でとらやに運ばれた寅だが、おばちゃんが用意したうな重に喰らいつく。あれ?うなぎ嫌いなんじゃなかったっけ。
【特徴】沖縄でリリーがプロポーズし、柴又で寅が「所帯でも持つか」と呟く。旅回りのふたりはどこまでもすれ違うしかないのか。本作はシリーズの基本設定に疑問を投げかける。沖縄から帰らない寅のことを気にかけるおばちゃんの台詞「ハブにでも噛まれて死んじまったんじゃないのかい」は、シリーズには珍しい楽屋落ち。

[26]『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』1980年12月 伊藤蘭 ☆☆☆★★
【騒動】諏訪家が一戸建てを購入したと聞き祝い金を包む寅だが、思いがけない金額に博とさくらは受け取れないと言い出し、寅は出て行ってしまう。「なんで気持ちよく受け取ってくれないんだよ」と寅が言うのももっともで、珍しく寅に共感出来る騒動になっている。
【特徴】マドンナに惚れるのではなく、父親代わりの思いを寄せる寅。伊藤蘭の演技力には心底驚かされるし、松村達雄先生による定時制授業風景も良し。寅の真面目な足長おじさんぶりがしみじみと伝わってくる佳作だ。


フーテンの寅が愛すべき存在であったシリーズ前期に比べると、中期にさしかかってそのキャラクターが徐々に鬱陶しく感じられて来る。呑気で屈託のないひょうきん者は悪ふざけが過ぎる不届き者に、無邪気で他愛ない失敗や勘違いは不謹慎で非常識な仕業に変容する。『寅次郎春の夢』の一場面。アメリカから来たセールスマンに寅次郎は梅干しを無理矢理三つまとめて食べさせる。吐き出しながら「水を下さい」と叫ぶアメリカ人のことをヘラヘラ笑いながら寅は参道へと出かけて行く。このようなガキ以下の悪ふざけをする主人公を観客は愛せるのだろうか。展開が読めて安心だからこそのワンパターン化は、代わり映えのしないうんざりするような退屈さに堕してしまった。映画として見るべき作品は、第十七作『寅次郎夕焼け小焼け』が最後だったのかも知れない。
と考えていたら第二十六作『寅次郎かもめ歌』は意外な小品だったのだ。寅次郎が歳を重ねて恋煩いをするのが似合わなくなったことから、保護者的な立場でマドンナを思いやるという新しい展開が生み出された。加えて第二作以来満男を演じてきた中村はやと君の起用が『かもめ歌』で打ち止めとなり、次作から別の俳優に取って代わられる。この記事にCがあるとしたら、語るべきはその俳優のことになるのだろう。(き)


かもめ歌.jpg

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2020年10月12日

たまには詩でも #15 思い出すこと

   1
波がゆっくりと満ちるときは
比較的自由な三拍子
誰も気にしない自然で微妙なクレシェンド
ときおり見せる不意打ちのような高まり
ありきたりの波の戯れと戯れる人の陽気な叫び声
それから静かに訪れる夕暮れ
お互いに別れを告げ
賑やかだった浜辺から人影が消えていき

夕暮れの西の空が
鮮やかな茜色から痛々しくも蒼ざめた紫色へ
そして色彩を失った闇の中へ
抗いようのない確かさで移っていく

一度は刻まれたはずの言葉も
満ち潮に洗われた砂浜の文字のように
ありきたりの波の戯れに飲み込まれ
かき消され
もう跡形もない


   2
夜の夢の中に置き忘れた小さな思い出の欠片
砂浜に流れ着いた木片かガラス片のように
日に日におじいさんとおばあさんになっていく
ぼくたちにとって
若い日の思い出はいったい何の役にたつのだろうか
日ごとに遠のいていく
日ごとにかすれていく
あの陽ざしと影と笑い声

耳元で囁く雨音の微妙で不規則なリズム
途切れなく、途切れがちに
目を開ければ
すでに雨模様の朝であることを知るばかり
昨夜の天気予報はこの雨が長くは続かないことを
なぜか嬉しそうに告げていた
目を開ければ
すっかり馴染みの、そのくせ奇妙で仕方のない世界が消え
その代わりに
やはりすっかり馴染みの、そのくせ奇妙で仕方のない世界が待ち受けている

(H.H.)
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2020年10月10日

21.2世紀の遠い夏休み


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7MG_3907.JPG

東京 大阪 兵庫 群馬
Tokyo, Osaka, Hyogo, Gunma


(ケ)


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2020 (c) 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌 請不要複製


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2020年09月30日

原節子と三船敏郎 〜『東京の恋人』と『愛情の決算』での共演

 日本映画を代表する俳優は誰だろうか。好き嫌いは人それぞれにしても、昭和から平成、令和の今日までを概観したうえで選ぶとすれば、原節子と三船敏郎のふたりになるのではないか。いやいや、そのふたりではなく高峰秀子と森雅之だろうとか、ふたりセットなら浅丘ルリ子と石原裕次郎だよとか、それを言うなら藤純子と高倉健でしょとか、異論反論が百出することは間違いない。そんな愉しい言い争いは別のところでやることにして、実際のところキネマ旬報が2000年に行った「20世紀の映画スター」では、74名の選考委員による投票の結果、トップは女優が原節子、男優が三船敏郎であった(※1)。日本映画を代表するこのふたりは、その全盛期にあたって多くの映画に出演しているが、共演作は極めて少ない。原節子は百本、三船敏郎は百三十本以上の出演作があり、共に出演者のクレジットに名を連ねたのはたったの六作品のみ。その貴重な作品は以下の通りだ。

『白痴』1951年 黒澤明(松竹)
『東京の恋人』1952年 千葉泰樹(東宝)
『愛情の決算』1956年 佐分利信(東宝)
『東京の休日』1958年 山本嘉次郎(東宝)
『日本誕生』1959年 稲垣浩(東宝)
『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』1962年 稲垣浩(東宝)

 『東京の休日』以降の三本はいわゆるオールスターキャストによって作られた作品で、原と三船は同じ映画の別の場面に出ているだけのこと。例えば『日本誕生』では、原節子は天照大神の役で、閉じてしまった天岩戸から少しだけ顔を出す、言わば特別出演。かたや三船敏郎が演る須佐之男命はほぼ主演級で、八岐大蛇を退治する場面では長い尻尾に身体を締め付けられるところが自ら巻き付けているようにしか見えずに気の毒だった。また『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』では、原が大石蔵之介の妻りくを演じたのに対し、三船は俵星玄蕃。『仮名手本忠臣蔵』には出てこない架空のキャラクターで、三船のために引っ張り出してきたような役だった。『東京の休日』は未見なのでよくわからないものの、山口淑子(戦時中の李香蘭)芸能生活二十周年記念と銘打った作品。原節子が山口淑子のために東宝の俳優たちに声を掛けて出演を依頼したと言うエピソードもあるくらいで、原節子自身はチョイ役のはずだ。
 そんなわけで、原節子と三船敏郎の共演作は実質的には『白痴』『東京の恋人』『愛情の決算』のみとなる。この中ではナスターシャ=原節子とラゴージン=三船敏郎にムイシュキン=森雅之を加えた『白痴』が超弩級の大作で、軽口を叩くと深みにハマりそうなのでとりあえずスルー。本稿では、見る機会の少ない『東京の恋人』と『愛情の決算』の二作品を通じて、原節子と三船敏郎の共演を見て行きたい。

 『東京の恋人』は、銀座が舞台のラブ・コメディ。原節子は似顔絵描きを食い扶持にしている画家役で、自立して働く女性をベレー帽とパンツ姿で凛々しく演じている。そこへ宝飾品の見本造りが得意な三船敏郎がやって来て、ダイヤの指輪が本物か贋物かで大騒ぎに。並行して原節子の隣人で街娼から抜け出せない杉葉子が身体を病み、故郷から上京する母親の前で三船が贋の夫役になるお話が絡む。
原節子が住むアパートは一間だけだし、三船敏郎は山の手に家を構えてはいるが、廃材で拵えたバラック住まい。原が可愛がる小泉博ら三人の若者は並木通りで靴磨きや靴修理をしている。一本裏道に入れば、銀座とは言え戦災の跡もまだ生々しい。要するに貧しくひもじく、でもつましい日々を懸命に生きている人たちなのだ。かたや銀座に事務所を構える森繁久彌は金属加工業の会社社長。パチンコ玉が売れまくってボロ儲けなのを良いことに、清川虹子の正妻の目を盗んで藤間紫を妾に囲っている。昭和二十七年と言えば、朝鮮戦争真っ最中の時期。こちらは敗戦からいち早く立ち直り、宝飾店で五十万円のダイヤモンドをキャッシュで買ってしまえる身分。世渡りの上手下手で貧富の差が明らかになる時代だった。
 そんな中で原節子の芯の強さ、軸の確からしさは揺るぐことがない。森繁や街のヤクザに言い寄られても一切媚びることなく頑として寄せ付けない。ここまで明快な拒否の態度を原節子にとられたら、もう黙って引き下がるしかない。そんな圧倒的な拒絶感を表す一方で、正しく美しいものを信じる仲間たちには極めて優しい。だから、初めて会ったときにキザなスーツを着て長財布をチラつかせる三船敏郎にはめちゃくちゃ冷たい態度に出る。ところがこの三船が篤実な青年だとわかると、無理に隣人の夫役を頼み込む。三船が「贋物造りだとあなたが揶揄するぼくに贋物の夫をやれと言うんですか」と反論するのに対して、原は謝ることもなく「人助けだと思って引き受けて」と説得する。原節子でなければ、なんとも独善的に見えてしまうことだろう。
 そんな『東京の恋人』であるから明らかに原節子が主役で、三船敏郎はその相手役の位置付け。最後には隅田川の川ざらいまでしてダイヤの指輪を取り戻そうとする森繁・清川コンビを脇役に回しながら、映画の中心で重石となる原節子。堂々たる存在感である。

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 その四年後、ふたりが再び相まみえたのが『愛情の決算』。『東京の恋人』とは正反対にこちらは戦争の影を引きずりながら理解し合えない夫婦の物語。上原謙・佐野周二とともに「松竹三羽烏」と呼ばれた佐分利信が監督・主演している。
 恋愛結婚した画家の夫を戦争で亡くした未亡人役が原節子。フィリピンの戦地で画家の最期を看取った戦友たちが夫人を慰めようと集まり、やがて独身だった佐分利信が原節子と再婚することになる。戦場では頼れる上官だった佐分利信は実社会ではうまく立ち働くことが出来ず、子持ちなのに再婚してくれた夫に尽くそうと努力する原節子のことを邪険に扱う。そんなときに戦友のひとりで最若手の三船敏郎は、何くれとなく原節子の世話を焼き、就職先を斡旋したり食事をともにしたりする。
 やがて原は三船のことを愛してしまうのだが、最初は弟のように思っていた三船をあるときから男として意識するようになる。その気持ちの変化を原節子が微妙な表情や態度で演じるところに『愛情の決算』の妙味がある。小津作品の「紀子三部作」のような娘役とは全く違う原節子の女優としての一面が、ヌルッと表出されるのだ。対する三船。年上の原を姉のように慕う親密さが、佐分利信の酷薄さを知って同情に変わる。やがて自分にとってかけがえのない女性として原を見るようになる。三船敏郎と言えば、男性的なものの象徴のように思われているが、『愛情の決算』では実に繊細で奥ゆかしく、でも情熱を秘めた青年を巧みに演じている。

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 原節子と三船敏郎による本格的な共演作である『東京の恋人』と『愛情の決算』の二作品を見ると、配役上でも演技上でも原節子が年上の視点から三船に思いを寄せ、三船敏郎は憧れを持ちながら原を慕うと言う構図になっている。観客である我々も、原と三船のふたりに姉弟にも似た親密さを見出してしまう。ところが、このふたりはともに1920年の同い年。生まれた月もわずか二ヶ月違いで、原と三船は完全無欠の同学年なのだった。
 そんな同い年のふたりがなぜ姉弟のように見えるのかと言えば、それはたぶん映画界におけるキャリアの差が顕在化していたから。原節子は十五歳で映画デビュー。十七歳のときに当時の日独防共協定を背景とした日独合作映画『新しき土』のヒロインに抜擢されてドイツ・フランス・アメリカに渡航。フランスではジュリアン・デュビビエ監督から「映画はダメだが主演女優は素晴らしい」と評価されたとか(※2)。戦時中は『決戦の大空へ』などの国策映画にも出演し(※3)、戦後すぐの1946年には黒澤明の『わが青春に悔なし』に主演。自立する女性を演じて、今度はGHQから絶賛されたと言う。
 かたや三船敏郎の映画デビューはその翌年の1947年。撮影部に入るつもりで受けた東宝第一期ニューフェイス面接に通った三船は『銀嶺の果て』に初出演。なんと二十七歳の遅さだ。そして1948年、黒澤明が『醉いどれ天使』の青年ヤクザ松永役に三船を起用して、そこから三船は黒澤作品の常連となり、「世界のミフネ」と呼ばれることになる。
 つまり、原節子と三船敏郎は同い年でありながら、映画出演のキャリアでは十年以上の差があり、常に原が先行し三船が後を追う形になっていた。だから共演作品を見ても、なんとはなしに原が年上で、三船を若く見てしまっていたのだ。本稿で取り上げなかった『白痴』においても、原節子演じる那須妙子は明らかに三船敏郎演じる赤間伝吉にとっての憧れの存在であるし、原の神秘的な佇まいは三船を圧倒している。
 そんなパワーバランスも共演作品だけのこと。原節子は主演した『東京物語』が海外での映画史上ベストテン作品の上位に入る(※4)ほどにその知名度はワールドワイドだ。かたや「世界のミフネ」のもとには海外からの出演オファーが殺到。三船本人が日本映画への出演を最重要視していたためほとんどの依頼を断っていた。それでも『グラン・プリ』(1966年アメリカ映画/ジョン・フランケンハイマー監督)や『レッド・サン』(1971年フランス・イタリア・スペイン合作映画/テレンス・ヤング監督)で三船が演じた日本人役によって、海外での日本への偏見は大いに是正されたと思われる。

 原節子と三船敏郎。日本映画を代表するふたりの俳優が生まれて、今年はその生誕百周年の記念の年。国立映画アーカイブで開催中の三船敏郎特集企画も連日満員らしい。『東京の恋人』での原節子の台詞、「貧しくてお行儀は悪いけど、心の中には本当の宝石があるんだわ」。昔の映画にはたくさんの宝石が潜んでいる。今になってその宝石を真剣に探してみたいと思うのだった。(き)



(※1)外国映画部門のトップは女優がオードリー・ヘプバーン、男優はゲイリー・クーパーだった。キネマ旬報は2014年にも「オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優」を発表しているが、女優の8位に安藤サクラが入っているなどして、現在の視点が強過ぎるように見える。

(※2)「原節子の真実」(石井妙子著・新潮社刊)より。

(※3)「戦時下の日本映画〜人々は国策映画を見たか」(古川隆久著・吉川弘文館刊)によると、国策映画を国民すべてが見ていたわけではなく、映画法による検閲を通過した作品の中でも「気楽に楽しめる」映画に人気が集中していたと言う。

(※4)英国映画協会発行の「Sight&Sound」誌が2012年に行った”Top10 Greatest Films of All Time”の映画監督投票で『東京物語』は第一位に選ばれた。

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2020年09月23日

かつて日本は駿馬が躍動する「草原の国」だったという面白い本が出ていた

 うちの近所に「池月」がいた。

 池月(いけづき)とは、源平歴史ファンにはおなじみの、源頼朝の持ち馬だった二大名馬の一頭だ。
 いまから八百四十年前、平氏を討って源氏を再興すべく挙兵した頼朝は、小田原で平氏の大軍に破れてしまい(石橋山の戦い)房総半島に逃げた。そこで態勢を立て直し、味方を募りながら陸路、鎌倉へ。その途中、うちの近所で休憩したらしい。
 夜になって美しい月が池に映るさまを楽しんでいると、一頭の野生馬が陣所に現われ、声高らかにいなないた。郎党が捕まえて頼朝のところへ連れてきてみると、青い毛並みに白い斑点、まさに池に映った月のようだ。そこで「池月」と命名する。
 頼朝はすでに、もう一頭の駿馬「磨墨(するすみ)」を得ていて、さらに池月がやってきたのは、平家征討の吉兆と喜び、兵みなで鬨の声をあげた。

 池月の登場地には諸説あるそうだ。うちの近所の神社は、みんなで「えいえいお〜」といった頼朝の「旗揚げ八幡」であるということで、写真のような像がおかれている。
 池月は、別名を「生食(いけずき)」ともいった。気性が荒くて、噛みつきまくったからだそうだ。じつは日本の在来馬は明治時代まで去勢飼育の習慣がなく、基本的に暴れ馬だったというが、この池月はまさに、ウィルスン・ピケットの曲でもおなじみの「ムスタング」の日本版、野生の荒馬だ。
 そんな馬を軍馬にしつけた頼朝勢の調教術もすごかったが、期待に応えて「宇治川先陣」で、みごとな活躍をしたのだから、もともと才気走った馬だったのだろう。
 それにしても東急大井町線に池上線、環七に中原街道が、日がなガタゴトブウブウいっているこの東京都大田区に、いくら八百年以上前だからって、野生馬が疾走する大平原があったなんて。本当の話だったら、驚くしかない。

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 大学の同級生ではただひとり、ときおり連絡をくれている蒲池明弘さんが、文春新書で順調に著作を出している。三冊めの『「馬」が動かした日本史』が、ことし早々に出版された。
 この本では、かつて日本は「草原の国」だったという(いまは国土面積に草原が占める割合は数パーセントだそうだ)、あまり注目されていないが、想像しただけでも心が晴れ上がるような説が土台になっている。そして、草原を馬の生育地として使って、馬を兵器として管理普及させる経済行為が、古墳時代から武家時代の日本史にどれほど大きな駆動力をもたらしたか考察している。馬はもちろん農耕や運輸にも大きな役割を果たしてきたが、この本では、軍備としての馬に着目したわけだ。
 刊行から時間がたち、評価が確定した本になっていると思うので──メディアの新刊紹介に毒された考えかもしれないが──蒲池さんが、草原・馬・武士の関係を描き出すスリリングな展開は、ここではくどくど説明しない。興味のあるかたは、ぜひ手にとり、ご一読いただきたい。

 蒲池さんが操り出す手法は、過去二冊の文春新書で自家薬籠中のものとしている、ひとつには火山や土壌という自然地理への透視力、もうひとつには経済(経営)・軍事・政治が、思惑や欲望とともにアクティブに動くさまを読み解く情報分析力だ。
 蒲池さんは自然科学者ではなく、歴史の専門研究者でもないが、大手新聞社の経済記者だった人らしく日本各地へ足を運んで地元の声をきき、資料を読み込んで自論を固めていく。そのプロセスを追体験する面白さも、この本がもたらしてくれる楽しい読書体験のひとつである、といっておこう。

 さて、わたしには、この本を読むのはなかなか難しかった。
 わたしが知っている歴史の話は、この文の初めに書いたようなエピソードねたばかりで、武家の発生ひとつとっても、あるいは東国・西国の政治経済的バックグラウンドも、基礎知識に欠けている。まして古代の火山と土壌に関して地学的知識はゼロ。いずれも、この本の記述に限ってでも、いったんあたまに入れないと読み進めにくい。
 また、さきほどもカッコ書きしたが、現代の日本には、じゃじゃ馬ムスタングが走り回る大草原はない。多少の草っ原はあっても、日本在来種の馬が、もはや数えるほどの頭数しかいなくなっているのだ。そのため、自分なりに躍動的な図像を思い浮かべながら内容についていくのに、かなり苦労してしまった。
 それから、この本には「解明を目指す日本史の謎」として、@なぜ、縄文文化は東日本で、弥生文化は西日本で栄えたのか。Aなぜ、世界遺産に登録された仁徳陵古墳、応神陵古墳など巨大な前方後円墳は、ヤマト王権の中心とされる奈良ではなく、大阪にあるのか。Bなぜ、武士政権は東日本の鎌倉で誕生したのか──という三つの設問が掲げられている。読み進めるうちにこれらには、ほぼ合理的と思われる解が示されていくが、それらはかならずしも結論ではなく、視野とデータの提供という面が重んじられているので、その扱いをわたしのような読者が委ねられることには、すこし戸惑いがある。

 というわけで一冊の新書を、ひさしぶりにメモをとりながら読んだが、ここまで読ませる密度の濃い新書、いまどきありがたい存在だ。
 著者の蒲池さんは、きわめて多数の読者を相手にする新聞記事の書き手だったからか、読後の感想や意見を直接に「メールでお寄せいただければありがたいです」と、あとがきに書いておられて、アドレスも公開している。お気づきかと思うが、この文は蒲池さんへのメッセージもこめて書いた。つっこみがある人は蒲池さんあてのメールに書くといいし、読みましたよということだけでも知らせてあげるといい。それらは間違いなく、蒲池さんの今後の仕事を、ますます興味深く、見ても読んでも楽しいものにするだろう。

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二〇二〇年一月二〇日発行

 ところで、わたしが「馬と日本史」といわれて思い浮かぶ話は、源平の名馬物語のほかに、もうひとつある。
 それは、白馬に騎乗した昭和天皇の姿だ。

 明治天皇の話からすると、明治天皇の馬、御料馬というそうだが、その御料馬は日本在来種で、現在は絶滅してしまった南部馬だった。体高(肩にあたる所までの丈)が四尺九寸というから、一五〇センチに満たない。
 日本の在来馬は、いまの子ども動物園のポニーくらいの大きさだったので、時代劇ドラマ『暴れん坊将軍』のオープニングなどは、まったくのフィクションなのだが、昔の武士も丈は高くなかったろうから、まさに人馬一体だった。
 南部馬は在来種としては大型だが、それでも写真を調べると、御料馬を引く人の頭と馬の頭部が近い高さだ。明治天皇の身長は一六五センチくらいだったので、乗馬姿の真影──絵か石版画と思われる──には、やや誇張があり、栗毛の南部馬にまたがった明治天皇の実際の騎乗姿は、まさに人馬一体、そしていまの感覚で見ると、ちょっと微笑ましい感じだったろう。

 ところが昭和天皇になると、騎馬姿で写っている写真は、まさに「白馬に乗った王子さま」、いや王さまかな、とにかく誤解をおそれずいえば「カッコいい」のである。馬の名は「白雪」。この写真のような乗馬姿こそ、戦前の国民にもっとも強く印象づけられた、昭和天皇像なのだという。
 ちなみに白雪はヨーロッパから買い入れたアラブ種で、在来馬よりはるかに巨躯の馬である。昭和天皇は明治天皇と同じくらいの身長だったから、ダグラス・マッカーサーと並んで写した写真のように、馬の大きさで本人の小ささが強調されるかと思いきや、ぜんぜんそんなことはない。
 思い出しておきたいのは、二・二六事件のとき、鎮圧の進捗に「焦慮アラセラレ」た昭和天皇その人がいったことばだ。
「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン」※
 そう、昭和天皇は、まごうかたなき騎馬の武人だった。しかしその図像は日本古来の馬を駆って人馬一体となった姿ではなく、西洋ふうの「白馬の騎士」スタイルに仕立てられていたのである。(ケ)

200923He.JPG 
陸軍始観兵式で白雪に騎乗した昭和天皇(一九三八年)
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※一九三六年二月二七日;『本庄日記』(原書房/一九六七)二七六ページ

■蒲池明弘さんは、歴史関係書籍の個人出版社「桃山堂」の代表でもある。この本に関連する記事や写真がアップされた「桃山堂ブログ」はここ←。


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